新世界へ

年末から年始へと予想外の連続だった。予想外には慣れていたつもりだったが、まだまだ概念があるのだと改めて認識させられた。概念を壊し続けていく中で、自由な視点が生まれてくる。自分ではその概念には気がつかないから、予想外の出来事には感謝だ。

自分の概念は、他人から突きつけられてわかるものだ。それをするのは簡単ではない。それについては去年の正月に、「ひとつになること」という記事を書いた。ひとつになりたいと自分だけが願っても、相手がそれに真剣に答えてくれなければ、一人相撲になる。かといって、適当に相手に合わせていたら、上辺だけの関係になる。大抵はその中間くらいのところで、良く言えばバランスをとって生きている。率直に言えば中途半端ということだ。

我々の仲間はそれをしない。トコトン向き合い、トコトン実践する。だからこそ生き甲斐がある。志を同じにする仲間がいる価値は計り知れない。人の面倒な部分に踏み込むのは、半端では出来ない。心の交流を描いた「ココロコネクト」というアニメがある。普通では起こらない出来事が起こる事によって、心が繋がっていく。まさに自分たちがしていることを描いている。

人生は長いようで短い。学べるタイミングというものもある。今だからこそわかることがある。そのタイミングを逃してしまえば、二度と同じ事はない。人は弱い。簡単に不安や恐怖に負けてしまう。そんなときに、どれだけの想いを周囲の人間から受けてきたかを思い出すことで、勇気に変えられる。が、それが出来ない人もいる。

ミスチルの最大のヒット曲「Tommorrow never knows」の歌詞にこんなフレーズがある。

「人は悲しいくらい忘れてゆく生きもの
愛される喜びも 寂しい過去も

今より前に進む為には
争いを避けて通れない
そんな風にして世界は今日も回り続けている

優しさだけじゃ生きられない
別れを選んだ人もいる
再び僕らは出会うだろう
この長い旅路のどこかで

心のまま僕はゆくのさ 誰も知ることのない明日へ」

出会いがあれば別れもある。切ない悲しい想いがない人生に深みがうまれるだろうか?しかし視点を変えれば、その存在が歯止めになっていたとも言える。リスクとチャンスは表裏一体。離れる事でお互いにわかる事もある。

すべての出来事をどん欲に自分に取り込み、血と肉にしていく。自己の存在を進化させることでしか、想いに報いる方法はない。
「あなたのお陰で進化できました」と。

一瞬の価値

「みにくいアヒルの子」という童話がある。アヒルと思っていたら実は白鳥だったという話しだ。アヒルの世界においては、みにくかった子だが、違う世界の子だったからそう見えただけで、白鳥の世界においてはアヒルの子のほうがみにくいと思われたことだろう。同じだと思い込んでいたが為に、外見の違いからアヒルの子ではないと見抜けなかった。

人間も同じだ。外見はどの人も同じだが、魂は違う。アヒルの世界で生きていくのがいい人と、白鳥の世界で生きる人がいる。白鳥の魂でも、アヒルの世界が大半だから、自分もアヒルだと思い込んでしまい、アヒルの皮をかぶった白鳥となる。だからどこかお互いに違和感があるのだが、そんなものだと妥協して諦めて暮らしていく。

たまに自分は白鳥だと思い込んでいるアヒルもいるから面白い。どちらが良い悪いではない。向き不向きだ。どちらも、その世界での美しさはある。アヒルと白鳥の美しさは比べられない。人間の場合は外見でパッと変わらないから、わかりづらい。アヒルでも無理して白鳥の皮をかぶっていて頑張っている人もいる。

そうした無理は続かないものだ。いつかは化けの皮がはがれてしまう。そうしたときに、それぞれ自分の世界に帰った方が生きやすいのだが、執着や慣れがそうさせない。余計苦しむ事になる。

童話では、アヒルの子が白鳥になって、誰の目にも明らかな変化を遂げる。いつかはその瞬間がやってくる。

 どんなに平穏な日常を積み重ねようと一瞬ですべてが変化してしまう。それがこの世だ。311がいい例だ。地震が起こり、その前とその後では生活は一変した。いま日本は色んな意味で激動期に入っている。今後10年以内に、地震と富士山の噴火が起こると言われている。

大衆は嫌でも変化させられてしまう一瞬を恐れている。まさかの一瞬が起こらないかのように生活している。逆に、一瞬の為に備えて生きている人たちもいる。軍隊がいい例だ。あるかわからない、戦争という事態に備えて日々訓練している。

平和時においては、軍隊などムダ飯くらいだ。日々、訓練をして、装備を揃えて、無駄にお金を使っているように見える。役に立たないとか、何もないときは文句を言われるものだが、まさかの一瞬が起きたときには、その評価は一変する。
「いてくれてよかった。ありがたい」と。しかし、平和時に言われる文句のプレッシャーに負けていたら逆に、
「なぜもっと訓練しておかなかったのか?」
「準備が足りない」などと文句を言われることになるだろう。

大衆は長期的な視点などない。目の前の事で精一杯だ。人生でも同じ事が言える。どんなに今が良くても終わりが駄目であれば、それは悲しい人生だ。終わりよければすべて良しという。終わり悪ければ、すべて悪しになるのだ。

途中でどう思われようと、最後には伝わればいいのだ。途中の評価を気にしていたら何も成し遂げられない。出来ない上に、中途半端で先ほどの話しのように、どちらにせよいつも非難されてしまう。だとしたら、いっその事やらないほうが身の為だ。中途半端にやるから自分も苦しいし、周囲にも混乱を与えてしまう。

非難を甘んじて受け入れて、最後に納得させたらいいのだ。途中であれこれ言い訳しても無駄なのだ。それがわからないから周囲は文句をいうのだから。それに付き合うよりはコツコツと言い続け、実践し続ける事だ。そうすればいつかは、
「なんだ、そうだったのか」と分かる日が来る。そうすれば途中の事など吹き飛んでしまう。意味が分からないと文句を言われていた事が、
「さすが先見の明がある」と変化するのだ。

ブレずに自分の道を信じ続ける事は簡単ではない。信念なのか?自分のエゴではないか?自分の軸を信じつつ、常にその軸を疑わなくてはならない。矛盾の中に答えがあるからだ。軸なのか?枝葉の事なのか?信念を悪用していないか?相手のためになっているのか?

悩み、葛藤を続けたものだけが、自分らしい鳥として輝くのだ。

その心は?

歴史を見ると、戦争前の選挙はどうだったか?二大勢力と小さめの勢力、そしてその他といった感じになった。第二次大戦という国際関係の変化に押されるような形で、政党はなくなり軍部の政策を推し進めるだけの体制となった。奴隷を操るのに一番いい方法は、自分が奴隷と気がつかずに、自分で決めていると思わせる事だ。

自分で考え、判断していると思っている。しかし、その考えはどこからインプットされたのか?常識や価値観は無意識に人を束縛する。自分の考えで動いているつもりが、実は視点を変えたら、ある目的の為に動かされていたらどうだろうか?

最近見た、アニメ「氷菓」でもそんなエピソードがあった。自主映画の結末を巡っての話しだ。解決なのか?創作なのか?価値があるのは問題か?人の想いか?興味があれば見て欲しい。

自分の意志で選択しているつもりでも、実は選択させられているとしたら?そう誘導されているとしたら?そしてその方が実際深い考えがあって、本人にも周囲にも誘導された方が価値あるとしたら?下手な考え休むに似たり、ということわざがある。自分で何もかもしようとするのは無理だ。良い悪いを言いたいのではない。意識できるか?できないか?

選挙という一見公平に見える手段を通す事で、なんとなく正当化され、仕方がないと思うようになってないか?それをメディアが後押しする。本当に一票の価値を考えた事があるだろうか?真剣に国の事を考え、視野が広い人の一票と、自分の事しか考えずにイメージで判断してしまう人の一票が同じ価値だろうか?前の選挙で選択した側と選択された側の責任は?

選挙制度を作った人の真意はどこにあったか?流されやすい大衆が力を持っている方が操りやすいとは思わないだろうか?賢者は、直接よりも間接的に影響力を行使する。将軍になるより、将軍に影響を持つ人になった方が効率的だ。将軍が変わっても、影響力を維持できる。

いずれにしても、どの方向へと向かっているのか?その心がわからなければ、どう解いていいかもわからない。笑点とかで、
「○○とかけて、△△と解く。その心は?」という謎掛けがある。

基本の型でもある。法則でも同じ事が言える。人生でも時代でも問題でも、テーマを解く時、ほとんどの人はその心は?を忘れてしまう。

金持ちになりたいとする。手段としてなにするのか?パチンコするのか?事業をするのか?それともおれおれ詐欺?はたまた投資家?いつの間にやら、その心を忘れてしまうから迷走する。本当であれば、
「○○とかけて、その心は?△△と解く」でなければいけない。

私のBlogを読んでくれている人は、コメントを見ればわかるが、人生を真剣に生きようとしている人ばかりだ。真剣に一個の人生を考えて向かった方が面白いと感じているから、こんなよくわからないBlogを見ているんじゃないの?(笑)

その心を忘れてしまえば、よくあるパターンになっていく。金が欲しいとか、普通の幸せとか、そんな話しだ。本当にそういうのを望んでいる人はこのBlogに縁もゆかりもないんだよ。

本当に戦争になるのが悪いの?今の地球の問題は一体なに?日本の事だけではなく、地球の問題とは何か?そういうことを考えた事があるの?また、そういうことを考えている人たちの心を考えた事がある?心が違うから、「解く」も違ってくるんだよ。

戦争とかはそういう人たちの道具ではないの?それが良い悪いとか、どうこういいたいわけではなく、本当にそういうことを真剣に考えた事があるのか?そういう考えを持っている人たちが立派な人たちだとしたらどうなるの?私益の為でなく、公益の為に戦争を考えているとしたら?戦争は悪いと簡単に言えるけど、人類の歴史は戦争で発展してきた面はどうみるの?

万が一のときの為にある保険。保険と同じように、万が一に備えている軍隊や基地。万が一の為に存在し、ほんの一瞬のためにだけ存在する。ひょっとしたら、今がその一瞬かも知れないとは思わないの?普段はムダ飯食らいだが、万が一という、そういったときのために基地とかはあるんじゃないの?

恐ろしい話しだけど、その心を追求しないと見えない世界があるのだとしたら、違う展開が出来るようになる可能性も見えてくるんだよ。

奴隷の解放

今日は何から書こうか。映画の話しか、因縁の話しか、最近面白いコメントの話しか、時代の話しか、etc。映画で言えば、昔テレビアニメで放映された時に解説した、魔法少女まどか☆マギカが劇場映画として公開された。それに伴って、「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み の記事がよく見られている。

時が過ぎても価値があるものは、当初理解されないことが多い。例えば、西洋の城と言えばディズニーのシンデレラ城をイメージする人が多いだろう。その城のモデルとなったのが、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城だ。この城を建造したルートヴィヒ2世は、歌劇王と言われた作曲家ワーグナーのパトロンでもある。ワーグナーもまた個性的で面白い人物だ。

ルートヴィヒ2世は、オペラと築城に明け暮れて、財産をそれに注ぎ込んだ。そのお陰で、精神病扱いされて、監禁されて、殺されてしまった。しかし、今や彼が作ったお城はドイツで一番の人気スポットとなった。タージマハルもそうだが、一人の狂気が後の人間に多大な影響を与えているのだ。狂ったと言われた人が後になれば、夢を追ったロマンの人と呼ばれるのだから面白い。

歴史(過去)を知れば、未来がわかる。今を知れば選択が出来る。プレッシャーやストレスがあるからこそ、価値ある選択ができる。負荷に負けたとしても、心が負けたことに学びがある。プレッシャーやストレスの環境がある事に価値がある。そこから逃げても解決はない。また次に更に大きな問題となって帰ってくるだけだ。飛び込む事でしか、本質的な解決はない。

飛び込む事が出来ない人もいる。世の中は、王様、貴族、将軍、兵士、奴隷、など色んな役目がいる。奴隷役の人に、信じて未知の世界へ飛び込めといってもコクなだけだ。飛び込む体験を望んでいないから奴隷なのだ。また奴隷が悪い訳ではない。今生で何を体験したいか?それが違うだけだ。良い悪いはない。役割が違うから世界は上手く回るのだ。

どうせなら、奴隷役をするにしても極めた方が幸せだ。誰に仕えるかで、体験できる質が大きく変わってしまう。誰の奴隷になりたいか?普通に考えたら、金持ちで優しい人の奴隷になりたいと思うだろう。それはそうだ。それもいいだろう。それはそれで難しさがある。

大事な事は、自分がどんな体験をしたいかを知る事だ。いまの自分の周囲に答えがある。いま体験している事にヒントがある。どの人に仕えたいか?表面的なことだけをみないで、愛と知恵がある人がいい。愛は時に厳しい。知恵は、受け取る側の準備が必要だ。本当の愛と知恵は分かりづらい。自分の側に受け取れるだけの準備がなければ、愛も知恵も気付く事がない。逆に、愛と知恵がある人ほど、愛と知恵がないと思われてしまうものだ。無知な人ほど、自分の視野が狭いから、相手をつまらない人間か、理解できない恐ろしい人だと見てしまう。

自分の柱(はしら)を持って行動できる人と、誰かに依存しなければ生きていけない人がいる。奴隷体質だ。自分に柱がなければ、柱となる人が必要だ。そうしないと、どうしようもない人を柱としてしまう。そういう人は利用されやすい。そして結局自分も周囲も振り回して苦しむだけである。同じ奴隷でも、意思ある奴隷と流されてする奴隷がいる。

大衆は何かしらの概念の奴隷である。奴隷である事にも気付いていない。奴隷である事に気がついて、それでも敢えてそれをするのなら、そこには選択という意思がある。奴隷である事に気がつかない奴隷は、利用されるだけである。価値ある奴隷とただの奴隷。

映画「イエスマン」のように、イエスイエスと受け入れて奴隷を超える事も出来る。半端な奴隷をするくらいなら、トコトン奴隷をやった方が良い。相手にしても、そこまで背負う覚悟のある主人は少ない。トコトン受け入れたら、逆に奴隷から解放される。受け入れられないと一部の概念しか受け入れないから、ある概念の奴隷になるのだ。わかるだろうか?

奴隷になりたがる人のなんと多い事か。日本はとても優秀な奴隷国家だ。国家を代表して会見する場でどんな紋章が使われているか?ご存知だろうか?

最近コメント欄でそれについて書かれていた。この事についても書こうと思っていたので、シンクロしていて面白い。今日はその話しに飛ばなかったのでまた今度書こうと思う。

時の裁判所

今日はダライ・ラマ猊下を沖縄にお呼びした日だ。尖閣諸島問題もあり、中国との関係性が微妙な時期にあえてお呼びしている。奇しくも、(ランダムか?決定か?)共産党大会が行われているこの時期に!そしてチベット族の過去最大のデモが起こっているこの時期に!

偶然だろうか?必然だろうか?偶然でもすごいし、必然だとしたらもっとすごいではないか。中国のチベット問題と尖閣諸島問題は関係ないだろうか?どちらも領土問題は存在しないことになっている。この時期に来沖するのは中国に対する挑戦とも見られるし、かといって訪問中止したとしたら、圧力に屈したことになる。日程は先に決まっていた。すると、こうなることがわかっていたのか?それとも偶然か?

「誰に会ってみたいか?」と聞かれた際に、
「天皇陛下かダライ・ラマ」と答えてきた私にとっても感慨深い。そして今日はその招聘に関係している、ある重要人物の方にとっての記念日でもある。この日に行われてるのは偶然か?必然か?毎日同じに見えるが運命的な日というものがある。多くの人間にとっても節目となる日だ。見える形では元旦などはわかりやすい。気付かれないが、見えない影響を及ぼす日もある。

話しを戻そう。血族ではない、予言によって選ばれるダライ・ラマ。血縁という因縁を超えた因縁。わずか3歳で生まれ変わりと認定されている。ノーベル平和賞も受賞して、欧米からも支持があつい。ハリウッドにファンが多数いる。なぜだろうか?チベットは裕福な国でもなく、有名な大学や教育機関があるわけでもない。暗殺されそうになりながら教育されたきた人間が、生き仏として慕われている。不思議ではないか?また、なぜ14世までダライ・ラマ制度が続いてこられたのか?どちらも形ではない、本質に触れる何かしら理由があるからではないか?

チベットは独立国ではなく中国の一部になっている。似ているが、ヴァチカンはイタリアの中でヴァチカン市国という扱いだ。対照的で面白い。ローマ教皇は高齢で選ばれる。ダライ・ラマは5歳で指導者の地位に就いた。どちらも血縁ではない。どちらかが分かれば一方もわかる。世界は相似で満ちている。

11月は私にとって節目の月になっている。チャンスと共にピンチも訪れる。飛躍できるか?それとも落ちるか?年々、誕生日プレゼントのサプライズのスケールが大きくなってきている。だからこそ、それを活かせなければ一気にツケがやってくる。嬉しい反面、崖っぷちに立たされる気分にもなる。常に逃げ場がない環境。それがあることに感謝である。

やり続けられる環境を作る事がどんなに難しい事か。作る側になって初めてわかることである。予想を超えてキッカケを作る事は簡単ではない。しかし、目の前の事にキチンと向かっていれば必ず導かれる。天の応援というものを強く感じる。環境が人を変えるのだ。

焦らず、力まず、だがシッカリと向かって形にしていく。根を張ることから、実を結ぶことへと意識を向けている。熟れた果物が自然と落ちる時に、落ちるその場に自然といられたら最高だ。熟する前に、力づくで摘むのでもなく、落ちてしまった実を拾うのでもなく。そっと手を伸ばすと同時に落ちてくるような共時性。そんな瞬間に微笑みが自然と生まれる。

しかし、その瞬間瞬間の判断をしないと、その先に行動もない。すると、
「やっておけばよかった!」では終わらない。しなかったことのツケがやってくるのだ。同じ時は二度とない。やらなかったことのツケは大きい。やりさえすれば、失敗したとしても執行猶予がつくか、また判決までの挽回ができる。何もしなければ、判決がくだされてしまうのだ。判決が下されてしまうと、それを覆すのは大変だ。時の裁判所が判決を下す前に、一生懸命努力して証拠作りをしておくことで、良い判決がくだるのだ(笑)

Ps:世界に一つしかない手作り装飾の帽子を頂きました!

擬態

時代の動きが速すぎて大変だ。なかなか落ち着いて書けない間に、随分と動きが出てきている。表面の動きに目くらましされて、気が付いたら大衆は誘導されているだろう。なぜ突然小沢氏の報道は消えたのか?このことだけ見ても、いかにメディアがある意図をもって動いていることがわかる。

ミスチルに「擬態(ギタイ)」という歌がある。

富を得た者はそうでない者より
満たされてるって思ってるの!?
障害を持つ者はそうでない者より
不自由だって誰が決めんの!?
目じゃないとこ
耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
見落としてしまう
何かに擬態したものばかり

表面だけに捉われていたら、見落としてしまう。政治も経済も、表に出てくる情報だけを見ていたら本質はわからない。何かに擬態したものばかりだからだ。擬態とは、簡単にいえば偽の姿だ。本当の姿を隠して、偽の姿を本当だと思わせている。

小沢が消えて、話題になっているのが橋下市長だろう。朝日との間にその出自をめぐって戦いをしていたのが新しい。彼の名前は、戸籍上はハシシタと読む。差別を嫌ってハシモトと自称している。数年前までは、彼がこのように政治の注目の的になるとはだれが想像しただろうか?

弁護士だった彼が注目されたキッカケは、法廷に立つのが弁護士の華であるのに、示談専門の弁護士でやっていたことにある。弁護士なのに法廷に立たないのは面白いと注目されてテレビに出だした。仲間が昔、彼と番組をやっていたことがある。その時は大人しい人で、今のような攻撃的な姿は全く想像つかなかったと口を揃えて言う。

一体何が彼を変えたのか?目立つ人間には試練が訪れる。人によっては、逮捕だったり、脱税だったりと国が影響力を行使する手段は色々ある。橋下氏も例にもれず、脱税で因縁づけされた。それがキッカケで彼は別人のように大きく変わっていった。

本来なら今こそ小沢氏のように責められてもおかしくないはずだ。言いたい放題いっても、浮気がばれても、堂々と注目され続けている。さぁそこに何があるのか?

いまや、彼にはSPといって、ソフトバンクとパソナがバックアップしている。パチンコのPでもある。資金力も付け、次の選挙では橋下旋風が起こるのではないかといわれている。さて本当にそうなるだろうか?

選挙といえば小沢が強いという話はどこにいったのだろうか?面白いことに、橋下氏自身は選挙には出ないという。これは歴史上のある人物のやり方にそっくりである。わかるだろうか?歴史は繰り返すのか?彼が本当にあこがれている人は誰かわかるだろうか?

一連の尖閣諸島問題の火付け役である石原都知事。彼はどこで尖閣諸島買い取りを発表したか知っているだろうか?わざわざアメリカにいって、ヘリテージ財団主催の講演会で言い出したのだ。この財団はどんな財団か調べてみたらいい。しかもその発表の数日前に、中国では薄熙来が攻撃されだした。関係ないと思うだろうか?じゃあなぜ、日本政府は尖閣国有化を盧溝橋事件の日に発表し、911に国有化したのか?9月18日は満州事変の日で問題となるはわかっていたのにだ。

いまや、尖閣諸島では中国と揉め、竹島で韓国と揉め、北方領土ではロシアと揉め、日本の周囲はもはや敵しかいなくなっている。大東亜戦争前夜とそっくりではないか。まるでABCD包囲網の再来だ。もはや種はまかれてたのだ。いつ戦争という芽が出始めてもおかしくない。

戦争したがっている人がいたとしたらどうだろう?少なくとも石原氏は戦争しなければならないという使命感に燃えている。腐った日本に活を入れるために戦争を望んでいるかもしれない。もしくは借金を帳消しにするためかもしれない。いずれにせよ、自分と同じ考えの人が当たり前で普通だと思わない方がいい。いつの世も、先を見通せる人間は少ない。少ないからこそ価値がある。大衆は数に惑わされる。

質より量に走るのだ。質も量も揃えようとしたらすぐには出来ない。質はすぐには高まらないが、量はすぐに作れる。このBlogの読者は少ないが、その分真剣に読んでいる人が多い。コメントしづらいとよく言われるが、気軽に書けないからこそ、書かれたコメントには価値がある。その反面、アイドルのBlogは読者数もコメントも多いだろうが、中身はほとんどない。広告をして、アイドルのBlog並みに私のBlogが読まれたとしても、その価値がわかる人は少ないから、そんな無駄なことはしない。

擬態を見破る眼力は、求める心によって導かれる。いまの空気を感じておくことだ。後で振り返って、とんでもない時代に生きていたと思う時が来るだろうから。

因縁の世界

 進化を続けていくと、新たな壁にぶつかる。ところが、その新たな壁は今までの壁と同じに見えるから、同じようなやり方で対処してしまう。まさか、ルールが変わったとは思いつかない。

同じやり方でやっても、解決できなかったりする。問題は、問題そのものには答えがない。問題を解く一つの方法として、より大きな問題を持ってくるという高度なやり方もある。ルールが変わったときには有効な手段となる。

慣れてきた、得意になってきたら要注意だ。意味が分からないというのは良い信号だ。わかりづらいかな?いつまでも同じやり方をしているのでは能がない。進化しなければ利用されてしまう。大衆はいつも同じ過ちを繰り返す。考えないし、楽だからだ。わからないことに向き合い続ける人間だけが光をつかめる。

一方で、不変の法則を活用し、時代をリードし続ける人々もいる。ロスチャイルド家がこれほど長く語り続けられているのには訳がある。平清盛は一代で栄華を極めすぐに没落した。長い間栄え続けるには、表に立っては難しい。

裏に回る事で、長く影響力を持ち続けられる。密教的にもエネルギーを得られるやり方だ。存在するのか?存在しないのか?よくわからないから価値がある。ではよくわからないのに、なぜロスチャイルドやロックフェラーはよく名前が出てくるのか?

一体彼らは本当にユダヤ人なのか?時代は進んでいる。もはや、最先端ではロスチャイルドは古くて、タクシス家だと言われている。ロスチャイルドは金融で、情報を握っているのがタクシス家だ。更に言うと、テロとか暴力を担当しているのがサヴォイ家だ。

名前が出ているときには、既にその実態は他に移っているのだ。移っているからこそ、その名前を使えるのだ。今が良いと思われているものは、実はもう終わっているのだ。終わっているからこそ、それを使えるのだ。

最後は家に行き着く。因縁が結局は中心になってくる。その下に企業などがある。因縁に企業がひもつくのだ。因縁管理が出来ないと家は衰退する。因縁管理が世界で一番上手くいっているのが、日本の天皇家だ。世界で一番長く続いている王家だ。

因縁の力を国家は良く理解している。また因縁の力を利用しなければ、国家はうまく治まらない。因縁の作用を利用して統治するのだ。その証拠に、国家は近親婚を禁止する。表向きの理由は遺伝子異常がでるからとされている。本当は霊的な作用が起こるからなのだ。それは表で堂々と言えないから、肉体のせいにして規制するのだ。本当に問題なら、なぜ近親婚を繰り返してきた天皇家が続いているのだろうか?

長く続くのには理由がある。多くの壁を乗り越えたからこそ、継続できている。因縁にヒントがある。一番大変な問題だからこそ、その作用次第で大きな効果が生まれるのだ。論理では到底解決できないのが、因縁問題だ。

色んな方向からのアプローチがなければ因縁は難しい。近くて遠い問題。深くて浅く見える問題が因縁問題なのだ。ここに世界の秘密が隠されている。

菩薩冥利に尽きる

 想い通りにいかないと嫌な気持ちになるのが普通だ。仕事でも家族でも恋でも、自分の想いが伝わらないとか、理解不能な行動するとか、好きになってくれないとかで苦しい想いをする。それぞれ別のように見えるが、根っこは同じだ。相手の想いより、自分の想いが優先してしまうことで理不尽なように感じてしまう。

かといって、相手の方が想いがあるとは限らない。また、想い方の違いもある。一概に比較はできない。その人なりの想い方も認めつつも、それに合わせすぎてもおかしくなる。考えすぎると段々わからなくなってくる。気持ちが入っている因縁関係であれば尚更だ。冷静に見る事は難しい。感情が入るとほとんどの場合水掛け論になってしまう。

信頼や愛情はどこから生まれるのだろうか?

何も問題がないほうが生まれるのだろうか?だが時間がある以上、物事は変わっていく。いつかは必ず変化が起き、同じ状態ではいられない。
「このままの状態が続けばいいのに」と思う事もあるだろう。状態や感動が充実したものであればあるほど、終わった後、祭りの後の余韻は切なく、寂しくなる。逆に言えば、切なく寂しい気持ちを感じたなら、それは素晴らしい体験をしたという事だ。それだけ人生の質は豊かになっている。

いつかは終わってしまう。生きていると同時に死に向かっているのが生命だ。時間は有限だ。であるならば、問題には早く向き合って体験した方が良い。辛い事も苦しい事も、過ぎてしまえば良い思い出に出来る。ただ、きちんと向き合ってこそだ。逃げてしまえばいつまでも心の痛みとして残ってしまう。

それが悪い訳ではない。人間は痛い経験をしないと学ばない。しかしいつかは、その体験を克服し、次の世界へと旅立つ時が来る。卒業は寂しいが、また新たな世界も待っている。卒業したからといって、全く関係なくなる訳ではない。本人の霊魂に刻まれた体験は永遠のものだ。二度と同じ体験はできないからこそ、愛しく切ないのだ。

辛い体験も問題も、今だからこそ体験できる事だ。今しか体験できない。同じ時間を共有できることの素晴らしさは、後になってわかることだ。今分からなくてもいい。勿論、分かった方が良いが、分からなくても構わない。いつかは分かる事だ。

逆に後で分かった方が、感謝や感動、切なさは膨らむ。と同時に、
「なんて自分は世界が狭かったのか」と恥ずかしくなる。その気持ちををまた次のエネルギーに代えられる。次こそは一期一会を大事にしようと。

人は皆未熟だからこそ、この世に生を受けて体験している。同じ仲間だ。それぞれが助け合って、最適な経験をできるよう無意識に協力し合っている。一人ではできないことだ。敵でさえもありがたいことだと頭ではわかる。心では納得できないものだ。無理に納得しようとするとおかしくなる。嫌なものは嫌で、素直でいい。

ただ、その嫌なものの先に光がある。

どの道も楽ではない。この言葉に自分はどれだけ救われてきたか。どうせ辛いのであれば、魂の糧になる辛さが良い。辛いからこそ愛しい。見えないからこそ希望がある。自分の限界、試されている飛躍の機会、大きな喜びの前には必ず試練がある。

試練に向かっていると、時に思わぬご褒美がある。

回数にして言えば、ほんの数回しか合っていなかった男性がいた。後から聞いたが、私の事を相当怪しい人だと思って警戒していたという。彼は科学者で真面目な方だ。それに引き換え、自分は何者か不明な人間で、ネットで調べたら怪しい話ししか出てこない。それは警戒するだろう。警戒しない方が変だ。自分でもそう思う。

それでもご縁があって、信じて沖縄にまで来てくれた。来てよかったと感動してくれたが、そういう感動を味わう前に想いのこもった行動をしてくれていた。感動したからしたのではない。時に人は説明のつかない行動をする。本当に大事な事は説明などつかないことが多い。

彼は私の肖像画を描いてくれていた。一日で集中して、それを書く為にネットで写真を集め、ひたすらどんな人間かを考えて集中して書き上げてくれた。ただ、肖像画を描いてくれたから嬉しいというだけではない。

よくわからない人間の為に、そこまで時間と労力をかけてくれたのだ。そうさせたのは、自分の代わりに会って話していてくれた仲間の存在のお陰だ。想いがある彼らのお陰で、私もそうした魂を持っていると彼の霊魂は感じてくれたのだ。

肖像画のプレゼントをされて、改めて色々あったけど、沖縄や仲間を信じてここまでやってきてよかったなと報われた気分になった。幸せは予期せぬタイミングでやってくる。エネルギーを貰い、また更に頑張れる。濃い体験が出来て本当に菩薩行は素晴らしい。確かに大変だけど、それだけの価値があるよと、皆さんにも菩薩の道をお勧めしたい。

決定論か、ランダム論か

 秋分の日が過ぎた。22日が秋分の日となるのは116年ぶりとのことだ。気にしなければ何ともないことだ。天体の動きなど何の影響もないと考えるのが科学的な見方。というのが一般的な視点だろう。ではなぜそれがニュースになるのか?ただのお知らせか?珍しいからか?

天体の動きは前もって予想できる。暦(こよみ)いわゆるカレンダーも、天体の動きを元にしている。昔から、暦を制定できるものは権力者だけで、暦には権力者の思想が織り込まれている。暦を支配するものが、世界を支配するのだ。現代の我々は普通に西暦を使っているが、それは無意識に西洋の思想に支配されているのと同じだ。ちなみに敗戦までは皇紀が使われていて、この皇紀は聖徳太子が制定したものだ。これも深い話しがある。堂々と誰もが使うカレンダーを通して、潜在意識に働きかけられているのだ。

サブリミナル効果というのを聞いた事がないだろうか?映画とかで、目にも留まらぬ早さでコーラを飲んでいるシーンを入れると、意識せずにコーラが飲みたくなるという話しで有名だ。人は意外に簡単に影響を受けやすい。マスコミや常識、雰囲気といったモノに無意識に影響されて洗脳されている。良い悪いの判断も、一体どこにその起源があるのか?よくよく考えずに受け入れる。

カレンダーは何年先も数字で決まっている。先を考える中で、片方は1万年先を考えている人と、片方は明日のことしか考えられない人では、話しが合う訳がない。明日のことしか見えていない人は、先の事を見ている人間に誘導されていく。これは良い悪いではない。そうしなければどうなるだろうか?世界はどうなるのだろう?

リードする人間たちは決定論で動いている。そして、リーダーは大衆にはランダム論で話すのだ。こういう形に持っていくぞという絵があって、それを実現するための方法を落とし込んでいく。大衆にはランダムでそれが起こっているように見える。

方向が決まってから落とし込むのが得意なのは官僚たちだ。官僚は学習と反復を得意としている。自分では決められない。決めてくれる人に弱い。企画と実行部隊は違うのだ。

仕掛ける側の例を書こう。ユダヤ教の実力者は、キリスト教の教会を豪華に作る。そしてキリスト教を発展させ、その幹部に対してユダヤ教の実力者が影響を及ぼす。キリスト教の信者に間接的に影響を与えるのだ。そして、その信者には、
「皆さん、明日は何が起こるかわかりません。だから神に祈りましょう」と教えるのだ。で、明日の事件を仕掛けて、
「ほら、何があるかわからない世の中です。怖いですね」とマッチポンプするのだ。

決定論か?ランダム論?かで問われると、ついどちらかのスタンスだけを選んでしまいがちだ。両方の考え方を利用してるとは考えにくい。思考の罠に大衆はハマりやすい。真面目脳だ。問いを作った人の真意はどこにあるのか?カオスを作る為なのか?どこかに誘導するためなのか?

カオス(混沌)の中から、新たな創造は起こっていく。カオスとランダムは似ている。意図があるのか?ないのか?管理できるのか?管理できないのか?

カオスを創りだし、そのなかを決定論を持ちながらランダムに楽しむ。人生、目的があるから頑張れるし、先がわからないから楽しい。いずれにせよ、変化が加速する事は決定している。

事実は小説より奇なり

 大変な時代になってきた。交代したばかりの駐中国大使がわずか数日で亡くなった。あり得ない話しだ。中国では略奪まで起きている。その最中の大事な中国大使を任命するのに身体検査もせずに任命するだろうか?当然、健康問題などない人を厳選して選んでいる。なぜ突然路上で倒れ、そのまま亡くなったのか?不思議と思わないだろうか?

数日前にも、松下金融担当大臣が自殺した。本当に自殺だと思うだろうか?なぜこうもタイミングよく続いて死亡事件が起きているのか?愛人に手紙をばらされたからといって、自殺するような繊細な人が金融大臣などできるだろうか?インサイダーやお金儲けの渦の中でする仕事がそんなヤワな精神で出来る訳がない。これはある検査がキッカケで起きたことだ。そのまま書くと関係者に差し障りがあるから書けないが、ある金融企業が関係している。この流れは、松岡農相が自殺した時と似ている。

中川一郎、昭一氏の死も不審点だらけではないか。中川昭一に至っては、G7という大舞台でもうろう会見をさせられていた。これも不思議ではないか。国を背負ってる人間だ。日本の恥となるようなことをなぜ側近は止めないのか?もうろうとしていたら、体調が悪くて欠席にするのが普通だろう。なぜ敢えて恥をさらさせるのか?この意味は何か?仕掛ける側の考え方がわかれば納得できる。これはメッセージだ。

メッセージといえば、変わったばかりの中国大使は亡くなったが、前任の中国よりの発言をしていた丹羽大使は、車の国旗を取られただけだ。片方は生きて、片方は死ぬ。これはどんな意味があるか?これは露骨すぎるくらいわかりやすい例ではないか。

堂々とやってしまえば逆にわかりづらいのだ。コソコソのほうが意図がバレやすい。湾岸戦争だって、堂々と鳥がオイルまみれになっているインチキ映像を流して、戦争へと誘導した。最近ではプーチン大統領もやらせを告白している。演出は当たり前なのだ。大衆を誘導する為にメディアはある。

だから、価値ある情報は人づてにしか入らない。自分の概念を超える見方も、自分からは出てこない。これは深い話しだ。イエスマンとも通じる話しだ。イエスマンの世界は、アメリカにあるのか?日本にあるのか?

世界はより露骨になってきた。よく考えて欲しい。個人主義の国、中国で大半の人は金儲けに夢中だ。そんな人間たちが、今まで聞いた事も見た事もなかった尖閣諸島の事であそこまで騒ぐだろうか?ましてや、何か問題があればすぐに死刑になる国だ。何かしらのお墨付きがなければ怖くて騒げもしない。政府に雇われて、お金貰えて、合法的に騒げてストレス発散できるのだとしたらどうだろうか?今の動きが計算通りだとしたら?その先にあるものは?国民の眼が外に向くメリットは?中国国内の経済成長にかげりが出てきた事と無関係だろうか?なぜ毛沢東が出てくるのか?先日失脚した熙来氏との関係は?考えたら不思議なことだらけだ。彼らは愛国無罪というキーワードまで用意して誘導している。

この世は全くの偶然で出来ているのだろうか?それとも、確定してすべて決まっているのだろうか?仕掛ける側と仕掛けられる側があるとしたら?企業でも事業計画があるのに、政治や国に影響を与えている人間たちには計画がないのだろうか?

いずれにせよ、大変な時代に我々は生きている。昭和初期と同じようなものだ。時代の変革期に直面している。が、しかし、あまりにも日常のぬるま湯に浸かりすぎて、感覚がもう麻痺している。実感が湧かないのだ。気がついたら死んでる、それでは手遅れだ。

まさかそんなこと起こるわけないとタカをくくっていたら、まさかの事態が起きて、エスカレートしていく。311を思い出して欲しい。起こる前はまさか日本で原発事故が起こるとは思わなかっただろう。戦争も起きてしまえば、憎しみの連鎖が起きて止められなくなる。そして、火をつけられた国同士がいがみ合い、引くに引けなくなり、行くところまでいってしまう。

中東の急変が遠い出来事だろうか?中国と日本が揉めてどこが一番得するだろうか?本当に戦争が起こらないと言えるだろうか?歴史を見るがいい。ちょうど18日は81年目の柳条湖事件の日ではないか。これは良い悪いではない。仕掛ける人がいて、事変は起きている。

別にここで書いてある事を信じなくてもいい。自分にとっても、フィクションかノンフィクションかは問題ではない。だが、仕掛ける側の思考がわかれば、同じように世界を創れる。自分たちはそれを実践しているだけだ。

どうやって世界を創るのか?言葉や表面だけを見ていては絶対にたどり着けない。ここで、ただゴシップを書いているのではない。松下金融の大臣の真相がわかったところで、活かせないのだとしたら何の意味があるだろうか?どうして、そういうことが起こるのか?また何の為にそれを起こすのか?この世を動かす側の思考は巧妙だ。考えれば考えるほどわからなくなり、思考停止へと誘導される。その意図と仕組みが分かれば、世界の動きが見えてくる。

「あーもう、よくわからないや」と大衆は思考を止めて、日常に戻り流されていく。仕掛ける側は、意図的にカオス(混沌)を創りだし、世界を動かしている。よくわからないことを追求する人はほとんどいない。適当に、
「これはこういうコトだよ」と決めつけて納得する。レッテルを貼れば分かった気になる。それに矛盾するような情報があっても無視する。

世界を知るキッカケにして欲しいから、一見ゴシップのような陰謀論にも見える話しをあえて書いているのだ。自分は沖縄を通して、世界の構造を学んでいる。まだまだ奥が深い。しかし、一部分かっただけでも心の財閥が出来たのだ。

実践して既に形になっているからこそ、自信を持って伝えている。自分たちの周囲で起きている事もまるで漫画のようだ。だからこそ、変な形で報道されたり、伝わったりする。あまりにも漫画過ぎる出来事だと、それが真実と思われないからだ。

分かりやすく言うと、不良が愛に目覚めたとする。でも普通の人はそんなことあり得ないと思う。不良だったんだから、愛ではなくお金目当てで愛のあるフリをしているだけだと考える。その方が自然で自分の考えになじみやすいものだから、信じやすい。自分が愛に目覚めた事がなければ、尚更不良にそんなことが起こる訳がないと思い込む。さもなければ、不良を洗脳した黒幕がいてそいつのせいだと決めつける。

信じやすい情報が嘘で、信じにくい情報が本当だとしたらどうだろう?信じる事より疑う事の方が楽だ
と何度も書いてきた。本当に日本は資源がないのだろうか?もし豊富に資源があるとしたら?実は日本は大産油国だといっても、常識に凝り固まった人間は信じないだろう。

好きなだけ疑えばいいが、世界の真実を知り、実際にそのやり方で世界を創っている。他に面白い世界があるのだろうか?科学も宗教も戦争も歴史もビジネスも、すべて関係してくる世界だ。

だから、世界中でフリーメーソンやユダヤのことは話題で、興味を持たない人はいない。ダヴィンチコードの例を見ればわかるように、世界中秘密が好きでたまらない。だが、知れば知るほどわからなくなる世界でもある。カオスだ。だから面白いし、本当にわかるには実践して確かめるしかないのだ。

最近では、テレビで鳩山邦夫氏が鳩山家はフリーメーソンだと話しているくらいだ。フリーメーソンもイルミナティもよくわからないだろう。少しわかっても実践できないのが関の山だ。秘密結社を創った人が周りにいるだろうか?あったら入りたいと思わないか?

映画も事実の方がよっぽど面白いから、事実からネタを取っているものばかりだ。「フィリップ、きみを愛してる」なんて実話でいい例だ。すぐ近くに非日常はあるのだ。

The way of every day and a bodhisattva