奇縁曼荼羅

世の中には面白い人や、数奇な運命を生きている人がこれほどいるんだと驚く毎日を過ごしています。保江邦夫さんという、物理学者で脳科学者で合気道の達人で軍事マニアと、最早何者か表現できない保江さんに興味深い話をたくさんお聞きしました。自宅に戦闘機があるとか、税関で飛行機が燃やされたとか、いろんな逸話をお聞きしたのですが、集中力を高めたいときやリラックスしたいときに使ったほうがいいものを紹介された話から入ります。
そのグッズとは何かというと、赤ちゃんが使うおしゃぶりだそうです。これを噛んでいるとリラックスもでき、落ち着くのだそうです。ある重量挙げの選手に、おしゃぶりを勧めたところ、控室でこっそりとおしゃぶりをはめて、その上からターバンを巻いて隠して、重量挙げをしたら新記録がでたとのことです。見た目が変なことだけのぞくと、効果はあるとのこと。お土産にあげたいけど、これは高いからと、お土産には耳にある集中力を高めるツボを刺激するグッズを頂きました。
ちなみに、マクドナルドのストローの太さは特許がとられていて、シェイクを吸うときの力が、赤ちゃんがお乳を吸うときと同じ圧力になるように計算されているそうです。その時の記憶が無意識に残っているから、気持ちよくてまた吸いたくなるそうですよ。赤ちゃん時代のことは覚えてないけど影響するんでしょうね。
保江さんは伯家神道の祝之神事というものを受けられています。実は私もひょんなことから、山梨で受けたことがありまして、保江さんによるとこの神事を受けたら、人生のふり幅が大きくなるそうで、確かにあの頃から激動体験が続いています。最近、伯家神道関係の方と会うことも続いていたので、面白いご縁です。
神事といえば、神主さんは最近仕事としてやっている方が多くなってきたそうですが、なかにはやはりすごい人がいて、これは生まれつきのもので、神様はえこひいきされるという言い方をしていました。大麻(大幣)を振ると、周囲にある器に入った水が揺れるような神主さんもいらっしゃるとのこと。神様に愛される方っていますよね。
保江さんは岡山ご出身で今も岡山の大学で教授をされています。この岡山という地は、日本の新宗教の元祖ともいうべき、黒住教や金光教などが生まれた地なのです。浄土宗の法然、臨済宗の栄西が生まれた地でもあります。その岡山の地に、サムハラ神社というものがありました。私は知らなかったですが、そのサムハラ神社は弾除けお守りが有名で戦争に行く人へのお守りとして人気がありました。が、そのサムハラ神社が弾圧されてなくなってしまい、その後大阪に寄進されて復活しました。今でもそのお守りは向かってくるような事故から守られるとのことで、実話をお聞きしましたが割愛します。お守りは人気でなかなか手に入らないとのこと。
話は戻して、サムハラ神社が弾圧されて二年後に津山事件というものが起こったのです。オウム事件でさえも、この津山事件での被害者の数は超えていません。たった一人で2時間足らずの間に30名を殺害し、最後に自殺して真相は闇に。この事件はサムハラ神社の祟りだといわれたのです。この事件が、八つ墓村の話になったわけです。警察の調書をそのまま本にしたのです。関連性はわかりませんが、異常ではあります。サムカワ神社のパワーはそこはかとなく伝わりますね。
こんな話をする物理学者って最高ですね。人柄も偉ぶらず、優しく、温かい方でした。また教えを乞いに伺いたいと思います。
最後に、突然今日知らない番号から電話があり、「週刊○○ですけど、元奥様は結婚されていたときどんな様子でしたか?今度再婚されるそうでどんな様子だったかお聞きしたいのですが」と。ゴシップ話でもしようかと思いましたがやめときました(笑)
毎日予想もつかないことがあって楽しい限りです。私も再婚したいですね。お幸せに!
 

祝你生日快楽

万葉集を読んだことがある人は少ないでしょう。山部赤人が読んだ歌で、
「我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ」という歌があると陶芸家の田中佐次郎氏にお聞きしました。勝鹿とは、葛飾のことです。ある悲劇の女性が葛飾のほうにいて、身投げした話が京都まで伝わり、その人を偲んでわざわざ訪れて歌をよむわけです。葛飾は当時、千葉、埼玉、東京にまたがる地域で、市川のほうにその舞台となった地があるそうです。
会ったこともない女性に対して、憐れみを感じ、現地にまで行ってしまうのです。そして誰かがその歌をまた知り、現代になっても、その地を訪問するわけです。何百年を経ても想いで人は動くっていいですね。いつか、この文章を見て、手児奈という悲劇の女性の墓に訪問する人も出るかもしれません。可哀想だなとか、愛しいなとか、憎たらしいなというような感情は時代を経ても伝わるのです。
時代を経たものといえば、陶芸もそうです。この日は、400年以上たった器で日本酒を注いで頂きました。何ともいえない気持ちになります。どんな歴史があったのか。私の人生の何倍もの時間を経て、多くの人のドラマを経てここに辿り着き、出会うのです。そして、持つべき人が持つのです。
井戸茶碗の良い器の見方は、口を見るとわかると教わり、とにかくまずはたくさんの物を見るんだと教わりました。どんな人でも最初の一歩があったのです。後日、友達の家で、友達の祖父が焼き物を集めるきっかけになった壺を拝見しました。その中に、その壷を入手する経緯について書かれていた手紙が入っていたので拝読させていただきました。そこには、最初の壷との出会い、そこから焼き物を集めてその中で感じたことが書かれていました。
奥が深い世界は素敵です。日本の文化をもっと知りたくなりました。わが子には、日本文化を伝えられる環境を残せたらと思います。

 

人間関係のカギ

世間では大塚家具さんの親子の騒動が話題になっていますね。父と娘が会社方針の違いで争っている報道をみました。そこに母や兄弟たちも巻き込んだ争いになっているようですね。傍目から見たら面白いと感じるのが人間です。親子仲良くすればいいのにと、自分のことは棚に上げて思うものです。
相手に対して心が入っているからこそ、気になるし、冷静になれないのは当然です。私も家族に対しては冷静になれません。因縁の関係は家族だけではないです。仕事仲間でも友達でも、関係が深ければ、必要以上に反感や好感を持つものです。今回の騒動も普通に考えたらどちらにとっても、会社にとっても得なことはないと思うものです。でも、損得を超えて感情が支配しているから、そこに正当な論理を持ち出してまで主張するのです。
私もマスコミで報道された時は、
「嘘ばかりいいやがって、証拠の品でもだして反論しようか!」と何度も思ったものです。それを見て
「わかる人にはわかるよ。そんなことしてもゴシップ好きが喜ぶだけでそんな人たちに飯の種を与えることないよ」と冷静に話してくれる人のお蔭で、気持ちを落ち着けることができました。知らない人や、立場が違う人から見たら、そういう見方もあるのだろうなと思えば、むかつく相手さえも許せるものです。
一時の感情を満たしたところで、自分の良心は満足するのかが問われているのだと思います。例えば、ISの遺跡破壊には悲しい気持ちにさせられますが、正しさをいくら主張しても、その正しさの奥にある心が伴わなければ共感を持たないと思います。破壊するということでしか気持ちを表せない状況にいる彼らこそ本当は悲しいのです。イスラムの主張をし破壊することでしか注目されないのも悲しいことです。ムハンマドの心を利用して本来のイスラムを貶めてしまう行為になります。かつて、イスラムの歴史を見れば寛容さがあったからこそ、ルネッサンスが起こるきっかけを作ったのですから。
今回の親子対立もどう家具を売るかの手法の話より、本当は別の理由が対立の原点にあります。感情的になってしまうときに、冷静に見ることができる人がいて、また自分の感情よりその方の意見を聞き入れるほど信頼がある人がいるのかどうかで、道が分かれてくるのでしょう。
家族の戦いは代理戦争になりがちです。その裏には対立をあおる空気を入れる人もいたりします。陰で、
「こんなことを言っていたわ」などと本人は悪気なく火をつけたりします。大体は、愛されないといった欠乏感から、問題を創り出すことが多いように思います。
大塚家具さんの件は、彼らの自己犠牲で社会に学びの種をまいているように見えます。そこから私たちは何を学べるのか?ただの面白いゴシップではなく、自分だったらどうするのか?お客さん、取引先さんだったらどう思うのか?今回の件は、男女の感覚の違いも左右していて、息子だったら違う形になったでしょう。父親と娘は似ているように感じます。だからこそ後継者になったのでしょうし、似ているからこそ余計に鏡のような対立になったのでしょう。
報道を見たとき面白いなと感じたのは、社長である娘さんが記者発表している当日が誕生日だったと話していたことです。それが226の日で、この日は他にも岡本太郎なども誕生日で、自分の中でシンクロがありました。きっと娘さんがカギを握っていると思います。

大海の波打ツ如シ

またこの季節がやってきました。なぜか、226事件のことは必ず思い出すのです。きっと前世で関係していたのかもしれないと夢想してしまいます。魔王と呼ばれた男、北一輝。こんな面白い男はそうはいません。もはやその存在は風化して、忘れ去られているのでしょうか。彼が熱心な法華経信者であったことも、そして、そもそも法華経自体をわからない人が増えているのが現代です。彼の書いた本をバイブルにして、青年将校たちは226事件を起こしました。
法華経と言えば日蓮。日蓮も北一輝も佐渡ヶ島と縁があり、あの島にはいつか行きたいと思っています。ついでにいうと世阿弥も流刑されて佐渡ヶ島に縁があります。法華経で触れられている地湧(じゆ)の菩薩を自認していた彼らは、熱烈な使命感で人生を全うしました。評価がどうあれ、人生としては生き切ったと言えるでしょう。世の中が乱れているときに、仏法(仏の教え)を守る役目を持つと言われている地涌の菩薩。この菩薩は修行の身ではなく、仏なのにわざわざ降りてきている大菩薩と言われています。大義を持った時、人は命さえ惜しみません。それは最近ではイスラム国を見ればわかります。
純粋に貧困な農民たちを救いたいと願った、貧困層出身者の多かったエリートではない叩き上げの青年将校たちの想いは忘れてはならないと思います。行為の良し悪しは後で何とでも言えることです。実際に行動したこと、想いがあったことは感じます。想いだけで突き進んだ青年将校の純粋さには共感すれど、もうそれは経験したので、私自身は私なりのあり方を示していこうと思います。

過激派の日蓮は、法華経の敵を殺すのは第一の善行としばしば語っています。満州国の立役者の石原莞爾も、宮沢賢治も熱烈な日蓮信者です。昭和の血なまぐさい時代は日蓮信者たちがプロデュースしていました。そうした生々しいところから離れて、北一輝はシャーマンの奥さんと自らの霊夢を「神仏言集」に記録していました。それは霊告日記と呼ばれています。
理論的革命家と知られている北一輝が、オカルティストで宗教にハマっていたとは面白いですよね。私は仏教もキリスト教も神道も縁があるので、それぞれの違いというか、好きなところがあって、形にとらわれないで本質を掴んでいきたいと思っています。北一輝も素直な心があったからこそ、神仏を感じられたのではないでしょうか。
「大海の波打ツ如シ」これが北一輝の最後の「神仏言集」の言葉です。何を感じていたのか色々と感じ入ります。226事件の二日後の記録です。この後彼は逮捕され投獄されてそのまま刑死しました。直接、事件に参加していないのにも関わらずです。ファンが勝手にやったことで責任取って殺されるなんて、普通であれば無念でありましょう。魔王はもちろん違いますが。それだけ権力者に恐れられていたわけです。
大海の波には岩をも砕く力も、大船を転覆する力もあります。波打たせるのは風の力です。沖縄でよく波を見ていたのを思い出します。一つとして同じ波はありません。ただの海ではなく大海の波です。どんな音が北一輝の中では響いていたのか夢想します。きっと佐渡の海の音なのでしょう。
松岡正剛氏はこんなことを書いています。
弟は兄の危険な思想にいっさい近寄らず、早稲田の教授から温厚な衆議院議員となり、戦後の自民党長老の一人となった。そういう弟を北一輝はずっとバカ呼ばわりをした」
兄は死刑にされ、弟はこの世では成功したわけです。どちらが本当の成功なのかは、人によることでしょう。私は自分が尊敬する人間に、時間も空間も越えて出会ったときに、誇れるような人生を送りたいと思います。
 

永遠のいま

私たちには自由意思があると思っています。しかし、本当はそんなものがないとしたらどうでしょうか?いまこの文章を読んでいるあなたと私は、決められたレールを走る玉のように導かれていたとしたら?私たちが意志を発する前に脳は活動しているという研究があります。体は無意識のうちに判断しているというデータもあります。
意識とは何のためにあるのでしょうか?意志とはなんでしょうか?自分だと思っていても、まるで映画の観客のように実際は受け取るだけの存在なのかもしれません。発明やひらめきは、天からやってくるもので自分のものではないという話をした人もいます。人はただ生かされているだけなのでしょうか?
宇宙の成り立ちを調べると不思議なことがいくつも出てきます。人間の神秘も同様です。まるで生命を生み出すために用意されたかのような環境。そもそも私たちを構成する一番小さい要素を見ていくと、生物も無生物も関係なく同じ素粒子になっていくのですから不思議です。生物と無生物は違うと思っていたのに、突き詰めていくと同じなのですから。その素粒子の中はいったいどうなっているのでしょうか?のぞいてみたら、あちらから自分がのぞいているかもしれませんね。宇宙がこんな途方もない時間と計り知れない計画で導いたとしたら、ただ生かされているだけの人間を生むためとは思えません。
物を叩けば音がします。その音が巨大になれば、音で物に影響を与えられます。当たり前だと感じていることも、改めて考えてみると不思議で面白いことです。人の意志は肉体を動かします。心を動かすものは何でしょうか?心と意志は同じでしょうか?感じる想いは何を動かすのでしょうか?
伝えたい人を想って書く文章は想いが入ります。その想いは、重い存在となり、人間の原子、素粒子を通って、世界に拡散するのかもしれないと妄想します。世界と私は繋がっているのだと。私の好きな言葉を紹介します。
 

一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする。哲学者ホワイトヘッド
あなたの意志は私たちに影響し、私の意志も私たちに影響し、主体と客体がどちらもなく、私の意志もあなたの意志も錯覚なのかもしれません。その錯覚を楽しみながらも、全世界に責任を負っている存在という自覚を持つのです。いまの心の在り方を、いま決める行為が生きることなのだと感じます。自分の在り方が世界に影響を与えているのです。お天道様はどんな時も私たちを見ているということですね。
宇宙と私たちはかけ離れた存在ではなく、共に必要とする同志なのだと思います。天の声は私たちの無意識でもあると感じるのです。導かれるのも導くのも、自分一人でやれることではないというか、そもそも自分一人という概念、考え自体が錯覚なのでしょう。今日も出会いに感謝です。ありがとうございます。弥栄。
 

袖振り合うも多生の縁

評価:
ホテル日航アリビラ編集室
英治出版

¥ 864

(2014-12-03)
コメント:ふとしたご縁から企画会議にも参加させていただいた思い出がある本。

 タイミングはとても大事です。タイミングがいいと、シンクロニシティが起こりますし、後にそのタイミングでしかなかったとハッキリわかります。パズルゲームでの連鎖反応のように、タイミングが良いことが続くと勢いに弾みが付きます。タイミングが悪いと逆に勢いが削がれてしまいます。いつもトントンと行けばよいわけではないので、良い悪いではないですが、気持ちいいのはいいですね。
 前に沖縄でタイミングよく、日航アリビラの企画本の会議に参加したことがありました。英治出版の原田社長のご厚意で機会を頂きまして。日航アリビラ20周年を記念して、周囲と共にあるアリビラのあり方を表現しようと議論していて、秘話などもお聞き出来て貴重な会合でした。まさかあそこにあんな秘密が!と関係者でなければ聞けない話は面白いです。話ずれましたが、ホテルと地域のあり方について、人がその根本にあるという想いは賛同できるものでした。
 ホテルと言えば、沖縄でホテル経営をしたことから、人生を大きく変えた樋口さんという方もいます。彼の経緯は勉強になりますし、講座は面白いので是非受講してみてください。受講の前に話が聞きたければ、那覇にある麗王というお店に毎日いますので伺ってみるのもお勧めです。
■次世代金融講座
http://www.trinityinc.jp/updated/?cat=85
「沖縄のホテルはどこがいい?」と聞かれたら
「アリビラがいいよ」と推薦してますが、この本を読んだら更に読谷村という場所に行きたくなることでしょう。本というキッカケで何かが生まれるのは本好きとしては好きな瞬間であります。英治出版の本にはタイミングよく刺激をもらうことが多いです。自分が好きなジャンルが多いですし、原田さんの人柄がその周囲に魅力的な人を集めるのだと思います。人との出会いもタイミングです。思い立ったが吉日。出会いの旅に出かけてみてはいかがでしょうか?
 かつて、英治出版さんで出版させていただいたことがありました。次はベストセラーでも書いてお返ししたいですが、、、その時はその印税のお蔭で、タイの山岳民族支援が出来ました。自分の原点でもある山岳民族の支援が出来たのは原田社長のお蔭ですので、次はその原田社長への恩返しをしたいなと思っています。英治さんにはお世話になりっぱなしですが。
他の本もお勧めですのでチェックしてみてください。お気に入りが見つかりますように。
http://www.eijipress.co.jp/book/

やせ我慢の美学

気が付けば私もいい歳になり、かつて私を引き上げてくれた先輩たちのように、刺激的な機会を創り出して呼ぶ側になったなと感じています。ちょうど、私より上の世代の方と下の世代の方たちとの中間管理職のような立場になったような気がします。なかなか双方が会う機会もないでしょうから、オシャレで粋な紳士たちと場の創造をしていこうと考えています。
先日、世界一服にお金をかける男たちを紹介している番組を見ました。彼らはサプールと呼ばれていて、フランス語で「おしゃれで優雅な紳士協会」の略だそうです。実際その姿は格好いいですが、彼らの信念がまた素敵でした。エレガントに生きるというお手本として刺激を受けましたね。貧しくても洋服にお金をかける姿は共感されないでしょうが、まさにオシャレとはやせ我慢を地でいってます。月収が3万ないのに、300万くらい洋服にかけてるという有様ですからね。
その中で、サプールという生き方を次の世代に伝えることをしている方がいて、その言葉が響きました。

「愛情があるなら大人はいい習慣やいい行いを見せてあげるべきなんだ。

いい服はいい習慣を生みそれで人は成長できるんだ。」

この心意気には感動させられました。そして彼は弟子のために、自腹を切ってスーツをプレゼントしていました。こういうお金の使い方は素晴らしいし、次世代に残るやり方ですね。稼ぎはなくてもお金の活かし方を知っている粋な大人でまさに紳士です。今まで私は服装には無頓着できましたが、少しは彼らを見習っていこうと考えるほど痺れましたね。
これほどの熱狂を生み出すファッションの持つ力は、人の根源的な部分に訴えかけるものがあります。ブランドは誕生してまだ数十年。大量生産されたものが高級品になるなど、当時の人たちには予想もつかなかったことでしょう。いまや、リアルのものよりデジタルなものが価値を持ち始めています。リアルな物よりデジタルな価値こそがクールだというアートをチームラボの猪子氏などは制作しています。以前、西麻布birthにデジタル屏風を設置しようと彼と話していたのですが、予算的な面で断念しました。先日彼と会ったとき、
「あの時作っておけば、いまや十倍以上の価値になりましたよ」と言われ、自分の不甲斐なさに申し訳ない気持ちになりました。やれば儲かったからではなく、初期に応援できなかった自分はお金の使い方を間違えた例ですね。
いいと思ったものは何があろうと貫くことが大事です。サプールのように、エレガントに参りましょう。
世界一服にお金をかけるコンゴのファッション集団サプール「貧しくても最高にエレガント」な生き様とは – モデルプレス

 

自然体であること

私は自然体だと見られることが多いのですが、修行が足りません。自然体というのはともすれば怠け者とも言えます。老和尚などの自然体とどこが違うのか。そうした自然について考える機会がありました。
先日、石笛(いわぶえ)奏者の方のお話と演奏を聞く機会を頂いた時のことです。初体験の石笛はとても素晴らしい響きを感じて浄化される感じがしました。目を閉じて聞いていると、違う次元に飛べるようなイメージが沸き起こります。また、人の声の響きに共鳴し、共に声を出したくなる感覚も味わいました。人間の声にはまだまだ明かされていない秘密を感じます。地球の自転の音は人間には聞こえません。同じく他の天体も音を鳴らしています。音はつまり神に通じ、言葉は神との交信のために発展したのかもしれません。石笛は神様のための音を鳴らすものですから、魂が感じるのも当然なのですね。
石笛・横澤和也の世界

音の話は長くなりそうなので、この体験の中で自分なりに解釈し心に残ったものをお伝えできればと思います。あくまで私が勝手に感じたことで、横澤氏の想いとは違う可能性のほうが高いかと思います。もっともそんなものも天にお任せしているのがあの演奏だとは思いますが。
■適当と即興の違い
普段の積み重ねがあってその上で臨機応変にできるのは即興。何もないままに対応するのは適当。とだけ簡単に言えないのが面白いところです。自然の会話も、経験や知恵が裏付けされていれば、どんな会話でも場になじむものになるのでしょう。ただ合わせただけでは、心に残るものとはならないのです。積み重ねしてるから大丈夫というわけでもなく、真剣に一期一会と向き合う勇気と心持ちが、自然と何か見えない覚悟を匂わし、伝わるのだと思います。自由なんだけど、何か導かれるものを感じることができるのか?自分の意志ではなく、音の意志とか場の意志とか天の意志とか、いろんな表現があるけれど、つまりは人為を超えたものを感じるかが問われるのだと思います。
■作為と想い
石笛は自然のままで何も手を加えていない楽器。人間はあるがままを受け入れるより、理想に近づけたり、工夫したりして作為を加えてきました。その作為は人の想いに通じます。想いがあるから作為をして、想いを表現しようとします。作為が悪いわけではないですが、自然はコントロールできないという本質的なことを錯覚しているのが私たちです。科学が進み、コントロール出来ているように見えるけど、それは自然のほんの一部をなぞっているだけなのでしょう。
かといって作為を放棄するのではなく、作為も楽しむことで自然体に近づくといいます。楽しみながら、そして自分に正直になることで自然になっていきます。真剣に楽しんでいる姿は自然と伝わるし、自分と向き合えば向き合うほど、周囲への意識は消えて、ただ感謝が自然と湧き出る表現になっていくように感じます。相手のためでもなく、ただその瞬間に表現できる喜び。無我の境地の片りんを感じさせていただきました。
■一期一会
同じ音はなくて、再現できているようでも、湿度や時間や空気など同じ状態は再現できないのです。CDで聞いても、CDでは伝えきれない雰囲気や耳には聞こえないけど体で感じた音は再現できません。リアルな場で聞くことが一番感じられるわけですが、さっきの曲をまたやってといっても、それは再現できないのです。
これは私もよく味について感じていたことですが、食事も脳が同じだと思っているから、同じ味に感じるけど、実は毎回違う環境で食べているのだから、同じ料理でも完全に同じにはできないわけです。実際には、毎回驚きや感動があるはずが、脳が同じだと認識するから感動もなくなっていく。本来生きているだけでこうした感覚を古来の人々は味わっていたのではないでしょうか。二度とない体験をより楽しむために、欲という思いが生まれて、作為が生まれたのかもと夢想しました。原点に戻って、あるがままを感じる意識を持ちたいと感じた演奏でした。
横澤さんのインタビュー記事も面白いので是非どうぞ。
Vol.03 横澤和也さん│Quest Cafe [クエストカフェ] 自分という人生を旅する。魂の物語。

 

近況雑感

お陰様で、人に恵まれているなと実感する毎日を送っています。人は環境によって作られますからね。周囲の人間、付き合う人間によって日々影響を受けて、人は形作られていきます。新しく出会う人、紹介される人が多くて、この一年ですでに出会ってる方々と深まると共に、徐々に広がりもあって、目の前の人に何が出来るかを意識しています。
かつてより繋がりはあったけど、深くはなかった方とも、ご縁が再度繋がり、改めて出会いなおしているような感じです。私の場合はやはり人が財産だと感じています。ご縁がある方に何が出来るか?折角ですからこれまでとは違うアプローチをしています。自分の中にあったパターンを壊すイメージです。自分が話すより聞くほうが多くなりました。
そのお蔭か、今まであったこともないような世界の人とも繋がったり、自分の中にある偏見に気づかされています。また、違う世界で極められている方のお話を聞く機会も増えて、真剣に自分の仕事を向き合っている姿勢に勇気づけられています。
変化といえば、以前と比べてテレビを見るようになりました。といっても、録画された番組でリアルタイムでは見ないのですが、無料で質の高い番組が母国語で見られることは素晴らしいことだなと思います。ある意味、還俗したような気分ですね(笑)
やはり志のある方に触れるとチャージされる感じがします。それは直接間接を問いません。ブレてはいけない自分の中の志を再確認します。10年たっても言っていることは変わらず、同じ情熱を傾けている人間が格好いいと私は感じます。日々、無限の選択肢があるなかで、どの道を選択するか?無意識に価値観が滲み出るものでしょう。
滲み出るためにどのような生活を送っているか?結局はそこに戻ってきます。沖縄である方に言われた、
「格好悪くてももがいている姿を見せてほしい」という言葉が心に残りましたね。このブログも難しいというので、簡単にわかるように心がけていきたいと思います。
今年はアウトプットも増やしていき、伝える努力をしていこうと思います。いつも気にかけていただきありがとうございます。
 

インターステラーと予告犯

「2001年宇宙の旅」、「コンタクト」、に続く映画である「インターステラー」はもうご覧になりましたでしょうか?監督であるクリストファーノーランは「ダークナイト」で善悪二元論では語れない話を表現しました。彼の映画では、以前も書いたヒースレジャーや、今回のマシューマコノヒーのように、ただのイケメンではない人物が重要な役割をしめています。
マシューマコノヒーは、「コンタクト」では宗教学者役。今回は科学者の役。「コンタクト」では、主人公であるジョディフォスターの科学者に向けて「君が父を愛していた証拠をあげよ」と語っています。そして今作「インターステラー」では、まさに父が娘を愛していた証拠を幽霊として見せるのです。

「インターステラー」では、父娘の絆編というPVがあります。


因縁の想いは重いのです。だからこそ数々の人間ドラマが生まれ、血族が大切にされてきました。想いは強いほど重くなります。そしてそれはまるで重力が時空を超えるように、想いも時空を超えていきます。時を経ても、人が残した想いは引き継がれていくのです。



コンタクトでもインターステラーでも、女性の科学者がキーマンになっています。女性が時代を開いていく、新たな世界を感じさせます。先が見えない時代に、信号を受け取りやすいのでしょう。直感というものによって道が開かれていく様子は、本映画でも描かれています。
人は誰かのためになら死ねるのです。人類のため。家族のため。大義なのか、愛なのか、人それぞれでありましょうが、想いは自己犠牲へつながり、愛となります。それは伝わるか伝わらないかは問題ではないのです。
本作では、人間関係からチャンスが生まれ、そしてまたそれゆえにピンチが生まれます。ピンチでさえも諦めない姿勢が次のチャンスへとつながる様子が描かれています。壮大で前向きになれる映画です。
本作のキーワードには「マーフィーの法則」があります。
"起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる”
その根底には、逃げずに向き合うものには必ず神は見ているという信頼があるように感じます。
「インターステラー」と対照的だなと感じた作品が日本にはあります。「予告犯」という漫画をご存知でしょうか?来年映画化もされますが、本作も誰かのためにという想いがキーワードとなっています。
 

「日本の社会は人と違う生き方をする者たちに残酷です。仕事に就かなければ世間の目が冷たいし、失業すればそのまま社会からはじき出されてしまう可能性だってある。『予告犯』を通じて読者に訴えたいのは、こんな社会が正常なのかよく考えてほしいということなのです」。

引用元: ネット世代の漫画家、筒井哲也がフランスでウケる理由 – ローラン・ルフェーヴル.

と作者は語っております。「インターステラー」がエリートたちの想いだとすれば「予告犯」は庶民の想いと言えるでしょう。
「インターステラー」ではディラントマスの詩がよく朗読されます。
「穏やかな夜に身を任せるな。老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。怒れ、怒れ、消えゆく光に」
どんな時でも諦めるなと励ましているような詩です。
予告犯では、よく言えば終わりの美学があり、足掻いたり見苦しいまでに執着したりはしません。マン博士のようなことは起きないのです。極限ではエリートだろうが何だろうが人間的な性質が垣間見えます。どちらも、誰かのためにという想いがありながら、紡ぐ物語は対照的です。
どちらも深く考えさせられる作品です。作者の想いを感じ、自分なりに活かしたい作品です。
 

The way of every day and a bodhisattva