原点想起

ある時、ひたすら自分を見つめていた時があった。答えの無い自分を見つめる作業はとても辛くて逃げ出したくてたまらなかった。それでも必死に内省を続けていると、感謝が足りなかった自分が見えて来た。今まで周りの人のお陰でここまで来れた事を当たり前と捉えている自分がいた。感謝が出来たからといって、そこで終わりではない。

それでも内省を続けていると、今度はすぐに飽きてしまう自分に気がついた。事業がわかりやすいが、軌道に乗ってきて、さーこれからという時になると、途端に興味を無くしてしまうのだ。ある程度で満足してしまう癖。トコトンを追求できなかった自分がいた。半端な自分。

追いつめられていると力を発揮するが、追いつめられていないと途端に怠けてしまう。他にも、嫌な事から逃げて来た自分もいた。楽な方へと逃げて、そうした自分に合う言葉ばかり、心に入れて、「しょうがない」「そんなものだ」「その方が良いんだ」と逃げて来た。

そんな自分を卒業しようと、目の前の事から逃げずに向かって来た。向かう喜びも覚え、仲間も出来て軌道にのって来た。そんな今だからこそ、原点を思い出す時なんだと信号を受けた。

新しい展開も見えて、本来なら更に飛躍する時だ。かつての自分はそんな時に一歩引いてしまう癖があった。最近、沖縄に関わり始めた時と同じような事をしていた。御嶽を巡り、なぜ沖縄に関わったかと改めて考えた。

最初の動機は目の前の人間を助けたいだった。沖縄の為に必死になっている人間を支援したい気持ちから始まり、応援していくうちに、それが自分の為でもあることに気がついた。弱者救済をしたいと思っていた気持ちと沖縄の現状が繋がり、自分の人生のテーマとなっていった。

御嶽巡りをしていたとき、とても珍しいセミの脱皮に出会った。
「生まれ変わった信号なのかもしれないな」と実感もないままに考えた。これからはまた違うモチベーションで仕事を行っていくことになると感じている。

なぜか最近は昔の友人知人と偶然あったり連絡が来たりしている。これまで沖縄で磨いて来た成果を伝えるべき時期に来たのかもしれない。

人生のテーマを見つけてる人は幸せだ。大半はそれがわからずに右往左往している。しかし、テーマがわかっている人でもそこから逃げてしまう人もいる。やらないことで損はないはずなのに、なぜか躊躇してしまう。その気持ちはよくわかる。

結果がわかるのが怖かったり、今までの自分に執着があったり、吹っ切れない理由は自分では気がつきにくい。なんかモヤモヤして、映画や浮き世ごとに逃げていた自分を思い出す。

若さも金も時間もあって、人からは羨ましいと言われる状態であった時こそ、
「なんか面白い事ないかな」が口癖だった。

生まれ変わったのかどうかはまだわからない。それは行動して証明していくしかない。チャンスの時こそピンチでもある。このチャンスを活かす為に、原点を見つめて、その時の気持ちを胸に向かっていく。

行動して初めて、生まれ変わった実感が湧くのだ。体感するまではわからない。新たな自分を体験するのが楽しみでもある。かつて内省していたときには答えが見つからなかった。これからの挑戦で見えてくるのではないかと感じている。

わかるとわからないの間

貴重な体験であった昨年の出来事から1年が経ち、喪が明けたかのように展開が促進している。あの事件があったからこそ出来ていることがたくさんある。失ったように見えたのは表面だけで、裏面では得たものが大きい。ただのゴシップにしては意味がないために、真相などは表に今のところ書かない。直接関わる人だけがわかればいいことであるが、意味があれば書くこともあるだろう。
秘密というものは、秘密だからいいのであって、公開されてしまえば判断されてしまう。人は理解したがり、わかった気になりたいのだ。本当のことを知りたいのも、ただ好奇心だけであって、そこから真理を掴みたいなどとは思ってもいない。知っても何も生み出せない。
知ってしまったものには人は興味を抱かない。人間底が知れたらオシマイだ。この人はこういう人物だとレッテルを張られた瞬間に興味がなくなる。分かってしまったら見くびられるのだ。かといって、わからなすぎても、認められない。
わかるようなわからないような、微妙なニュアンスが絶妙。人でもモノゴトでも、わかったような、わからないような、はっきりと言えない状態が最高だ。それは普通の人にはストレスになるのだが、ストレスがないからいいとは限らない。
例えば、お金持ちを考えてみよう。長者番付とか上場とかしてると、資産が見えているのでランクをつけられる。ランクが付いていたら間違いないものとしてわかりやすい。しかし、見えてわかっているということは、形になっているということだ。形になっていたら動かしづらい。
見えない資産のほうが、いくらでも動かせるし、資本主義のルールではお金のスピードをあげれば上がるほど儲かるわけだ。表に出てこない人のほうが資産を持っているのは当たり前なのだ。でもそうした人の存在はわからない。わからないから、ないものと同じになる。
真面目脳であれば、自分の資産は自分の名義で持っていると思い込む。しかし、西武の名義株の件を見たらわかるだろう。資産を人の名義で管理している人はたくさんいる。錬金術の一つでもある。
陰謀論も「陰謀論だね」とレッテルを張った途端に、その情報が生み出す意味をとらえることは出来なくなる。どんな情報にもレッテルを張ることなく、捉えることが出来る人間が、人を動かせる。
視点が上がらない限り、目先の出来事に操られてしまう。一喜一憂して、一生操り人形のままだ。かといって、すべてを疑っていてはキリがない。自分が違和感を感じるものを追及するのがいいが、違和感を磨く方法を大半は知らない。
意図的にわからないようにしようとやりすぎても輩になってしまう。そこに筋とか柱といった、信念がなければ隠し事もつけが回ってくる。考えすぎてわからなくなるかもしれない。それは人のためなのか?自分のためなのか?悩んだ末に決めて、決めたらやり抜くしかない。
ニュースを聞いて違和感を感じるだろうか?
なぜ、6月6日に66歳で三笠宮はなくなったのか?
なぜ、急に原発再稼働を言い出したのか?
他にもなぜ、なぜと言い出せばキリがないが、物事をそのまま捉えていては、その裏に隠されている真意に気が付くことはできない。知りたければ、伝える人はいる。それを望むかどうかだけで道は開ける。
裏があろうとなかろうと、どんなモノゴトにも捉われずに受け取ることで、柔軟な思考がうまれる。何があってもおかしくない時代なのだから、変化に対応するにはわかった気にならないことが一番だ。

陰謀論のウラ側

天体ショーが続いている。そのイベントがどういう意味を持つのか?といった解釈は他の人に任せて、そうした現象がどんな影響を及ぼすのかについて考えてみる。

例えば、今日6月6日は約6時間かけて金星が太陽面を通過する日だ。6がつ3つ並ぶから獣の数字だとかミロクだとかいう人もいるだろう。大事なことは、そうした出来事を「重要な信号に違いない」と捉えて行動する人がいるということだ。
信号が当たっているかどうかはどうでもよくて、普通の人は恐らく気にしないことを本気で信じて動く人がいる事実を知らないと、モノゴトの一面を見逃すことになる。普通の人は、普通に考えるから、普通の結果しか生まれない。
普通じゃない人は、普通に考えないから、普通ではない結果が出る。成功して物質的な欲求より、世界の真理に興味を持っている人ほど、こうした天体ショーや霊的なことに敏感だ。
笑い話のように思えるだろうが、6が3つ並ぶ話も、意味があるといえば意味があるし、ないといえば意味はない。どちらとも言えるなかで、どちらの話が面白いかで動いていくのだ。もしくは、例えばその人の潜在意識に破滅願望があれば、世界破滅的な物語を受け入れていくのだ。
スピルバーグがどんな世界を信じているのかを聞いたら、普通の人は危ない人だと思うだろう。でも実績ある人間が荒唐無稽な話を信じて動くと、実際に世の中に影響を与えていくのだ。彼が本気で普通からしたら危ない話を作っても、観客はSFだと思いながらも概念として刷り込まれていく。
力がある人間は、自分の周囲に世界を作ってしまう。その世界にいたら、その世界観が当たり前になる。常識とはそんなものだ。聖書の黙示録的終末世界を信じている超金持ちがいるとする。その人間が真剣に、今日のイベントを666の獣の数字、反キリストの信号と捉えていたらどうなるだろうか?
いま世の中は乱れている。世に啓示を与えるためにも、バベルの塔がなければならないという信念をもって、実際に建築してしまう金持ちがいたらどうだろうか?最近出来たスカイツリーを日本のバベルの塔と呼ぶ人たちがいる。
日本の終わりの始まりの象徴として、スカイツリーを創ろうと企画した人がいたらどうだろうか?普通に考えたら、有り得ないで終わるだろう。あり得ないかもしれないし、あり得るかもしれない。普通じゃない人たちはあり得る方を信じるのだ。
実際、スカイツリーは何のために建てられたのか?電波塔のためだとみんな思っている。本当にそうだろうか?電波を届けたいのなら、携帯の基地局のようにしたほうが安いし、早いのではないだろうか?本当の目的は隠され、後から大義名分をもってきて、もっともらしい理由をつけただけではないだろうか?
世界の仕組みがわかってくると、必ず表と裏があることが見えてくる。だからこそ、先を見通せる人間、成功した人ほど、裏を見るのだ。現実はフィクションを超えている。よく考えたらおかしいことはたくさんだ。
よく考える人がいないから気が付かないだけで、日々流されるワイドショーによってじっくりと考えるということが不可能になっている。次から次へと流れてくる話題に圧倒され、ひとつひとつじっくりと考えられない。そのあいだに、大事なことは表で堂々と進められていく。隠さないことが一番の隠し方だ。
天体騒ぎにうつつを抜かしている間に、小川元法相がした爆弾発言などは気にされないまま流れていく。別にそのことを隠すために、天体ショーがあるといいたいわけではない。天体の動きは事前に予測できる。この時期になれば必ず騒がれるのはわかっている。なぜ金環食の日ではなく、次の日にスカイツリーをオープンさせるのか?オープン日だって、事前に決められる。なぜあの日だったのか?天気予報だって、統計で快晴になりやすい日もわかっている。当日は雨だった。
話が事実かどうかは問題ではないのだ。どちらでもいいのだ。大事なことは、そうした視点で動く人間がいるという事実だ。不自然であり得ないことも、堂々とやれば自然であり得ることになる。
世の中は吹っ切ったモノ勝ちなのだ。

マーロンブランドの人生に学ぶ

 事実は小説より奇なりという。現実の世界のほうがはるかに面白いから、ハリウッドも現実に起きたことからネタを拾っている。実話ほど実話とは思えない波乱万丈に満ちているのだ。しかし、それは一部の吹っ切った人が起こしているのも事実だ。大衆には触れることがない世界。だから映画でそれを味わって非日常を体験する。

小説より面白い現実を生きている人の日常は、普通の人にとっては非日常だ。どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。普通の人がやらないことをする人は、その人にとって譲れない信念がある。それがモチベーションとなり、常識という殻を破る力になる。そういう人間は近くにいたら、強烈な個性のために、熱狂するか不愉快になるだろう。
織田信長も、今となっては英雄だが、当時の同世代人にとっては第六天魔王と恐れられた。それはそうだ。比叡山を焼き討ちしたり、今でいう大量虐殺者なのだから、神をも恐れぬ所業に度肝を抜かれただろう。近くにいたら迷惑だが、時代が下がって、遠くなると格好いいとなる。
世間に自分を合わせようとするのではなく、自分に世間を合わせようとする。いまの世界はおかしい。そんな世界は納得いかないと欲する人間が時代を創る。またそういう人間がスターになる。ハリウッドスターのなかで、飛び切り反骨心があったマーロンブランドの人生は格好いい。
今だから格好いいといえるが、それが確立するまではダメな人とか落ち目だとか言われてきた。真面目脳であると、一つ一つ評価を積み重ねていかないとダメで、一回でも落とされてしまったらもうダメだと考えてしまう。本当は、ダメなところがないと逆に面白くないことに気が付かない。紆余曲折があるからドラマになるのだ。
世間とは面白いもので、突き抜けて看板ができてしまうと、どんな失態も逆に物語の一部になってしまう。「ああ、やっぱり彼らしい」といった具合に。それが魅力となる。


何も汚点がないというのは、何も利点がないというのと同じだ。
「いい人、いい人、どうでもいい人」なのだ。世間では、何も問題がなく素晴らしいように見える人もいるだろう。それは汚点が見えていないか、もしくは作られた人物である。世間を誘導するためには、カリスマを作ることが有効だからだ。
作られたカリスマではない、本物のカリスマにしても、その魂に火をつける人がいなければスターも生まれない。人は人に影響されて変わっていく。マイケルジャクソンは、マーロンブランドをファーザー、エリザベステーラーをマザーと呼び、慕っていた。魂の親子だ。
ファーザーと呼ばれたマーロンブランドの人生は興味深い。自分たちの世代では、ゴッドファーザーのイメージが強いが、彼がT-シャツやジーパン、革ジャン、バイクといったアメリカ文化を創り出したのだ。ジェームスディーンもプレスリーもビートルズも、とにかくすべての人がマーロンブランドに多大な影響を受けた。それくらいのスターだった。
彼は幼いころから反骨心があって、当時は黒人差別が当然の時代に、平気で一緒に遊んでいて、教師ににらまれたりしていた。その性格はずっと続き、数度の結婚で選んだ奥さんも有色人種だった。
ジェームスディーンの出世作も、元はマーロンブランドが出演するはずだった。彼がお世話になってきた監督だったが、納得できないことがあって蹴ったために、ジェームスディーンのチャンスへと繋がった。信念を通せば、世界はうまく回るようになっている。蹴った理由も、彼が仲間を売ったからというのだからシビレル。
父親はどうしようもない人だったが、金に困った父のためにと、それまでは厳選して出演作を選んでいたのだが、役を選ばず出演して評価を落とした。因縁の作用だ。因縁は足を引っ張る仕事をする。それに負けていたら大スターではなく、ただのスターで終わっていた。
ゴッドファーザーの企画を知ったとき、制作側からは落ち目だと嫌われていたが、自分しかその役はいないと、歯を抜いたり役作りをして、オーディションにまで出て見事役を射止めた。ゴッドファーザーで一気にスターダムに復帰するが、マーロンブランドらしいのが同時に出演した映画ラストタンゴ・イン・パリがポルノ映画と酷評されたことだ。共演した女優の人生もこの映画に出演してからめちゃくちゃになり、いったいなぜあんな駄作を作ったのだと謎を振りまいた。ゴッドファーザーで期待が高まり、注目が集まっている時期に、あえて自ら貶めるかのように。同時代に理解されるのを拒むようでもある。
ちなみに、ゴッドファーザーで、無名だったアルパチーノがスターになり、アカデミー賞も得た。しかし、ハリウッドはアメリカ先住民への人種差別があると、マーロンブランドは受賞拒否した。アカデミー賞を欲しがる人はいても、人種差別を理由に拒否する人は彼しかいない。恰好いいではないか。そのせいもあって、それ以降は西部劇はあまり制作されなくなった。
マーロンブランドは、自分だけの王国を作ろうと無人島を購入していた。理想の場所を作るためには金がいくらあっても足りない。そのための役者の仕事だと割り切って、一本でいくらお金を稼げるかに挑戦していった。ゴッドファーザーが当たったために、次回作もとお願いに行くも高額すぎて断念。わずかばかりの使用でも高額すぎて、脚本を大幅に変更せざるを得なかった。
彼が出演したスーパーマンでは、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録を残した。しかも、出演時間もわずかしかない。出来るだけ少ない時間で高額収入を目指したのだ。そうした金を自らの王国のために注ぎ込んだ。ハリウッドは、そうした信念ある人間たちがいるから魅力がある。もはや、彼の人生が一本の映画だ。彼の心にあったものが彼を形作った。
あなたの心がつくる映画はどんなであろうか?

イスラムの可能性

先日、ご縁がありインドネシア大使公邸にお邪魔してきた。沖縄に関わるキッカケになった会社の創業者は、インドネシアの独立運動を支援していたことで投獄されたことのある方だ。インドネシアの独立に日本は深く関係している。ちなみに、沖縄とインドネシアの関係は琉球貿易時代から深くて、沖縄の民謡にインドネシア語が使われているくらいだ。

インドネシアは、世界最大のイスラム教徒を抱える国でもある。イスラム教は調べてみると面白い歴史がある。キリスト教はどちらかというと大衆から広まっていったが、イスラム教はエリート層から広まっていった経緯があり、驚くべき速さで普及していった。最初は敵であった人物が、その後改宗してイスラムのトップになったりしている。寛容性もあり、イスラム創成期の人物は魅力的な人が揃っていて、読み物としても面白い。ルネッサンスはつまるところ、実はイスラム世界に残されていた知識の再発見にすぎない。当時の世界最高の知識はイスラム世界にあり、イスラム側からみた歴史を学べば、世界史を複眼で見ることになり、世界の景色が違って見えるに違いない。
話は変わるが、宗教の役目とはなんだろう?経済活動が盛り上がってきて、社会のお約束なんかより金儲けしようぜという気分の時に、宗教はそれを抑える役目として機能してきた。儲けた金を宗教建築で吸い上げたり、利子を制限したりと、人々の欲の皮を消化(昇華)させる働きがあったのだ。そうすることでバブルを事前に防ぐ役割を果たしてきた。余計なお金が社会に生まれると、そのお金は悪さをするのだ。昔の知恵というのはそれなりの意味があるものだが、意味が失われて形だけになるから、知恵は失われる。
イスラム教というのは現代においても、社会に対して影響力を持っている宗教で、そこから学ぶことは大きい。イスラムの原点の確認と本来の知恵というものをとらえなおして、新たに現代でその知恵が働くように再設計する必要がある。日本においては、宗教というより、武士道のような「道をきわめる」という方法が、宗教の代わりを果たしてきた。
いずれにしても、西洋と東洋のハイブリッド日本は、イスラムという世界との関係で助け合える関係になれる。資本主義への新たな処方箋のヒントがそこにはある。際限なく拡大しようとするマネーとどう付き合うか。多様な選択肢の一つとなるのだ。
世界というのは、勝手に出来ていくものではない。イメージを持っている人間に引っ張られるのだ。イメージが持てない人間は、持っている人間に振り回される。そこに良い悪いはない。どういう世界にしたいのか?世界は世界観同士の戦いで満ちている。イメージを持っている人間がルールを作っていく。その積み重ねで今がある。だから原点を知ることは大事なのだ。原点と経緯を知ることで、未来をイメージできる。
人が引いたレールの上を走るのは安心安定に見える。しかし、そのレールはどこに向かって走っているのか?自分でレールを作るのは大変だが、自分で目的地を決められる。レールに乗ったり、作ったりと人生色々だ。こうしたイメージを持つのに、映画トゥルーマンショーをお勧めする。

新たな光

今日は沖縄が日本になって40年の日だ。節目の日に興味深いニュースがあったので、それを信号と捉えて書いてみたい。ジョニーデップとかつて創業した会社と沖縄についてだ。
ジョニーデップとティムバートン監督が映画の宣伝のために来日したというニュースを見た。彼らが最初に組んだ映画が、「シザーハンズ」だ。あの映画から、俳優としての活躍が始まった。彼は元々俳優業に興味があったわけではなく、当時妻だった女性の元彼がニコラス=ケイジで、彼から勧められて俳優としてのキッカケを得た。元々はというか、今もだが音楽活動をしていて、それなりには成功していたのだ。
そんな姿はあまり知られていない。以前、トムクルーズでも似たような話を書いたが、覚えているだろうか?(いい人が飛躍できない理由)ちなみにシザーハンズは最初トムクルーズが出演する予定だった。運命は面白いものだ。自分が飛躍するキッカケは自分だけでは作れないものだ。それがわからずに、自分だけの力で成し遂げようとする人が多い。ご縁を大事にすることは、原点を大事にすることで、それは自分を大事にすることと同じことなのだ。
シザーハンズは自分にとっても思い出深い作品だ。菩薩としての生き方を教わった。主人公のエドワードと同じように、警察に関係したことも、今となっては予言だったのかと感じるくらいだ。改めて見てみると、自分の人生に起こったことと、とても似ていて他人事とは思えない。
参考までに過去に書いたシザーハンズ関連の記事をまとめておく。
菩薩シザーハンズ  http://ozeki.fa-fa.com/?eid=1308005
さて、いつも原点が大事だと話しているが、私の一つの原点である創業した会社が転機を迎えたと知った。創業メンバーだった方から連絡をいただいて知ったのだが、原点を大事にしてくれている人の存在は有り難い。自分が決めたサイバーエージェントへの売却という形から、また新たな道を選ぶ選択をしたというニュースだった。
当時を思い起こすと、会社の株を買いたいという話は4つほどあった。値段や条件でいえば、他にいい選択もあったのだが、短期的ではなく、長期的に今後も誰にとっても良いプロセスになると思ってサイバーへ売却という決断をした。何が本当に良かったかは、歴史が証明するのだろうが、現時点でも新たな道を選ぶことが出来たというだけで、よかったのではないかと感じている。
違う会社に売却していたら、会社自体がなくなっていた可能性が高いと思う。関わった人間たちにとっては、なくなるよりは元気でいてくれるだけで嬉しいことだ。実際に頑張って来られた関係者の努力の賜物だ。敬意を表したい。
ジョニーデップにとっての音楽と、私にとってのIT企業は似ていると感じている。私は沖縄で菩薩業に出会った。ジョニーが俳優業に出会ったように。沖縄に関わってから今までの数年で、シザーハンズを体験したのだ。代表作ができたようなものだ。
シザーハンズからジョニーデップが始まったように、私もこれからが菩薩としての始まりである。私にとってのティムバートン監督は、如来なのだ。沖縄で出会った人だ。
私が創業した会社は、名前を変えてvoyage groupとなっている。創業時はaxiv.comという名前だった。設立日は1999年10月8日。なぜこの日にしたかは、学生時代にお世話になっていた人の誕生日と元彼女の誕生日で忘れないと思ったからだった。もう一つ理由があるが、それは秘密にしておこう。
そして、後で知ったのだが、jobwebの創業日も同じ日だった。そして、その社長である佐藤氏の誕生日が、沖縄復帰の日なのだ。それが今日である。
40年目という節目の日に、自分にとっても節目となるニュースを聞いて、沖縄の将来をも重ねあわせたくなった。いつかはわからないが、近い将来沖縄は独自の道を歩むことになる。いま放送中のアニメ、エウレカセブンAOでは中途半端な独立状態の沖縄が今後どうなるのか楽しみなところだ。この時期にこのアニメが放映されていることも信号ではないだろうか。
台湾からの沖縄行きが、琉球行きと表示されているように、知らぬところ、気づかぬところで琉球という存在は増しているのだ。新たな歴史の始まりを感じる。
いずれにせよ、つきつめてみれば、問題の根源は、部分と全体の関係性の問題につながる。個人と社会。沖縄と日本。日本と世界。近代西洋が作り上げてきた世界の限界が見えてきたのだ。新たな道が光となる。その光は沖縄から始まると信じている。もちろん信じるだけではなく、新たな道のひな形を作っている。歴史の創造に参加したい方は沖縄に来られることをお勧めする。ビットバレーの時の渋谷のような場所が、いまの沖縄なのだから。

真の悪党とは

 綺麗ごとの世界を成り立たせたいのなら、どこかが悪を引き受けなければならない。悪を必要以上につぶして回ると、結局は自らのもとにそのつけは回ってくる。誰かしら汚れる役目が必要なのだ。正義のヒーローが成り立つには、悪役がいなければ始まらない。そのバランスが大事なことは、生態系という自然の教師に学べることだ。

衛生状態を気にしすぎて無菌にこだわり続ければ、免疫がなくなり結果として病気になってしまう。多少のばい菌は必要なのだ。また、消毒しすぎて、その消毒が効かなくなり、更に強い毒性を持つ場合だってある。過ぎたるは及ばざるがごとしの言葉通りだ。さらに言えば、細菌がいなければ、細菌がつないでいた連鎖の輪がなくなることになり、全体が崩壊してしまう。
その他にも、ブレーキだって遊びが必要なように、無意味と思われる余白が社会には必要だ。無意味だからそんなものはなくてもいいと切り捨てていけばいくほど、社会の余裕はなくなり、ぎすぎすしたものとなっていく。効率化だけを求める社会はそうなるしかない。
ITによって加速された経済が、多数から少数へと富を移転する動きをしている。絆を利益に変えてきた。そして、深く考えもせずにスピード優先で企業活動を邁進していると、回りまわって自分の首を絞めることになる。利益の極大化を推し進めるならば、スピードこそ命だ。だが、肉食動物だけでは生態系が成り立たないのは明白だ。草食動物が育つには時間がかかる。それを無視して、スピードを追い続ければ、すべてを刈りつくして自らのエサもなくなる。
世界を人と例えるならば、癌細胞は際限のない拡大を目指している会社だといえよう。しかし、成長期であれば、一見際限のない拡大をしていると同じように見える。正常な細胞なのか、癌細胞なのか、自分では判断つかないものだ。気付けばミイラ取りがミイラになるようなものだ。
悪党というものは、既存の秩序を脅かす存在だ。だからこそ叩かれやすい。しかし、その性格ゆえに、新しい秩序を作り出す芽が眠っている。実体世界からすれば、ITや金融、革命家などは悪党に見える。この悪党がそのまま秩序を崩壊させたとしたら、どんな秩序が待っているのか?それは今よりも幸福なのだろうか?次の世界をイメージできていないと、自分の行為が地獄への高速道路を作っていることになるかもしれないのだ。
そしてITによって加速された金融こそが、世界の秩序を破壊しつつある。その先には、持つものと、持たない者の二極化された世界だけが残って、持たない者は諦めと一瞬の楽しみだけを追い求める人生となる恐れがある。夢も希望もない社会だ。
夢や希望は、バーチャルの中にしかない世界ともいえる。ある意味完成された世界だ。しかし、そこにはドラマがなく、自分が主人公にはなれない世界だ。この病に対するワクチンは、悪党の中にあるのだ。ただの悪党で秩序を破壊するだけなのか?それとも、新しい秩序を創造する英雄になるのか?真の悪党とは、悪党に見えて実は正義の味方だったというのが面白いドラマではないだろうか。

イメージの力

 今日は言わずと知れた子供の日。端午の節句である。季節のイベントは歴史を重ねるごとに本来の意味が失われたり、別の意味を持ち始めたりすることが多い。今は子供の日ということが大きな意味を持っている。子供は未来の象徴だ。

そんな日にシンクロするかのように、未来の象徴ともいえる国内の商業原子炉50基がすべて停止する日でもある。原子力は核の平和利用の象徴でもあり、経済の根本を支えてきた電気の中心であった。一年前に誰がこんな事態が予想できただろうか?
そんな地上を照らし、物事をはっきりと明らかにするように天体ではスーパームーンと呼ばれるイベントが起きている。さらに、流星群もピークだという。この重なりは単なる偶然と普通は捉えるだろう。
時代が違えば、こうした信号は時代を象徴する出来事として捉えられていた。関係ないと言えば関係ない。一体この出来事はどんな意味を持つのか?ゲームとしても考えてみたらいい。世界は決して切り離されてはいない。目の前の出来事から自分へのヒントを探ることができる。
自分の中でこの信号はどんな物語となるのか?人は物語を聞きたいのだ。そして物語の主人公になりたがっている。例えば、起業したいと思っているとする。実際に起業したことがなければ、起業への心の抵抗は大きい。実際に、周囲で起業した人がいなければさらに遠い次元の話となる。主人公になることを諦めてしまう。
実際、自分たちが創業したときは、まだまだ若い人の起業は一般的でなかった。ビットバレーをやっていたときも、インターネット企業というものがまだまだイメージわかなかったので、そのイメージをつかみたくて、みな集まっていたのだ。
知ったり、体験すれば、身近に感じる。いまや起業は選択肢の一つになっている。そうなれば特別なことはなく、心の抵抗も少ない。イメージ持てるかどうかで行動も変わってくる。
いまの社会の問題は、次のイメージがないことだ。一体どんな社会がいいのか?原発ではないとしたらどうやってエネルギーを得るのか?IT革命、金融革命の次は一体なんなのか?
次の夢がないのだ。世界を変えようとするより、どうしたら一生安定した職場が探せるかや、好きなサッカー選手の応援のほうに興味がいってしまう。
自分が起業したときは、次世代のロールモデルになろうと思っていた。あんな生き方もあるんだとおもってもらえたらと。バイアウトなどした人はいなかった。何人かに、
「尾関さんの例を見てバイアウトを自分もしました」と言われたこともある。少しは貢献できたのだろう。
菩薩というロールモデルはそれよりもスケールが大きい貢献を目指している。IT革命の初期に感じた、歴史に参画するという意識を取り戻せると自負している。しかしながら、一人一人が主人公のこの世界で、自ら脇役になりたがる人ばかりなのだ。なんと勿体ない。
自分を主人公としたイメージが持てたとしたら、それが身近に感じられたとしたら、菩薩という生き方への抵抗も少なくなる。菩薩もあくまで方便だ。菩薩でなくてもいい。魂が燃えて使命感あふれる生き方であれば、どんな生き方もロールモデルになる。
自分たちが手掛けている仕事の責任の重さと、新たな世界を切り開いている喜びを感じている。誰にでもできる仕事ではない。そのために多くのものを賭けてきた。真剣に自らの使命を求めて、怠惰や常識と戦っている人間はそうはいない。こんなバカなことをしている人間はそうはいない。その少ないながらも、心の通じ合った同志がいるだけでどれほど幸せなことか。
もう既に新しい世界はここにある。そしてそれは進化し続ける。だから面白い。いつでも新鮮なのだ。なんでもすぐに飽きていた自分が飽きずにやっていることに、自分でも驚いているくらいだ。
自分だけじゃイメージできないからこそ、面白いイメージになる。自分で作った物語は予想できてつまらない。仲間とともに作った物語は予想を超えて面白くなる。
月を見ながら沖縄にて

回想

 6年前の今日、「今年は」というBlogを書いた。

「こうして諦めないで作っていった土台を元に、40代は世界貢献できるようになりたいなと思うようになりました。
今までは目標がないから、いくらでも成長できるとおもっていましたが、漸く、自分なりの理想像が見えてきた感じです。まずは、6年後が楽しみです!!」

あれから6年。自ら予言した6年後に本当に土台ができていて驚きだ。6年の間に、涙あり、戦いあり、笑いあり、色々あったから、根性が鍛えられた。もうすぐ先が見えるのではないかと葛藤を抱えながらも、なんとかここまでブレずに続けてきたことを誇りにおもう。共に求め続けて一緒に戦ってきた同志の存在が、今もとても頼もしい。
何があっても切れることのない信頼。必死でやってきたからこそ、ぶつかり合い、残ったメンバーも少数精鋭。いよいよ、守破離でいえば破の段階に来た。今まで学んできたモノを次のステージへと引き上げる時が来た。
間違える勇気が必要だ。正しいことだけでは前に進めない。時には間違えることで伝わることもある。真面目脳を超えて、正しさの枠から超えられない人の代わりに間違える勇気を。
こうしていたら間違いはないという枠組みから外れるのは勇気がいる。自分も今まで魂が感じることを学ぶために守ってきたやり方がある。そこにいたら安心だが、間違えたらどうしようという不安も常に伴う。
何もしても不安は尽きない。不安を希望に変えて、自分なりの道を表現する。
今が幸せじゃなければ、未来も幸せではない。完全な幸せなんかない。自分ただ一人の心の平安だけを求めているわけではない。共に感じたいからこそ、社会に働きかける。自分たちがやりたいことはまだまだ道途中だが、形にできる仲間と可能性の芽とイメージがある。
6年前に比べて進化している。6年前の言葉を読み、経験前だからこそ純粋な部分もある。
これからも諦めずに向かい続ける。
生存戦略しましょうか。by 輪るピングドラム

レッテルとブランド

常識的な人間ほど、肩書きやレッテルのイメージに左右されやすい。東大出てるから頭がいいとか、大企業の社長は立派だとか、本当は人によって違うのに、そうした偏見を持っている。本質を考えるより、レッテルを信じたほうが楽だ。矛盾したレッテルを貼られていても、それほど疑問に思わない。

自分は昔から天邪鬼だったので、何か裏があるのではないかと斜めにモノゴトを見ていた。受験の時も、まともに勉強するよりは、問題作成者の意図を探り、どういう答えを望んでいるのか?正解の答えから、どのように間違いを誘導する選択肢をつくるのか?などを考えていた。
株式相場の格言にも、「人の行く裏道に道あり花の山」とある。正攻法よりも裏口が気になるタイプなのだ。一昔前は裏口入学など話題になったが、そんなのは当たり前のようにあることだ。東大のような組織は裏口などあり得ないと思われている。しかし、権威がある組織は権力者にとっては非常に便利な道具だ。
はした金のためではなく、国のために使える人間であれば、権威付けにブランドを利用するのだ。その権威を利用するために、あえて入学させたり、あえて教授にさせたりするのだ。人はレッテルに弱いからだ。本来の実力とは関係なしに、あの人はスゴいというレッテル貼るために使うのだ。用意されたエリートコースを歩く人もいる。あやつり人形のようだ。
メディアはレッテル張りが得意だ。世論を誘導する力として、日々毎日目にし続ければ誰でも無意識に刷り込まれてしまう。最近報道されていた北朝鮮の件も、落ち着いて考えればあれほど騒ぐ話でもない。でも毎日その報道に接していたら、なんとなく危ない国家が近くにいるなーと刷り込まれていく。もっと危ない国家については何も触れない・・・。
ちなみに、鳩山さんは東京大学を出て、スタンフォード大学大学院をでている。普通に入学したのか、裏口なのかは知らない。真っ当だとして、そんないわゆる高学歴のインテリが、自分のしていることでどのような反応があるかわからないものだろうか?わかっているのだとしたら、なぜあえて問題を起こすような方法を選択しているのか?
沖縄の基地問題の時も、今回のイランの件も、最初は味方かと思わせるような発言をして話題を起こし、後で否定する。結局どちらの側からも、
「一体あんたはなんやねん」と思われ、どちらの側からも呆れられる。どちらの味方でもない発言を結局はしつつも、常にその発言は注目される。話題を提供し、話題の中心でいることはスゴいことだ。メディアに振り回されるのではなく、メディアを振り回している。これが本当に馬鹿にできることなのか?もし本当に馬鹿なら、その価値をわかってアドバイスしてる人がいるのではないか?いずれにしても、良い人そうであることには誰も異論がない。色々と考えさせられて面白い人なのだ。
鳩山さんと似ている人がアメリカにもいる。ブッシュ元大統領は、イェール大学を出て、ハーバード大学でMBAを取得している。これまたインテリだ。しかし、成績が悪かったとバレちゃっていて、誰も言わないが裏口だと思っているだろう。
しかし、中身はどうあれ、そうしたエリートコースを歩めるように用意できる環境がスゴいのだ。多少、あれ?とおもわれる素質でも、肩書きさえあれば本当はスゴいのかもと勘違いしてくれる。レッテルの効果がわかれば、それを逆に利用することで、イメージを操作できる。悪く使えばレッテルで、よく使えばブランドになる。
例えば銀座に出店してるお店というブランドは高級なイメージがある。一昔前のほうがその効果は高かった。銀座の価値が落ちたように、日本のあちこちで価値の破壊が起きている。
昔のイメージが破壊されることが多くなり、新しいブランドを必要としている世界が増えている。一体なにがスゴいのか?価値があるのかを証明しなければならない。それが出来なければ衰退していく。新しいイメージはすぐには受け入れがたい。投資と同じで、まだまだ未開拓だからこそ美味しいのだ。
馬鹿と思われてもやれる勇気。それを支える環境の価値。そうした世界があちこちに生まれつつ有る。やがてその受け皿が新たなブランドとなる。時代にあったブランドを生み出していくのは面白いことだ。ブランドは近い人間に信用されることから始まる。すべては目の前の人間に信じてもらうことからだ。

The way of every day and a bodhisattva