「徒然なるままに」カテゴリーアーカイブ

子供の目

人は我欲だけでは限界がある。自分のことだけでは頑張れない。大義や人を背負うことで、自分の潜在能力が引き出される。人は人の生きざまを見て感じる。恥ずかしくない生き方とは何だろうか?美意識が問われる。

信念を持って生きるには強さがいる。責任感の強さが、その人の強さになる。顔も見たこともない人のために一生懸命になれるだろうか?どこまで責任を感じられるかで強さは変わってくる。

フランスでユダヤ系子女を狙ったテロが起きた。今も中東で起きている、パレスチナ子女に対する弾圧への抗議だという。なんと切ないことか。どうしようもない無力感から、憎しみの連鎖はいま世界をおおいつつある。子供は未来の宝。子供を大事にしない社会は長続きしない。まして自民族だけの子供を優遇し、多民族の子供を虐げていては、敵が増えていくだけである。会う人を味方にしていかずに、敵にしていく人に未来はあるだろうか?

アタリマエのことが当たり前でない社会。今回の事件は遠い国の出来事だけに、他人ごとに思えるだろう。他人ごとだからこそ、当事者にはできない見方ができる。離れているからこそ、見えることがある。すべては根本で繋がっている。お節介が必要な世の中なのだ。
自分の子供が殺されたとしたらどうだろうか?報復して憎しみの連鎖を産み出すだろうか?嘆き悲しみ苦しみと共に生きるだろうか?自暴自棄になるだろうか?子供たちのためにいま自分ができることは何だろうか?311以降多くの方がそう感じているに違いない。
目の前の子供に恥じない生き方をしているか?子供は親たちの背中を見て育つ。誇りに思ってもらえる親だろうか?父としての役割、母としての役割、それぞれ違う役目がある。子供たちのために素晴らしい社会を残せるか?今を生きる世代の仕事である。子供たちの目は正直である。子供の目に映る姿が、鏡のように自分たちにかえってくる。
男は子供が産めないので、創造行為の代償作用を求めているという。価値有る人生を創造することが、社会にとっても家族にとっても有意義なことだ。価値有る人生を創造しようと思えば、傷つくことを恐れてはできない。傷つくことは磨かれることだ。同じ事を別の言葉で表現しているだけにすぎない。傷つくと取るか、磨かれたと取るか。
必死で磨きまくらねば魂は輝かない。一人ひとりが輝く社会こそが、素晴らしい社会だ。子供たちのために何とかしなくてはという想いは、自分が親になって初めてわかったことだ。産んでくれた母と子供には感謝しかない。そのお陰で今日も自分は創造の決意を日々更新できる。
生まれてきてくれて、ありがとう!そして、おめでとう!

現代病

現代に生きる人々が普通と感じている考え方は、時代が違えば普通ではない。かつて世界は恐れ多いものであふれていた。例えば地震はただ揺れるから怖いとか、災害だから嫌だとかいう意味ではなく、神の力を感じておそれていた。何かの意味があるに違いないと感じていた。
現代では、科学的思考によって一応は数々の自然現象も説明ができるようになり、その仕組を再現、利用することで文明を発達させてきた。その力はめざましく、人間を中心とした科学信仰を生み出した。アタリマエのこととして意識していないが、現代人は科学的思考によって洗脳されている。
全体を部分に分けて、部分ごとに理解していく。例えば、仕事をしてると、全体の数値目標を設定し、部分ごとに目標数値を決める。そして、目標を達成できない問題を解決しようと思考し、その裏側にある想いというものを感じる力が欠如してしまう。想いは見えない。そんなことより、見える化が大事になってくる。
仕事に限らず、何かを問題と捉えたら、それは解決しないといけないものとしてしまう。心の葛藤はどんなに細分化しても解決はできまい。しかし気持ちでさえも、操作可能なものとして扱おうとする。
問題の根っこを見つめることなしに、表面的なことをやっても解決はしない。そもそも、問題ではないかもしれない。問題と考えてしまう、考え方自体に原因はあるやもしれない。マッチポンプのように、問題を創りだしては解決する。何かが変わるが、本質は変わらない。
何もやらないと焦ってしまう。時間がただすぎることに罪悪感を感じてしまう。産業革命の頃から、時間は直線的な過去・現在・未来という流れになってきた。始りから終わりへの流れ。自然の四季のように、循環する時間においては、螺旋状に時間は流れていく。
また流れてくるなら焦ることはない。ただ、それは同じものではない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」方丈記
同じように見えて違う、永遠が今にある心境から、ワビサビといった日本人の感覚が生まれてきたのではないだろうか。
別に科学的思考をやめろと言っているわけではない。それだけしか考え方がないのでは、狭い視野に陥ってしまう。視点を変えるだけで違う世界が見えてくる。考え方は一つの武器である。武器は多いほうが、状況に応じて最適な選択ができる。一つしかない武器を無理やり使おうとするから、余計に問題が増えるように見える。
仕事も人生も流れがある。その流れを断ち切り感じづらくしてしまうのが、現代病の特徴だ。世界を狭くし、可能性を見えなくしてしまう。世界を広くするためにも、自分と違う世界の人達とあったらいい。違いの中から、新しい流れが生まれる。

お気楽から菩薩道へ

 ここ数年引きこもりのように、初めて会う人たち以外とはあまり会わないできた。真剣じゃなければ話をしない覚悟だったので、以前のお気楽な自分を知る人達からみたら、どこか違う世界に行っちゃったなと思われていたようだ。
外に向かうより、内に向かったお陰で、結果を早く求める現代病に、自分が陥っていたことがわかった。スピード優先の世界で生きてきた弊害。短絡的になり、表面しかみられなくなってしまう、視野が狭くなるのは、車を高速で運転をしている時と同じだ。
風景を楽しむ余裕すらない。いま自分がどこにいるかじっくり落ち着いて考えることも無駄にみえてしまう。刺激的なジェットコースターも楽しい。でもそればかりでは勿体無い。草花を愛でることも、風景から偉大な感覚を感じることもできなくなる。次から次へと変わる景色は好奇心を満たしてくれるのも間違いない。旅の楽しみ方は人それぞれだ。いま自分は何を感じたいのか?本当に感じたいものは自分の中に答えはあるが、ない。気づかなければあってもないのと同じだからだ。
その他にも、絆や責任、想いという、人が真に動かされるものを感じることができた。そして、信念を持って人に向かった結果、摩擦が起こり、心も鍛えられた。自分で言うのもなんだけど、大分強くなった。事件の渦中にいてわかったことは、本当に世の中嘘ばかりでいい加減なモノだということ。だからこそ、だったらどうせ誤解されるのだから思い切りやったほうがいい。その方が後々伝わる。中途半端にやると何も残らない上に、誤解されて誰にとってもよくない。だったら何もしないで引き篭っていたほうが断然いい。
人の数だけ正義がある。相手の言い分もわかる。だからといって、認めていたら利用されるか、何も成し遂げることはできない。(注:自己欺瞞に注意)
闘いがあるからこそ、人は磨かれる。そして形がなければ、多くの人は認めないのも事実だ。(形があるから誤解するのもある)
大衆は、いちいち本質を考えたり、真理を知ろうとはしない。そのまま受け取るのが楽でいい。情報を送る方も、そのまま考えないで伝えたほうが楽なのだ。
トコトンやっていたら、あとでいくらでも評価は変わってくる。歴史を見ていたら明らかだ。評価されたり、落とされたり、そんなものを気にしていたら何もできない。世間に対していい顔をしたかった自分にも、事件のお陰で向き合うことが出来た。普通の道を閉ざしていただいたお陰で、背水の陣で頑張れる。去年で本当によかった。それまでの体験がなければ、本当に終わっていた。こんな呑気にBlogなんて書いていられなかっただろう。
どんなことがあってもブレない仲間や、本質真理を観る人たちに救われた。それは自分たちが本質真理を求めて、ブレないように真剣に生きてきたからだ。必死で求め、信じ続けることで道は拓けると改めて思う。それをやり続けるのが難しいのだ。
例え表面では敵に見えても、その存在があったから、頑張れたり、意識が高くなれる。普段は、嫌いだったり、ムカツイていたりするが、改めて考えると心の中に意識する相手がいることでモチベーションが維持できていることに感謝できる。いつかはお互いこの世を去ると想うと、遊び仲間のようで、嫌だけどなんか愛しい複雑な気分になる。
お気楽だけだったらこんな気持ちにはなれなかった。試練は人を変える。そのキッカケをどう活かすかは自分とその周囲にかかっている。自分だけでもないし、周りだけでもない。自分が変われば周囲も変わる。周囲も変われば自分も変わる。鶏が先か、卵が先か。
好きな方をいきなり持ってくるのが錬金術だ。環境を変えてもいい。自分がいきなり変わってもいい。自分が驚くか、周囲が驚くか、どちらにしても想像したら面白いじゃないか。人生は楽しんだ者勝ちだとつくづく感じる。 
気付きの信号を送ってくれる存在に感謝。ミロクの日に記す。

想いの連鎖

閏日に雪が降る。この時期の雪というと、226事件を連想する。そして昭和11年2月29日に彼らは想い敗れた。青年将校はどんな想いで決起したか?現代のぬるま湯にいる我々にはその悲壮な想いは理解できまい。

貧困に苦しむ地方の農民のために、純粋だからこそ葛藤し行動を起こした、止むに止まれぬ想い。

それが良いとか悪いとかではない。浅はかだったかもしれないが、純粋に何とかしたいという想いに自分は感動する。

その想いは儚く消える雪のように見えて、時代を超えて伝わっていく。行動を起こすまでにどれほど思い悩んだろう。そんな葛藤がない時代の幸せと不幸。見方によっては、ダラダラとただ生きるよりは、短くても真剣に生きた分幸せだったとも言える。

自分と照らし合わせて考えてしまう。俗にいう世間の幸せの良さもわかりつつ、自分の内なる想いは何を表現したいのか?生きた証を残したいのか?子供に恥ずかしくない生き方とは何なのか?

愛する子供を残し、革命に殉じたチェゲバラの想いと青年将校たちの想いは、どこかで繋がっているように感じる。家族を想って、特攻に散った若者たち。彼らの想いを忘れてはならない。

ただ惰性で生きるのではなく、意識的な生を全うした人々を励みにし、今世を精一杯駆け抜けたい。後世に想いの連鎖を引き継げるよう、いまの時代を生きる人間の責任がある。

義をみてせざるは勇なきなり。

小さいとか大きいとか関係なく、目の前のテーマに向かう。いまを生きるにはそれしかないし、いまを真剣に生きることだけが、想いを残すことができる道なのだ。

1940年に宗教家出口王仁三郎が無期懲役の判決を受けた宗教弾圧の日でもあり、1952年アメリカにより琉球政府の設立が公布された日に記す。

無量無辺な世界

まだ弱い太陽の薄明かりの中、男が目を覚ました。一瞬、自分はどこにいるのかわからなくなるが、寒さと布団の感触で、いま自分がどこにいるか理解した。目が覚めた時、無意識からの贈り物である、夢のお告げを書き留める習慣があった、偉人の話を思い出す。さっきまで覚えていたのに、もう次の思考へと変化していて、昨夜の夢はまた無意識の中に沈んでいった。

男の朝は、法華経の読経から始まる。思考と体験の末にたどり着いた、思考を超えた信仰の世界。一心に読経を行い、自らの声と一体化する。その時、閃きもあるが、閃きを受け止めつつ、まだまだ没頭の余地があると精進を自分に戒める。
霊能は女性のほうが優れていることが多い。自らの感覚と霊的感覚の違い。共に生活をしている受信者と、会話とも打ち合わせとも言えない時間を持つ。霊告日記はそうして生まれた。今日も始まったばかりだ。明日どこにいるか、今の時点では何ともいえない。予定はあってないようなものだ。未来は何も決まってはいない。
平均的な日本家屋の居間で、親子が会話している。技術者である父は昔から、技術が、技術を知らない人間によって活かされないことを嘆いていた。技術を持って世界に影響を与えようとしてきた父は、社会の動きに敏感だ。
「一連の原発・地震関連被害などの問題を生み出した、真の犯人たちは逮捕されることもなく、堂々と生きている。かたや、たいした問題でもないことを、重大な問題のように仕立て上げて、罪に落とされる人間もいる。権力を持つ人間の罪を身代わりに払わされる。イケニエだよ。原始社会と何ら変わらない。いや、原始社会より更にたちが悪い。神に捧げるほうがまだましだ。自分のエゴために犠牲を捧げるのだから、イケニエにされた方も救いがない。これが今の社会だよ」
その話を聞いた娘は、もっともな話だと納得はしながらも、違和感を感じていた。
「そうだろうけど、お父さんも口だけの人間じゃないか。言うことは立派で反論はできないが、ただの評論家で、仕事はしているだろうけど、家族はバラバラで、権力者たちと本質は変わらないじゃないか。ただ立場が違うだけで、本質は同じで、目の前のことから逃げている」
しかし、その言葉を口にだすほど、娘は愚かではなかった。何度となく衝突してきた結果、思ったことを口に出しても、受け入れられないことは痛いほどわかっていた。娘も父も、心の壁を作り、あきらめの中にいる。
「もうすぐ50歳か。おれの半世紀は一体どんな意味があったのだろうか?」誕生日を間近に控え、日課となっているが、やらされているのでイヤイヤ掃除をしながら、背の高い男がぼやいていた。まるで昼ドラのような家族の争いのはてに、すべてが嫌になってお寺に入れてもらったのだ。ここにいれば、衣食住はある。しかし、それだけだ。自殺しようと思ったが、最後の最後で勇気がでない。子供という存在がなければ、とっくの昔に、自然に還っていたはずだ。寺の和尚の言葉を思い出す。
「この世には人間が作ったルールよりも、はるかに大きく、そして大切なルールがある。それは、生まれたからには、とことん人生を味わい尽くして、立派に死ぬということだ。途中で、自ら退場するということは許されていない。ルール違反だ。どんな悩みも苦しみも、またどんな繁栄も富も幸福も、永遠には続きはしない。いずれ過ぎ去るのだから、いま感じることを大切にしていきなさい」
「そんなことを言っていたような気がするが、自分の都合のいいように覚えているのかもしれない。てっとり早く、誰か教えてくれ!今って言ったって、何も感じないよ。意味が分からないよ。もう何でもいい。助けてくれ。ふー。しょうがないか。あー金があればなぁ。」どうしたらお金儲けできるか考えながら、とりあえず掃除を始めだした。またいつもの日常を繰り返す。
かつて体験したことがないほどの感動と幸福感を感じている若者がいた。一体この感覚はなんだろうか?説明は難しいが、今まで意味がわからなかった絵や音楽の意味が理解できたような気がしていた。こういう感覚を何度も感じたくて、きっと麻薬にハマるのだろうと思った。何を見ても、美しく見える。特に自然を見たときにそれは強く感じた。
波打つ海面。降り注ぐ陽光と月光。すべてが昨日までとは違って見える。今まで同じだとおもっていたものが、一瞬一瞬移り変わり、その姿を変えていくことが、心で感じられる。ただただ、涙が出てきて、胸が一杯になる。一体今まで自分が見ていたものは何だったのか?と自分を殴りたくなる。目玉の前に、何十ものフィルターを通して見ていたようだ。目からウロコが取れるとはまさにこのことだと、頭の中で、膝を叩いている自分が見えた。
いまこの瞬間でも、平将門を思えば、彼と繋がることはできる。時代を超えて、同じ想いを感じられるのが霊長類の特権だ。日本人は面影の中に、大切なモノを感じてきた。表面にあるモノの影にあるモノ。感じるしかないもの。感じる力を失っては、遺伝子や国籍は日本人だとしても、もはやそこに日本人の魂はない。感じた見方、見立てを楽しみ、風流に生きる。限界がある表面の世界から離れて、際限のない影の世界を楽しむ。
繋がりを感じ、それを表す。見えない糸を見えるようにして、また見えないものを更に繋げていく。終わりのない楽しい遊び。自分だけが感じることが、どんな人でも必ずある。同じ人はいないのだから当たり前な話だ。誰かの概念だけで表面的に生きることのつまらなさ。自分の世界を感じ、他の世界と繋げることで、更に豊かになっていく、心の世界。誰かの概念が自分の概念へと繋がっていく。人と人、人と世界、霊と魂の繋がり方は多種多様だ。たった一つの答えなどない。
世界はあなたが心をひらくのをずっと待っている。物語はいまから始まる。

依存からの脱藩

世間では、大阪の選挙結果が話題となっている。もう誰もが、今のままではダメだとはわかっていても、どうしたらよいのかわからない。大阪都構想が実現したら自分たちは幸せになると、誰も思っていないだろう。でも、それでも、今までよりはマシという気持ちと、何かやってくれるに違いないという淡い期待。

では、民意が集まったからと言って正しいのだろうか?多数決は正しいのか?大衆は、投票というシステム自体を疑うことはない。人間は平等ではない。システム(制度)という決まり事で人は幸せになれるか?
いまや、制度の問題ではない。どんな制度も完ぺきではない。制度を何とかしようとするのではなく、人の在り方と関わり方のロールモデル(お手本)が必要だ。それを自分たちは邦(くに)つくりと呼んでいる。すべて、心ありきだ。
今の社会はどんどんと物事を明確にし、形で人々を縛ろうとしている。形がなければ信用できないのだ。形にこだわらない、おおらかさは、バカのあかしとされてしまう。その結果が、ルール以外のことをやってはいけないようになり、ルール違反は法令順守という大義名分のもと罰せられてしまう。
大阪の例で考えると、きっとこういうことが起きてきたのだろう。以前なら府と市の間で、あうんの呼吸で処理していた事柄も、人間力の衰えとともに、責任のなすりあいが始まり、法で明確に区別するようになる。権利は主張し、責任はできるだけ避けるようになる。そうして時間が経つうちに、少しずつ無駄が増えていく。積もり積もった垢のようなもの、そしてそれはある意味では善意でやってきたことかもしれない。これは誰かが悪いという話ではない。世の中全体が、自分の利益追求をすすめているのだから当然の結果である。
制度のひずみを正そうとするのもよいだろう。しかし、どんな制度も、作るのも、運用するのも人間だ。人を人として扱わず、モノとして扱うのが制度の本質だ。では、制度がなければどうなるか?手間暇かかりすぎて、とてもじゃないが、安心して落ち着いて生活などできない。人をモノと割り切って生活しているからこそ、時間の節約も最低限の保障もあるのだから。
一人ひとり個別の事情がある。一人のことを気にかけすぎても効率が悪くて社会が回らない。効率を追い求めすぎると、人はロボットのようにモノとなり、社会の活力が失われる。どちらが絶対に正しいということはない。そこに答えはない。
誰か知らない人に期待して任せるだけではなく、自分に縁がある人間と向かい合って、信頼関係を作っていく。自分の直感を信じて、新たな世界に飛び込んで、自分を変化させ続けることが、人生を楽しむコツである。制度が変わっても、幸せは転がり込んで来ない。
投票するだけは簡単である。自分を変える必要はないからだ。投票して何かを変えたいと感じているならば、自分を変えることだ。例えば、自分では絶対にやらないようなことをするのもいい。どうせいつかは死ぬのだ。自分で危険に飛び込んで危機を体験しなければ、生を充実させることはできない。
時代は、破壊と創造を求めている。橋本氏は破壊を進めていく。それが彼の役目だ。そして、そのあと創造するのは別の人間になる。それぞれの使命を生き切ることが、誰が何と言おうが幸せなのだ。破壊者はたいてい幸せな結末にはならない。しかし、世間からは不幸な結末だと見えたとしても、本人の魂は納得するのだ。
人生で何を体験するか?そこに良い悪いはない。時代の流れは変化を求めている。変化という体験を自分で選択するか、もしくは嫌々に変化させられてしまうか、どちらかしかない。
どちらも楽ではない。しかし、楽な道はどこにもないのだ。どうせ変化にさらされるのだから、自分から飛び込んだほうが面白いのではないか?
新時代を夢見て生きた、幕末の脱藩志士のように!