嫌なことに価値がある

人間関係のストレスで悩む人は多い。相手と自分、違うからこそ価値があるのだが、やっぱり自分は正しい、相手は間違っているとなりがちである。また、自分が間違っている、相手が正しいとだけなっても、自分のほんとうの人生を歩めない。
自分の時期や相手によって、自分の信念に従うときなのか、相手を受け入れるときなのかと自問自答して、悩み苦しみ、間違っているかもと恐れを抱きながら、勇気を持って進むしか無い。魂から納得して進む限り、どんな失敗も失敗でなくなる。それは学ぶべき課題となる。
 「いい人」というのは大抵揉め事が苦手だ。
 揉め事を好む人間は、揉めたら見返りがあることを知っている。
 自分の思い通りにしたい時には、相手を嫌な気分にさせるのは有効な手段だ。
 いい人やお金で問題を解決しようとする人は、妥協して解決を図ろうとする。しかし、それは相手の思うつぼである。毅然と対応しなければ、身も心もすり減ってしまう。
 輩が、この世は揉めたもん勝ちだと思ってしまうのも無理も無い。
 良い人間ほど、信念を持って戦わなくてはならないのだ。誰よりも争いを嫌う人間だからこそ、 争いを起こして利益を得ようとする人間には毅然と立ち向かわなければならない。 
 いい人にとっては、それは苦痛なことだ。自分さえ我慢すれば良いと考えてしまう。それが相手に付け入る隙を与え、増長させてしまうのだ。間違ってる人間に、あなたは正しいとお墨付きを与えているようなものだ。
「あいつはそういうやつだ。しょうがない」は逃げである。
 勿論、ただ喧嘩すれば良いと言っているのではない。向かい方も千通りある。一番大事なのは、方法論よりも、
「相手のためにも、自分の心とも戦って、問題に向かうぞ!」という自分の心のあり方なのだ。
 自分が嫌だなと思うことこそチャンスなのだ。今回は、揉め事を例にしたが、嫌なことは何でもヒントになる。お掃除が苦手とか、料理が苦手とか、書類作成が苦手といったことでもそうだ。
 自分の思い込みを超えて、新たな自分を創造するチャンスだ。
最初はどうしていいかわからないだろう。意識高く実践する内に体験することだが、それでもわからなければ、このブログからヒントをつかんでほしい。

世間の興味より面白いものがある

世間の興味より面白いものがある。

私は、ビジネスのネタを考えるよりも、神とは何か?人間とは何か?を考えるほうが面白い人種なのだ。どの道を歩んでいても、行くところまで行くと、みなそこに行き着く。死の間際になって考える人もいれば、物覚えがつく頃から求める人もいる。人それぞれだが、究極の道楽である。
だからといって、いきなり「神とは音だ」とか言われても興味がわく人は少ないだろう。ぶっ飛び過ぎである。
しかしその言葉の真の意味がわかると、あなたの悩みは消えるだろう。
世界の仕組みがわかれば、世界の創造に参加できるのだ。道楽こそが究極の錬金術だ。
人はみな、実は知らず知らずのうちに、世界の創造に関わっている。しかしそれを自覚していないので、知らないだけだ。
会社で言えば、社員は知らない内に社風に影響も与えるし、また影響を受ける。そして知らず知らずのうちに、その会社風の人間になっていく。
最初はただの社員でも、会社の仕組みがわかれば影響力を増すことは出来る。そしてリーダーになる。社長になることも可能だろう。
何でもそうだが、やったことない体験を、ある程度してみると、飽きてくる。平社員も、部長も、役員も、社長もいずれ飽きる。
そうすると、つまらなくて辛いから、よりビジネス創造に明け暮れて、心が感じる暇をなくすか、酒・女・名誉などに男は逃げる。女性の場合は、子育てやお買い物、美容などにエネルギーを割り振るのだ。そして魂の訴えを感じないようにする。
今いる世界だけで満足していては、井の中の蛙である。もっと広くて深い世界があるのだ。
井戸の狭い世界で、噂話や、ゴシップを楽しむ大衆になるより、噂、ゴシップを生み出す中心存在になるほうが面白くないだろうか?
本当のところは当事者にしかわからないし、それを体験できるのも当事者の特権なのだから。
私がしたいことは、意識を高みへと引き上げることだ。
もっと面白い世界があるのだと感じさせたい。
「あの人もどうせ金が欲しくてやったんだよ。」「金に困っていたらしいよ。」「離婚もしちゃってどうしようもないね。」
などと噂しても別に構わないけど、それであなたは幸せになるのだろうか?
魂がふるえるほどの高揚感が得られるだろうか?私はそれを感じてもらいたい。
どうせ噂するなら、
「彼は何を求めているのだろう?自分は何を求めているのだろう?」
「お金で何がしたいのだろうか?お金とは何だろうか?」
「結婚、離婚の意味とはなんだろうか?出会い、縁の意味とは何だろうか?」などと自分に問いかけるキッカケにして欲しい。そうすれば、世の中のネタ全てに価値がでてくる。
仏陀が家族、権力、富、地位とすべてに恵まれていながらも、それらを捨てて求めたもの。それこそが本当の宝で財産ではないか。イエス=キリストが命をかけてでも訴えたもの、それこそが人生にほんとうに必要なものではないか。
世界がわかれば、人間もわかる。勿論、世界は簡単にはわからない。しかし、求めたら求めただけ、理解は深まる。
ビジネスも政治も、結局は人間が動かしているものである。お金や地位を求めることより、人間を理解しようとすることが、遠回りに見えて早道ではないだろうか。なぜなら、お金や地位がある人よりも、本当の自分を見てくれて、導いてくれる人のほうに人は魅力を感じ、引かれるからだ。お金持ちはたくさんいる。そんな人よりも、知恵と愛がある人のほうが価値があるし、またそんな人は少ない。
真に価値あるものは、どこの世界も少ないものだ。

イメージの力

災害は非日常を意識する。社会の変革期には天災も連動して起こりやすい。そうしたどうしようもない圧倒的な自然の力によって、人間の小さな概念(考え)は壊される。自分から概念を壊せる環境にない人間は、自然によって壊されるのだ。もはや、何が起きてもおかしくはない。富士山の噴火さえも不思議ではないと感じる。
概念が壊されたら、新たな概念、世界を生み出せばいい。311以降、古くて新しい「絆(きずな)」という言葉をよく耳にするようになった。私が以前から訴えてきたことだ。我々の仲間の絆は、試練を通して更に強くなった。心の財閥は着実に広がっている。

普段会わない人同士でも、お互いを想ってイメージできるなら、そこに絆はある。それこそ、会ったことない人同士でさえも、想いで繋がっているのが我々の世界だ。勿論、この文章を読んでくれている方とも絆は存在する。
相手を想ってイメージする。現代の人が忘れてしまった、祈りという行為。私は、この文章を読んでくれている人たちをイメージしている。顔が浮かぶ人もいれば、まだ見ぬ人へのイメージもある。コメントを書いてくれている人を私なりにイメージする。そのイメージで書き始めることもある。
シンクロが起きて、何かの気付きとなりますように。
少しでも、自分と戦う勇気が湧いてきますように。
怠けたい時、人が信じられないとき、辛い時、諦めたくなるとき、新たな世界からモノゴトが見ることができたら、その瞬間に世界は変る。なんであれ光を感じてもらえたら幸いだ。
歴史を学ぶと、同じような想いで世界を進化発展させようと努力してきた先人達を知る。
今日が宮沢賢治の命日だと、友人が「農民芸術概論綱要」を送ってくれた。以前この文章に触れたとき、賢治の世界観の大きさを感じさせる、この言葉がずっと私の心に残ってきた。それは、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だ。
絆によって、人は感じることが出来る。なんてこの世界は素晴らしいのだろうと。人類全体が幸福になることはすぐには実現できない。だからこそ、世代を通して、想いのバトンを渡していくのだ。賢治も勿論菩薩である。彼は法華経によって開花したのだ。
求めなければ開花もない。時代が後押ししている今だからこそ、真剣に人生を求める時期ではないだろうか?真剣に自分の人生をイメージして欲しい。

悩んだ時こそ原点想起!

原点は忘れやすい。自分が感動した想いや、大事にしていたことなどは、日常という生活の中で、いつの間にやら忘れ去られていく。日常は恐ろしいほどに心を慣れさせていくからだ。どんな生活を選んだとしても、慣れという檻は付いて回る。だんだんと当初の大きな気持は失われ、小さく細かいことにハマっていく。
繊細で感じやすい人間だけが、
「こんなはずではなかった」と日常とのギャップに苦しみもがくのだ。多くの人は不感症になって、やり過ごす。いちいちそれを感じるのは苦しいし辛いからだ。自分の正直の気持ちを感じて、それを追い求めるのは辛いことなのだ。そんなことより、日常の我慢のほうが楽でそれに慣れてしまう。
青春時代に感動した想い。時がたてば、青臭い思い出として、ただ懐かしむだけになってしまう。
愛を信じていたのは瞬間で、気持ちが盛り上がっている時だけとなるのが当たり前になっている。盛り上がっていない時こそ、愛が試されるのに。どんな時でも愛するということを貫くのは大変なことだ。
多くの人は、
「その時とは条件が違う」などといって自分を正当化して言い訳をする。それはむしろ自分の良心にたいして行われているが、本当の自分を説得することはできない。
逆境や試練の時こそ、原点に立ち返るのだ。
その時の想いを再体験することで、勇気が湧いてくる。自分が感動した気持ちは自分で取り戻せる。
「そんなこともあったなぁ。もう忘れたよ」というのは簡単だ。本当に感じたいと本気になればいくらでも感じることはできる。要は本気かどうかだけだ。
言い訳で自分を納得させても、魂は納得しない。
結局、自分で自分の首を絞めるだけだ。
本当に大事なことは何なのか?
細かい小さいことにハマって意識が小さくなってないか?
自分の原点は何なのか?
常に考えてもいい問いかけだ。

困った時、悩んだ時こそ、自分の原点に戻って考えると道が開ける。

自分が敢えて、この道を選んだことがわかれば、悲劇のヒロインになることからも抜け出せる。自分は悪くない。誰かが悪いでは進化どころか、退化してしまう。
なぜ悩むような状況になったのかを始めから辿っていけば、今の状況に進化の種があることに気がつける。どんな選択も自分が選んだことを忘れないことだ。受け身で全く選んでないという人も、敢えて選ばないことを選んだのだ。
 

菩薩は誤解からうまれる

さすが2011年。激動の夏だった。 
以前、「どんな菩薩も誤解からうまれる」と聞いた。菩薩道は誤解されてからが本物だということだ。
確かに、誤解をうまない生き方は無難である。無難な選択をしていれば、留置所に入ることもなかっただろう。 ちなみに、修業の場として、「刑務所」「病院」「寺」がある。どこの場所も不自由だからこそ、魂が磨かれるのだ。
 
刑事さんとも話したのだが、 
「こうしておけば逮捕されることもなかっただろうに」と言われたとき、 
「人を信じた末の結果なので後悔はないし、そうすることで人が救われる可能性もあった。たまたま今回はこうなっただけだ」と話した。 
一度信じたらトコトン信じて向かうのが、私の信念だ。途中であきらめたら終わりである。捕まったからといって、人を信じなくなってしまえば、 それこそ、その程度の信念だったのかということになる。
 
普通の考えでは、リスクを避けようとするのが当然である。しかし、私は岡本太郎のように、あえて危険な道に飛び込んだ。 
問題が起こったとき、自分と周囲、それぞれ試される。 
私の場合、今回のことが起きて、自分の中のいろんな執着に気が付かされた。
無理やり手放されたものもあるし、自ら手放したものもある。 
試練や迫害がなければ、信念は育たない。留置所という貴重な経験を得て、改めて自分の原点を再確認できた。
 
どんなに経済的に成功したとしても、そこに満足はない。私は普通のビジネスには関心がない。 自分の原点は、弱者救済である。高校生の時に読みふけった、本田勝一やタイの山岳民族での水道工事体験が忘れられない。 
これからも自分の菩薩道をすすんでいく。 
誤解されるのは、わかりづらいからである。わかりづらいから、一般の人はわかりやすい世間の枠に当てはめて、その人間をみる。だから誤解されるのだ。私はいつまでたっても、IT実業家でラベルされる。そんなものはとっくに捨てているのに。 
今の風潮や常識に合っていれば、誤解などされない。人と違うことを行えば、怪しい人と決めつけられる。 
何かコトが起こったとき、信じ続けるのは大変だ。疑うほうが簡単である。 
困難な時ほど、人間の本性は露骨にあらわれる。 
私の周囲でも、去って行った人間もいれば、逆に困難な時だからこそと応援してくれる人もいる。 事件がリトマス試験紙のようになり、信じ続けてくれる人々と、私を疑い離れていくものたちと分別することになった。 
敵と味方がはっきりした。本当の意味では、敵味方もないのだが、現実世界においては役割というものがある。 
自分の事件がきっかけで、あちこちに飛び火して、多くの方に迷惑をかけているのが本当に心苦しい。 
創造は破壊から始まると書いた。これからの創造に期待していてほしい。 

人間の価値

以前、「仕事の本当の意味」を書いた。金を儲ける為の仕事ではなく、魂を助けるのが本来の仕事の意味なんだと。ではその仕事の価値は金銭に置き換えられるだろうか?勿論出来ない。幕末の志士の仕事だって、金銭には代えられない。

もし、幕末の志士が現代にいたら、今頃テロが吹き荒れているだろう。しかし我々の時代では、幕末と同じような手段をとるべきではないのは勿論だ。我々の時代は、志士の魂を持ちながらも、殺し合いではない戦いをしなければならない。その方が高等な戦いなのだ。

そうした魂のある人材を育てるとしたら、どれほどの投資が必要だろうか?現代において、志士が育つだろうか?愚直なまでに一本気で、一言で言えば馬鹿になって、情熱を注げる人間。自身の出世や経済的繁栄を目指してではない、友の為や大義、国の為など自分以外のことに対して真剣に取り組む菩薩人間。

一朝一夕でそんな人間など出来ない。吉田松陰のように、狂気ともいえる気迫で伝えようとする人間がいなければ、魂に火がつく事は無い。人は人で磨かれる。現代のように、冷めている空気のなかで、魂を燃やす事は困難だ。

我々は、時間をかけて、一人一人に向かってきた。それでも、少し気を許すと日常に飲まれてしまう。冷静な頭が出て来て、
「そうはいっても現実をみろよ」と熱を奪い取ろうとする。

普段の生活では、人は無意識のうちにお金を基準に判断している。何をするにもお金がかかるから当然である。決してそれが悪いと言っている訳ではない。ただお金に縛られていることに気づいていない。自分が何によって判断をしているのか、まずそこに気がついてもらいたい。そこに「そうはいっても現実が…」と頭が出てくる原因がある。

今は命の危険がないため、本当に大事なことに目がいかず、どうしても世間の評判やお金の事が気になってしまう。死んでしまえば残らないものにとらわれて、魂が望んでいる事にストップをかけようと頭は動く。不安が頭の栄養である。希望や光は頭の敵なのだ。魂にとっては光が栄養である。

信念を持ち、普通の人が不安で負けてしまうような状況でも戦える人間。そうした人間の価値はいくらだろうか?そうした人間は金では転ばない。

我々の仲間は、お金で雇っている訳ではない。それぞれが自分の意志で、経済的な成功より人間的成長をつかみ取ろうと修行してきた。だからそこに上下関係など無く、同志や仲間、家族としか表現できない関係だ。その中には、資産家もいれば無一文もいる。年配もいれば若者もいる。男もいれば女もいる。インテリもいれば、シャーマンもいる。ないちゃーもいれば、うちなんちゅもいる。それぞれが自分のすべてをこの世界に賭けてきた。

それぞれが役割を全うする事で、この世界は広がって来たのだ。どんな人間にも役目がある。無駄も矛盾も無いのが我々の世界だ。

ちなみに、賭けるというのは一回で終わるものではない。常に賭け続けることで維持ができるのだ。少しでも真剣でなくなれば、すぐに真剣に仲間が教えてくれる。真剣に人に向かう事なしに絆は生まれない。絆があるから、自分の持ち場に専念できる。お互いに、尊敬と信頼なくして、共に戦う事などできない。

こうした仲間(家族)がいるから、自分も思い切り戦えるのだ。本当に大事なことは何かを問い続ける。お金に換えられない仲間がいるからこそ、本当の豊かさとは何かを堂々と訴えられるのだ。そして、仲間がいるから、自分だけではできないことも出来るのだ。

これから益々本物だけが残る時代だ。形だけの繁栄など一瞬で消え去る。本当に大事なものも、一瞬でなくなるから油断ならない。常に火を入れ続ける自転車操業だからこそ、必死になれるのだ。

心の時代では、人と人は想いによって繋がっている。

正子の愛

 白洲次郎は、海外で好きに遊ばせてもらっていた。実家はお金があったので、その資金力のお陰で次郎はイギリス人脈が出来た。そこで目を付けられ彼はある秘密の仕事に携わる事になる。そのことについては後に触れるとして、彼は好きに遊ばせてもらった代わりに、政略結婚をさせられる。

そのお相手が、樺山正子。文句なしの貴族の家柄だ。彼女は家柄も良く才女で、何も不満もないようにみえる。今でこそ、白洲次郎と正子夫妻の関係は理想の夫婦関係のように見る人が多いが、最初から良い関係であったわけではない。

正子の苦悩を語るには時代背景を理解しないとわからない。当時は、貴族というものが残っていたように、重厚長大な時代だ。戦艦であれば大和のように、でかくて重くて存在感あるものこそが素晴らしいという価値観の時代だ。人の姿形も、重鎮といったような趣きが求められていた。当時の上流階級はそういう落ち着いた雰囲気の中でパーティなどをしていたのだ。

幼い頃からパーティ三昧の正子にとって、もうパーティーは飽き飽きだった。しかし、次郎はパーティー大好きで女遊びも激しかった。はしゃぐ次郎を見る正子の気持ちがわかるだろうか?

次郎は今でこそ、ジーパンを日本で初めて履いた男などと呼ばれオシャレなイメージがあるが、それは現代の時代感覚でみるとである。重厚な時代にジーパンは軽薄なイメージだ。実際、若い頃の次郎は重厚とはほど遠い、どちらかというとヤンキー的な軽い男だった。

想像してみて欲しい。白洲次郎と正子がデートをしようとレストランに行くとする。立派な車から出てくるのは、いかにも貴族の正子とチンピラ風の次郎。ボーイは面食らう。この似つかわしくない取り合わせはなんだろう?と。下手すると、正子がジゴロの男を連れているのかと見られてしまう。

正子はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。自分が下品な人間と見られる事は貴族としてのプライドが許さないし、そんな人間と行動しなくてはならない事が辛くてしょうがない。苦しくて苦しくて、益々趣味の世界や古寺に救いを求めていった。寺に行くにしても、正子は自分のコネを使えば有名寺にいけるのに、あえて名も無いような寺ばかりを回った。

一方、次郎は得意な英語を駆使して、欧米人の間を立ち回ったり、女性にモテまくっていた。しかし、周囲の人間はそんな次郎を認める事は無かった。どんなに彼が頑張ったとしても、その風貌や発言、仕草から、軽い人物に見られていた。女性にモテたのもよくなかったのだろう。

さて彼の秘密の仕事はなんであったか?一言で言うと、彼はスパイだった。だから吉田茂にとっても使い勝手がよかったのだ。次郎の威勢のいい話しは種がわかってしまえばなーんだとなってしまう。「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれ、連合国に楯突いたという話しがあるが、当然である。出来レースなのだから怖くも何ともない。

さて話しは正子に戻る。正子は苦悩があったから随筆家として名を残したとも言える。岡本かの子もそうであったように、苦悩があるから光を生み出せるのだ。苦悩なき偉人はいないのである。

正子は夫である次郎の事が因縁だからこそ余計に嫌でしょうがなかった。夫は正子の家柄を利用して好き勝手に遊んでいるだけではないかと。だが、ある時ハッと正子は気がついた。

いつものように、「このチンピラが偉そうに」と、次郎のことを見ている人をみたときである。いつもなら「またか」とイラつくところだが、正子はその人から目をそらし、ふと次郎の顔を見たときに、その表情に苦悩を発見したのだ。

次郎は自分がチンピラのように見られてしまう事に苛立ちがあった。イギリス留学し、秘密の仕事もしているプライドがあるのに、自分が軽く見られてしまうのが許せず、人に対して傲慢に接してしまう始末だった。そしてそれが益々チンピラぽく見える悪循環である。その事に正子は気がついたのだ。

「この人は誤解されてしまう人なんだ。私しか彼の本当の姿を理解してあげられる人はいない。私だけが理解して支えてあげよう」と。そこから本当の夫婦として歩みだすのだ。正子の愛によって、白洲次郎は自分らしく生きられたのだ。

たった一人でも、自分の事を理解して支えてくれる味方がいれば幸せだ。それだけでどんな敵とも戦えるのだ。

太郎の背景

生誕100年を祝して、つい最近まで展覧会が行われていた二人の人物がいる。岡本太郎と白洲正子。時代を超えて再評価されている二人に新時代のヒントがある。そして面白いことに、この二人の人間関係がまた似ているのだ。

岡本太郎は「職業は人間だ」と言ったが、私に言わせれば、彼の職業は菩薩だ。彼の表の歴史は調べればわかるだろうが、普通ではわからない歴史に触れていく。

以前に書いた、調べてもどうしてもわからない壁の先の話だ。

まず、太郎の絵は本当に評価されていたのだろうか?実は才能がないと学校では散々だったのだ。日本で画家として活躍することなど到底無理だと宣告されていた。

しかし、そんな太郎に入魂とも、呪術とも、念とも言える情熱を注いでいたのが母かの子である。彼女が特別だったからこそ、岡本太郎は誕生したのだ。彼女自身は夫との関係に苦悩し、精神も病むが、苦悩したからこそ魂は磨かれた。晩年は夫の一平から観音菩薩と崇められていたほどだ。彼女は仏教学者として仏教に造詣も深かった。

その狂気とも言える愛情を受けて太郎は「岡本太郎」になったのだ。

学校から才能がないと烙印された太郎を連れてパリに行く。学校の評価など気にしない。太郎には何かがあると信じ、そしてそのままパリに置き去りにするのだ。

パリでもやはり才能がないと批判されて絵も描くのが嫌だった太郎は、最初遊び呆けて暮らしていた。そして景気よくお金を使う日本人として、お金のない貧乏な画家たちのパトロンのような、道化師のようなことをしていた。さて、そのお金はどうしたのだろうか?
当時はかなりの資産がなければ、海外留学など、ましてや遊学などできるわけがなかった。皇族や華族などのエリートだけがヨーロッパでの生活を満喫できたのだ。一体そのお金はどこから?

これはどんなに調べても、その資金の出処はわからない。両親である、かの子と一平にそれほどの収入があっただろうか?普通に考えたら、ただの新聞社員の一平には到底無理である。ましてかの子の実家は元々大地主とはいえ傾いていた。実家からの支援は受けられず苦労していたのだ。

太郎はお金の力で出版や展覧会もしている。お金があるから相手にされたようものだ。結論から言うと、父の一平はただの新聞社員ではなかったのだ。

当時の一平は、大人気の漫画家であった。大衆への影響力を持つ一平を利用して、世論を誘導する目的で機密費が使われていたのだ。その機密費を一平は太郎のために流用したのだ。

いわば、国のカネで太郎を創り上げたと言える。こうして、現代では多くの人間に影響力を与えているのだから、その投資は意味があった。不思議なものである。

帰国してからも、太郎は美術界からも評価されず、逆に戦いを挑んだ。そんな彼が、いまや芸術家においては人気ナンバーワンなのだから面白い。しかし、晩年の太郎は忘れ去られていた。今のように人気がでて、再評価のキッカケを作ったのは、岡本敏子だった。

敏子は、元々太郎の母である小説家であるかの子に憧れていた。太郎との出会いは、かの子がキッカケなのだ。敏子は、太郎の中にかの子をみて、一心同体になろうとした。彼のために生きることを決意し、岡本太郎の文章は全部敏子が書いていた。かの子の霊が敏子に降りたのだ。かの子の霊は敏子に引き継がれた。

そして岡本太郎は、絵ではなく文章がキッカケで再評価され注目されるようになった。太郎の母である「岡本かの子」の文学を裏で受け継いだのが、敏子。表で受け継いだのが、瀬戸内寂聴だ。実は、太郎と敏子、寂聴は三角関係であった。それがキッカケで寂聴は出家したのだ。因縁という凄さの一端が理解できるのではないだろうか。「岡本かの子」の影響力は現代にまで続いている。

長くなったので、岡本かの子と同じく仏教研究者だった白洲正子についてはまた次回に。

研究と実践の違い

 先日、プロ野球が開幕した。その開幕の数日前に、私は沖縄で楽天野球団のオーナーである島田さんを迎えていた。ご承知の通り、開幕の楽天の勝利は、東北の復興に捧げられた象徴として報道されていた。時代のまっただ中にいる球団である。そのオーナーがこの時期に沖縄入りする、という信号は興味深いものがある。
プロ野球は昔で言えばグラディエーター(剣闘士)だ。古代ローマの剣闘士に多くの市民が熱中した。スポーツは現代のグラディエーターで、魅力的な世界だ。オーナーであれば、多くの魅力的な人間に触れている。人を見る目が肥えているのだ。
今回、普通の観光ではわからない、地元の人でも知らない沖縄の裏側に触れ、目が肥えている彼でさえも喜んでくれた。そして嬉しい事に夕食を共にした際に、彼は私の仲間に対して、
「尾関の目が忘れられない。沖縄と言えば彼しか浮かばなかった」と言ってくれたと後から聞いた。
そう、人間は目が大事。目にすべてが現れるのだ。目、雰囲気、オーラだけで、その人間の事がわかってしまう。隠す事が出来ないのだ。
菩薩は、人間の生き様の強烈バージョンである。人が人生で何度かしか味えないものが凝縮しておこる。街を歩くだけでも、誰かに遭遇する、新たな気づきがある、シンクロ信号がバンバンやってくる。
菩薩修行というと、お寺にこもっての修行を想像するだろう。しかし、寺の中で修行したとしても、菩薩道の実践はできない。私は実際に菩薩の道を歩くことで、これまで魂の器を広げてきた。自らの概念を壊し、自らを創造し、実践を通して磨いてきた。菩薩の道を歩いて、実際に人を救うことをしてきた。
我々の仲間も、ただの遊びで沖縄に来ているのではない。それぞれの仕事や大切なものを捨ててでも、人を救うキッカケを作りたいと修行しているのだ。いわゆる修行とは違う、我々には実践の場がある。
セレブである島田さんのような人間と魂の話しができる場があるだろうか?
普通に生活してたら出会う事も無いだろう。彼の周囲には居ない人間達だからこそまた価値があるのだ。
事業家でも、アーティストでも、発明家でも、偉大な人物を研究していくと壁にぶつかる事がある。突き詰めて調べていくと、どうしてもわからない不可解なことが出てくる。そういった際に、霊的な見方、スピリチュアルな見方が注目をされる。見方を変えることにより、なるほどと納得できたり、解決できたりするのだ。
なぜ彼はこんな行動をしたのだろうか?
どうしてこんなことを言ったのだろうか?
そういった不思議な事も、視点を変えるだけで何の矛盾もなくなったりするのだ。普段まわりにいる人達だけでは得られない視点を我々は提供しているのだ。

311後の世界

いよいよ我々の時代がやってきた。放射能が来るかもしれないと怯えている中で、社会はどこへ向かっているだろうか?

2011年。私が如来に教えられた多くのことの中で、唯一具体的な数字として信号を貰っていたのが2011年だった。その証拠はいくつかあるが、それよりもこうした数字はただの偶然だろうか?カバラ数秘術などにみるように、数字に意味があると捉える人たちは、それを元に世界を理解する。ちなみに11は再生だ。で、9が終わり。だからNYでの911は終わりと再生と捉える。ポルシェの911だってそういう概念の影響を受けている。ちなみに11月9日に起きたベルリンの壁崩壊とNYの9月11日同時多発テロは鏡合わせの数字のようになっている。そして、ムバラク大統領退陣も2月11日。

こうした世界観をすごい信じて、日頃から本気でそればかり考えて話しているのがスピルバーグだ。そうした人間が映画などで大衆に影響を与えている。311は日本が終わる象徴とか経済が終わる象徴とか、そういうストーリーが影響力ある人間たちに伝播していく。

いま先見性のある人間たちは早々に沖縄に目を付けている。私が沖縄に関わっているからそういっているのではなく、実際に条件の良い住宅などはなくなっているのだ。放射能の影響も無く、アジアにも近く、特区が数多くあり、人口が増えており、アメリカ軍がいるし、ひょっとしたら独立しちゃうかもしれない沖縄という場所が投資先としても魅力的になってきている。

人気が沸騰してから投資するのは馬鹿だ。人気がないときに投資するからリターンがあるのだ。そして、いま沖縄に居ると全くの平和で、本土の出来事は他国のようだ。それは、これからは沖縄だと言う見込みが当たっていたからで、わからないままに本土にいたら平和では居られない。読みが当たっているからこそ、平和なのだが、逆に当たったからこそ、その有り難みも忘れてしまう。また、ノアの箱船ではないが、読みが当たっても素直に喜べない。

だから言ったじゃないか。これからは経済も変わるよ。攻めから守りになるよ。お金よりも絆が大事になるよ。信頼できる仲間、コミュニティの時代だよと。嘘だと思うなら過去の記事を読んでみたら良い。これからは沖縄だよ、ベトナムだよとずっと言っている。生死を前にした時、本当に救われるとはどういうことなのか?魂の救済こそが一番の関心ごとになるんだよと。

本当のところを言えば、日本経済なんて借金だらけで、今更原発の話しをしたって始まらないところにいる。内閣がどうしたとか、東京電力がどうだとか、部分の話しをしたって意味が無い。根幹がおかしくなっているんだから。政治なんて末期症状もいいところで、水面下では亀井静香を立てようかなんて話しもでてるくらい、もうやけくそなのだ。民主党の中では、少なくても仙石か、などとあり得ない話しが最低ラインなのだ。順当に言って仙石、まさかの亀井静香だ。どちらにしたって先が思いやられる上に、もっとすごいのが、石原慎太郎を持ってこようかと話しているのだ。都知事になったばかりの石原を総理大臣に据えようかという話しまであるのだ。もうこれくらいしないと、このどうしようもない閉塞感は抑えられないんじゃないかと感じているのだ。これが現実なのだ。とても政府には期待できない。

放射能にしたって、アメリカは80キロ避難といっているのに、日本は30キロで本当にいいの?チェルノブイリは20年以上経っても死の町だけど、本当にそうはならないの?政府は本当に情報をだしてくれるの?今や、素直に信じる人間は少ないだろう。わざとじゃないにしろ、色んな思惑が交差して、結果的に何で今更みたいな話しばかりだ。結局は原子力に対する利権が絡みすぎて、国内も世界(アメリカ、フランス)も利権の確保に走りまくっている。

余震というよりは、本震じゃないの?という規模の地震が続き、次はどこなのか?という不安がある。東北よりも危ないとされてきた、東海沖地震や関東地震が起こったらどうなるのか?東京が巨大地震に見舞われれば、それはもう日本の終わりではないか。そんな状況の先行きが不透明の中で、事業しようとか金儲けしようと長期的に考えられるだろうか?

人々はいま、真剣に人生を考える淵に立ちだしている。
いざとなったら誰が頼りになるだろうか?どこの場所がいいのだろうか?本当に救われる、または救う事ってなんだろうか?今まで私が書いてきたような事を話したいし、知りたい気分になってきたのだ。安心、安定、確実だった東電の価値が一瞬で吹き飛ぶような時代に、本当に価値ある投資ってなんだろうか?誰を信じたらいいのだろうか?嫌でも考えざるを得ない状況に追い込まれてきたのだ。

あくせく働いてきて積み上げて来たものが一瞬にして価値がなくなる。絶対だと思ったものが、土台が崩れた途端に崩壊するのをみた。今の経済は極めて脆い幻想の上に成り立っている。それを見越して活動してきたのだ。我々は、実際に本当の意味で人を救って来たし、その仲間と共に社会変革の雛形を作っている。社会がどうなろうとも航海できる船だ。いざというときに、受け入れられるように、もっともっと器を広げる挑戦を今もやっている。この文を読んで何かを感じたのであれば、ドアを叩いて欲しい。我々はいつでも歓迎する。

The way of every day and a bodhisattva