お気楽から菩薩道へ

 ここ数年引きこもりのように、初めて会う人たち以外とはあまり会わないできた。真剣じゃなければ話をしない覚悟だったので、以前のお気楽な自分を知る人達からみたら、どこか違う世界に行っちゃったなと思われていたようだ。
外に向かうより、内に向かったお陰で、結果を早く求める現代病に、自分が陥っていたことがわかった。スピード優先の世界で生きてきた弊害。短絡的になり、表面しかみられなくなってしまう、視野が狭くなるのは、車を高速で運転をしている時と同じだ。
風景を楽しむ余裕すらない。いま自分がどこにいるかじっくり落ち着いて考えることも無駄にみえてしまう。刺激的なジェットコースターも楽しい。でもそればかりでは勿体無い。草花を愛でることも、風景から偉大な感覚を感じることもできなくなる。次から次へと変わる景色は好奇心を満たしてくれるのも間違いない。旅の楽しみ方は人それぞれだ。いま自分は何を感じたいのか?本当に感じたいものは自分の中に答えはあるが、ない。気づかなければあってもないのと同じだからだ。
その他にも、絆や責任、想いという、人が真に動かされるものを感じることができた。そして、信念を持って人に向かった結果、摩擦が起こり、心も鍛えられた。自分で言うのもなんだけど、大分強くなった。事件の渦中にいてわかったことは、本当に世の中嘘ばかりでいい加減なモノだということ。だからこそ、だったらどうせ誤解されるのだから思い切りやったほうがいい。その方が後々伝わる。中途半端にやると何も残らない上に、誤解されて誰にとってもよくない。だったら何もしないで引き篭っていたほうが断然いい。
人の数だけ正義がある。相手の言い分もわかる。だからといって、認めていたら利用されるか、何も成し遂げることはできない。(注:自己欺瞞に注意)
闘いがあるからこそ、人は磨かれる。そして形がなければ、多くの人は認めないのも事実だ。(形があるから誤解するのもある)
大衆は、いちいち本質を考えたり、真理を知ろうとはしない。そのまま受け取るのが楽でいい。情報を送る方も、そのまま考えないで伝えたほうが楽なのだ。
トコトンやっていたら、あとでいくらでも評価は変わってくる。歴史を見ていたら明らかだ。評価されたり、落とされたり、そんなものを気にしていたら何もできない。世間に対していい顔をしたかった自分にも、事件のお陰で向き合うことが出来た。普通の道を閉ざしていただいたお陰で、背水の陣で頑張れる。去年で本当によかった。それまでの体験がなければ、本当に終わっていた。こんな呑気にBlogなんて書いていられなかっただろう。
どんなことがあってもブレない仲間や、本質真理を観る人たちに救われた。それは自分たちが本質真理を求めて、ブレないように真剣に生きてきたからだ。必死で求め、信じ続けることで道は拓けると改めて思う。それをやり続けるのが難しいのだ。
例え表面では敵に見えても、その存在があったから、頑張れたり、意識が高くなれる。普段は、嫌いだったり、ムカツイていたりするが、改めて考えると心の中に意識する相手がいることでモチベーションが維持できていることに感謝できる。いつかはお互いこの世を去ると想うと、遊び仲間のようで、嫌だけどなんか愛しい複雑な気分になる。
お気楽だけだったらこんな気持ちにはなれなかった。試練は人を変える。そのキッカケをどう活かすかは自分とその周囲にかかっている。自分だけでもないし、周りだけでもない。自分が変われば周囲も変わる。周囲も変われば自分も変わる。鶏が先か、卵が先か。
好きな方をいきなり持ってくるのが錬金術だ。環境を変えてもいい。自分がいきなり変わってもいい。自分が驚くか、周囲が驚くか、どちらにしても想像したら面白いじゃないか。人生は楽しんだ者勝ちだとつくづく感じる。 
気付きの信号を送ってくれる存在に感謝。ミロクの日に記す。

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