時代の溝
最近、寝ても覚めても考えていることがある。どのようにしたら、真に我々の活動の価値を伝えられるか。これは本当に難しい問題だ。どんなに素晴らしいものでも、価値が伝わっていなければ何もないのと同じだ。
半端な人間にこの価値がわかるものかと、一人悦に入ってしまえば自己欺瞞となってしまう。仏でさえも、皆を悟りへと導くために、様々な方便を使って導いた。素直に説明してわかるものだったら、それは今までと同じ概念だ。簡単に理解できないから新しい概念なのだ。
時代が移り変わる時には、「時代の交通整理」がある。新時代に移行するには、ある程度の犠牲が必要になる。例えば、武士が刀を捨てたように。
廃刀が世の流れとなるまでは、刀は武士の魂だという強固な概念を持つ人々と戦っていかねばならない。やがて、時代がその戦いを応援するが、それまでは新たな概念を訴え続ける必要がある。
時代に逆行するものとは、戦い続けなければならない。中途半端に残しておいてはいけないのだ。廃刀令がでたことで、時代の変化を嫌でも感じ、次の時代へと向かうことができたのだ。
時代を読むことができる人間は大勢いるが、その人間達も2種類に分けることができる。
「時空を飛び越え、リスクを背負って新時代に突入する人間」と
「今までの概念に執着して、旧時代の終わりが来るまで待機する人間」である。
後者が新時代に移行するには、新時代の流れが出来るまでの時間が必要となる。旧時代と新時代の間には溝があるのだ。その溝を埋める人間にならなければならない。それは新時代に生きる人たちの役割である。
私は現在、昔の人脈に時代を享受させきれていない。それは意識的であれ、無意識的であれ、そうなのだから認めなければならない。その上で、ご縁があった人々に時代を享受させるためにはどうしたら良いか、と思考錯誤をしている。
まず、今までの歴史を見ると、石油(旧々時代)→IT(旧時代)→沖縄(新時代)と時代の変化が起こっている。言い方を変えると、工業化→情報化→感性化社会となる。
最初にITの人間は石油の人間を誘導することが必要であり、沖縄の人間はITの人間を誘導することが必要となる。要は石油とIT、ITと沖縄の間の溝を埋めていかなければならないのだ。
石油からITへはすでに起こった出来事だ。前時代の変化時、ITの人間は、上手にIT時代をイメージさせることによって、石油の人間から資金を投資させた。金融というシステムもIT時代を迎えたから飛躍した。最初さえうまくいけば、後は大衆の原理により、自然に時代が移行していく。前時代変化はそう起こった。
では、次の時代の鍵となるのは、やはりITのなかでも先に新時代を体験した私なのである。(如来から「お前は先の時代を走っているのになんで時代を昔の人脈に享受してないんだ。しっかり菩薩の仕事をしろ。」と言われてしまった。)
ITの世界に生きる人々は、ITの世界のなかでの比較によって、物事を決定するようになっている。それはその世界を創ったモノの強固な概念であり、そうでなければ困る人間もいるのである。しかし、その世界の比較の中に答えはない。
そこではないところに、人間としての本当の答えがあり、
そこではないところに、時代というモノの物質がある。
それを私が感じさせなければいけないが、例えば、私がいくら一生懸命説明したところで、沖縄に逃げている、宗教に逃げている、などと低レベルな次元で話をされたら、そこで終わってしまう。
そうではなく、本当は旧時代から新時代に移行した人間の変化をお見せしたいのである。体験すれば一発で理解させることができるのであるが、説明することはできないのだ。
旧時代と新時代の溝、普通の世界と特別な世界との溝、を埋めることが重要だ。おそらく、その溝を超えることは人間の進化とも呼べるべきものであろう。つまり、我々がやろうとしていることは、人間の進化の促進につながる。この溝は、いつの時代でも常に現われてきたものである。
人類の歴史は変化の連続によって成り立っている。その大きな流れの中で、時代が一瞬にして変わってしまう時期がある。それは人類が発展するのに必ず必要な時期であり、その連続で時代はできている。
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