菩薩シザーハンズ
映画「シザーハンズ」は我々の世界すべてが表現されている。
如来、菩薩、菩薩道を歩もうとする人間、大衆、悪霊、ユタ。
シザーハンズでいえば、お城に住んでいた博士が「如来」である。博士は一見「手がハサミ」という化け物を作ったマッドサイエンティストのようにも見える。しかし、映画のなかをよく観察すると、可愛らしい暖かい機械たちが、ハート形のクッキーを焼いていたのがわかる。心優しいからそういう形の機械とハートのクッキーを作るのだ。
広大なお城に一人で住んでいて寂しいように感じるが、本人の博士自身は微笑んでいて楽しそうでもある。
またあれほどのお城を持っているのだから、経済的にも成功しているし、博士が死んだ後も、その城は治外法権のように残されている。エドワードがジムを殺しても、警察は立ち入らなかったし、その後もエドワードは住み続けた。
体制に守られているともいえる。特別な地域として残されている神社仏閣のようなものの象徴でもある。
神社仏閣といえば、シャーマン(巫女、またはユタ)も映画には登場している。彼女は最初からエドワードを悪魔の使いとみなしていたが、彼女自身も世の中では浮いた存在だ。
彼女のような人間も、社会には必ず存在するという信号だ。彼女のような感じやすい霊感の持ち主は、どこの社会にもいて、ある一定のパワーを超えた人をみると、悪魔とか天使とか言うが、その二つはパワーのベクトルが違うだけである。
自分を超えたパワーの持ち主のことは、当人には理解できないものだ。彼女は、目に見える物質的なことよりも、心が大事とわかっているから、大衆とも仲良く一緒にはいられない。
でも、エドワードのような愛そのものが来たら怖い。だから否定する。人より霊感があり、見えない世界をわかっている自信から、理解できない存在は認めないのだ。
大衆はなにか未知のものが来ると、興味本位と本来の噂好きでみんな集まってくる。そして、お祭りのようにゴシップで騒ぎ立てる。
エドワードが町にきたとき、町に住む人々は最初エドワードを賑やかに迎え入れてくれた。興味本位で彼に庭を整備させたり、髪を切らせたりした。使えると思うと本人の意思など関係なく事業をやらせようとして、果ては性的に襲いかかってきた。
しかし、どうだろう。一度悪い噂が流れると、それが事実ではなくとも、一気に悪者に仕立て上げる。あれだけ、みんなが喜ぶことをしていたのに、一変して「あいつは悪だ!」と騒ぎ立てる。無責任この上ない。
これを「大衆」と呼ぶ。
そして、大衆は何の罪悪感もなく、次の未知なるものをただ待つだけの生活に戻る。
最後にこの映画の最も大事なメッセージだ。
なぜ博士は最初から普通の手を作らなかったのであろうか?これも意味がある。
普通に考えたら、人型ロボットを作るのに一番苦労するのは「心」である。他のどのロボット映画も「心」を創ることができなくて困っている。それは現実のロボット工学でもそうだ。
しかし、博士が創ったエドワードは心は完璧なのだ。人間の心を完全に創りだした天才なのだ。その天才が普通の手を先に作れないはずがない。完成していないのは「手」だけなのである。
エドワードは手がハサミであるせいで、人間に近づけば近づくほど、文字通り人を傷つけてしまう。悪い者に利用されたり、愛する人を抱きしめてあげることもできない。
だからこそ、この映画はものすごい人間の深い心(愛しさ、切なさ、尊さ)というもの、つまりは、愛と自己犠牲というものを表現することができるのである。
つまり、博士はわざと手を完成させなかったのだ。
(映画ではそれだとわかりづらいから、演出として死んだことにしたのだ)
エドワードがそれによって苦しむことも知っていた。悲しむことも知っていた。(だから城の庭には手の形をした木があるのだ。あれは、エドワードが、せめて片手だけでもあったらという願いの表れだ)
しかし、如来である博士はエドワードに菩薩としての、「愛」と「自己犠牲」を教えたかったのである。本当の愛は深いのだ。
これもまた私が進むべき菩薩への道のりなのである。
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