決定論か、ランダム論か

 秋分の日が過ぎた。22日が秋分の日となるのは116年ぶりとのことだ。気にしなければ何ともないことだ。天体の動きなど何の影響もないと考えるのが科学的な見方。というのが一般的な視点だろう。ではなぜそれがニュースになるのか?ただのお知らせか?珍しいからか?

天体の動きは前もって予想できる。暦(こよみ)いわゆるカレンダーも、天体の動きを元にしている。昔から、暦を制定できるものは権力者だけで、暦には権力者の思想が織り込まれている。暦を支配するものが、世界を支配するのだ。現代の我々は普通に西暦を使っているが、それは無意識に西洋の思想に支配されているのと同じだ。ちなみに敗戦までは皇紀が使われていて、この皇紀は聖徳太子が制定したものだ。これも深い話しがある。堂々と誰もが使うカレンダーを通して、潜在意識に働きかけられているのだ。

サブリミナル効果というのを聞いた事がないだろうか?映画とかで、目にも留まらぬ早さでコーラを飲んでいるシーンを入れると、意識せずにコーラが飲みたくなるという話しで有名だ。人は意外に簡単に影響を受けやすい。マスコミや常識、雰囲気といったモノに無意識に影響されて洗脳されている。良い悪いの判断も、一体どこにその起源があるのか?よくよく考えずに受け入れる。

カレンダーは何年先も数字で決まっている。先を考える中で、片方は1万年先を考えている人と、片方は明日のことしか考えられない人では、話しが合う訳がない。明日のことしか見えていない人は、先の事を見ている人間に誘導されていく。これは良い悪いではない。そうしなければどうなるだろうか?世界はどうなるのだろう?

リードする人間たちは決定論で動いている。そして、リーダーは大衆にはランダム論で話すのだ。こういう形に持っていくぞという絵があって、それを実現するための方法を落とし込んでいく。大衆にはランダムでそれが起こっているように見える。

方向が決まってから落とし込むのが得意なのは官僚たちだ。官僚は学習と反復を得意としている。自分では決められない。決めてくれる人に弱い。企画と実行部隊は違うのだ。

仕掛ける側の例を書こう。ユダヤ教の実力者は、キリスト教の教会を豪華に作る。そしてキリスト教を発展させ、その幹部に対してユダヤ教の実力者が影響を及ぼす。キリスト教の信者に間接的に影響を与えるのだ。そして、その信者には、
「皆さん、明日は何が起こるかわかりません。だから神に祈りましょう」と教えるのだ。で、明日の事件を仕掛けて、
「ほら、何があるかわからない世の中です。怖いですね」とマッチポンプするのだ。

決定論か?ランダム論?かで問われると、ついどちらかのスタンスだけを選んでしまいがちだ。両方の考え方を利用してるとは考えにくい。思考の罠に大衆はハマりやすい。真面目脳だ。問いを作った人の真意はどこにあるのか?カオスを作る為なのか?どこかに誘導するためなのか?

カオス(混沌)の中から、新たな創造は起こっていく。カオスとランダムは似ている。意図があるのか?ないのか?管理できるのか?管理できないのか?

カオスを創りだし、そのなかを決定論を持ちながらランダムに楽しむ。人生、目的があるから頑張れるし、先がわからないから楽しい。いずれにせよ、変化が加速する事は決定している。

1 件のコメント

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しんげんもち

そうですね。祈りとは、全体の行動を含めた行いであって、座って祈ったとしても、気休めにしかなりません。
キリストの教会に人を集めるのも一元管理をするためだと捉えれば納得がいきます。
ですが、太郎はどうでしょうか。
太郎が文化人類学を専攻したのは、ほかならぬ、世界の流れをキャッチする側面も持っていました。
全人格的と言い換えることもできます。
彼のように、企画と実行をひとりで担当できる人は限られており、悲劇でしかないのですが、委ねる、という意味では、つねに、予定の外があること、時間に対する理解の変化、感性で動くこと、は宗教であろうと、宗教を超えていようと変わらない真実ではないのでしょうか。

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