菩薩シザーハンズ

映画「シザーハンズ」は我々の世界すべてが表現されている。

如来、菩薩、菩薩道を歩もうとする人間、大衆、悪霊、ユタ。

シザーハンズでいえば、お城に住んでいた博士が「如来」である。博士は一見「手がハサミ」という化け物を作ったマッドサイエンティストのようにも見える。しかし、映画のなかをよく観察すると、可愛らしい暖かい機械たちが、ハート形のクッキーを焼いていたのがわかる。心優しいからそういう形の機械とハートのクッキーを作るのだ。

広大なお城に一人で住んでいて寂しいように感じるが、本人の博士自身は微笑んでいて楽しそうでもある。

またあれほどのお城を持っているのだから、経済的にも成功しているし、博士が死んだ後も、その城は治外法権のように残されている。エドワードがジムを殺しても、警察は立ち入らなかったし、その後もエドワードは住み続けた。

体制に守られているともいえる。特別な地域として残されている神社仏閣のようなものの象徴でもある。

神社仏閣といえば、シャーマン(巫女、またはユタ)も映画には登場している。彼女は最初からエドワードを悪魔の使いとみなしていたが、彼女自身も世の中では浮いた存在だ。

彼女のような人間も、社会には必ず存在するという信号だ。彼女のような感じやすい霊感の持ち主は、どこの社会にもいて、ある一定のパワーを超えた人をみると、悪魔とか天使とか言うが、その二つはパワーのベクトルが違うだけである。

自分を超えたパワーの持ち主のことは、当人には理解できないものだ。彼女は、目に見える物質的なことよりも、心が大事とわかっているから、大衆とも仲良く一緒にはいられない。

でも、エドワードのような愛そのものが来たら怖い。だから否定する。人より霊感があり、見えない世界をわかっている自信から、理解できない存在は認めないのだ。

大衆はなにか未知のものが来ると、興味本位と本来の噂好きでみんな集まってくる。そして、お祭りのようにゴシップで騒ぎ立てる。

エドワードが町にきたとき、町に住む人々は最初エドワードを賑やかに迎え入れてくれた。興味本位で彼に庭を整備させたり、髪を切らせたりした。使えると思うと本人の意思など関係なく事業をやらせようとして、果ては性的に襲いかかってきた。

しかし、どうだろう。一度悪い噂が流れると、それが事実ではなくとも、一気に悪者に仕立て上げる。あれだけ、みんなが喜ぶことをしていたのに、一変して「あいつは悪だ!」と騒ぎ立てる。無責任この上ない。

これを「大衆」と呼ぶ。
そして、大衆は何の罪悪感もなく、次の未知なるものをただ待つだけの生活に戻る。

最後にこの映画の最も大事なメッセージだ。

なぜ博士は最初から普通の手を作らなかったのであろうか?これも意味がある。

普通に考えたら、人型ロボットを作るのに一番苦労するのは「心」である。他のどのロボット映画も「心」を創ることができなくて困っている。それは現実のロボット工学でもそうだ。

しかし、博士が創ったエドワードは心は完璧なのだ。人間の心を完全に創りだした天才なのだ。その天才が普通の手を先に作れないはずがない。完成していないのは「手」だけなのである。

エドワードは手がハサミであるせいで、人間に近づけば近づくほど、文字通り人を傷つけてしまう。悪い者に利用されたり、愛する人を抱きしめてあげることもできない。

だからこそ、この映画はものすごい人間の深い心(愛しさ、切なさ、尊さ)というもの、つまりは、愛と自己犠牲というものを表現することができるのである。

つまり、博士はわざと手を完成させなかったのだ。
(映画ではそれだとわかりづらいから、演出として死んだことにしたのだ)

エドワードがそれによって苦しむことも知っていた。悲しむことも知っていた。(だから城の庭には手の形をした木があるのだ。あれは、エドワードが、せめて片手だけでもあったらという願いの表れだ)

しかし、如来である博士はエドワードに菩薩としての、「愛」と「自己犠牲」を教えたかったのである。本当の愛は深いのだ。

これもまた私が進むべき菩薩への道のりなのである。

時代の創造は批判から始まる(2009年総括)

いよいよ今年も終わりだ。激動の1年だった。個人的にも大きな変化が多々あった。今年1年を振り返って、戦いの連続の日々だったなと改めて思う。

周囲の人からは、変わったとか、おかしい、変人扱いされながらも、敢えて波風を立てて戦ってきた。今までおかしいなと思いながらも、「自己責任だから仕方ないか・・・」とか、「人それぞれだよな・・・」とか、諦めの境地で達観していた自分からここ数年で劇的な転換をし、とにかく公私問わず戦ってきた。

普通に周りに合わせるのはたやすい。流されてしまうのも簡単だ。でも、魂が満足しない。

戦って、その時は嫌な思いをしようと、後で自分にやり残し感、後悔が残らない。魂は戦ったほうが満足する。自分はこう感じているんだ!と利害を超えて向かう。世の中、損得や見栄の張り合いばかりだ。くだらない。

また、今まで細かいのはいいやとお金の価値を軽く見てきたことも改まった。人によっては、私が守銭奴に見えたかもしれないが、金の為ではなく、大義のために敢えてこだわることにした。

独善にみられることもあるだろう。しかし、「それがどうした!」である。

金儲け主義なんてつまらん。
確かに時々昔していたバブリーな生活が懐かしくなる時もある。でも、結局金儲けの為に一生懸命になれない自分を知っているし、そのむなしさもわかるから懐かしくなるのはエネルギーが余っているからだと理解する。

100億儲かるより、一人の人間から「救われた!よかった!」と言われることのほうが100倍嬉しい。でも、お金を稼ぐことを捨てたわけではない。実際、動かす金額は3年前より格段に増えている。

今までとは違うやり方が見えてきたのだ。新しい経済のあり方もイメージ出来てきた。来年はそれを形にして、見せて行こうと思う。

あいつはバカだと思われてきたのも励みになった。「見返してやる!」と一生懸命になれた。クールなニヒルでいる自分より、今現在の熱く魂が燃え戦っている自分が好きだ。

特に家族には辛い思いをさせてしまったが、そのおかげで絆もできた。非難されたり、意識の違い、価値観の違いという問題があることで、表面的な付き合いでは済ますことができなくなり、真剣に向き合うこととなった。

勿論これは継続していくことだ。一度やったからおしまいということはない。常に日々戦いなのだ。

来年は、更に多くの変化が起きるだろう。予想もつかない出来事が起こり、否が応でも価値観の転換を環境が迫ってくるだろう。混沌の時代こそチャンスだ。時代を先取りすると必ず批判が生まれる。時代を創る人間は、最初は変人扱いされ、落胆され、批判される、ということは歴史的に証明されている。その信号がかなり降りてきているので、逆に「これで良いのだ!」と確信が持てる。

いよいよ本当の意味で21世紀の始まりだ。しかも私は年男!
寅年だけに攻め続けるぞ!

もう時代は変化し始めている。
それに気付き、動き始める人も多くなってきた。
みんなも良い年を迎え、勇気を持って行動に移していくことを心から願っている。
「今の自分」なんかクソ喰らえ!だ!
年末が良い機会だ!今日死んで、明日生まれ変わろう!
そして、本当の意味での「選択」をしよう。

社会起業家論

最近「社会起業家」について論争があった。発端は著名な経営者が「社会起業家は逃げているだけ」という意見を発したことにはじまるようだ。昔は私も社会起業家というレッテルは何か違和感があった。企業は存在するだけで社会的意味があると思っていたからだ。

3年ほど前、ETICが主催した社会起業家がテーマのイベントに呼ばれたことがあり、一応私も沖縄のことをしていたので社会起業家として捉えられていた。その時社会起業家の若者らとお会いした。あれから彼らは今もコツコツと頑張り続けてやっと陽の目を見たのだ。

一言で言うと、今の若者が社会的なことに興味を持つのは、そういう時代だからだ!

Business1.0の時代は、カーネギーやビルゲイツのように、事業で大成功した人がリタイア後に社会貢献する時代だった。

Business2.0の時代は、金融会社やコンサル会社である程度成功したサラリーマンがそのスキルとわずかな資金を使って、社会貢献ビジネスをする時代。

Business3.0の時代は、卒業後すぐに社会貢献ビジネスを志向する時代なのだ。
金が貯まるまで待っていられない。地球規模でのあらゆる危機が迫っていると、感じている人達がたくさんいるなか、すぐに直接的に社会貢献したいのだという想いがあるのだ。実際、大学で講演した後、相談しにくる若者はアジアの為にとか、社会の為にという想いが強い。

今の若者のほうが立派ではないか。
我々の時代は、まだ自分が豊かになることを志向していた。
時代を作るのは、いつも若者なのだ。

猫寺-祐天寺庵

猫寺を開けてから1年以上経過した。この間にどんどん猫の時代がやってきた。そもそも、私は猫アレルギーだったのだが、猫寺を始めてから猫アレルギーが治ってしまった。

しかし、猫アレルギーだった私がなぜ猫寺をやったか?それは時代だからである。これからは、猫に象徴される時代となっていくのだ。

猫は古来エジプトの時代より神聖視されてきた。人間に一番近い霊的動物として、人間のそばに存在していた。映画「コンスタンティン」でも、猫の目から霊界に入っていく。

ちなみに沖縄に猫の文化というものがあり、そこでもやはり猫が象徴するものは霊なのだ。

大体、猫はよく何もいない空間を見つめていることがある。霊が見えるのだろう。何を見てるのかなと不審に思った飼い主は多いに違いない。

また、よく猫と女性は似ているいう言い方もする。自由気ままで、媚びない様子のほかに、霊感が鋭いという意味もある。

これからは、「霊と女性の時代」なのである。もう時代は、予想を越えたスピードでまっしぐらに進んでいる。

以前に、20世紀は攻めの時代、21世紀は守りの時代といったが、守るのは女性が得意分野であるのは疑いもない。

こうしたテーマのほかに、猫寺では修行も行っている。沖縄で修業した方が、更に深めるために修行しているのだ。仏像を彫ったり、絵を描いたり、写経をしたりと幅広い。ちなみに、猫寺での仏像作りの修業を入れたあたりから仏像ブームがやって来た。それまでは仏像描く人がいた程度だった。ほとんどの人が猫寺で仏像彫りは初めてだった。

猫寺ではアート的な修業が中心だが、こうして真剣で神聖な空気を維持するようにしているからこそ、ここでは普段と違う深い話をすることができる。

私は、深く内面の話や時代の話をしたいときは、ここで会うようにしている。ここでなら、お互いに心の壁が取り払われ、余計な説明が少なくて済むのだ。

多くの著名人が猫寺を訪れている。それもあって、猫寺は完全予約制として運営しているのだ。完璧にプライバシーは守られる。ここは現代の志士が集まる、池田屋・寺田屋のようなものなのだ。ビットバレーの時の同様に、やはり自分自身は魂が来るべき時代を受け取り、未来に橋を架け続けたいと思う。

沖縄のホテルで食事も兼ねて打ち合わせをしていた時のことである。元大臣が後からやってきて、近くのテーブル席に座った。最初はこちらに気がついていなかったが、気付いた途端に気まずそうな顔となり、席を移動していった。

気を使ってくれたのだろうが、ちょっと寂しくなる。逆に親しげに来られて辟易する人もいるが・・。

仕事柄、人には多く会うが、中には、輩(やから)も多くいる。

「輩」とは、人を利用することで自分の価値を高める人間のことだ。例えば、誰それを知っているとか、仲が良いとか、こんな情報があるよ、と話す感じだ。

一回会って写真を撮っただけで、「自分はこの人と特別な仲だ。」と言って他人から見た自分の価値を上げる手法をよく使う。大衆も行為は似ているが輩は確実に利益を狙う。

別にこれが悪いといっているわけではないが、「諸刃の剣」となることが多い。

これはいわばゴシップ記事を話しているだけのようなものだ。最初は相手も面白いかも知れないが、最後はそれでどうしたの?となるのが関の山だ。

輩はそういった手法で金を稼ごうとするが、結局大した額は稼げない。もっと稼ぎたいなら、小さく利用しないで大きく利用すべきだ。

ゴシップ話をしているだけでも、快感現象で面白いかも知れないが、その人の価値は上がらない。

間に入って自分の存在を高めるよりも、直接つないだほうが、皆でHappyになる。

だが、繋いだら自分の存在価値がなくなるのではないかという、深層意識の不安から無意識に人を繋げることを避ける。

今のご時世、恩を忘れる人が多い世の中だから無理もないと思うかもしれないが、本人はそれを意識しているわけではない。輩は、無意識に金の匂いに敏感なのだ。

金しか信じていないから、人も自分も信じられないのだ。しかし本来、輩だからこそ、時代の変化に敏感に気づくことも多い。

誰よりも先に、美味しそうな匂いがするところに集まれば、それだけ美味しい思いができることを知っているのだ。

しかし、輩には限界がある。結局それで運よく成功しても知れている。金額的には5億くらいが関の山であろう(私の知る何人かの方々参考)。しかも、金しか信じていないから金を失うことを極端に恐れる。

だから、いくら稼いだとしても満足できない。
そして、いつの間にか結局金を失う。

どうしたら自分が満足するのか?と根源的な問いを考えるよりも、金を無くさないで増やすにはどうしたらよいか?ばかり考えるようになる。いつも不安なので、何かしらの取引をして、魂を売り渡し魔界に落ちていく・・・。

本物の成功者(菩薩の道を極めた者)は、愛で世界を創る。その世界に生きる人間は愛に包まれているので、自分の特性を活かした能力をフルに発揮することができる。そうすることによって、一般的に言われる経済循環なるものが活性化する。

別にそれを狙っていなくても自然とお金が集まるようになる。
特別な世界には何の矛盾もない。

一例を挙げるとすれば、輩は「人を利用して自分の価値を高める」が、菩薩の道では「自分を利用して人の価値を高める」のだ。人を信じなければそれはできない。また裏切られる痛みにも耐えなければならない。だから、いつも心が痛い。

しかし、それで人が喜んでくれるのなら、この心の痛みも耐えられる。そして、何よりそれを理解してくれるたくさんの仲間達がいるから突き進んでいける。
輩は一人だ。
しかし、菩薩にはいつも多くの仲間達が存在する。

とても単純でわかりやすい。

良い悪いではなく、時代に先駆ける人は、どちらにせよ山師的要素を併せ持つものだ。
だとしたら、それを活かして自分を輝かせてほしい。

沖縄米軍基地問題の表と裏

先日まで私は沖縄にいたのですが、いま世間で最も話題となっている普天間基地問題について、その渦中にいる、ある人物とお話をする機会をいただきました。

世に出ている様々なニュースでは、辺野古への移設、県外移設、嘉手納統合、などの案があります。今一番の有力候補として、「普天間基地を移設しない」という選択肢が出てきているそうです。次に嘉手納統合か県外の飛行場(関空や各地の採算割れの活性化策)案です。

普天間基地という場所は、住宅街に囲まれており、飛行機やヘリコプターが離発着するにはとても危険な場所です。ですから普段は離発着させずに有事の際にだけ使えれば良いのではないか?という考えが移設しない案です。

米国側も普天間基地の危険性は認識しており、むしろかなり昔から閉鎖、返還を考えていました。(逆にそれでは困る日本側が留めさせていた可能性のほうが高いですね。)

というのも、やはり普天間基地返還後はその土地はどうなるのか?という日本側(沖縄県や宜野湾市)のビジョンの欠落や、安保の問題があるようです。また、軍用地主にとって、基地が返還されてしまったら、土地代が入らなくなる。正確に言えば、返還後3年間は補償されますが、そこから約十年の開発期間がかかる。最初の3年間でその土地が優良なものになるビジョンはまずあり得ません(那覇新都心、小禄とは立地、時代も違う)。

軍用地は今のところ沖縄(以外の方にとっても)の投資物件としてこれほど安定したものはありません。

要はこういった理由(本音と建前)で、基地の移設を反対する方々もいるわけですから、みんなの意見を聞いていたら問題が解決するわけがないのです。この米軍基地問題に関しては、自分の損得だけを考えて、賛成・反対を言う関係者がほとんどでしょう。

沖縄県民130万の人口の内、約27000人が軍用地主です。しかもその数パーセントの地主が90パーセント以上の土地を所有しています。(世界経済と似ていますね)また軍用地投資は、県外投資家の美味しいマーケットです。ちなみに普通の那覇の市民で私の知っている軍用地主の方はほとんどいません(恩恵なし)。

逆に郊外の豪邸や毎日パチンコ、スロットされている方々のほとんどは軍用地主の方々かな??とも‥

さて、話が逸れましたが、では、普天間基地をそのまま残すとして、そこで普段訓練していた海兵隊はどうなるのでしょうか?ちなみに軍事基地は有事を基本に全て作られ、訓練をしています。何十年何百年に一度の戦ありきです。万に一つの可能性の為に日々訓練や投資が行われています。継続が欠けると投資効果が悪くなります。どこかで訓練はしなくてはいけません。

ということで、嘉手納統合という案があります。嘉手納町の83%が基地ですから、かなり広大な土地を占領しています。そこに海兵隊も移動してもらおう、と。しかし、これに対して米国政府は拒んでいます。政府というか、軍が拒んでいるわけです。

その理由として、表向きは「米国空軍と海兵隊の、飛行技術レベルの違いによる危険性」と言っているようですが、本当の理由は空軍側からの「なぜ俺たちエリート空軍が、海兵隊の猿と一緒にならなきゃいけねーんだよ!」という、階級意識、感情問題なわけです。

まあ、このことは日本側もそうなることは予想できていたわけで、ではなぜこの嘉手納統合案を表に出したか?ということに尽きるわけです。嘉手納統合と聞いて、なにか違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。私はこう思いました。

「基地って沖縄の土地を最大限有効活用してるんじゃないの?そんなに余ってる土地があるの?」と。

要は、嘉手納統合案を表に出したのは、裏の意味として、「嘉手納基地って普天間基地がそのまま移設できるくらい広大な遊休の土地が眠ってるんだよ。これってどうなの?」というメッセージを伝えたかっただけなのではないか。(後に民意を操作するための布石ってやつです。)

宜野湾市を拠点にされている政治家さんの話では、「海兵隊のグアム移転が司令部中心というのは間違い。沖縄海兵隊の主要な部隊が一体的にグアムへ移転する。普天間飛行場の海兵隊ヘリ部隊も含まれる。」と言っていました。

あれ?じゃあなぜ辺野古案があったの?という疑問が湧いてきますね。米軍は出たがってるじゃん、と。

普天間基地問題は、日本の安全保障の問題というより、完全に国内問題で、要は経済の問題ということです。

同じ様に、橋本大阪府知事の関空案もきっと本音は予算、つまり経済(お金)ですね。人間はみんな背に腹は変えられない、と・・・、利益だけで手を上げるとどうなりますかねー。

しかも来年の参議選の絡みでの本音と建前‥等々。まだまだ、普天間米軍基地問題に関してはこれからも目が離せませんね。

ダライ・ラマ法王とオウム

先月、沖縄にダライラマ法王が初訪問された。朝青竜もわざわざ福岡から駆け付けたほどだ。

今回タイミングが合わなかったことと、事前(3か月ほど前)に身分調査をされていないため私は個人的には会えなかった。

お会いした方に話を聞いたが、考えてみれば法王はいつでも型どおりの話と質問ばかりで自分から興味あることはなかなか聞くことはできない立場にいらっしゃる。

通訳が、これは猊下に伝えられないと判断してしまうこともあるだろうし、話す側が遠慮してしまうこともあるだろう。今回オウムの話をしようとしたら、通訳に止められたという。

影響力があるゆえに、利用されてしまうことを周囲が一番気にしている。本人はそれも覚悟の上だ。

それらの思惑をも包む心で、法王は菩薩道を全うしている。

ダライラマ法王は、代々観音菩薩の化身とされ、予言と厳格な調査の上に選ばれてきた。世襲ではない不思議な縁だけが法王を選んできたのだ。

猊下にしか出来ない使命を誰よりも自覚しているだろう。そのような法王だからこそ、会いたいという人が引きも切らない。

ある著名人経由で意外な人物から法王紹介を依頼されたことがある。いわゆる裏社会の組長だ。こんな人も会いたいのだと驚かされた。

そんな魅力的な法王を利用して当初成長を遂げたのがオウム真理教である。

麻原はダライラマ法王との会談映像と写真を大いに利用して勢力を広げていったのだ。出来たての団体の権威付けには大層役立っただろう。

時はバブル絶頂期の時で、精神的なものより物質的なものが重要視されていた時代だった。結局振り返ってみたら、バブルに狂じていた人々のほうがおかしかったと今ならわかる。

あそこで精神的なものを重んじる文化に転換していたら今頃日本は世界をリードしていたかもしれない。でもそれは早すぎて潰された可能性のほうが高いか。

当時、物質ではない精神的な満足こそが重要だと考えたインテリ層の受け皿としてオウムは機能した。だからこそ、インテリが集まったのだ。優秀な人材が集まることでオウムは飛躍した。その一方で、その知識が間違って使われたのがサリン製造だろう。

当時サリンを製造所持していても罰する法がなかったのだ。

エリート集団が、メディア受けするマーケティング戦略を行い、事件が起こるまでは多くの知識人や芸能人が支持していた。知名度も上がり、他宗教団体が恐れるほどであった。

そうして選挙戦略も練り、彼らの計算によると当選する自信があったので、下位の信者をも候補に仕立てた。しかしながら、結果は惨敗。そこで何があったのか?計算が違ったのか?
結果を総括し今後の戦略を練るために彼らは沖縄で合宿をしたのだ。

そこでは、99年まで待てば時期は来ると決断したという。
しかしながら、因縁の輪から綻びが産まれ、かような流れとなった。

調べてみたらわかるが、今も創価学会を筆頭に、新興宗教の多くは沖縄に事務所や土地を保有している。それは何故か知る人は少ない。

様々な思惑が絡む沖縄にいると本当にいろんな情報が入って面白い。

魂の器

先日とある上場会社の会長さんに引き合わされた。
元はその会社の社長さんが精神的に悩まれているので紹介したいという話であったが、紹介者の方から詳しい話を聞いて行くうちに、問題は社長だけでは解決しないという感じを覚え、まずは会長からご紹介頂くようにお願いした。

人間関係にもパターンがあり、そのパターンから判断するに、会長がキーマンだと感じたのだ。人間関係は曼荼羅模様で、その人だけを見ても判断ができない。周囲の人間関係を見ていくことで、働きが予想できる。

会長さんとまずお会いして、物静かでとても理知的な人であったが、秘めたパワーを感じた。話してみると、配偶者の方も精神的に悩まれていたという。この方は色々と沖縄ともご縁があり、今回の話を受けて、更に我々とも縁を感じてくれた。詳しくは書かないが、シンクロがあったのだ。

私がみるに、会長さんのパワーが強すぎて、本人もコントロール出来ていないと感じた。

魂には器があり、その器次第で影響する範囲も変わってくる。ただの魂のほかに、民族魂、時代魂、支配魂などがあり、良くも悪くもそのパワーで、周囲の人は影響を受けてしまう。詳しくはまた別途。

で、彼は間違いなく最低でも、民族に影響を与える民族魂の持主であるが、きっと本人は自分のパワーに気づいていない。話の節々で、自分を抑えているように感じた。

魂が本来欲している役割を応援するために我々はやっている。その旨の話をしたところ、彼はこう語った。「精神的に悩む人は、その人の問題だと思っていたけど、実は自分にも原因があるのかもしれないと思った」と。

会長さんは、年下の私にも謙虚で、話をノートにメモしたり、私の原点を確認されたりと真摯に話を聞いてくださった。こういう人格者のためならば、全身全霊で応援する。進化の為に、新たなキッカケと環境づくりで役立てれば幸いだ。

映画「ゴッドファーザー」を見ればわかるが、富と権力を得ても、因縁で苦しむものだ。因縁と愛の関係となり、深い敬愛をもって仕事に打ち込めるのが何よりの幸福だ。

因縁を無視して仕事に打ち込んだとしても、ゴッドファーザーのように、愛する者を失い、
無味乾燥の世界を生きるようになってしまうのだ。

因縁の法則

以前、シザーハンズの解説をしたが、その続きである。
http://ozeki.fa-fa.com/?eid=1227017

シザーハンズを観たことのない人はわからない内容になっているので、是非映画をみてほしい。

因縁に興味ある方が多いようなので、その話からしよう。

主人公のエドワードとヒロインのキムは「因縁」だろうか?

実は彼らは因縁ではなく、キムとジムが因縁なのだ。因縁は究極の関係になると最後は殺しあいになる。キムとジムは、エドワードがいなかったとしたら、最後はどちらかが相手を殺していただろう。それを菩薩であるエドワードが自己犠牲で救ったのである。

よく、夫婦や恋人、親子で殺人事件があるのはこういう理由もある。
今生でいよいよ、因縁解消かというクライマックスで、殺して終わるか、
昇華できるかが問われているのだ。

因縁の問題は、当事者だけでは解決できないという法則がある。だからこそ、昔は仲人という制度があったのだ。当事者では冷静な話し合いはできない。信頼できる第三者の存在が欠かせないのだ。その他にも因縁の法則はある。それはまた書こう。

話を戻して、ジムは実は悪霊である。だからこそ菩薩が引導を渡した。また彼の父親は深層意識では財産を憎んでいた。だからジムはそれを盗もうとした。その為にエドワードは利用されたが、知っていてもそれをやるのが菩薩なのである。

因縁の特徴として、意味がわからないことを相手がする、ということがある。この場合、親からしてみたら、子が盗みに入るのは意味がわからない。なんでこんなことをするのだろうか?ということを因縁の相手はするし、またそういうことを言う。

因縁だからか!とわからなければ、ずっとそのことで悩み苦しむ。逆に因縁だからなと理解できれば、心も納得し苦しむことはすくない。

理解できないことを相手が行ったり言ったりするのは、相手が因縁である信号の一つである。

これがわかるだけで、どれほどの価値があることか考えてもらいたい。煩悶し、苦しむことが解消される価値を!

みなそうした苦しみを解消するために、金を使って癒すわけである。男性であれば、女性に使ってみたり、女性であれば買い物などだ。

そうではなく、互いが信頼できる第三者に間に入ってもらうだけで、因縁のほとんどの問題は解決することができる。

ただし、その第三者に入る人間も因縁の関係というものを理解していなければならない。

重大な責任を背負わなければならない大変な役割なのだ。
それを忘れてはならない。

因縁の知恵があるだけで、心安らかになれるのだから大きな財産といえるだろう。

千羽鶴

過去の自分へ。時間が経つと本物は残り、偽物は消えるということがわかってよかったね。下記の人間はインチキだったけど、経験したことは大きな学びでした。自分への反省も込めて、そのままに残しておきます。2018/11/5

 

本日35歳となりました!両親とご先祖様、そして今までご縁があった皆様に感謝いたします。今日はつい先日、私が沖縄で体験した話からです。

私が人生のなかで一番敬愛している方が、大きな手術前の入院であるのにも関わらず、沖縄の病院でとある人物を紹介してくださいました。その人物とは、政権交代で揺らぐ、現政権の中心にいるかなりの著名人物でした。(政治的混乱を起こさないよう名前を出すのは控えておきます。)

話を聞くと、その人物は定期的に、非公式で沖縄まで政治的アドバイスを聞きにきているそうです。たまたま、日程が重なり、また、今後私が沖縄で全国を巻き込むプロジェクトを行うためには必要であろうと、その方を紹介していただいたのです。

今までにも、私の人生で一番敬愛している方と出会ってから、様々な「教え」と「出会い」をいただいてきました。その中で、約2年前におっしゃっていたことを思い出しました。

「2009年9月に日本は変化を迎える。」・・・と。

そして、2009年8月30日に衆院議員選挙の投票が行われ、結果、民主党が新政権を発足させることが確実となった。つまり、2009年9月から政権交代となった・・・。

その事実と、目の前にいる人物。
どう見ても、普通のことではない。非日常がそこにはあった。日本国というのは、こうやって動いていくものなのだ。

っと、思い出しただけで、興奮してしまったので、語尾がおかしくなってしまいましたね。

でも、最近私の周りには、こういったことが日常茶飯事に起こっている。私がやろうとしていることを考えれば、それは当たり前のことなのかもしれませんが、最近は想いが現実化し、どんどん加速してきたように感じます。

想いのある仲間も集まり始めました!
必要な人物とも会うことが出来るようになりました!

必要なものが全て揃い始めました!

この環境、すべてに感謝をし、この環境を与えてくださった方からの「教え」をさらに磨いて、精進していきたいと思います。

これこそが、菩薩の道です。そして、

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The way of every day and a bodhisattva