肩書きの限界
2005年前後、「デスノート」という漫画が連載されていた。人を殺せる死神のノートを使って理想郷を作ろうとする「キラ=夜神月」と、「キラ」を捕まえようとする「L」という探偵とその後継者の物語だ。
お互いに、知恵をこらして名前も顔も知らない相手を探し出す、という大雑把に言えばそんなストーリーだ。
デスノートで面白いのは、「キラ」が「L」を倒した後に、「キラ」が「L」にもなり、また「L」の助手の「ワタリ」にもなっているということ。一人で何人もの役をこなしている。
「キラ」と「L」は同一人物になるが、見せかけの対立をすることによって、まるで本当に存在しない人間を存在するかのように見せている。
これは「一人は一人」であるという概念を吹っ飛ばしたものであり、実際にこの手法は特別な世界ほど使われている。
例えば、私の尊敬する沖縄の人物は、あるところでは「黒幕」、あるところでは「資産家」、あるところでは「宗教家」、あるところでは「政治家」、あるところでは・・・、といくつもの顔を持っている。
世界を創っている人間というのはそういった人であり、本当にすごい人間というのは、見る角度を変えるだけでいくつもの顔が見えてくるのだ。多重人格とも違い、我々がよく使う言葉として、「霊」と呼ぶことができるモノだ。
物語内では、夜神月=優秀な学生=キラ=L=繋ぐ者=・・・であったりする。これは頭の中で、同時に2つ3つの思考をしているのだ。つまり、世界を動かすくらい本当にすごい人は、いくつもの顔を持っている分だけ、同時に思考を展開している。
これは普通の世界に生きる人、つまりは、肩書を持って「自分は~~です。」と言いきってしまえる人は、一生たどり着けない領域であり、絶対に超えることのできない壁なのである。
これは漫画のなかの話ではない。肩書きをつけることによって、人は自分自身で可能性をそこまでの領域に留めてしまう。そうであるほうが安心できるからだ。そして、さらに上の肩書きを求めるようになり、どこまでいっても満足しない。
大企業の社長であれ、その肩書きで押さえつけられている。本当にすごい人は、名刺に肩書きなどは書いていない。名刺さえない。「人間」で勝負するのだ。
自分が培ってきたオーラのみで勝負できるからだ。また、それを支える環境が構築されているからだ。
こうした特別なやり方も、ただ手法だけ真似ると輩(やから)となる。例えば、詐欺師。一人何役もこなして人を騙すが、それは自分の利益のためだ。
すごい人間の場合は、相手を導くために、話しを受け入れやすくするために、その人に合った顔となる。観音様が相手に応じて多彩な顔をするようなものだ。自分の利益ではなく、その人の為にする行為なのだ。
しかし、人はその愛に気づくより、自分の概念を優先し、「何者なのだ?怪しい」と警戒してしまうのだ。自分の概念が世界を狭くする。
本当に愛から来ているのか?利益のためにやっているか?これを判断するのは難しい。しかし、すべて向き合って逃げずにいれば、自ずと答えはでてくる。インチキは長続きはしないものだ。
本物しか残らない。肩書きを超えて、自分の本質を磨き続けよう。
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