依存からの脱藩

世間では、大阪の選挙結果が話題となっている。もう誰もが、今のままではダメだとはわかっていても、どうしたらよいのかわからない。大阪都構想が実現したら自分たちは幸せになると、誰も思っていないだろう。でも、それでも、今までよりはマシという気持ちと、何かやってくれるに違いないという淡い期待。

では、民意が集まったからと言って正しいのだろうか?多数決は正しいのか?大衆は、投票というシステム自体を疑うことはない。人間は平等ではない。システム(制度)という決まり事で人は幸せになれるか?
いまや、制度の問題ではない。どんな制度も完ぺきではない。制度を何とかしようとするのではなく、人の在り方と関わり方のロールモデル(お手本)が必要だ。それを自分たちは邦(くに)つくりと呼んでいる。すべて、心ありきだ。
今の社会はどんどんと物事を明確にし、形で人々を縛ろうとしている。形がなければ信用できないのだ。形にこだわらない、おおらかさは、バカのあかしとされてしまう。その結果が、ルール以外のことをやってはいけないようになり、ルール違反は法令順守という大義名分のもと罰せられてしまう。
大阪の例で考えると、きっとこういうことが起きてきたのだろう。以前なら府と市の間で、あうんの呼吸で処理していた事柄も、人間力の衰えとともに、責任のなすりあいが始まり、法で明確に区別するようになる。権利は主張し、責任はできるだけ避けるようになる。そうして時間が経つうちに、少しずつ無駄が増えていく。積もり積もった垢のようなもの、そしてそれはある意味では善意でやってきたことかもしれない。これは誰かが悪いという話ではない。世の中全体が、自分の利益追求をすすめているのだから当然の結果である。
制度のひずみを正そうとするのもよいだろう。しかし、どんな制度も、作るのも、運用するのも人間だ。人を人として扱わず、モノとして扱うのが制度の本質だ。では、制度がなければどうなるか?手間暇かかりすぎて、とてもじゃないが、安心して落ち着いて生活などできない。人をモノと割り切って生活しているからこそ、時間の節約も最低限の保障もあるのだから。
一人ひとり個別の事情がある。一人のことを気にかけすぎても効率が悪くて社会が回らない。効率を追い求めすぎると、人はロボットのようにモノとなり、社会の活力が失われる。どちらが絶対に正しいということはない。そこに答えはない。
誰か知らない人に期待して任せるだけではなく、自分に縁がある人間と向かい合って、信頼関係を作っていく。自分の直感を信じて、新たな世界に飛び込んで、自分を変化させ続けることが、人生を楽しむコツである。制度が変わっても、幸せは転がり込んで来ない。
投票するだけは簡単である。自分を変える必要はないからだ。投票して何かを変えたいと感じているならば、自分を変えることだ。例えば、自分では絶対にやらないようなことをするのもいい。どうせいつかは死ぬのだ。自分で危険に飛び込んで危機を体験しなければ、生を充実させることはできない。
時代は、破壊と創造を求めている。橋本氏は破壊を進めていく。それが彼の役目だ。そして、そのあと創造するのは別の人間になる。それぞれの使命を生き切ることが、誰が何と言おうが幸せなのだ。破壊者はたいてい幸せな結末にはならない。しかし、世間からは不幸な結末だと見えたとしても、本人の魂は納得するのだ。
人生で何を体験するか?そこに良い悪いはない。時代の流れは変化を求めている。変化という体験を自分で選択するか、もしくは嫌々に変化させられてしまうか、どちらかしかない。
どちらも楽ではない。しかし、楽な道はどこにもないのだ。どうせ変化にさらされるのだから、自分から飛び込んだほうが面白いのではないか?
新時代を夢見て生きた、幕末の脱藩志士のように!

あえてすることの意味

アレルギー治療についてのテレビ番組を見た。アレルギーを治すために、あえてアレルギー物質をとると。この「あえて」という言葉は、自分たちの世界では流行語である。

 何でもそうだが、分かり難いと誤解が生まれやすい。人はわかりやすいのを求める一方で、その裏表で、分かり難さも求めている。どちらもある。わからなければ、不安がうまれる一方で、わからないからこそ希望もうまれる。

分かり難いからこそ、分かった時の喜びも大きい。
「実はそうだったのか!」と思いも寄らない結末であればあるほど、魂は喜ぶ。その結末をどこに持っていくか?すぐネタバレしてしまうのか、死ぬ間際にわかる壮大なドラマになるか?いずれにせよ、どんな人間も終わり良ければ全て良しとなる。
自分と同じような考え方をしている者同士であると、意外だ!とか分かり難い、ということはあまりない。大体こう考えているのだろうなと想像できてしまうからだ。全然違う考え方をしている人間と出会ったならば、恐怖と不安のほうが大きくなるのが大衆だ。
違うものを受け入れようとするよりも、拒否し排除しようする傾向にあるのが人間だ。歴史を見ると、異質なものを受け入れる文化は発展するが、拒否・排除しようとする文化は廃れていくのがわかる。
しかし、自分にとって異質なモノ、嫌いなモノを受け入れることはそう簡単ではないのも事実だ。頭ではわかっていても、実践は難しい。
ある人が嫌だ、苦手だと感じていることがあるとする。男性が苦手だとか、宗教的なものが嫌いとか、他人から変な目で見られたくないとか、何でもいいのだが、その嫌だという原因が過去のトラウマなどにあったとしよう。当然、自分自身はそういうことが嫌なのだから、男性や宗教的なモノゴト、他人から変と思われる行為、などを避けるだろう。
目の前の人間が嫌がっているのを情(じょう・なさけ)でみれば、かわいそうとなる。トラウマを抱えているのだから、かわいそう、だから守ってあげようとか、慰めてあげようとなる。ではそれで本当に問題が解決するだろうか?
イヤも嫌も好きのうちというが、本人がいくら認めないとしても、嫌いな反面、絶対に嫌いなことに興味が有るのだ。表と裏である。愛憎が表裏一体のように、嫌いなこと・苦手なことにはヒントが隠されている。そこに向かうことが自分を知るヒントなのだが、自分でそこに向かう人間はほとんどいない。
情をかけてしまうと、本人の進化をストップさせているという見方もできるのだ。ストップさせることができるのだから、逆に進ませることもできる。真に相手のことを思うならばこそ、自分が嫌われることを恐れず、相手がトラウマに向かうような助けをするのが愛だ。愛情というが、愛と情はハッキリと違う。究極の愛は、相手の嫌だと思っている存在に自分がなってしまうことだ。
相手が嫌だと感じていることをするのは心が痛いかもしれない。その痛みは表面上の相手の痛みを見ているのか?もしくは嫌われたくないというエゴの痛みなのか?相手からしてみたら、嫌な事をしてくる相手として、誤解して嫌ってしまうことのほうが多いだろう。愛が深ければ深いほど、すぐ相手に気がつくものではないから、どうしてもそこに時差はでる。でもいつかは伝わる。相手からの誤解を恐れず、その人のために必要なことをしてくれる存在こそが本当に愛のある人間だ。
そういう人間は説明もしないから、余計に分かり難いし、誤解をされるのだ。なぜ説明しないのかと言ったら、聞かれないからだ。聞かれたとしても、その返答は臨機応変だろう。説明しても説明しなくてもいい。だが、聞く方はわからない人間だからこそ、いまその環境にいるのだ。それに尽きる。わかる人間は、説明しなくてもわかるのだ。
一歩間違うと、愛のある人も、単なるレベルの低い嫌がらせをしている人間に見えなくはない。また、こうした視点を悪用して、自分の利益を追求する人間もいるから、言葉という限界を認識し、そのまま受け取るのではなく、しっかりと自分で深めて欲しい。
「そうか、そうか、相手の嫌がることをするのが愛なんだ。じゃアイツは俺のことを嫌がっているが無理やり襲ってしまえ。いつかおれの愛がわかるだろう」と自分勝手に悪用する人間がでてくる恐れもある。このBlogに来られる方はわかっているとは思うが、相手に嫌な事をいつもしろといっているわけではないし、低レベルの自分勝手な迷惑をかけろと推薦しているのでもない。それも踏まえた上で、誤解を恐れず表現している。
しかし、わかる人間にはわかる。視点が低い人には見えていないだけで、見守っている存在は確実にいる。少なくとも自分の良心は絶対に自分の行為を見ている。だからこそ、勇気と信念を持って、あえて嫌なことに向かって欲しい。
高度な視点を獲得すればするほど、危うい世界に堕ちていく危険も増える。どんなことも正当化できてしまうからだ。その危険性は本人では気が付けない。だからこそ、仲間や師という存在が必要になってくる。自分一人であえてやろうとしないことだ。いつも自分は間違っているかもしれないという恐れを片側で抱きながらも、もう片方で絶対に間違ってはいないという信念を持つ。この極と極こそが、矛盾に見える一方で矛盾がない世界なのだ。
アレルギー治療と同じで、何も考えずにただアレルギー物質を取ったら命に関わる。医者のもとで、入院して、細心の注意を払って、そこに向かうから結果がでるのだ。思いつきでぽっとやって成功するほど甘くはない。人間はそう簡単ではないのだ。だからこそ面白い。

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真理はあるが、答えはない

時代の深層は大きな節目を超えた。これから徐々にそれが表面化してくるだろう。だからこそ、私は次に2016年に向けて意識をあわせている。2016年に向けて、時代の深層を創造していく。
見えないところから変化が起こり、その後見えるところが変わってくる。これは人間でも同じだ。心が変われば、行動が変わる。そして、行動が変わった結果、環境も変わる。環境が変われば、心もまた変わる。こうして螺旋状に影響し、変化が加速していく。
天災は何を伝えているのか?一人ひとり感じることは違う。しかし、誰もが天災という信号によって、心に影響を受け変化していく。表面意識と潜在意識、両方に影響を与えている。例えば、タイの洪水はどうだろうか?
50年に一度の大洪水と言われ、日本企業が多大な影響を受けた。東南アジアに進出するなら、ベトナムよりも、上下水道や交通機関が整ったタイのほうが便利だと言われていた。その結果がこれだ。天災だからしょうがないのだろうか?当初、タイ当局は楽観的に捉えていた。それを間に受けた結果、本来避難させられた機械類も水に浸かることになり、被害が拡大した。これも仕方がないのだろうか?信号なのだろうか?ベトナムに追い風になっているのは偶然だろうか?運も実力の内なのだろうか?
天災の他に、人が起こす事件がある。では、オリンパスの問題はどうだろうか?日本を代表する企業が、実はライブドア事件など比較にならないほどのことを隠していた。オリンパスという、一企業の問題では収まらず、日本の信用を落とすほどの影響を与えた。一体、どちらが罪深いのだろうか?日本人の価値を傷つけたのはどちらだろうか?これは何を伝えようとしている信号なのだろうか?
一体誰の判断でそうなったのか?オリンパスの経営陣の顔は見えない。千と千尋の神隠しにでてきた、カオナシが経営しているようだ。顔が見えない集団による行動。無責任体質。これは彼らが悪いからなのだろうか?自分も無責任の一員になってはいないだろうか?しっかりとカオがあるだろうか?
ホリエモンはカオナシではなかった。顔が見えることで生じる責任はあるだろうか?顔が見える集団は必ず責任感があるだろうか?一体どこまで責任を感じればいいのだろうか?見えすぎて潰されるのは必要なことだろうか?秩序は守られなくていいのだろうか?なんでもやりたい放題がいいのだろうか?ちょうど良いバランスなどあるのだろうか?
世の中は矛盾で満ちている。そうこの世はできている。
 生と死。明と暗。上と下。縦と横。この世は、対極があって成り立っている。その対極の中に答えなどない。極と極の間の中で、どこがいいかなんてことは、人によって違うからだ。こちらがいいと思えば、こちらが悪いという見方もある。どれも正解なのだ。人の数だけ正解がある。だから、罰などない。そういうルールなのだ。失敗と思えることも、それを通して気付くきっかけに過ぎない。進化することがこの世のルールだ。体験することが大事で、そこに良い悪いはない。
深遠な答えが真理だ。そして、真理はあるけど、単純な答えはない。 真理を知るために、体験があり、この世がある。地球という制限のある場所で何を体験し、何を得るのか?どんな体験も真理へと繋がるヒントだ。
嫌な事でさえもキッカケだ。例えば、苦しみを通してしか理解できない真理がある。苦しみがあるからこそ、優しさや愛がわかることもある。苦しいからこそ喜びもある。いつまでも同じ状態はない。常に変化し続ける中で、出来る限りの体験をするために今がある。
人は自分の生きた証を残したいと願っている。自分のブランドを築きたいのだ。それが会社なのか?アートなのか?平凡な市民という形なのか?どんな形でもいい。ただ、楽な道を歩んでいてはブランドは築けない。
世の中をうまく生きようとする答えを求めるのではなく、真理を求めることだ。一見遠回りに見えるが、結局は自分ブランドを構築することへと繋がり、その結果そのブランドを欲しがる人に支えられるだろう。迷ったら答えはないのだから、飛び込んで体験するしかないのだ。

鳳凰と龍

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 私の菩薩道は、鳳凰に導かれて始まった。かつて、沖縄に関わるかどうか悩んでいたときの話だ。当時、自分の周囲でやたらと鳳凰に出会う機会が多く、不思議な縁があるものだなと感じていた。例えば、お店でふと座った椅子から、鳳凰の絵が見えたり、渡された本の表紙に鳳凰がいたり、そうした信号が続いていた。そして依頼していた特別な部屋の内装のデザインに、火の鳥が使われて提案された時、やはりこの鳳凰とのご縁は何かの信号なのだと確信した。

一体この鳳凰とのご縁は何だろう?と気にかけながらも、沖縄に関わるべきか、やめるべきか悩んでいた。「沖縄詐欺の話は多いぞ」と心配されたり、「全くの畑違いのことをするのはリスクがありすぎる」など、どちらかというと否定的な話が多かった。しかしながら、なぜか自分でもわからないが沖縄のことが気になり、すぐに判断がつかなくて悩んでいた。
昔から自分は、大きな判断の時には特に信号を探す癖があった。自分なりの信号の取り方は人それぞれであるが、私はイメージや数字を使うことが多い。余談だが、沖縄に関わってから、信号を感じる力が増したと感じる。バシバシ出会うのだ。そして、偶然人と出会うことが格段に多くなった。人の出会いも、勿論信号である。
話を戻すと、決断がつかないまま、契約をするかしないか判断をする日がやってきた。「仕方がない、会ってから決めよう」と約束の場所へと向かった。すると、出会ってそうそう、相手があるモノを見せてくれた。
「今日は特別な日だから、特別なモノを持ってきた」と。具体的に書いてしまうと関係者に差し障りがあるので書けないが、なんとそのモノに「鳳凰」が描かれていたのだ。それを見た瞬間に私は決断した。
「これはやるしかないという信号だ」と。人生を変えるような大きな決断ほど、論理ではない直感や何か説明できないものによって行われて、道は開けるものだ。嘘のような本当の話である。そんな理由でやっちゃうの?と不思議に思われるかもしれない。
論理の先には、驚きの結末は何も無い。論理を超えるからこそ、予想外の結果が良くも悪くも起こるのだ。予想外のほうが人生は楽しい。人は誰しも予想外を求めている。結末のわかっている映画など誰も見たくないのと同じだ。
この話には続きがある。決断をしたその日から、これまた不思議なことに今度はパッタリと鳳凰に会わなくなった。その代わり、今度は龍によく会うようになったのだ。何年かして、この話を友人に話した。友人が言うには、

「鳳凰は本土の象徴、龍は琉球の象徴。鳳凰によって、ヤマトから琉球へと導かれ、龍へと渡されたんでしょうね」と。そう思ったほうが私は人生楽しいと思っている。意外に、人はそうしたストーリーで動くものなのだ。そうした想いを受けて、人は繋がり世代を超えていく。不思議なことに、それを応援するかのように、シンクロが起きたりするのだ。
試練の夏が始まった時、沖縄にいた仲間たちは、念を込めて龍を作りだした。その想いが伝播して、東京では鳳凰を作りだした。鳳凰の方は自分も念を込めて、特に眼の部分に入魂した。自分が言い出したわけではないが、自然と龍と鳳凰が作られる動きとなったのだ。
想いのある仲間に囲まれることが本当の豊かさであり、幸せなことなのだ。今回、誕生日のお祝いをしてくれた仲間たちとは、一人ひとりと深い思い出がある。深く関わったからこそ、一つひとつの言葉が心に染みる。自分を理解してくれる人がいる幸せは、ナニモノにも代えがたいものだ。この広い宇宙で、いつかは死んでいく我々。同じ時代に巡りあわせ生きて、共に生きられるという奇跡は、とても大事で愛おしい。敵とか憎んだ相手でさえも感慨深く感じる。
ご縁があることに感謝しかない。生きて出会って、関わってくれてありがとう。

出会いと別れ

「出会いの数だけ別れは増える」とミスチルが歌っていた。

 我々の場合、別れる理由はただ一つ。
「信じる」か、「信じない」かしかない。
 信じることや、人に向かう事の本質は、自分との戦いである。
周りに何を言われても、一度信じたことをつき通せるか?
感じたことを相手に問い続けられるか?
テンションが高い時にはそれは簡単だ。
気分が落ちている時こそ、自分との戦いがやってくる。
 今やらねばと感じているのに、
「ああ、疲れたから怠けたい」とさぼるか、
「よっしゃー、今こそ自分を超える時だ!」と燃えるか、自分次第だ。
 人は人で磨かれるが、相手と自分、お互いが高い視点で向き合えることは少ない。
高い視点を維持するのは大変だ。それに引き換え、低い視点は勝手にほおっておけばそうなる。
すると、低い視点の人間は、高い視点の人間を無意識に引っ張って落とそうとする。自覚がないのが厄介だ。自分と戦って相手に向かうのではなく、
自分から逃げて、相手の粗探しをする。
 例えばこんな感じだ。
意識が高いAと、意識が低いBがいたとする。
AはBに「Bさん、あなたは怠けぐせがあるよ。自分に向かうことが大事だよ」と説明し、Bもそれに納得をして信じて努力する。
時間が経ち、また怠け始めた時、ことの経緯を知らないCにBはこう言われた。「Bは頑張っているよ。Aって普通じゃないし、極端なこと言うよね」。BはCの言葉が心地よいために、そのとおりだと考えて、Aに不満を持つ。そして、Aに対して、「Aは普通じゃないよ。極端すぎるよ。あなたがおかしいのだ。私は正しい」と攻撃する。
それに対して、Aは相手のために戦う。そしてまた、Bは納得し、謝罪する。そしてCは決して騒動の責任を取らない。
 意識がある人間は、意識が低い人間を意識が高い状態へと引っ張り上げようと努力する。相手も気づいたら謝罪し、感謝する。でも人は戻りやすい。一時的に意識が高くなっても、努力しなければすぐにまた元に戻る。それを繰り返して、徐々に意識が上がっていく。しかし、努力し続けることが嫌になり逃げる人もいる。
 高い意識へと引っ張る方は大変な仕事なのだ。そのことへの感謝を忘れて、教えてもらったほうが、教え方が悪いと文句をつける。教える方は何度でも伝えるが、本人が学ぶ気にならなければどうしようもない。学ぶ気がなければ、意識の引っ張り合いを何度も繰り返すことになる。
一体、何度繰り返せばいいのか?
相手が逃げる場合はそこで終わるが、因縁の場合はそう簡単ではない。
成長したい気持ちと、ただ相手に構ってもらいたい気持ちが混じり合っていると、問題を起こすことで構ってもらうパターンを創りだす。これでは相手も自分も疲労して、お互いに落ちて行ってしまう。
 トコトンまでやったとAが納得できるまでやった上で、まだBが同じ事を繰り返すようなら、敢えて別れを選択しなければならない。この世は有限なのだ。自分の今の力では限界だと感じたならば、一度別れることでわかることがある。離れて、失って、初めて気づくことがあるのだ。
悲しいし、切ないが、お互いのために別れが必要な時期もある。
真剣に目の前の人に向き合っていくことで、次の出会いのレベルが変わってくる。こうして、出会いと別れを通して、人は螺旋状に進化していくのだ。

生け贄という仕事

 世界は生け贄(いけにえ)を通して進化する。

わかり易い例で言えば、イエスキリストだろう。近代で言えば、ヒトラーが一番の生け贄といえる。最近で言えば、小沢一郎氏や堀江氏などがわかりやすい。生け贄は、非難されることで、人々や社会に学習の種を提供するのだ。
生け贄は二種類いる。
意識して自ら生け贄になる者と、自らは望んでいないのに生け贄にされてしまう者だ。
前者の例が、岡本太郎だ。自ら進んで、自分を生け贄としてきた。太郎の突拍子も無い言動を、大衆は血祭りに挙げ、ボロボロに引き裂く。大衆は残酷だ。大勢の中の一人として埋もれながら、石ころを投げつける。よく知りもしないのに、変なやつだ、悪いやつだ、おかしい奴だと決め付ける風潮を自らも作り出し、それに乗って生け贄の儀式に参加する。
何かしようとするならば、どうせ非難されるのだ。どうせケナサレルなら自ら飛び込んでしまえばいい。この行動は、ただの「勇気」などという言葉で済ますことはできない。人間の尊厳に関わる、尊い価値あることだ。
誰でも、突然生け贄にされてしまうかもしれない。自ら望まなくても、誰かに狙われて、生け贄にされてしまったとしたらどうする?その時は、逃げまどって、泣き叫んだとしても無駄だ。大衆(相手)が満足するまでそれは続く。
しかも、現代は次から次へと生け贄を要求するから、生け贄にされる時間も短くなり、生け贄としての効果はもはや失われつつある。先週の事件のニュースを覚えているだろうか?そこから何かを学ぶことは少ない。共同体のための生け贄でなく、ただの公開処刑では、生け贄にされた方も報われない。報われない処刑をされるくらいなら、自ら飛び込んで生け贄の儀式へとリードするのだ。
突然生け贄にされてしまうからこそ、その日を怯えて過ごすのではなく、今、この瞬間から自らが恐れていること、嫌なこと、感じていることなどをオープンにして、立ち向かうのだ。痛みや辛さを感じることが一番の成長の種となる。そして、自分を犠牲にして、周囲に学びの種を蒔くのが、価値ある生け贄となる。
こんな質問をしたら馬鹿だと思われるし、相手にも悪いからと黙っているよりも、バカにされて傷つくことを恐れずさらけ出すのだ。バカにされたとしても、同じように感じていた誰かを助けることになるし、痛みがあるから心に刻まれるのだ。痛みなき成長はない。
あいつは馬鹿だと思っていたけど、時間が経ってみたら、実は敢えて馬鹿な質問をしていたのだと気づかれるかもしれないし、気付かれないかもしれない。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。生け贄とは、将来の成果を求めてするものではない。
信念の結果、そうせざるを得ないのだ。自分に正直に由って(よって)生きる、これが自由だ。自由に生きると、生け贄という仕事を引き受けることになるのだ。そして面白い事に、自ら進んで生け贄になった場合、時間が経てば必ず復活があるのだ。岡本太郎がいい例だ。短期的に本人は報われないかもしれないが、歴史的に見たら報われるのだ。

真面目脳の罠

 良い人はたいてい真面目脳だ。

世間の常識を良しとし、人に迷惑をかけないように気をつける。
そういう無数の良い人が日本を支えている。満員電車でも我慢して、通勤しているのを見ると頭がさがる思いだ。311の災害の際にも、暴動など起きないことに海外からは驚きの目で見られていたのも、日本人は真面目脳な人が多いからだ。
これは素晴らしいことだ。長年培ってきた文化で誇りである。明治維新後も、名も無き真面目脳の人達が日本の近代化を支えてきた。
しかし、光があれば闇もある。美点の裏側には、真面目さから生じる負の部分も必ずある。真面目な人だからといって、時代の変化は容赦しない。こつこつ真面目に農業していたとしても、工業化という時代が来れば、その波にさらされてしまう。真面目=型通りとなりがちだからだ。真面目脳であると、自分と言うよりは相手や環境に左右されやすい。真面目脳は受身の傾向がある。
 また、真面目脳は世間という常識に影響されやすい。だから一斉に戦争賛成と真面目に突き進んだりする恐ろしさもある。真面目脳というのはある意味楽なのだ。周りに合わせて、問題を起こさないようにする守りの思考だ。
 例えば、受けたメールに返信しないということは真面目脳からしたら有り得ないことだ。
「無視は相手に失礼だ」とか、
「返信を待っているのに待たせたら悪い」とか相手に気を使い、とにかくすぐに対応しようとする。IT化が進むに連れて、益々早く対応するように心がける。それが大事な時もあるだろう。しかし、どんな時も真面目脳が考える対応が一番であるとは限らない。
相手を救おうとする意識がある人なら尚更だ。表面的な人柄の良さは捨てないと、より大きな悪霊には対応しきれない。悪霊はずるがしこい。相手を焦らせて、自分の思い通りにしようとする。そんな時、焦って急いで対応したら、悪霊の思うつぼである。
先程の例で言えば、メールを返信しないことが愛であることもある。目先の常識にとらわれず、本当に相手のためを思うなら、自分が恨まれたとしても、敢えて返信しないという選択をする場合もある。低レベルのメールに合わせてしまえば、自分も魔界に落ちてしまう。ただのストレス発散メールなど、相手を想ってしてきたメールではない場合などは、真面目に返してもいいことはない。無視することで、送信者が今までの経緯を振り返り自分の行いを深めると信じて、無反応という反応を真面目に選択するのは深い愛だ。しかし真面目脳にとっては、無反応は常識外なので嫌なことである。嫌だからこそヒントがあるのだ。
このスピード一番の時代だからこそ、落ち着いてじっくりと相手に向かうのだ。昔、手紙を人が運んでいた時代のようにしてみるのだ。手紙を待つ間に想いが募るし、一度出したら取り返しがつかないのだから、じっくりと想いを込めて手紙を書くようにメールをするのもいい。
本当の真面目は、常識や概念をいつも疑い、相手のためにどの選択をすればよいかと真摯に向き合うことだ。それが真の誠実だし、真剣である。変化の激しい時代だからこそ、真面目脳を破壊して、本当の真面目とは何かを極めるのだ。そうしなければ、時代が移り変わり、次の世代の真面目脳にやられてしまう。
いつもしていることをコツコツと何も考えずに実行する真面目脳ではなく、今日していることは本当に大事な事なのか?を真面目に日々問いかけることが真の真面目である。
いつもそうしているからといって、今もそうするべきだとは限らない。一瞬足りとも同じ状況はないのだから、その場その場で感じて選択をすることに真剣になるのだ。それを真面目にしなければ、真面目脳は結局自分の首を絞めることになる。
真面目に返信したのになんでこんなひどいことをされるのだろう?といった具合に。

選択するという意識

日々誰しも何かしら選択をしている。

どの道を歩こうかに始まり、何を食べるか?誰と話して、何を読み、何を聞くか。
無意識にしていることも含めたら一日に多くの選択をしている。自分は気がついていないだけで、実は無意識にした、その行動で、何かを選び、何かを捨てている。同じ選択は二度と来ない。それぞれが主人公の、人生という映画の中を生きている。
 たまには思い切って、違う選択をしてみたらどうだろうか?
 違う道を通ったり、いつもなら食べないものを食べたりと、普段なら選択しないであろう行動をしてみるのだ。小さい選択の冒険に慣れてきたら、もっと大きな選択も苦にならなくなってくる。
 人間は慣れていないことを体験すると新鮮に感じるか、苦痛に感じるのだ。この世は一時も同じではない。常に変化しているのが常なのだから、見せかけの安定など求めず、常に変わり続けることで、逆に安定するのだ。
安定を求めるから、変化に弱くなる。サーファーのように変化の波を求め乗りこなすのだ。
よく人は、一期一会だという。頭では、二度と同じ時間と状況はないとわかっていても、また次があるものだとどこかで考えてしまう。頭でどんなに、今しかないのだと思っても、心は真剣にはならない。何か重大な出来事があった時や、心に残る本や映画をみたときなどにやっと感じる程度だ。一期一会を感じたかったら、背水の陣を取るしかない。
しかし、それは簡単ではない。また、非日常を求めすぎても、世間からは浮いてしまう。例えば、毎回人と会うたびごとに、もう二度と会えないと思って、その時感じたことを後先考えずに伝えられるか?これは大変な精神的労力だ。毎回などとても無理である。メリハリをつけるのも意識した選択だ。
大体において、人間は辛いことのほうが心に残る。辛い体験をするからこそ、今という瞬間を愛おしく感じるのだ。どんな辛い体験も、必ず過ぎ去る。耐えるだけで、時は流れて行く。すると、不思議なことに、辛い体験も過ぎさってしまえば、
「なんでもっとトコトン体験しなかったのか」と思うこともある。
後悔のないように、瞬間を意識して生きる環境が今はある。同じように、今しかないという意識を持った仲間といるからだ。そうした環境こそが、真の豊かさだと私は感じる。どんなに楽で、苦痛がない生活があったとしても、そこに魂の喜びはない。
人は本来怠け者なのだ。肉体の怠惰より、精神の怠惰のほうが見えないだけにわかりにくい。自分の中に潜んでいる怠ける心と戦う選択こそが価値ある選択だ。

執着というキッカケ

人は自分が何に執着しているか、気付いていない。わかっていないから、執着を捨てることもできない。

この世が幸せに回るのは実は簡単だ。執着を皆が捨てればいい。自分の所有にこだわらず、分けあえば足りるのだ。言うは易し、行うは難しである。また、満たされてしまえば資本主義経済では儲からない。それではお金は困ってしまう。だからこそ、人生は面白い。愛着があるモノであればあるほど、捨てるときに複雑な感情が胸に湧き起こる。切ない、悲しい、離れがたい、怖い、懐かしいなどなど。

しかし、執着を捨てた人のほうが、捨てない人より強いのだ。この世の面白い仕組みの一つだ。失うものが無い人ほど怖いものはない。命さえ執着せずに投げだしてしまうテロリストを想像してみたら、その怖さがわかるだろう。持っている人間のほうが有利に見えるが、持たない人間の強みもあるのだ。
 面白いことに、大きい家に住める人ほど、その家にはいないものだ。忙しくて家にいる時間がない。大きい家に住むことにこだわっていないから、その人の器の大きさに合う場所が向こうから自然とやってきて、そこに収まるのだ。そういうものは失われることがない。だが、大きい家に住むことに執着して、ガムシャラに働いて、やっと大きい家に住んだとしても、幸せなのは一瞬で、次からはその家を失う恐怖に怯えることになる。執着すればするほど、失う恐怖が増える。
 ブッダが、お金持ちに全財産を賭けさせたのは何故だろうか?
キリストは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」といったのはどうしてだろうか?執着があるうちは、心が真の喜びを体験できないからではないか。
だからといって、全部裸になれといっているのではないし、金持ちだからといってお金に執着していない人間もいる。
 企業の上には国家があり、国家の上には宗教があり、宗教の上には、無執着の人間たちがいるのだ。
表に出ることも名誉も求めることもなく、悪く言われようとも気にせずに。まるでイルミナティのような人たちが。
執着を捨てたからといって、すべてが正しく見えるわけでもない。どんなときも無執着が正解でもない。執着があるからこそ、必死になって成長できることもある。大事なことは、自分では気が付かないことを指摘してくれる仲間がいるかだ。
同じ指摘をされても、
「お前には言われたくないよ」ということもある。魂は露骨だ。見下してる相手のいうことは聞かないものだ。
ビジネス社会にいると、売上や成績で優劣を判断しやすい。同じような価値観を持つ中にいては、その中で優劣ができるため、下から上への指摘は難しい。部下の言うことを素直に受け取るより、部下に教えようとする意識のほうが強くなりがちなのだ。価値観も執着の一つだ。
だからスティーブ・ジョブズだって、ビジネス世界にいないお坊さんに意見を求めたのだ。自分が何に執着して、それをどう活かすか?もしくは捨てるか?そうした視点で、執着を活かさなければ、執着に自分が使われてしまう。
世間から見たら成功者に見えても、ただ執着に使われている人も一杯いる。執着のために働いて、本当の自分のためには働かない。すると魂は死んでいくのだ。
本当の自分の人生を生きるために、執着を利用して自分を知る。そして執着をキッカケとして使い、一回り大きい自分を創造しよう。執着は階段だ。上に登るも下に登るも自分次第である。

人はすぐ経緯を忘れる

人はすぐ経緯を忘れる。勿論、そうなると原点も忘れる。

 本来、いまの一点だけを切り取って判断などできない。
 原点と経緯があって、今がある。
地球があって、祖先がいて、親がいて、世話をしてくれた人々がいて、自分も生きてきて、今という自分がいる。どんなことにも、原点と経緯があることを忘れてはならない。そこを外してしまうと、モノゴトの筋道を間違えてしまう。
大衆は目先のことで頭いっぱいになり、どうしてこうなったか?と考える余裕を無くしてしまう。そうした人間は、人間魂より動物魂が優勢なのだ。
以前、「罪にならない罪」という記事でこう書いた。

想いを無視する言動は、罪にならない罪なのだ。そして、想いこそが一番価値があり高いものだ。それをお金の為に踏みにじったりするのは、人として最低だ。昔は義理や人情として大事にされたものが、経済論理で踏みにじられている。

原点や経緯を忘れて、そのことを棚上げにして、自分は正しいと責める人間は、罪にならない罪を犯している。人間社会においては法的な罪に問われないが、霊的な世界では真の犯罪者だ。いまの社会はそうした人間で満ちている。自分勝手に、気ままに、義理も人情もあったもんじゃない。
最近こんなことを相談された。
・心と心で交わした約束を、契約書の形にしていないことをいいことに、状況が変わったなどと都合のいい事をいって平気で破られた。
相手が破ったことを自覚しているならまだいい。罪を自覚していない相手、自分は間違っていないと確信を持っている人間を自覚させるのが「本当の仕事」だ。
 人はコロコロ変わるのが当たり前だと思っている。確かに、この世は一時として同じ状況は存在しない。それを正当な理由(言い訳)にして正義を主張することもできるだろう。しかし、不動の心を持っている人もいる。そういう人間は信念という柱があるからブレないのだ。
やる気と真剣さで向かった経緯があって、約束を果たせないのか?
そこまで真剣に向かうことなしに、すぐ諦めて約束を果たせないのか?
結果としては同じ約束破りかもしれないが、経緯に誠意があるかないかで、気持ちは違う。
変わるのが当たり前と、諦めてしまうか? 
心が変わる度に、ぶれる度に、相手に向かうことが大事だ。それが菩薩道である。
どこでだって、菩薩の仕事はある。
 普通の仕事をしていたって、目の前の出来事だけを見るのではなく、原点と経緯に想いを巡らせ、どう感じるか?まずこれが難しい。しかし、一つ一つ目の前の出来事に真摯に向かえば、感じられるようになるのだ。
原点と経緯を意識して過ごすことから菩薩道は始まる。
本当に大事な事を忘れないのが菩薩なのだ。

The way of every day and a bodhisattva