男女の因縁
親子の因縁は宿命で変えられないが、夫婦の因縁は運命であるがゆえに、選択の自由がある。これは普通の男女の恋人関係においても同じ事だ。
どんな出会いも意味があるが、それを追求するのは難しい。必然と濃い出会いから学ぶ事となる。恋愛関係より結婚関係のほうが濃い。
相手は鏡だとよくいうように、自分にとって必要な相手と惹かれ合うようになっている。中には一方的な関係もあるだろうが、それも当人は意識できていないだけで、魂はその相手を求めているのだ。
その深い意味に気づく事をしようとしなければ、相手をコロコロ変えるだけの経験を積んでいくだけになる。人は好奇心から、表面的に違う相手に興味を持つが、好奇心だけでは飽きがくる。
また、今の相手に不満があるとき、逃げとして新たな相手に気が向いてしまう。隣の芝生は青く見えるということだ。
好奇心も、隣との比較もキリがない。際限なく追いかけ続けて人生の時間が終了する。ある意味それを実行できるのは幸せだ。体験すればむなしい事も体験できる。実際に欲望通りに生きられる人は少ない。一見羨ましいが、制約が無いのは可哀想なことでもある。だから金持ちほど不幸になりやすい。
大抵の人間はそうした生活を願いつつも、我慢(経済上の理由が大きい)して、気を他の事で紛らわせながら生きている。そうした制約があるから、問題と向き合う事を余儀なくされる。
人と向き合うという事は、辛く大変なことだ。まして、こちらに向き合う気持ちがあったとしても、相手に気持ちがなければ向き合えない。ハードルが高いのだ。
だからこそ、それを乗り越えたとき、一心同体と呼ばれる状態になれるのだ。自分の喜びが相手の喜び。相手の喜びが自分の喜び。喜びは倍以上に、悲しみは半分以下になる。
自由な恋愛状態に比べて、結婚していると法的拘束力がある故に学びが深い。人間怠け者である。少々縛られていないと学べないのだ。先ほどの制約と同じだ。
人間は辛い経験がないと学べない。
結婚も離婚も形式的なものだ。形式にとらわれると苦しくなる。結婚しなくちゃいけない、とか、離婚したい、という感情は執着だ。
安心感を得る為の結婚や、嫌な事から逃げる為の離婚ではより辛くなるだけだ。形式への執着を捨て、あえてそれを選択すれば、それは学びの宝庫となる。結婚、離婚自体には、良い、悪いはない。
仏陀は王様であったのに、家族も国も捨てた。普通の概念で言えばひどい人間だ。仏陀がいなくなったあと、国は滅び家族も苦労したが、仏陀が悟りを開いたお陰で彼らの心は救われた。
常識的な判断で、
「出家したいけど、国も家族もあるからなぁ」と非難を恐れて決断しなかったら国は滅びなかったか?それは誰もわからない。結果的には同じだったとしたら、仏陀が悟りを開けなかった分、家族も未来の人々も誰も救われない。国が滅びなかったとしても、仏陀自身の魂は救われない。
どんな選択も体験することで学びになる。頭であれこれ考えても始まらない。心の赴くままにえいやーと飛び込んでみる勇気が必要だ。
どんな人とでも必ず問題は発生する。そこで逃げずに向き合い続ける事が大事なのだ。決断したからには、例え心が嫌になっても向き合い続けるのが責任だ。
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