今の想い

 何度もBlogを更新しようと書いた。でも違和感が残り公開できなかった。

なんかしっくりこない。自分の冷静さが嫌だった。
深夜一人になると、この未曾有の出来事の前に、ただ泣くだけだった。
そんな感情の高ぶりも、情報の洪水に侵されて、非日常が日常となり、冷静になってしまう。都会にいると、感じるのが難しい。自然のなかにいれば感じられるのに。感じようと心に熱をもたなければ、頭だけのロボットになってしまう。
想いのない綺麗な言葉を書いたって、人の心には本当には届かない。
文章には限界があるけど、想いが乗っていたら伝わる。
今はただただ、とても悲しい。
理由なんてどうでもいい。この先なんてどうでもいい。
この地震のことを想うと、涙がでてくる。
もっと生きたかっただろうに。
思い出を作りたかっただろうに。
被災者でないから本当のところはわからない。
ただの自己満かもしれないが、そんなこともどうでもいい。
悲しい。今はそう感じている。

悪魔の誘惑

仕事においても、人生においても、美味しそうな話ほど罠がある。そのことを大体の人間は頭では理解しているが、自分だけは違うと思ってしまう。他人からみれば、あからさまに怪しい話で、一体どんな人間が信じるのかと見えるような話でもだ。だからこそ、ニュースをみると、如何にも怪しい事件で満ちているのだ。

お金が欲しいという欲からくる罠は、ここでは話題にしない。私がここで触れたい、美味しそうな話の罠とは何か?今日書きたいのは、悪魔の誘惑についてだ。霊的な成長を求めて修行をしていると、好奇心の罠、自己欺瞞の罠などに陥りやすい。
ダマされる人間、罠にハマる人間は、みなバカなのだろうか?そんなことはない。一見、悪魔の罠に見えないからこそ罠にハマってしまうのだ。知的な人間ほど陥りやすい罠でもある。情報というものは、人を簡単に魔界に連れていく。自分でハマっていることに気がつくことはほとんど出来ない。だから師匠、仲間が必要なのだ。

どんな話も、結局は自分自身の成長の材料に過ぎない。その材料を通して初めて体験ができる。ただの観念(考え)だけでは魂は成長しない。体験、実践をするために、この世があるのだ。恐れすぎても、体験から遠ざかってしまう。痛みが怖いあまりに行動できなくなってしまっては本末転倒だ。

罠を避けることが賢い生き方だろうか?その罠は本当に罠だろうか?成長のための試練と、奈落に落ちて行く罠とでは、どう違うのだろうか?
相手を変えようとするのか?自分が変わろうとするのか?
自分の価値観だけで判断するのか?相手の価値観をも理解した上での判断なのか?
各自の人生のステージに置いて、体験実践すべき課題は変わってくる。一概に言える解答などない。自分の中にしか答えはない。成長するに連れて、罠はどんどん高度になっていく。内面に向かっているようで、逃げていることもある。
痛みのない成長はない。しかし、この痛みが厄介だ。本当の成長につながる痛みは耐え難いものだ。ついつい、それを避けるために、無意識に楽の道を選ぶ。そして、それがあたかも正しいかのような理由をつける。知識があればあるほど、正しい理由をつくれる。それが当然だと思えるのだ。
世界は、知れば知るほど、裏があり、どこまで知っても切りがないように感じる。魔界に入っていれば、それが恐怖に感じる。本来、計り知れないからこそ面白いし、感謝ができるのにだ。
悪魔の誘惑はとても魅力的だ。魅力的な話に出会ったとき、心が浮ついて飛び乗りやすくなる。一度落ち着いて、話に飛び乗りたい自分の中に、嫌なことから逃げたい自分がいないか探してみる。辛い時こそ、誘惑はやってくる。
悪魔は自分なのだ。自分が誘惑を作り出す。霊的に見れば、自作自演なのだ。人間は弱いからこそ、すぐに解決に飛び込みたくなる。自分は弱いと知らねばならない。何に対して弱いのか?それを知らねば無意識の罠にハマり続ける。
逆に言えば、悪魔の誘惑の時こそ、自分を深く知るチャンスでもある。ピンチはチャンスなのだ。自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある。悪魔の誘惑の救いにホイホイ乗ってしまっては、本当には救われない。救われなくてもいいと覚悟して向かうのだ。精神的切腹だ。
現代では、肉体的切腹ではなく、精神的切腹こそが武士道なのだ。勿論、自己犠牲という名の自己欺瞞もあるからこそ、自分だけで判断せず検証が必要だ。自己犠牲という名の自己欺瞞も厄介だが、これについては映画「容疑者Xの献身」でも見て深めて欲しい。

告白

私は普通の人が考えているような世界の見方をしていない。だからこそ特別な世界を伝えたいと、このBlogを書いてるわけだが、逆にいうと、普通の世界の見方が時々わからなくなる。特に、ビジネスの世界にドップリと浸かっている人からしてみると、私は有り得ないことを言っているように見える。

ビジネスの世界においても、特別なビジネスのやり方もある。私はその方が究極の錬金術だと考えているが、世間一般のビジネス書が教えているような世界とはほど遠い。であるから、普通のビジネス世界の人間と仕事をするとき、スタンスが違うために気をつけねばならない。そもそも「仕事」という言葉の意味すら違う。(参考:仕事の本当の意味
魂とか霊に全く興味がない。もしくは、怪しいと思う人達と、「仕事」に対する価値観がどう違うか?我々は、魂を成長させる、霊が喜ぶために仕事をするが、普通のビジネスマンは金を儲けるためにする。
しかし、ここであえて言いたい。本当に儲かるとはなんだろうか?
信者と書いて、儲かると書くが、この文字の意味するところはなんだろうか?
頭が喜ぶのと霊魂が喜ぶのでは、どちらが儲かるのだろうか?
今の会社のほとんどは、千年を超えて存在することはないだろう。
それに対して、キリスト教は?何年続いているだろうか?また、ヴァチカンの資産はどれほどだろうか?仏教は?イスラム教は?神道は?
神とは何か?人の本質とは何か?人類が長く追い求めてきたテーマでモノゴトを見ている人間と、四半期決算で見ている人間とでは、利益に対する見方が変わってくるのも当然だ。
違う世界観を繋げていくのは難しい。だからこそ、繋がったら価値がある。全然違うからこそ、結びついたときに共創造が起こる。どちらが良い悪いという話ではないのだ。持ち場が違うだけなのだから。
今日誕生日の岡本太郎が産み出した、太陽の塔。当時は猛烈な反発があった。しかし今や、大阪万博は知らなくても、太陽の塔を知らない人間はいないのではないだろうか。何十年たっても、その価値は高まるばかりだ。未だに生み続ける経済効果はどれほどあるだろうか?ましてや、今も人の意識に働きかける、太陽の塔の存在が持つ力を金に換算することなど出来ない。
我々は、数年で左右してしまうようなトレンドを意識していない。真に価値のあるものを創造している。それは今は理解されづらいものだ。だからいいのだ。別に理解して欲しいから書いているわけではない。理解されなくて当然だ。
しかし、一人その世界に浸り、他の世界を見下すのは器が小さい。理解されづらいからこそ、向かうのだ。どのような手段を取ってでも、社会と関わりを持つことが大切だ。そうした葛藤を通して、人間の器は広くなり、愛の実践が出来るのだ。
具体例を挙げよう。
ビジネスマンにとって、投資は投資した金額以上のリターンがあれば成功といえる。我々は、極端なことを言えば、リターンがあろうとなかろうとそれで成功か失敗かを決めることはない。お金という媒体を通して、関係性が出来たことが重要なのだ。
その関係性を通して、魂が救えるかどうかが重要だ。お金はキッカケに過ぎない。しかし、かなり強いキッカケになる。昔、私はお金の関係を嫌がっていた。金を借りることも貸すことも嫌だから、株式投資という形でリスク限定していた。が、今はお金の関係があるからこそ、お互いの人間性の本質が見えると認識している。
ドロドロしたところに、人生の本質がある。泥の中から蓮の花が咲くのだ。
関わった人間とは、いつかは一緒にその花を咲かそうといつも思っている。
その日を楽しみに私は仕事をしている。

国つくり

朝、太陽がのぼり生まれる。夜、太陽が沈み死ぬ。

毎日生と死を繰り返している。
今、戦後日本という日が没しようとしている。
もうすぐ日没だ。暗く先の見えない時代だ。
不安でいっぱいだろう。
が、明けない夜はない。もう既に次の日は登ろうとしているのだから。
産みの苦しみがあるから、誕生は歓喜となる。

逆に言うと、今しか苦しめない。その感情を心に刻むことだ。
あとで懐かしく感じるだろう。辛いことのほうがいい思い出になる。
いつか、笑って想い返せる日が来るのだから。
今しかできないことを味わおう。
苦しんでいる貴方のそばで、私は一緒に支え戦うことが出来る。
自分が苦しい時、貴方もそうしてくれる。そこに創造の絆がある。
時代は些細なことから作られていくのだ。

負のエネルギーの活用方法

 人間の感情の中で、怒りのような感情は出すべきでないと一般では教わる。怒りに限らず、嫉妬や妬み、ヤッカミなど負の感情エネルギーは抑えるべきで、それが大人であると。その通りだ。わめき散らしていては幼稚だ。だが、いつもがいつも感情を抑えることが正しい訳ではない。

時には負の感情だろうと遠慮無く、所構わず出さなければいけない時もある。調和を乱すことを恐れるあまり、自分の気持を無視していたら、誰が自分の心を守ってくれるのか?誰が本当に自分の味方なのか?自分の心を大事にして欲しい。
気がついたと思うが、今回のメッセージは優しい、いい人に向けて書いている。エゴが強い人間は自分を守りすぎて人の話を聞かない。傷つかないように強大な鎧を着ている。その鎧のお陰で抑えられて感情を出さない場合もあるし、調和を乱そうが平気で感情をだせる人もいる。
では時には出さなくてはの「時」とはいつか?一概に簡単には言えない。ケースバイケースだからだ。だがそのタイミングは魂だけが知っている。だから常に感じていれば自然とその時がわかる。頭で考えすぎていては、そのタイミングを逃してしまう。
人を自分の都合の良いように丸め込むのが上手な人間は、切れられないような雰囲気をつくるのが上手だ。あたかも正当な論理を組み立てる。相手の話を聞き過ぎると、納得してしまい動けなくなる。その雰囲気に飲まれて、自分を出せなくなるのを突破するには、エネルギーが必要だ。論理には論理でも対抗できるが、それをしてしまうと、奈落の罠に落ちてしまう。頭には頭ではなく、頭には心や魂で向かうのだ。
心や魂で向かうと相手にとっては意味不明になる。当たり前だ。心や魂は眼に見えないし、説明もできない。なぜむかつくのかを説明せよと言われても、ムカつくモノはムカつくのだ。感情を出すことに慣れれば、上手に論理でも表現できるようになる。すると、愛の気持ちで負のエネルギーを使えるようになる。しかしそこに一足飛びはない。まずはエネルギーを出せなければ始まらない。いい人ほど、自分を責めて出せないからだ。
相手に怒るより、自分を見つめて自分を変えれば相手も変わるとも言う。その通り。だがしかしだ。例をあげよう。
G君が失礼な言動をAに対してした。Aはムカツイて、「Gの野郎め許さん」と思ったが、自分の言動を振り返ってみた。すると、AはかつてGに対して失礼なことをしていたことに気がついた。あれからこんな言動をGはするようになったのかと理解出来たら、自分のほうが申し訳ない気持ちとなり、急速に怒りのエネルギーがなくなった。それ以来、何かムカツイても振り返れば自分の側にも理由が思い当たり、自分を責めるのにエネルギーを使って、相手に出すエネルギーはなくなっていった。
いい人ほど何も言えない理由の一つだ。自分を責め続けるとどうなるだろう?すべて嫌になっていく。当たり前だ。真面目な人ほど自殺しやすい訳である。喧嘩両成敗というように、どちらにも言い分はあるものだ。それを自分だけが反省していたら、片手落ちだ。相手のためにも伝えないといけない。反省していたら、自分も悪いしなーとなって、感情の伝え方が弱くなる。あとで自分では反省するとして、その場では反省を後回しにしてぶつけたほうがいい。確かに、Gには失礼なことをしたから、いまその仕返しをされたのかもしれないが、これとそれとは違う話なのだから、伝えなければ魂はスッキリしない。その後で反省して謝ればいい。
また、カチンときたからと全部が全部反応する必要はない。溜めてためて、ここぞという時に一気に出すのが伝わりやすい。いつも怒っている人間の言葉など周囲の人間は真剣に聞かない。しかし、そんな上級者向けのやり方はすぐには出来ない。まずは、ムカっとしたら、その時に「すいません、今自分むかつきました。何でかはまだわからないので、深めてみますが、貴方も考えてみてください」と言えたら上等だ。これでも難しいのなら、一度その場を離れるなり、不愉快そうな表情をするなり、まずは相手に自分の気持を伝えることから始める。最初は理性を使って冷静にでもいい。段々と出していくうちにわかってくる。
先程の例で言えば、AはGの為にもエネルギーを溜めるのが愛だ。その時、因縁であれば別だが、そうでなければ愛のエネルギーは高度すぎるから、彼のためにとそこまで高尚な気持ちにはなりにくいし、反省してしまったら益々想いは続かない。段々と無関心になってしまう。するとお互いにドンドンと距離が離れていく。それを縁がなかったと言う事では済まされない。Gに向かわずAは逃げてるだけだ。
Gの為にも、その場で出せなかったのであれば、機会がくるまで「あの野郎見返してやる」とか「とっちめてやる」でも、関心を持ち続けることが大事だ。その為に負のエネルギーを使えばいい。そういう感情のほうが長続きする(笑)
本来、エネルギーに善い悪いもない。コンプレックスなどの感情も一見負のエネルギーだが、それを活かしている、いわゆる成功者は多い。だがそれだけでは金を得ても、心は安らかにならない。成功を維持するためにコンプレックスを持ち続けても寂しいだけだ。せっかくのエネルギーだ。負のエネルギーだろうがなんだろうが、自分と相手のために上手に活用しよう。

楽(ラク)の表と裏

 どこの世界も楽ではないが、人間楽をしたいと思う生き物だ。

楽にも表と裏がある。浅いと深いといってもいい。

子供の頃、最初に苦労すれば後で楽が出来るよといって、勉強を勧められたことだろう。最初に勉強という苦労をしておけば、あとで楽な人生を歩けると。で、勉強が嫌いなのに嫌々勉強する。一見、楽しているようには見えない。

実際、受験勉強がトラウマになっている人間に出会うことは多い。それも踏まえた上であえて違う見方をしてみよう。
嫌で勉強をしているのは事実だろう。しかし、それは楽しているとも言える。本当にやりたいことがあれば、親の反対を押し切ってでも、勉強以外のことを極めたらいい。その方が勉強しているより大変で楽ではない。そこに向かうより、親を安心させるためとか、今はやりたいことがないからと理由をつけて、勉強する楽を選んでいるともいえる。本当にあとで楽をしたいのなら、辛くても自ら求めて動くほうが確実だ。
親に言われて勉強する楽を選ぶのが悪いと言っているのではない。それが必要な時期もあるし、それ故に掴むチャンスもある。どんな道も本人にとっては経験という学びであるが、我々はもっと積極的に魂の学びを求めている。受身で学ぶのではなく、敢えて飛び込み体験することで、進化のスピードを促進していくのだ。
受身の楽が表の楽だ。親や社会から常識とされていることに従って楽を得ようとすることだ。例を挙げると、
・いい大学に行ったほうがいい(勘違いしないで欲しいが行くなといっているのではない)
・大企業がいい
・貯金した方がいい
・喧嘩しないほうがいい
・結婚した方がいい
などなど。勘違いしないで欲しいので何度も書くが、逆をやれといっているわけではない。
見事成功したとして、お金があれば、大抵の苦労からは開放される。嫌なことはお金という対価を払えば解決できる。お金では快適な環境を作ることはできる。素敵な家、美味しい食事に囲まれて、一見楽に見える。実際体験した者から言わせてもらえば、快適な生活は楽である。しかし、魂はどんな困難だろうが乗り越えて自分というものを表現したいのだ。摩擦や不満がないという受身な楽だけでは、魂は楽ではない。喜怒哀楽がない人生なんてロボットと一緒である。裏の楽とは、魂を喜ばせてあげることだ。
表の楽は、達成したとしても寂しいのだ。表の楽は、すぐにその価値がわかることが多い。例えば、快適な生活はすぐにその価値を感じる。暫くたってから、あー快適だとはならない。上の勉強の例にしても、すぐに努力して勉強したらいい大学に入れるのだろうなと理解できる。
裏の楽を追求しようとすると、すぐには価値を感じることはない。だから葛藤が生じるし、楽ではないように感じる。勉強ではなく自分の道を目指したとしたら、自分が何をしたいか理解するまで時間かかる。その間、本当にそれでいいのかと葛藤する辛さがある。
魂は表面的な楽を求めていない。すぐにはわからない深い楽を求めている。それは自分では気がつかないものだ。だからこそ人生は面白い。他人との関わりの中でしか、自分の求めている本当の楽には気がつかないのだから。
「まさか自分がそんな楽を求めていたなんて!」のドンデン返しを魂は求めている。自分の予想を超えるからこそ面白いのだ。筋書きの見えるドラマなんて面白くも何ともない。だが、魂が喜んでいるかどうかも、すぐにはわからないから深いのだ。
後々になって、あの時は嫌で仕方がなかったけど、今思えば幸せだったなと振り返れたときに初めて、魂が喜んでいたことに気がつくのだ。だから、諦めずに向かい続けなければわからないものなのだ。途中で、諦めてしまったら、折角魂は喜んでいたのに死ぬまでそれに気がつくことがなくなってしまう。
愛も深ければ深いほどすぐには理解出来ない。本当に価値があるものは何でも、すぐに理解したり感じたりできないものである。だからこそ、あとで感動や感謝が生まれるのだ。

魂の修行方法

魂の修行と一言で言うが、それはどうしたら良いのかと聞かれた。
分かりやすくするために、具体例をあげよう。先日こんな話があった。
ある社長が部下に対して仕事上で不満があった。まぁどこの会社でも不満がない上司はいないだろう。そして、大抵上司のほうが実績経験があるので、上司のほうが結果が出る見方をできることが多い。指摘が誰の目から見ても正しければ、なおの事怒るか諭すか教えるだろう。
当たり前の話だ。言わなければ伝わらないし、絶対に外してはならないこともある。しかし、大抵の問題は上司が頑張ればフォローできるようなことだろう。フォローするのは面倒だ。思い切り失敗させて、本人に経験を積ませるよりは、事前にあれこれ伝えて上手くいかせて結果をださせたほうが上司のためにもなる。部下が成長するなんて悠長なことをいっていられないのが大多数だ。自分で気がつくまで待っていることが出来る上司はそうはいない。
今、相手に言うべきか言わざるべきか、真剣に相手を見て判断している人は少ない。上司であれば、言いたいことを我慢する忍耐も修行になる。そして、部下を背負っている覚悟があるならば、部下を守り共にプレッシャーと戦うことが人に向かう修行になる。社長なら株主に。部長なら役員に。
下に向かうより、上に向かうのが修行だ。下に向かうのはたやすい。部下に文句をいう方が、上司に文句をいうより簡単だ。でも、楽をすれば学びはない。部下をかばって上司に向かうから、大変だし学びがある。
弱い相手より、強い相手に向かうことだ。弱い相手に対しては、弱点などを指摘をしやすいものだ。強者に対しては、指摘するのはかなり難しいだろう。「実績出してからな」とか、「まだ経験がないからな」とか言われてしまえば、その通りだけに言いづらい。
だからこそ、頑張らなければならないから好都合なのだ。自分から向かっていく人間しか何かを掴むことはない。
苦手な相手こそ向かうべき相手だ。嫌だなと避けたくなる相手に向かうときは、胃が痛くなったり、憂鬱になったりする。しかし、一度覚悟を決めて、向かってしまえば終わったあとにはスッキリする。達成感や満足感がある。
得意な相手、むしろ向かいたい相手に向かっても、学びは少ない。
胃が痛くなるのはいい信号だ。それに向かえということだ。しかしただ向かえばいいというわけではない。それは無謀なだけだ。無駄死してしまっては元も子もない。自分が苦手だと思った相手を得意としている仲間に作戦を考えてもらえばいい。
自分以外の力を借りるチャンスでもあるのだ。キッカケがなければ相談することもできない。問題があるから相談ができるのだ。それを活かして深まっていけばいい。
嫌な相手ほど、愛をかけてあげたくないものだ。こちらも嫌な対応をしてしまいがちになる。無理に愛をかける必要はない。嫌な相手でも普通に接するだけでも向かっていることになる。気持ちが逃げていなければ、それは向かっているのと同じだ。
逃げたいこと、嫌なことから、逃げずに立ち止まってみる。消極的でもいい。まずは立ち止まり見つめることからしたらいい。忍耐も修行の一つである。
何かのヒントになれば幸いだ。

背負うということ

自分ひとりだけは楽だ。
一人でご飯を食べるなら、好きなモノを食べられる。
一人でいれば、煩わしい会話に付き合うこともせずにすむ。
相手の言動で、イライラさせられることも、悩むことも、一人でいればない。
でも寂しい。喜怒哀楽がなくなっていく。テレビやネットなどで喜怒哀楽を得ても、表層的で心に残りづらい。関係が薄いと楽だ。楽に逃げやすい時代である。インターネットはとても便利に楽を加速してくれる。
だからこそ、楽ではないモノを魂は求めている。
目の前の人間の人生を背負ってみる。
何があっても一緒に向かう。一緒に立つ。一緒に泣き笑い、怒る。
どんなことがあっても見捨てない。だからこそ厳しくも向かう。ただの仲良しごっこではない、本物の関係。そんな関係に憧れて、大衆はワンピースなどを読む。
背負い背負われる。両者は同じだ。委ねてくれなければ背負えない。背負っているつもりが、気がついたら実は背負われていたりもする。助けて助けられる。救うものこそが救われるのだ。一心同体になってしまえば、もうそこに自分と他人という壁はない。
今日一人の人間が、背負う覚悟をした現場に立ち会った。そんな現場に立ち会えるのはとても幸せなことだ。映画のようだが現実だ。相手が背負われたいのかどうかは関係ない。自分が背負う覚悟をするかどうかが問題だ。相手を思うとおりに動かしたいから背負おうとするのではなく、相手を信じ愛するがゆえに背負うのがホンモノだ。間違っても、相手がこれをしてくれるから背負うといった取引の気持ちでは断じて背負えない。何があっても向かい続けると決心する。どんなことがあっても信じ続けると誓う。
決心も誓いも楽ではない。だが、決心や誓いをした気持ちは揺らぎやすい。多くの人間が、永遠の愛を誓った結果がどうなっているだろうか?問題が起きた時ほど、その決心や誓いが試されるのだ。問題に負けてしまう決心や誓いのほうが多い。
困難なときほど、
不安なときほど、
信じられないときほど、
相手を背負う覚悟でいられるかどうか、相手を信じ委ねられるかどうか、なのだ。
背負えば背負うほど、人は力を得る。人や組織を背負っているとき、困難に立ち向かうエネルギーを与えられる。この人間のために頑張ろう!このチームのために頑張ろう!この地域のために頑張ろう!この国のために頑張ろう!この地球のために頑張ろう!この宇宙のために頑張ろう!となる。
究極まで行けば、地球、宇宙を背負うのだ。

特別な人間とは

世の中には真面目で優しくて責任感に溢れた人間は結構いる。それと同じくらい不真面目で冷たくて無責任な人間もいる。勿論、友達にしたいのは前者だろう。だからといって、後者の人間を避けていては狭い殻に閉じこもるのと同じだ。
どんな人間にも持ち場がある。出会った意味があるのだ。それを追求しない限り、自分も活かされることはない。人を活かせなければ、自分も活かされることはない。
現代は、普通にいいことをしていても儲からない。
社会的に素晴らしい活動ほど、貧乏暇なしとなっているケースが多い。
それでいいのだろうか?
社会に対して愛の貸付をしているのに、踏み倒されているのだ。もっと自分たちの価値に貪欲にならなければならない。自分がしている仕事はどんな価値があるのか?きちんと認識していないから、対価を得られないのだ。当人もそこまでわかっていないのだ。
一見、金を稼ぐ仕事こそが出来る仕事のように見える。
しかし、人が変わるキッカケを提供していたり、愛で包んだり、やる気を与えていたらどうだろうか?その価値はお金には変え難いし、多くの人間は「ありがとう」の一言で終わりだ。タダ乗りだ。実際、愛ほどタダ乗りされやすいものはない。
いい人だから、無料奉仕してしまうのだ。それでまたいいと思ってしまう。それはそれで本人はいいだろう。自分は良くても、周囲は困る。それが当たり前と思われてしまう。当人や周囲にきちんと価値を伝える人間は、それだけで特別な仕事をしている。
特別な人間ほど、本質的な価値をよくわかっている。だからこそ、執着なく自然と富も徳も人も集まる。無理がなく、矛盾もない。いいことをしているのに、貧乏暇なしといったおかしな苦労するのはどこかが間違っているからだ。どの世界も楽ではないが、ここで言う苦労とは、成長の苦労とはまた違うものだ。
本質的な価値がわかる人間は、周囲にその価値を利用されやすい。だからこそ簡単に人には会えなくなってくる。本当は当人も会いたいのだが、相手のことを想って会えなくなるのだ。その切なさがわかるだろうか?
影響力のある人間は危険な兵器と同じだから、当人も周囲も取り扱いに慎重になる。緊張感のある関係がないと欺瞞に陥りやすいからそれも大事なのだ。すべてのことに意味があり無駄がない。そんな世界を知ることが出来て私は幸せだなと改めて感じた。
こうした特別な人間たちがいる世界のことを今年はもっと伝えていきたい。

太郎菩薩

草食男子という言葉を流行らせたananが昨年予言していたのは、

「菩薩系男子」という言葉だった。この言葉が流行らなくても問題ない。時代に敏感な人間たちが気づいたものすべて流行する訳ではないからだ。タイムラグもあるし、深層意識の場合もある。
今年はどんな年か?ずばり菩薩の年だと言おう。菩薩の活躍が時代をリードする。その中でも、生誕100周年である岡本太郎が象徴だ。太郎菩薩が時代を創造する。
岡本太郎が死去したとき、ある自然現象が起こったことをご存知だろうか?

太郎が死んだとき、なんと地球に隕石が飛び込み爆発したのだ!これ以上のシンクロがあるだろうか。

彼の深層意識は、世界の深層意識とシンクロしていたのだ。

太郎は、芸術を呪術と捉えていた。世界に呪術をかけていたのだ。その成果が熟成されて表面化されてきたのだ。渋谷に復活した、「明日の神話」も勿論その一環だ。ちなみに、11月17日に設置された。

彼の芸術は一般的な理解を拒むから、いつも新鮮でいられる。理解されるとは消費されることだ。「そういうことか、なるほど」と途端にわかったつもりになり、飽きてしまうのが大衆だ。
目に見えたり、わかりやすい理解で感動は伝わらない。
本当に伝わるものは、見えない世界での振動だ。それが魂を感動させるのだ。

太郎が仕掛けた、世界を変革するための呪術という仕組み。それが発動している。信号をキャッチできるよう太郎が再注目されていく。

岡本太郎は若い頃、秘密結社にて神秘体験をしている。

世界の本質を体験したのだ。

世界はすべて見えない部分にこそ真理がある。人間の心だって見えないではないか。

世界の深層意識と自分の深層意識は繋がっているんだ。自分が世界だ。自分の深い部分の葛藤を見つめれば、世界を見つめているのと同じなんだ。

一見、世界は政治家など表に出ている人間が動かしているように見える。しかし、必ず裏方の人が介在しているし、もっというと、そういう人たちも含めて、全人類にこっそりと深く影響を知らず知らずに与えている人間がいるのだ。

その一人が、間違いなく岡本太郎なのである。太郎を知ろうと知らなくても関係ないのだ。彼の残した、見えない物質が飛び回り、意識されることなく時代を創造していくのだ。

1996年1月7日、今日が彼の命日だ。
死んでまた蘇ったのだ。
偶然、昨日この祭りを知った。
我々は裏側から太郎菩薩の祭りを行っていく。

The way of every day and a bodhisattva