人間はどこで満足するのか?
普通の世界は、比較によって思考されている。
例えば、ブルジェドバイ。世界一高いビル。上空は人間にとって適切な環境ではない。高すぎるほど、景色という美は損なわれ、開きもしない窓に囲まれた閉鎖空間である。
そこに何があるのだろうか?
その先に何があるのだろうか?
くだらない見栄の張り合いである。次に、どこかの国が「こっちのほうが高い!」などと言って、追い越し追い越されの、永遠の魔界の入口でしかない。
例えば、コーヒー。
「このコーヒーおいしい!」というのは、~と比べておいしい、ということだ。では、豆がよかったらおいしいのか?プロが入れたらおいしいのか?
どこまでいったらそのおいしさに満足できるのだろうか?その先に人間として満足できるところなどない。一時の幸せでしかない。
世界一おいしいコーヒーでも毎日飲んでいたら飽きるものだ。人間とはそういう生き物である。
例えば、お金。
どれだけお金を持っていたら満足なのか?
お金をいっぱい持っていて豪遊できたら満足なのか?
その先には孤独と虚しさがあるだけだ。
自分はお金を持っている!と言っている人間こそ、本当は寂しいのだ。寂しくなかったらそんなことを他人に言う必要はないのだから。
どのくらいお金を持っているかなんて、比べても上には上がいて、どこまでいっても満足しない。
逆に失う不安に陥るだけだ。一番魔界に入りやすい魔物である。お金を持つのであれば、まずは、それを持つことができる器を身につけなければならない。
「比較」は魔界の入口になりやすい。比較はキリがない。終着点がないのだ。終着点がないということは永遠にそれに囚われ執着し、抜けだせないということ。つまり、その先には何もないということだ。
どんなに栄光を掴もうが、それは過ぎゆくもの。
私は、あなたに自分のオリジナルの魂を見つけ出すためのキッカケを与えることができる。
その環境が整った。みんなに時代を享受してほしい。
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