依存からの脱藩
世間では、大阪の選挙結果が話題となっている。もう誰もが、今のままではダメだとはわかっていても、どうしたらよいのかわからない。大阪都構想が実現したら自分たちは幸せになると、誰も思っていないだろう。でも、それでも、今までよりはマシという気持ちと、何かやってくれるに違いないという淡い期待。
では、民意が集まったからと言って正しいのだろうか?多数決は正しいのか?大衆は、投票というシステム自体を疑うことはない。人間は平等ではない。システム(制度)という決まり事で人は幸せになれるか?
いまや、制度の問題ではない。どんな制度も完ぺきではない。制度を何とかしようとするのではなく、人の在り方と関わり方のロールモデル(お手本)が必要だ。それを自分たちは邦(くに)つくりと呼んでいる。すべて、心ありきだ。
今の社会はどんどんと物事を明確にし、形で人々を縛ろうとしている。形がなければ信用できないのだ。形にこだわらない、おおらかさは、バカのあかしとされてしまう。その結果が、ルール以外のことをやってはいけないようになり、ルール違反は法令順守という大義名分のもと罰せられてしまう。
大阪の例で考えると、きっとこういうことが起きてきたのだろう。以前なら府と市の間で、あうんの呼吸で処理していた事柄も、人間力の衰えとともに、責任のなすりあいが始まり、法で明確に区別するようになる。権利は主張し、責任はできるだけ避けるようになる。そうして時間が経つうちに、少しずつ無駄が増えていく。積もり積もった垢のようなもの、そしてそれはある意味では善意でやってきたことかもしれない。これは誰かが悪いという話ではない。世の中全体が、自分の利益追求をすすめているのだから当然の結果である。
制度のひずみを正そうとするのもよいだろう。しかし、どんな制度も、作るのも、運用するのも人間だ。人を人として扱わず、モノとして扱うのが制度の本質だ。では、制度がなければどうなるか?手間暇かかりすぎて、とてもじゃないが、安心して落ち着いて生活などできない。人をモノと割り切って生活しているからこそ、時間の節約も最低限の保障もあるのだから。
一人ひとり個別の事情がある。一人のことを気にかけすぎても効率が悪くて社会が回らない。効率を追い求めすぎると、人はロボットのようにモノとなり、社会の活力が失われる。どちらが絶対に正しいということはない。そこに答えはない。
誰か知らない人に期待して任せるだけではなく、自分に縁がある人間と向かい合って、信頼関係を作っていく。自分の直感を信じて、新たな世界に飛び込んで、自分を変化させ続けることが、人生を楽しむコツである。制度が変わっても、幸せは転がり込んで来ない。
投票するだけは簡単である。自分を変える必要はないからだ。投票して何かを変えたいと感じているならば、自分を変えることだ。例えば、自分では絶対にやらないようなことをするのもいい。どうせいつかは死ぬのだ。自分で危険に飛び込んで危機を体験しなければ、生を充実させることはできない。
時代は、破壊と創造を求めている。橋本氏は破壊を進めていく。それが彼の役目だ。そして、そのあと創造するのは別の人間になる。それぞれの使命を生き切ることが、誰が何と言おうが幸せなのだ。破壊者はたいてい幸せな結末にはならない。しかし、世間からは不幸な結末だと見えたとしても、本人の魂は納得するのだ。
人生で何を体験するか?そこに良い悪いはない。時代の流れは変化を求めている。変化という体験を自分で選択するか、もしくは嫌々に変化させられてしまうか、どちらかしかない。
どちらも楽ではない。しかし、楽な道はどこにもないのだ。どうせ変化にさらされるのだから、自分から飛び込んだほうが面白いのではないか?
新時代を夢見て生きた、幕末の脱藩志士のように!
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