柱(はしら)

 素直さの話を前回書いた。素直を自分の都合の良いように捉えると、それは素直ではなく、単なるワガママとなる。悩み、苦しみ、本当にそうだろうか?と試行錯誤した上での判断は価値がある。どんな形になろうとも、そこから学ぶことは多い。

頭脳派の人間は、悩みすぎて逆に決断ができなくなる場合がある。直感派は、エゴからくる直感なのか、魂からくる直感なのかを慎重に見極めなければ、単なる気分屋にしか見えない。霊的な信号は、どのように捉えるべきか難しい。同じ信号でも、受け取る人間によって、全く正反対のことを告げているように見える。
視点の違いでそのようになるのだが、表から見るか、裏から見るか、横から見るか、上から見るか、下から見るか、で変わってくる。だからこそ、柱が必要となる。一つの基準がなければ判断がつかないのだ。それが、原点だ。原点を大事にすることで柱ができる。
人間関係においてはどんな答えも、その時は正しくても、いつもそれが正しいとも限らない。同じ時はない。同じ答えもないのだ。常に一期一会で、金輪際で、二度はない。だからこそ、その時というのが二度とないかけがえのないものとして大事になる。その時を大事にしないから、次があると思うのだ。
真剣であればあるほど、やるかやらないか、言うか言わないか、などの選択の判断は難しくなってくる。真剣だからこそ、二度とない時を大切にするからこそ、時と場所を選ぶのだ。常に矛盾する選択肢も同時に無ければ判断できない。
関わるというのは責任が伴うのだ。簡単に責任は負えるものではない。覚悟と器が問われる。人間力がなければ背負うことはできない。だから柱がある人間にしか責任は取れないのだ。言うは易し行うは難しである。
選択する前から選択後の保証を先に求めていたら、その時を生きることはできない。落とし所を探っていたら、真剣にはなれない。ただ普通に生きるだけなら、ここで書いていることはかえって有害だ。変人かもしくは馬鹿扱いされるだろう。世間の常識と反しているからだ。
普通の世界では、例えば給料は決まってから働くものとなる。だが、革命的なことはそんな考えでは限界が来る。自分がやりたくてコミットするのが先で、その後に何がついてくるかはわからない世界に賭けるからこそ、周囲も感動するのだ。見えない選択をするには、柱と信じる心が必要になる。
ほとんどの人間は都合のいい所取りをしたいのだ。しかしそれは無理なのだ。真剣になれない人間に本当の喜びは得られないし、チャンスもない。一生懸命だからこそ、諦めないからこそ、神は微笑むのだ。信じられない人間には信じた人間だけが見える世界は見えないのだ。
リスクがなければリターンもない。
あなたには、「白うさぎ」が見えているか?

素直に子供のように

 歳を重ねるごとに、経験も因縁も積み重なり、モノゴトに対して素直に受け取れなくなってくる。「そうはいっても、何々だ」と文句の一つを無意識につけてしまう。エゴがジャマをすることで、モノゴトの本質を感じづらくさせてしまう。

勿体無いことだ。過去がどうあれ、本当に素晴らしいモノは素晴らしい。それは意見だろうと提案だろうと、そのことだけを切り離して理性で捉えられているだろうか?誰が言ったからということに左右されてしまうのが現実だ。
人間は露骨だ。認めている人間に言われたら納得するが、認めていない人間に言われたら、
「お前に言われたくない」となる。その露骨さを認めた上で、モノゴトの価値を見極めようと謙虚に素直に考えてみる。
因縁関係であれば、余計に素直にはなれない。だからこそ、素直に分かり合えたときは誰よりも喜びを共感できるのだ。伝わりにくいからこそ、伝わった時の喜びは計り知れない。どんなモノを手に入れるよりも、自分が何かを成し遂げた時よりも、想いが伝わった時の喜び共感、幸福感は代えがたいものが有る。
因縁関係は本当に学びが大きい。因縁に対して素直になることが一番難しい。他人だったら冷静に捉えられるのだが、因縁だからこそ逆に捉えてしまう。良い提案も悪く感じるし、悪いほうがよく見えたりする。だからこそ、人は因縁で道を間違えるし、また逆に因縁で救われるのだ。
時代の潮目を感じる。ただ素直になるだけで道は開ける。今までやってきたからとか、捨てられない自分の小さなプライドなんか投げ捨てて、素直に光を求めたらいい。ゼロベースで今こそ、仕事も環境も何もかも考えてみたらいい時期だ。
311のように、否応なくゼロベースにされることもある。無理やりされるよりも、自発的に向かったほうが話は早い。今までの延長線で生きるのは楽だ。しかしドンドンと行き詰まる。北朝鮮のように、行き詰まって突っ走るしかないのは、本人も周囲も辛いことだ。
まずは意識からしか変わらない。意識が変われば、すべて変わる。自分一人素直になるだけで、波及効果は計り知れない。悔しいとか、ムカつくとか、認めたくないとか、様々な感情が理性を曇らせる。
素直にモノゴトを観るには、理性を働かせるには、感情は感謝の気持ちであればいい。感謝していれば、素直に受け取れる。自分が濁っていたら、他人も濁って見える。自分が感謝で澄み切っていれば、モノゴトの価値を見抜ける。
そもそもの原点を振り返り、今までの経緯を確認し、今があるのもそうしたことのお陰だと感謝できれば、モノゴトは自然にうまく回り出す。焦って、自我で何とかしようとすればするほど、悪循環になる。
素直にイイものはいい。本質を見抜ける目こそ、先がわからない時代に唯一確かな指針となる。
流行や現状に流されるのではなく、本質を掴んでいれば、必ず機会は訪れる。その時に、勇気を出して飛び込むのだ。人生は冒険。燃えて生きなければ面白くない!

オズ:はじまりの戦い

後に続く物語にも最初のキッカケの話がある。今回、ディズニーはオズの魔法使いのはじまりの物語を創りだした。国造りのキッカケだ。原題は、「Oz: The Great and Powerful」で、主人公のオズ役は、スパイダーマンのハリー・オズボーン役をした、ジェームズ・フランコ。

個人的には好きな俳優だ。勉強好きで有名な役者だ。この映画、オープニングから万物を見通す目が出てくる。いわゆるピラミッド・アイだ。フリーメーソンのシンボルとして有名で、一ドル札にも描かれている。ちなみに、右目が絶対神ヤハウェの目で、左目が堕天使ルシファーの目と言われている。陰と陽だ。どちらかの目がでているか、ご自分の目で確認されたらいい。影絵の中にも今後の未来を予言している部分があるので遊び心で発見してもらいたい。
元々の原作者も神智学協会で開眼したと言われている。そこで霊感に目覚め、「オズの魔法使い」を書き上げた。この世とあの世の構造は、千と千尋の神隠しと同じだ。似ているところが多々ある。構造は同じだから当たり前だが。今回の映画では、白黒がこの世。カラーがあの世、または特別な世界となっている。日常と非日常でもいい。
因縁の流れで非日常へと誘われる。因縁付けから後に続く禍根となる。因縁を学ぶためにも面白い映画だ。羽の生えた猿はなにの象徴か?
原作でも、知恵と心と勇気がない象徴が、カカシとブリキとライオンで表されていた。原作もこの機会にもう一度みたら面白いだろう。見方が変われば、全く違う映画になる。
まだ公開したばかりであることだし、細かいことを書くのは野暮だろう。我々の邦創りとシンクロしていることが多々あった。邦作りの基礎は、愛と信頼が始まる。基礎のない建物はすぐに壊れる。簡単に基礎はできない。基礎ができてしまえば、あとは楽だ。やっと自分たちも建物を立てられる状態まで来た。あとは一気に加速できる。
新ローマ法王が誕生した時期に合わせて公開は偶然か?意図的か?

この映画は男向けのおとぎ話だ。邦作りに燃える男に観て貰いたい。

初心忘るべからず

物事は表面と裏面、両方を見ることで本質が見えてくる。得てして、裏側のほうが深い。内面と言った方が適切かもしれない。表面では、ただの笑顔でも、内面は葛藤や切なさ、期待と絶望など入り交じっているかもしれない。

わからないからこそ、そうした内面の深さを美しく表現した文章に出会うと惚れ惚れする。
「よくぞこの複雑な心持ちを現してくれた」と拍手喝采したい気になる。日本語は美しい。その文化の中で発達してきた、俳句のような簡潔な表現に込められた想いを汲み取る力を養いたい。
どんな道でも、道を究めた者同士であれば、あうんの呼吸で伝わる。能の創始者、観阿弥親子が道を極める段階について「守破離」と説明した事をいつも思い出す。
■「守」師匠についてひたすら教えを守り、学ぶ時期。形が大事。
■「破」教えられた言葉から抜け出し、真意を探り、形の意味を知り形ができる。
■「離」型に一切とらわれず、自在の境地に入ること。形の共創造。一人でではない。
類は友を呼ぶという。そこに安住していたら成長はない。違う世界と混じり、新たな類との出会いによって、世界は広がる。違う世界と触れれば、不安や違和感を呼び起こされる。そこに自分の内面が鏡のように反射される。
この、守破離も簡単に書いたが、実際は深い意味が隠されている。求める心が深ければ、更に先人がどんな想いでこの言葉に行き着いたのかがわかる。元々は能の「序破急」から来ているという。ここですぐにエヴァンゲリオンを連想する人が多いのではないだろうか。こういうところがマニア受けするゆえんだ。
仏教用語にも守破離は出てくる。解脱を意味していたり、菩薩の道を極めるには勉強になる。どこまで意識を高く持つかで、満足したらそこでオシマイだ。かえって、現代人より過去の人たちのほうが教養もあり、意識も高いのではと思うこともある。
現代人だからこそできることもある。進化は決して時間の流れに沿って進歩し続けているわけではない。人間性という点で、人類は未だに争いあっている動物なのだ。折角この世に生まれてきたのだから、真剣に生きた人間たちの軌跡に触れ、自らもその足跡を残す一員たろうではないか。
能だけをみても、もう何百年と未だに続いている。ビジネスとして考えても大したものではないか。一過性の消えてしまう泡を追い求めるよりは、後世に価値あるものを残したいのが真情だ。
ある人は、「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人といった。そして、それぞれが実は手本となる。教えることで学び、学ぶことで教える。共に信頼がなければ始まらない。道を極めたいと思ったら、生活のためという視点から離れなければならない。
生活のために囚われたら、ドンドンと視点は低くなり、そもそもなぜやっていたのかすらわからなくなる。魔界入りだ。いつも初心に帰り、心の立ち位置を確認する。そうしたキッカケに自分はこのBlogを活用している。

「初心忘るべからず」世阿弥の言葉だ。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

この言葉の意味も深い。皆が思っているような内容ではない。本来の意味を知れば、この初心の言葉の持つ意味が迫ってくる。道を極めたものだからこその意識なのか、原点への想いをいつも持てたからこそ道を極められたのか、鶏が先か卵が先か、面白いところだ。
最後にこの言葉で終わりたい。能の部分を想いに変えて自分は意識している。

「命には終りあり、能には果てあるべからず」(世阿弥「花鏡」)

「命には終りあり、想いには果てあるべからず」

想いの連鎖

 予期していなかったが、逮捕される前に書いた記事で、恐らく一番読まれた「人間の価値」というエントリーがある。結果として2011年6月の書き込みはこの記事だけだったので、自分にとっては意味深い数字を持った記事となった。後々、読み返してみて、内容もタイムリーでシンクロしていたなと感慨深い。事件当時、コメントが殺到したが、中にこんなコメントがあった。

もし、尾関さんを守るために頭数か必要だったり、自分が役に立てるならいつでも呼んでください。

ほとんどの人間は匿名でコメントしている中、実名で堂々と応援のコメントをくれた。勇気と覚悟のある人間にしかこんなことは出来ない。言うは易し、行うは難しだ。彼はコメントに書いてくれた通り、有言実行してくれた。自分の仕事よりも、自分たちを助けるために仕事も一緒にやってくれて、最大限の協力と参加をしてくれている。

こうした想いのある人間に囲まれていることが一番の幸せだ。かといって、狭い世界で仲良しこよしをしている訳ではない。想いがあるからこそ、それを欺瞞にしないために、逃げることなくぶつかれる仲間の有り難みがある。ぶつかり合う事でしか、人は磨かれない。想いがない人間とはぶつかる事も出来ない。適当なことを言って逃げるだけだ。

真剣になればなるほど、大事なことは、頭の良さや器用なことよりも、想いを感じる人間であるかどうかだとわかってくる。いわゆる、頭のいい人間ほど、目先のことにとらわれて、本当に大事なことを見失いやすい。信頼や愛といったものを。

見えない大事なもの以外でも、見える経済的なことももちろん大事だ。それについても、投資のことや沖縄の価値を伝えることで、価値あるものを残したいのなら、沖縄でやったほうがいいと伝えてきた。

地震も放射能もない、暮らしやすい土地というだけでなく、地元の人が経済活動にあまり興味がないゆえに(笑)ビジネスチャンスで満ちている。勿体ないことだらけである。今後、人口も増えていて、土地もあがっていて、米軍再編に絡み、いい土地がドンドン出てくる沖縄が発展しないわけがない。観光客は、今まで高い航空券であっても600万人もきていたのだ。格安航空会社のLCC参入で更に来県数は加速する。

そうした経済的な事に惹かれて、今後関わる人間は増えてくる。しかし、そうではない時から、経済的なメリットではなく、「想い」で繋がってきた人間の価値は計り知れない。
冒頭に載せた曼荼羅。これは6人の仲間が11日間昼間は仕事をしながら、徹夜で作り上げた作品だ。自分の想いに対して、彼らの想いを込めて応えてくれたものだ。実物を見ると、その細かさに驚かされる。形や数に想いを込めて制作している。お金で買う事は出来ない。その想いを感じ、更に想いを込めた行動で繋げていく。「想い」に、「想い」で返していく。
お金で返す事は容易い。想いで返すのは大変だ。大変だからこそ、誰にとっても価値がある。生活のためといった変な欲が絡まないからこそ、その体験を、その想いを純粋に味わえる。想いを感じた事のない人間にはわからない世界だ。
そういう人間は、かつて人間たちが神々に感謝を捧げて、儀式や芸術を奉納してきた気持ちなどわからない。想いがわからない人間は、感謝の気持ちを表現されても、
「そんなものより、お金の方がよかったな」と相手の想いを切り捨てる事だろう。
例え切り捨てられても、いつか亡くなったとしても、想いは残る。相手がどう思おうと、それは大した問題ではない。想いを感じる人間がいれば、いつでもその想いは蘇る。想いを感じる事の出来る、想いのある人間にしか世界は創れないのだ。我々は誇りを持って世界を創っている。その証拠の一つがこの曼荼羅なのだ。
311の日に記す

学ぶ心深ければ師は姿を現す

また226の日がやってきた。想いがあっても、それだけではうまくいかない。だが、想いがなければ虚しいモノになる。後の世にも残るモノは、想いがある物事だけだ。

前回「彩り」と書いたタイトル通り、色とりどりの反応があって面白い。タイトルの狙い通りだ。愛の反対は無関心。書き込んでくれるという事は、関心があるという事だ。愛憎は表裏一体。有り難い事だ。無視できない存在になっていかねばならない。

心配は「心配という名の支配」に繋がりやすい。良い事をしようとして、結果悪くなる事が多いのも特徴だ。これは因縁に多い。結果、良かれと思ってやったことで、足を引っ張る効果になる。また因縁は素直に応援できないことが多い。

会社を売るときも心配されたことを思い出す。普通に考えたら、自分で作った会社なんだし、そのままやる方が楽だし、心配もない。経済的な事だけを考えたら、そのままITビジネスをやっていた方が儲かっただろう。

しかし、経済的に成功した人々をたくさん見る機会に恵まれ、そんな人たちも家族の問題で悩んでいたりしていて、幸せそうには見えなかった。また、ビジネスは得意かもしれないけど、世界観に惹かれるものはあまりなかった。

虚業と実業の違いはなんだろうか?知らない世界を知りたくて、色んな世界の人と繋がった。その頃出会った人たちも、今や同じ状況の人はほとんどいない。人間万事塞翁が馬だ。何か幸か不幸か、終わってみるまでは何とも言えない。優秀とは思えても、偉大とは思えない。

人生が終わったとして、その生きた証が後世にどうみられていくのか?226事件でさえも、77年経ってもまだ変わっていくだろう。大きな事件でなくても、子孫にどういう人だと語られるのか?それとも忘れ去られていくのか。

本当に価値あるものごとはなんだろうか?それを探し求めてきた。それがやっと、沖縄で気がつけた。経済を捨てている訳ではない。潜水艦のように見えないところでやっているだけだ。沈黙の艦隊のように、見えないからこそ出来る仕組みを知っただけだ。かつてと同じ事をしても面白くない。

インターネットビジネスでは、大衆にアピールした方が価値を生む。しかし、世界の大衆にアピールする事が出来ないから、自分は見切りを付けたのだ。そこはアメリカにしっかりと握られている。世界で勝負するには、経済の世界だけでは通用しない。いくらでも政治でやられてしまう。

ブランドビジネスも然りだ。文化の殿堂は、ヨーロッパに握られている。世界の構造を知らなければ勝負も出来ない。現実、歴史で積み重ねられたモノを一朝一夕で変える事は出来ない。また無理にかえる必要もない。

大きな流れの中で、どこまで視点高くしてこの世のゲームを楽しむ事が出来るか?ただのほら吹きか、詐欺師か、黒幕気取りか(笑)、そのうちわかることだ。

北朝鮮はなぜ核実験を行ったか?またそのことで何が明らかになったか?
地震は何の信号か?
自分なりの世界観があるだろうか?

この世は決定論で動いているのだ。偶然でさえも考慮のうちだ。カジノでは、誰が勝とうが負けようが自由だ。仕組みとして胴元は儲かるようになっているのだから、細かく見る必要もない。儲かる事は決定されている。もっと深い事を考えて、ただ儲ける為だけにカジノを作るのだろうか?カジノを作る事で、一石三鳥は何だろうか?

世界観を持っている人間は何を大事にしているだろうか?価値ある人間とは?繋がりたいと思う人間とは?類は友を呼ぶ。真剣に目の前の繋がりに向かうコトなしに、先はない。チャンスとピンチはいつも裏表だ。覚悟のない人間は真剣になれない。覚悟している気になっている人は、いざというときに真剣でないことがわかる。

半端な覚悟、半端な真剣は、いっけん文句をつけようがない。だから大衆には受けがいい。真剣だから問題が起きる。問題が起きるから学べて進化できる。葛藤や苦しみが生まれるからこそ、価値ある問題となる。価値のない問題を解く事に一生を終える人もいる。

目線が下の人にあわせたら、どんどん目線が下がっていく。下にあわせず、上にあわせるのだ。下にあわせる方が簡単だ。上を向き続けるのは楽ではない。大衆ではなく、真剣な人間の目線を求めるのだ。

どんな道も楽ではない。深める、考えるという一番大変なことから逃げて楽して掴めるものはない。もがき苦しんだ分だけ身になる。

言うだけは簡単だが、言った言葉の責任は取らなければならない。責任は簡単に取れるものではない。必死になって向かう事で、どんな道もやっと開くのだ。

文句を言えるのはまだまだ余裕がある証拠だ。自分だけで必死になるのは難しい。だから人生は面白い。

彩り

人はすぐに白黒つけたがる。それは良いとか悪いとか。ハッキリさせないと気持ちが悪いのだ。頭の弱点でもある。幼児脳だ。ハリウッド映画はわかりやすい。だから理解されやすい反面、子供向けとも言える。

「攻めろ」と「守れ」を同時に言われたら混乱するだろう。が、その葛藤の中に答えがある。
「一体どっちなんだー??」という悩みの中からしか、価値ある体験とはならない。答えがないともいえるし、両方とも答えとも言える。

答えをすぐに求めるから、ハッキリさせたがるのだ。ハッキリさせたがる自分との戦いだ。本当に大事な事は時間がかかる。実が出来るまでは熟する必要がある。

答えが大事なのではなく、プロセスの中に意味がある。プロセス、経過が大事とはよく言われる事だが、大抵の場合、結果を出す為に経過が大事と捉えている。

結果の為ではない。例えば起業したとして、起業を成功させる為にプロセスを大事と捉えると、折角体験できることが半分以下になる。結果に邪魔となる事は体験しないでおこうとなるからだ。

ネガティブに感じた事も、結果を優先するならば無理矢理ポジティブにしかねない。無理してどこかにひずみが生じる。結果にこだわらないのだが、その前提の上で結果にコダワルことができたら高度だ。

プロセスの中、感じた事で自分が見える。そうしたら、別に起業じゃなくても他の道に気がつけるかもしれない。人生一度しかない。どうせだったら、色んな体験出来た方が幸せだ。

同じ仕事ばかりしていてもいいが、そういう人はこのBlogを読んではいない。いっけん同じ仕事に見えても、進化していれば外見は同じでも全く違う仕事となる。形式的な事を言っている訳ではないからだ。

自分と縁がある人は、菩薩志向があるのだ。菩薩の道も色々だ。どんな仕事でも菩薩道を歩く事は出来る。今の仕事でも菩薩的視点で取り組めば、全く違う仕事となる。

お寺に行くと、様々な仏像がいる。仏像の数だけ役目がある。自分の役目を全うできるか?そもそも自分の役目がわかっているか?ハッキリわかっていると言えるならば、それは自分で限界を作っている。

かといって、強い信念がなければ人には通じない。強すぎてもエゴになる。進化に終わりはない。答えは常に変化する。決めつけたら終わりだ。楽をしては、その瞬間から後退を始める。

世界は広大だ。人が一生かけたところでわかる事はたかが知れている。しかし、一瞬で世界がわかる事もある。その一瞬を求めて人は歩き続ける。

毎日違う自分であっていい。ぶつかり合って、協力し合って、カラフルな色を表現し輝くんだ。色んな色を楽しみながら。

物語のはじめ

建国記念日だ。また旧正月も迎えた。そもそも建国記念日とは何だろうか?国の原点を考えるキッカケにしてもいい。権威と権力の成り立ち。人が人を統治する縮図としての企業にも活かす事が出来る。

オランダのベアトリクス女王の退位が発表された。なぜこの時期に?彼女の父親は、ドイツ人で国際ロータリーやWWFの設立に関わり初代総裁である。そして、彼の働きかけでビルダーバーグ会議が始まった。

毎年行われているが、唯一中止になったのは、彼自身がロッキード事件に巻き込まれた時だけだ。そしてその娘の退位が発表されたこの時期に、ボーイング787の事故があり面白い。本当に事故だったのだろうか?ロッキードは関係していないだろうか?

関係あるのか?ないのか?あるんだとしたらどういう関係?ただのゴシップを超えて、発想を飛ばせるか?あり得ないと思う事で世界は満ちている。日本の中の常識の方が世界の中ではあり得ない。

自分の場合も、よく色んなことと関連づけて報道される。毎回、忘れた頃に報道してくれるお陰で、ただで宣伝してくれているようなものだ。

悪名は無名に勝るという。心理的には、最初悪印象の方が、後で好印象に変わりやすい。真実は予想外な事のほうが面白い。どうせなら、世界の流れに関わっていく方が面白い。日本はまだまだ鎖国状態だ。たった100万人しか海外に住んでいない。

海外に行くと、日本語が通じるのが、ブランドショップと夜の遊び場ばかりだ。帝国歴が長いイギリスは統治も洗練している。実際歴史を見ると、結構えぐい事をしているのにも関わらず、植民地国から尊敬されていたり、文化的な影響を受けていたりと、悪い関係になっているのは少ない。

それに比べて、未だに日本は悪く言われがちだ。良い事もしていても、それをアピールするのも下手だし、それより悪い事の方が目についてしまう。

外国に出て行けば良いという簡単なものでもない。出て行ったとしても、魂がなければ馬鹿にされるだけだ。建国の由来も知らず、先祖の想いも知らず、ただ受け身に生きているだけでは、ゾンビのようなものだ。そんな奴は誰も相手にしたくない。

語るべき物語を持っているだろうか?経済の話ししか出来ない、つまらない人間など世界で通用しない。素直でいい人だけでは、子供の世界だけでしか通用しない。

気付いた人間はいつの時代も少ない。日本という小さい世界だけを相手にしていてもしょうがないのだ。世界は広いし、可能性に満ちている。

語るべき物語をスタートしてから飛び込むのだ。物語の始めとして、これ以上ない場所が沖縄であるのは言うまでもない事だ。

支配者の視点

紋章の話しで前回は終わったが、日本の家紋から影響を受けてルイヴィトンの模様は生まれたと言われている。ルイヴィトンが中核であるLVMHは今やブランド帝国として君臨している。ファッションからお酒、デューティーフリーまで幅広い事業を展開している。帝国を築いたのは、元々不動産開発をしていたベルナールアルノー氏であるが、実はその帝国の基礎は他人が築いたものだ。

彼はNYのタクシー運転手との会話で、フランスで有名なのは大統領でもなく、クリスチャンディオールだと気がついたところから始まったと言っている。気がついたとしても、不動産開発を仕事としていた人間が、ファッションビジネスを手がけることは普通ではない。普通ではない選択をするからこそチャンスは訪れる。

人生は連続しているが、中身は非連続していることがある。まるで別人のようになったりするのだ。最近では橋下氏がそうだ。外から見たら一つの物語でも、演出や監督、俳優が途中で変わっていることがあり、そのほうが面白い物語になることがある。現実をまるで映画のように捉えている人たちがいる。シナリオが決まっていて、出演者も演出も決まっているとしたら?

映画の中で俳優がある役を演じる。誰もそれが彼の本当の姿とは思わない。では映画の中ではなく、実社会では誰もが本当の姿を見せているだろうか?人に限らず、国でも会社でも、表と裏があるのが普通だ。表裏がないのだとしたら、底が浅いだけだ。

どうして今ある国民国家というものが生まれたのか?昔から国はあるように見えるが、実態は全然違う。国民国家というものが誕生してから愛国心が生まれた。愛国心を生む為に、国家が生まれたとも言える。昔、戦争は傭兵が行うものだった。

戦国時代、信長はなぜ弱小国から天下人になれたのか?人間50年とうたっていた通りに、まるで計算されたかのように50歳を目前にして死んだ事になっている。本当に死んだのだろうか?確定論で動いていて、表での人生を50歳までと既に決めていたとしたら?

死体が見つからないと言えば、ヒトラーもそうだ。本当に死んだのだろうか?ヒトラーの第三帝国はオカルトでも人気の話題だ。映画のモチーフにもよく使われている。それだけの根拠があるからではないだろうか?ヒトラーを知りたければ、ヒムラーを知らなければ始まらない。同じように、ナチスを知りたければ、前身であるトゥーレ協会がわからないと見えてこない。

信長に話しを戻そう。信長と言えば、南蛮風の鎧やマント、鉄砲のイメージが強い。簡単に言えば、ヨーロッパの進んだテクノロジーと考え方を受け入れたから、あれだけ短期間に躍進できたのだ。刀の時代に鉄砲を出されたら無敵だ。進んだ思考パターンに触れて、こんな小さい国で争っていては、とても欧州にはかなうわけがないと悟ったことだろう。信長が海外のエージェントだとしたら?安土城はそうした知識の博覧会場だったのだ。だから残しては置けなかった。

昔からこの国は舶来品、海外に弱いのだ。特に白人には弱い。精神的にもう既に奴隷なのだ。それで幸せなのだからそれだけだ。良い悪いの話しでもない。ただ、主人の都合で振り回されるだけだ。奴隷とはそういうものだ。

目の前の事に振り回されていては何も見えない。沖縄戦のとき、アメリカ軍はペリーが測量した地図を参考にしたのだ。レベルが違う。明治維新のときには既に、多国籍企業が誕生していて、国家創造をプロデュースしていたのだから、日本が最初からかなうわけがない。

戦後、A級戦犯たちがみな実力者になった。これがどういう意味か深めてみたらわかるだろうか?日本はもうとっくに終わっている。それに気がつかないように巧妙に支配されているだけだ。戦後60年はA級戦犯たちがエージェントとして仕切る時代だった。いまは違う人間たちが仕切る時代になってきている。その仕組みがわからなければ、振り回されるだけだ。

単純に言っても、日本はアメリカとの関係は欠かせない。そのアメリカと一番近い場所はどこか?世界的に沖縄はなぜ有名か?それは最大のアメリカ軍基地があるからだ。本当に何かしたいのであれば、アメリカを無視する事はできない。外国との繋がりで、この国は昔から変わってきたのだ。現代における出島はどこか?現代の薩摩、長州はどこなのか?

なぜLVMHのアルノー氏はベルギーに国籍を移そうとしているのか?なぜベルギーに重要な国際機関が集まっているのか?疑問に思えば面白いことで世界は満ちている。ブランドから国家まで、同じようなやり方で動いている。

ああ無情!に見えるからこそ価値がある

  横手志麻さんが事故のニュースにはビックリした。何度も会った事もあるし、沼津で花火大会で一緒の時もあった。旦那さんも知っているので、丸っきりの他人事と思えない感じだ。亡くなった方と自分が同じ年というのもあり、これも信号だと深めていくと見えたことがある。

それは今回書かないが、こうした事件の場合、加害者は全面自粛するしか道がなくなるのが日本だ。本来は加害者だからこそ出来る事もあるだろうし、被害者の分まで生きる為にも、事件から逃げない方がいいはずだ。でも、そうすると、事件を売り物にしているとか言われてしまう。

理性よりも感情が優先される。加害者を減らす意味で、当事者の言葉というのは重いが、それよりは被害者への感情が配慮される。未来へと活かすことが悪いような気がしてくる。本来は当事者同士の関係で決まる事だ。実際にどうだったか、当事者にしかわからない。

でも、生け贄となることで社会に材料を提供し、未来へと活かす事が出来る。ただの好奇心から来るゴシップにするのでは意味がない。

「なぜチノパンは逮捕されないのか?」という記事を見た。本人が有名だからとか、父親や配偶者が実力者だから、逮捕されないのではないかというような憶測記事だ。

逆に自分の場合は、配偶者が有名だったから逮捕されたと同情された。面白いと感じないか?かたや、本人が有名だから逮捕されないと言われ、かたや有名な人が配偶者だから見せしめで狙われて逮捕されたという。一方は被害者がいる事件。自分は被害者がいない事件。

証拠隠滅の恐れがないから逮捕されないという。自分の場合は被害者もいなくて、関係者は既に逮捕済みで、関係ない自宅の私物もあれこれ持ち去った後で、自分だけ10日以上遅れて逮捕。しかも事件に協力するために出頭する日時を約束していたのを、先方の都合で変えられて、それでも出かけた警察署で、話しも聞かずにいきなり逮捕だった。

警察を非難したいわけではない。逮捕という事実だけみていては見逃してしまうことがある。なぜ逮捕したのか?という、その心がわからなければ、
「事件とかけて、逮捕と解く」の解くを間違えてしまう。逮捕ということを日本人は重く捉えている。だからこそ、大衆はそれを恐れて法を守ろうとする意識が強い。治安の面では有効だ。だからといって、いつまでも恐れの意識だけでは成熟社会にはなれない。かといって、社会は幼稚な人間で満ちているのも事実だ。本質では体罰問題と似ている。

ケースバイケースが本当だ。でもそんなのは面倒だし、手間もかかる。多少間違いがあっても誤差の範囲内というのも必要だ。そうした現実的なこともわからなければ、理想論になってしまう。まただから生け贄というのもが必要になってくる。

逮捕されている人間は反社会的な人間だと思われて、関わるだけで損をしてしまうと思ってしまうのが、普通の人々の性(さが)だ。だから当時は、私に役員を辞任してくれとか、投資を引きあげてくれという話しがあった。

当時はそうした動きに怒りや悲しみを感じたが、今となってはそれが人間らしいなと思うようになった。そうした感覚だからこそ、普通に仕事ができるのだ。原点を大事にし、想いで動く人間は少ないからこそ、価値がある。それを相手に求めるほうがコクというものだ。少ないから良いのだ。皆がそうだと社会も困ってしまう(笑)

今となっては自分は逮捕されて本当によかった。鍛えられたし、今まで会う事もなかった人々と話す事が出来た。こうしてネタにすることもできる(笑)貴重な経験のオンパレードだ。取り調べなどでも、検察や警察の違いもあって非常に興味深い内幕がみれた。逆に警察に同情したくらいだ。私が接した警察官は良識的な人が多かったのも感じた。

妹の子供の為にパン一つ盗んだだけで20年投獄された、ジャン=バルジャン。レ・ミゼラブルの映画がいま上映されている。最近Blogのコメントに、ジャン=バルジャンの名前で、ミスチルの「過去と未来と交信する男」の歌詞が投稿された。面白い歌詞だ。また、微罪で人生を台無しにされた男の名前で投稿しているのが面白い。彼は最後には栄光に包まれた。終わりよければすべて良しだ。ひどい経験をしたからこそ、魂が磨かれたとも言える。

この映画を観た人は、フリーメーソンのマークに気がついただろうか?堂々と出されていた。さて何のためか考えてみると面白い。フランス革命にフリーメーソンの関与をアピールしたいだけだろうか?フリーメーソン的な思考を理解すれば、なぜ逆に自分が逮捕されなければならなかったのかも見えてくる。

「逮捕=悪い」という理解だけでは一面的だ。浅すぎる。そうした仕組みを通して伝えられる事がある。あえて起こして将来に活かす事も出来る。本人や当事者たちもわからない意図というものもあるのだ。

それを神の見えざる手という。神的な視点が普通の人はわからない。善も悪もない超越した視点。普通の人にはジャン・バルジャンの人生は試練の連続で、神なんていないのではないかと呪うだろう。

でも、試練が必ず活かされると霊をみて見抜いていたとしたら?もっと言えば、見抜いていなくてもいい。同じような試練を何千人にも与えたら、確率の問題で乗り越える人が出るとわかっていて、あえて無情なことをしていたとしたら?

たった一人の魂の輝きを生む為に、数千人、数万人犠牲になったとしても、それ以上の価値を生む事がわかっていたとしたら?頭で理解できたとしても、果たして実際に決断ができるだろうか?レ・ミゼラブル(悲惨な人々)を生む事が愛があることだとしたら?

マーク、象徴というものは、その真意がわかる人が見なければ、全く意味が分からないものだ。わかる人にはわかる。だから堂々と出す。ある思考パターンを象徴する物として、記号やイメージはある。フリーメーソンはそのわかりやすい象徴の一つだ。コンパス、定規、そしてピラミッドに世界を見通す目。

紋章も象徴の一つだ。なぜ政府の記者発表の演壇には、五七桐花の紋章がかかげられているのか?なぜ十六八重表菊の紋章ではないのか?

日本政府とかけて、桐紋章と解く。その心は?

このお題が解けるだろうか?
そして、最後にこの話しをもってきた意味も。

The way of every day and a bodhisattva