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世間の興味より面白いものがある

世間の興味より面白いものがある。

私は、ビジネスのネタを考えるよりも、神とは何か?人間とは何か?を考えるほうが面白い人種なのだ。どの道を歩んでいても、行くところまで行くと、みなそこに行き着く。死の間際になって考える人もいれば、物覚えがつく頃から求める人もいる。人それぞれだが、究極の道楽である。
だからといって、いきなり「神とは音だ」とか言われても興味がわく人は少ないだろう。ぶっ飛び過ぎである。
しかしその言葉の真の意味がわかると、あなたの悩みは消えるだろう。
世界の仕組みがわかれば、世界の創造に参加できるのだ。道楽こそが究極の錬金術だ。
人はみな、実は知らず知らずのうちに、世界の創造に関わっている。しかしそれを自覚していないので、知らないだけだ。
会社で言えば、社員は知らない内に社風に影響も与えるし、また影響を受ける。そして知らず知らずのうちに、その会社風の人間になっていく。
最初はただの社員でも、会社の仕組みがわかれば影響力を増すことは出来る。そしてリーダーになる。社長になることも可能だろう。
何でもそうだが、やったことない体験を、ある程度してみると、飽きてくる。平社員も、部長も、役員も、社長もいずれ飽きる。
そうすると、つまらなくて辛いから、よりビジネス創造に明け暮れて、心が感じる暇をなくすか、酒・女・名誉などに男は逃げる。女性の場合は、子育てやお買い物、美容などにエネルギーを割り振るのだ。そして魂の訴えを感じないようにする。
今いる世界だけで満足していては、井の中の蛙である。もっと広くて深い世界があるのだ。
井戸の狭い世界で、噂話や、ゴシップを楽しむ大衆になるより、噂、ゴシップを生み出す中心存在になるほうが面白くないだろうか?
本当のところは当事者にしかわからないし、それを体験できるのも当事者の特権なのだから。
私がしたいことは、意識を高みへと引き上げることだ。
もっと面白い世界があるのだと感じさせたい。
「あの人もどうせ金が欲しくてやったんだよ。」「金に困っていたらしいよ。」「離婚もしちゃってどうしようもないね。」
などと噂しても別に構わないけど、それであなたは幸せになるのだろうか?
魂がふるえるほどの高揚感が得られるだろうか?私はそれを感じてもらいたい。
どうせ噂するなら、
「彼は何を求めているのだろう?自分は何を求めているのだろう?」
「お金で何がしたいのだろうか?お金とは何だろうか?」
「結婚、離婚の意味とはなんだろうか?出会い、縁の意味とは何だろうか?」などと自分に問いかけるキッカケにして欲しい。そうすれば、世の中のネタ全てに価値がでてくる。
仏陀が家族、権力、富、地位とすべてに恵まれていながらも、それらを捨てて求めたもの。それこそが本当の宝で財産ではないか。イエス=キリストが命をかけてでも訴えたもの、それこそが人生にほんとうに必要なものではないか。
世界がわかれば、人間もわかる。勿論、世界は簡単にはわからない。しかし、求めたら求めただけ、理解は深まる。
ビジネスも政治も、結局は人間が動かしているものである。お金や地位を求めることより、人間を理解しようとすることが、遠回りに見えて早道ではないだろうか。なぜなら、お金や地位がある人よりも、本当の自分を見てくれて、導いてくれる人のほうに人は魅力を感じ、引かれるからだ。お金持ちはたくさんいる。そんな人よりも、知恵と愛がある人のほうが価値があるし、またそんな人は少ない。
真に価値あるものは、どこの世界も少ないものだ。

人間の価値

以前、「仕事の本当の意味」を書いた。金を儲ける為の仕事ではなく、魂を助けるのが本来の仕事の意味なんだと。ではその仕事の価値は金銭に置き換えられるだろうか?勿論出来ない。幕末の志士の仕事だって、金銭には代えられない。

もし、幕末の志士が現代にいたら、今頃テロが吹き荒れているだろう。しかし我々の時代では、幕末と同じような手段をとるべきではないのは勿論だ。我々の時代は、志士の魂を持ちながらも、殺し合いではない戦いをしなければならない。その方が高等な戦いなのだ。

そうした魂のある人材を育てるとしたら、どれほどの投資が必要だろうか?現代において、志士が育つだろうか?愚直なまでに一本気で、一言で言えば馬鹿になって、情熱を注げる人間。自身の出世や経済的繁栄を目指してではない、友の為や大義、国の為など自分以外のことに対して真剣に取り組む菩薩人間。

一朝一夕でそんな人間など出来ない。吉田松陰のように、狂気ともいえる気迫で伝えようとする人間がいなければ、魂に火がつく事は無い。人は人で磨かれる。現代のように、冷めている空気のなかで、魂を燃やす事は困難だ。

我々は、時間をかけて、一人一人に向かってきた。それでも、少し気を許すと日常に飲まれてしまう。冷静な頭が出て来て、
「そうはいっても現実をみろよ」と熱を奪い取ろうとする。

普段の生活では、人は無意識のうちにお金を基準に判断している。何をするにもお金がかかるから当然である。決してそれが悪いと言っている訳ではない。ただお金に縛られていることに気づいていない。自分が何によって判断をしているのか、まずそこに気がついてもらいたい。そこに「そうはいっても現実が…」と頭が出てくる原因がある。

今は命の危険がないため、本当に大事なことに目がいかず、どうしても世間の評判やお金の事が気になってしまう。死んでしまえば残らないものにとらわれて、魂が望んでいる事にストップをかけようと頭は動く。不安が頭の栄養である。希望や光は頭の敵なのだ。魂にとっては光が栄養である。

信念を持ち、普通の人が不安で負けてしまうような状況でも戦える人間。そうした人間の価値はいくらだろうか?そうした人間は金では転ばない。

我々の仲間は、お金で雇っている訳ではない。それぞれが自分の意志で、経済的な成功より人間的成長をつかみ取ろうと修行してきた。だからそこに上下関係など無く、同志や仲間、家族としか表現できない関係だ。その中には、資産家もいれば無一文もいる。年配もいれば若者もいる。男もいれば女もいる。インテリもいれば、シャーマンもいる。ないちゃーもいれば、うちなんちゅもいる。それぞれが自分のすべてをこの世界に賭けてきた。

それぞれが役割を全うする事で、この世界は広がって来たのだ。どんな人間にも役目がある。無駄も矛盾も無いのが我々の世界だ。

ちなみに、賭けるというのは一回で終わるものではない。常に賭け続けることで維持ができるのだ。少しでも真剣でなくなれば、すぐに真剣に仲間が教えてくれる。真剣に人に向かう事なしに絆は生まれない。絆があるから、自分の持ち場に専念できる。お互いに、尊敬と信頼なくして、共に戦う事などできない。

こうした仲間(家族)がいるから、自分も思い切り戦えるのだ。本当に大事なことは何かを問い続ける。お金に換えられない仲間がいるからこそ、本当の豊かさとは何かを堂々と訴えられるのだ。そして、仲間がいるから、自分だけではできないことも出来るのだ。

これから益々本物だけが残る時代だ。形だけの繁栄など一瞬で消え去る。本当に大事なものも、一瞬でなくなるから油断ならない。常に火を入れ続ける自転車操業だからこそ、必死になれるのだ。

心の時代では、人と人は想いによって繋がっている。

悪魔の誘惑

仕事においても、人生においても、美味しそうな話ほど罠がある。そのことを大体の人間は頭では理解しているが、自分だけは違うと思ってしまう。他人からみれば、あからさまに怪しい話で、一体どんな人間が信じるのかと見えるような話でもだ。だからこそ、ニュースをみると、如何にも怪しい事件で満ちているのだ。

お金が欲しいという欲からくる罠は、ここでは話題にしない。私がここで触れたい、美味しそうな話の罠とは何か?今日書きたいのは、悪魔の誘惑についてだ。霊的な成長を求めて修行をしていると、好奇心の罠、自己欺瞞の罠などに陥りやすい。
ダマされる人間、罠にハマる人間は、みなバカなのだろうか?そんなことはない。一見、悪魔の罠に見えないからこそ罠にハマってしまうのだ。知的な人間ほど陥りやすい罠でもある。情報というものは、人を簡単に魔界に連れていく。自分でハマっていることに気がつくことはほとんど出来ない。だから師匠、仲間が必要なのだ。

どんな話も、結局は自分自身の成長の材料に過ぎない。その材料を通して初めて体験ができる。ただの観念(考え)だけでは魂は成長しない。体験、実践をするために、この世があるのだ。恐れすぎても、体験から遠ざかってしまう。痛みが怖いあまりに行動できなくなってしまっては本末転倒だ。

罠を避けることが賢い生き方だろうか?その罠は本当に罠だろうか?成長のための試練と、奈落に落ちて行く罠とでは、どう違うのだろうか?
相手を変えようとするのか?自分が変わろうとするのか?
自分の価値観だけで判断するのか?相手の価値観をも理解した上での判断なのか?
各自の人生のステージに置いて、体験実践すべき課題は変わってくる。一概に言える解答などない。自分の中にしか答えはない。成長するに連れて、罠はどんどん高度になっていく。内面に向かっているようで、逃げていることもある。
痛みのない成長はない。しかし、この痛みが厄介だ。本当の成長につながる痛みは耐え難いものだ。ついつい、それを避けるために、無意識に楽の道を選ぶ。そして、それがあたかも正しいかのような理由をつける。知識があればあるほど、正しい理由をつくれる。それが当然だと思えるのだ。
世界は、知れば知るほど、裏があり、どこまで知っても切りがないように感じる。魔界に入っていれば、それが恐怖に感じる。本来、計り知れないからこそ面白いし、感謝ができるのにだ。
悪魔の誘惑はとても魅力的だ。魅力的な話に出会ったとき、心が浮ついて飛び乗りやすくなる。一度落ち着いて、話に飛び乗りたい自分の中に、嫌なことから逃げたい自分がいないか探してみる。辛い時こそ、誘惑はやってくる。
悪魔は自分なのだ。自分が誘惑を作り出す。霊的に見れば、自作自演なのだ。人間は弱いからこそ、すぐに解決に飛び込みたくなる。自分は弱いと知らねばならない。何に対して弱いのか?それを知らねば無意識の罠にハマり続ける。
逆に言えば、悪魔の誘惑の時こそ、自分を深く知るチャンスでもある。ピンチはチャンスなのだ。自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある。悪魔の誘惑の救いにホイホイ乗ってしまっては、本当には救われない。救われなくてもいいと覚悟して向かうのだ。精神的切腹だ。
現代では、肉体的切腹ではなく、精神的切腹こそが武士道なのだ。勿論、自己犠牲という名の自己欺瞞もあるからこそ、自分だけで判断せず検証が必要だ。自己犠牲という名の自己欺瞞も厄介だが、これについては映画「容疑者Xの献身」でも見て深めて欲しい。

告白

私は普通の人が考えているような世界の見方をしていない。だからこそ特別な世界を伝えたいと、このBlogを書いてるわけだが、逆にいうと、普通の世界の見方が時々わからなくなる。特に、ビジネスの世界にドップリと浸かっている人からしてみると、私は有り得ないことを言っているように見える。

ビジネスの世界においても、特別なビジネスのやり方もある。私はその方が究極の錬金術だと考えているが、世間一般のビジネス書が教えているような世界とはほど遠い。であるから、普通のビジネス世界の人間と仕事をするとき、スタンスが違うために気をつけねばならない。そもそも「仕事」という言葉の意味すら違う。(参考:仕事の本当の意味
魂とか霊に全く興味がない。もしくは、怪しいと思う人達と、「仕事」に対する価値観がどう違うか?我々は、魂を成長させる、霊が喜ぶために仕事をするが、普通のビジネスマンは金を儲けるためにする。
しかし、ここであえて言いたい。本当に儲かるとはなんだろうか?
信者と書いて、儲かると書くが、この文字の意味するところはなんだろうか?
頭が喜ぶのと霊魂が喜ぶのでは、どちらが儲かるのだろうか?
今の会社のほとんどは、千年を超えて存在することはないだろう。
それに対して、キリスト教は?何年続いているだろうか?また、ヴァチカンの資産はどれほどだろうか?仏教は?イスラム教は?神道は?
神とは何か?人の本質とは何か?人類が長く追い求めてきたテーマでモノゴトを見ている人間と、四半期決算で見ている人間とでは、利益に対する見方が変わってくるのも当然だ。
違う世界観を繋げていくのは難しい。だからこそ、繋がったら価値がある。全然違うからこそ、結びついたときに共創造が起こる。どちらが良い悪いという話ではないのだ。持ち場が違うだけなのだから。
今日誕生日の岡本太郎が産み出した、太陽の塔。当時は猛烈な反発があった。しかし今や、大阪万博は知らなくても、太陽の塔を知らない人間はいないのではないだろうか。何十年たっても、その価値は高まるばかりだ。未だに生み続ける経済効果はどれほどあるだろうか?ましてや、今も人の意識に働きかける、太陽の塔の存在が持つ力を金に換算することなど出来ない。
我々は、数年で左右してしまうようなトレンドを意識していない。真に価値のあるものを創造している。それは今は理解されづらいものだ。だからいいのだ。別に理解して欲しいから書いているわけではない。理解されなくて当然だ。
しかし、一人その世界に浸り、他の世界を見下すのは器が小さい。理解されづらいからこそ、向かうのだ。どのような手段を取ってでも、社会と関わりを持つことが大切だ。そうした葛藤を通して、人間の器は広くなり、愛の実践が出来るのだ。
具体例を挙げよう。
ビジネスマンにとって、投資は投資した金額以上のリターンがあれば成功といえる。我々は、極端なことを言えば、リターンがあろうとなかろうとそれで成功か失敗かを決めることはない。お金という媒体を通して、関係性が出来たことが重要なのだ。
その関係性を通して、魂が救えるかどうかが重要だ。お金はキッカケに過ぎない。しかし、かなり強いキッカケになる。昔、私はお金の関係を嫌がっていた。金を借りることも貸すことも嫌だから、株式投資という形でリスク限定していた。が、今はお金の関係があるからこそ、お互いの人間性の本質が見えると認識している。
ドロドロしたところに、人生の本質がある。泥の中から蓮の花が咲くのだ。
関わった人間とは、いつかは一緒にその花を咲かそうといつも思っている。
その日を楽しみに私は仕事をしている。

負のエネルギーの活用方法

 人間の感情の中で、怒りのような感情は出すべきでないと一般では教わる。怒りに限らず、嫉妬や妬み、ヤッカミなど負の感情エネルギーは抑えるべきで、それが大人であると。その通りだ。わめき散らしていては幼稚だ。だが、いつもがいつも感情を抑えることが正しい訳ではない。

時には負の感情だろうと遠慮無く、所構わず出さなければいけない時もある。調和を乱すことを恐れるあまり、自分の気持を無視していたら、誰が自分の心を守ってくれるのか?誰が本当に自分の味方なのか?自分の心を大事にして欲しい。
気がついたと思うが、今回のメッセージは優しい、いい人に向けて書いている。エゴが強い人間は自分を守りすぎて人の話を聞かない。傷つかないように強大な鎧を着ている。その鎧のお陰で抑えられて感情を出さない場合もあるし、調和を乱そうが平気で感情をだせる人もいる。
では時には出さなくてはの「時」とはいつか?一概に簡単には言えない。ケースバイケースだからだ。だがそのタイミングは魂だけが知っている。だから常に感じていれば自然とその時がわかる。頭で考えすぎていては、そのタイミングを逃してしまう。
人を自分の都合の良いように丸め込むのが上手な人間は、切れられないような雰囲気をつくるのが上手だ。あたかも正当な論理を組み立てる。相手の話を聞き過ぎると、納得してしまい動けなくなる。その雰囲気に飲まれて、自分を出せなくなるのを突破するには、エネルギーが必要だ。論理には論理でも対抗できるが、それをしてしまうと、奈落の罠に落ちてしまう。頭には頭ではなく、頭には心や魂で向かうのだ。
心や魂で向かうと相手にとっては意味不明になる。当たり前だ。心や魂は眼に見えないし、説明もできない。なぜむかつくのかを説明せよと言われても、ムカつくモノはムカつくのだ。感情を出すことに慣れれば、上手に論理でも表現できるようになる。すると、愛の気持ちで負のエネルギーを使えるようになる。しかしそこに一足飛びはない。まずはエネルギーを出せなければ始まらない。いい人ほど、自分を責めて出せないからだ。
相手に怒るより、自分を見つめて自分を変えれば相手も変わるとも言う。その通り。だがしかしだ。例をあげよう。
G君が失礼な言動をAに対してした。Aはムカツイて、「Gの野郎め許さん」と思ったが、自分の言動を振り返ってみた。すると、AはかつてGに対して失礼なことをしていたことに気がついた。あれからこんな言動をGはするようになったのかと理解出来たら、自分のほうが申し訳ない気持ちとなり、急速に怒りのエネルギーがなくなった。それ以来、何かムカツイても振り返れば自分の側にも理由が思い当たり、自分を責めるのにエネルギーを使って、相手に出すエネルギーはなくなっていった。
いい人ほど何も言えない理由の一つだ。自分を責め続けるとどうなるだろう?すべて嫌になっていく。当たり前だ。真面目な人ほど自殺しやすい訳である。喧嘩両成敗というように、どちらにも言い分はあるものだ。それを自分だけが反省していたら、片手落ちだ。相手のためにも伝えないといけない。反省していたら、自分も悪いしなーとなって、感情の伝え方が弱くなる。あとで自分では反省するとして、その場では反省を後回しにしてぶつけたほうがいい。確かに、Gには失礼なことをしたから、いまその仕返しをされたのかもしれないが、これとそれとは違う話なのだから、伝えなければ魂はスッキリしない。その後で反省して謝ればいい。
また、カチンときたからと全部が全部反応する必要はない。溜めてためて、ここぞという時に一気に出すのが伝わりやすい。いつも怒っている人間の言葉など周囲の人間は真剣に聞かない。しかし、そんな上級者向けのやり方はすぐには出来ない。まずは、ムカっとしたら、その時に「すいません、今自分むかつきました。何でかはまだわからないので、深めてみますが、貴方も考えてみてください」と言えたら上等だ。これでも難しいのなら、一度その場を離れるなり、不愉快そうな表情をするなり、まずは相手に自分の気持を伝えることから始める。最初は理性を使って冷静にでもいい。段々と出していくうちにわかってくる。
先程の例で言えば、AはGの為にもエネルギーを溜めるのが愛だ。その時、因縁であれば別だが、そうでなければ愛のエネルギーは高度すぎるから、彼のためにとそこまで高尚な気持ちにはなりにくいし、反省してしまったら益々想いは続かない。段々と無関心になってしまう。するとお互いにドンドンと距離が離れていく。それを縁がなかったと言う事では済まされない。Gに向かわずAは逃げてるだけだ。
Gの為にも、その場で出せなかったのであれば、機会がくるまで「あの野郎見返してやる」とか「とっちめてやる」でも、関心を持ち続けることが大事だ。その為に負のエネルギーを使えばいい。そういう感情のほうが長続きする(笑)
本来、エネルギーに善い悪いもない。コンプレックスなどの感情も一見負のエネルギーだが、それを活かしている、いわゆる成功者は多い。だがそれだけでは金を得ても、心は安らかにならない。成功を維持するためにコンプレックスを持ち続けても寂しいだけだ。せっかくのエネルギーだ。負のエネルギーだろうがなんだろうが、自分と相手のために上手に活用しよう。

楽(ラク)の表と裏

 どこの世界も楽ではないが、人間楽をしたいと思う生き物だ。

楽にも表と裏がある。浅いと深いといってもいい。

子供の頃、最初に苦労すれば後で楽が出来るよといって、勉強を勧められたことだろう。最初に勉強という苦労をしておけば、あとで楽な人生を歩けると。で、勉強が嫌いなのに嫌々勉強する。一見、楽しているようには見えない。

実際、受験勉強がトラウマになっている人間に出会うことは多い。それも踏まえた上であえて違う見方をしてみよう。
嫌で勉強をしているのは事実だろう。しかし、それは楽しているとも言える。本当にやりたいことがあれば、親の反対を押し切ってでも、勉強以外のことを極めたらいい。その方が勉強しているより大変で楽ではない。そこに向かうより、親を安心させるためとか、今はやりたいことがないからと理由をつけて、勉強する楽を選んでいるともいえる。本当にあとで楽をしたいのなら、辛くても自ら求めて動くほうが確実だ。
親に言われて勉強する楽を選ぶのが悪いと言っているのではない。それが必要な時期もあるし、それ故に掴むチャンスもある。どんな道も本人にとっては経験という学びであるが、我々はもっと積極的に魂の学びを求めている。受身で学ぶのではなく、敢えて飛び込み体験することで、進化のスピードを促進していくのだ。
受身の楽が表の楽だ。親や社会から常識とされていることに従って楽を得ようとすることだ。例を挙げると、
・いい大学に行ったほうがいい(勘違いしないで欲しいが行くなといっているのではない)
・大企業がいい
・貯金した方がいい
・喧嘩しないほうがいい
・結婚した方がいい
などなど。勘違いしないで欲しいので何度も書くが、逆をやれといっているわけではない。
見事成功したとして、お金があれば、大抵の苦労からは開放される。嫌なことはお金という対価を払えば解決できる。お金では快適な環境を作ることはできる。素敵な家、美味しい食事に囲まれて、一見楽に見える。実際体験した者から言わせてもらえば、快適な生活は楽である。しかし、魂はどんな困難だろうが乗り越えて自分というものを表現したいのだ。摩擦や不満がないという受身な楽だけでは、魂は楽ではない。喜怒哀楽がない人生なんてロボットと一緒である。裏の楽とは、魂を喜ばせてあげることだ。
表の楽は、達成したとしても寂しいのだ。表の楽は、すぐにその価値がわかることが多い。例えば、快適な生活はすぐにその価値を感じる。暫くたってから、あー快適だとはならない。上の勉強の例にしても、すぐに努力して勉強したらいい大学に入れるのだろうなと理解できる。
裏の楽を追求しようとすると、すぐには価値を感じることはない。だから葛藤が生じるし、楽ではないように感じる。勉強ではなく自分の道を目指したとしたら、自分が何をしたいか理解するまで時間かかる。その間、本当にそれでいいのかと葛藤する辛さがある。
魂は表面的な楽を求めていない。すぐにはわからない深い楽を求めている。それは自分では気がつかないものだ。だからこそ人生は面白い。他人との関わりの中でしか、自分の求めている本当の楽には気がつかないのだから。
「まさか自分がそんな楽を求めていたなんて!」のドンデン返しを魂は求めている。自分の予想を超えるからこそ面白いのだ。筋書きの見えるドラマなんて面白くも何ともない。だが、魂が喜んでいるかどうかも、すぐにはわからないから深いのだ。
後々になって、あの時は嫌で仕方がなかったけど、今思えば幸せだったなと振り返れたときに初めて、魂が喜んでいたことに気がつくのだ。だから、諦めずに向かい続けなければわからないものなのだ。途中で、諦めてしまったら、折角魂は喜んでいたのに死ぬまでそれに気がつくことがなくなってしまう。
愛も深ければ深いほどすぐには理解出来ない。本当に価値があるものは何でも、すぐに理解したり感じたりできないものである。だからこそ、あとで感動や感謝が生まれるのだ。

男女の因縁

親子の因縁は宿命で変えられないが、夫婦の因縁は運命であるがゆえに、選択の自由がある。これは普通の男女の恋人関係においても同じ事だ。

どんな出会いも意味があるが、それを追求するのは難しい。必然と濃い出会いから学ぶ事となる。恋愛関係より結婚関係のほうが濃い。

相手は鏡だとよくいうように、自分にとって必要な相手と惹かれ合うようになっている。中には一方的な関係もあるだろうが、それも当人は意識できていないだけで、魂はその相手を求めているのだ。

その深い意味に気づく事をしようとしなければ、相手をコロコロ変えるだけの経験を積んでいくだけになる。人は好奇心から、表面的に違う相手に興味を持つが、好奇心だけでは飽きがくる。

また、今の相手に不満があるとき、逃げとして新たな相手に気が向いてしまう。隣の芝生は青く見えるということだ。

好奇心も、隣との比較もキリがない。際限なく追いかけ続けて人生の時間が終了する。ある意味それを実行できるのは幸せだ。体験すればむなしい事も体験できる。実際に欲望通りに生きられる人は少ない。一見羨ましいが、制約が無いのは可哀想なことでもある。だから金持ちほど不幸になりやすい。

大抵の人間はそうした生活を願いつつも、我慢(経済上の理由が大きい)して、気を他の事で紛らわせながら生きている。そうした制約があるから、問題と向き合う事を余儀なくされる。

人と向き合うという事は、辛く大変なことだ。まして、こちらに向き合う気持ちがあったとしても、相手に気持ちがなければ向き合えない。ハードルが高いのだ。

だからこそ、それを乗り越えたとき、一心同体と呼ばれる状態になれるのだ。自分の喜びが相手の喜び。相手の喜びが自分の喜び。喜びは倍以上に、悲しみは半分以下になる。

自由な恋愛状態に比べて、結婚していると法的拘束力がある故に学びが深い。人間怠け者である。少々縛られていないと学べないのだ。先ほどの制約と同じだ。

人間は辛い経験がないと学べない。

結婚も離婚も形式的なものだ。形式にとらわれると苦しくなる。結婚しなくちゃいけない、とか、離婚したい、という感情は執着だ。

安心感を得る為の結婚や、嫌な事から逃げる為の離婚ではより辛くなるだけだ。形式への執着を捨て、あえてそれを選択すれば、それは学びの宝庫となる。結婚、離婚自体には、良い、悪いはない。

仏陀は王様であったのに、家族も国も捨てた。普通の概念で言えばひどい人間だ。仏陀がいなくなったあと、国は滅び家族も苦労したが、仏陀が悟りを開いたお陰で彼らの心は救われた。

常識的な判断で、
「出家したいけど、国も家族もあるからなぁ」と非難を恐れて決断しなかったら国は滅びなかったか?それは誰もわからない。結果的には同じだったとしたら、仏陀が悟りを開けなかった分、家族も未来の人々も誰も救われない。国が滅びなかったとしても、仏陀自身の魂は救われない。

どんな選択も体験することで学びになる。頭であれこれ考えても始まらない。心の赴くままにえいやーと飛び込んでみる勇気が必要だ。

どんな人とでも必ず問題は発生する。そこで逃げずに向き合い続ける事が大事なのだ。決断したからには、例え心が嫌になっても向き合い続けるのが責任だ。

いい人が飛躍できない理由

前回天使のことを書いたが、天使はいわゆるいい人だ。いい人は、利用されやすく、どうでもいい人として扱われやすい。そして、その当人はそう扱われている事に気がつかない事も多い。気づいたとしても「いい人」だから、問題の原因は自分にあると、自らを責めていたりする。

話しは変わって、こんな話しがある。

誰もが認めるハリウッドの大スター、トムクルーズ。彼は二枚目で人気者。その彼が初めて結婚した相手はバツ一で年上の奥さん。

普通に考えたら、年下で相手も初婚の人を選ぶのではないか?ではなぜあえて自分の初婚に離婚歴があり年上の彼女を選んだのか?奇麗だからとか、気が合うからとか、表面的な理由ではない。

ご縁とは不思議なものだ。当人たちも気づかない運命の歯車がある。

実はあまり知られていないが、最初の奥さんがきっかけでトムはサイエントロジーに傾倒する。トムクルーズは学習障害をもっており、台本も読めない人間だった。

彼は、サイエントロジーに傾倒してから、一気に大スターへの道を登っていく。

どうしようもない奥さんだったと思われているが、彼女がトムにとっては天使の役割を果たした。しかしそれは霊的な観点からみたらという話なので、本人たちは自覚していない。華やかなトムの後ろに天使が介在したことなど誰も知らない。

ところで、天使はなぜ太っているかわかるだろうか?西洋の宗教画を見れば、天使は大体子供でコロコロしている。

太っていたら、この世は重力があるから重くて飛びにくい、のにだ!

では悪魔はどうだろうか?そう、悪魔は痩せている。

これは何を象徴しているか?

この世の仕組みとして、実は悪魔のほうが自由自在に飛びやすいのだ。良い悪いではなく、悪魔のほうが世間で上手に活躍できる。

天使は誰の心にもある。
しかし、悪魔に捕まりやすい。

悪魔も極めて大悪魔になれば、ステージがあがれる。

天使も究めたものだけが、大天使になれるのだ。

単なるいい人を卒業し、相手の為にあえて、鬼にもなれるか?大天使と大悪魔は裏腹だ。一歩間違えば堕天使になる。

表面的に世間で活躍したければ、悪魔的な要素を身につければいい。ずる賢さ、見栄え、愛のない契約などなど。

本質的に活躍したければ、コロコロした子供から卒業しなければならない。

単なるいい人というだけでは、一瞬のキッカケしか作れない。

それはそれですごいことではある。

でもどうせ修行にきているのだから、天使で満足せず大天使になろうではないか。

勿論、大悪魔から極める道もある。どちらを選ぶも自由であるのがこの世の素晴らしいところだ。

そこに良い悪いはない。

シンクロ

 「Blogの記事が私にとってちょうどよいタイミングでした」と言われる事がある。

相手の状況と記事がシンクロすることが多い。それは昔書いた記事でも起こる。ちょうど考えていたことや興味を持っていたことが重なった時、それをただの偶然で済ます人もいる。

それ以上、シンクロしたことについて、どんな意味があるのか?を深めないのだ。私からすれば、偶然と済ますだけでは勿体ない限りだ。このBlogを読んでくれている方々は、シンクロなどは面白がるタイプだろう。実際、
「何かの信号だ!」と、そう捉えた方が人生面白いではないか。

シンクロしている人ほど、時代の流れに乗っているという事だ。

時代が同じような状況を作り出しているとも言える。

ここのところ時代の流れが速いので、私も乗り遅れないように必死だ。常に意識して向かっていかなければ、あっという間に時代から遅れてしまう。シンクロから意味ある行動を抽出することができる。

シンクロがなくなったら要注意。例えるなら、信号が赤になったも同然だ。

シンクロしている時は信号が青でどんどん進める。

一度、信号が変わると、次に変るまでどれくらいかかるかわからない。開かずの信号かもしれないのだ。

シンクロを深めて、次のシンクロを呼び込むのだ。

仕事の本当の意味

心を閉ざしている人に、何を言っても無意味なときがある。そういう場合は徹底的に追いつめて、壁を力で破壊するのも一つの方法だ。もちろん、これだけが方法ではない。

ただ、追いつめられた時、ほんの些細な一言で心を開く場合もある。北風と太陽の寓話のように、最善は愛を感じることが一番だ。

しかし、ただ暖かくすればいいのかというと、そう単純ではない。寒さと熱さ、厳しさと優しさ、両極が必要だ。極端な方がより変化が早い。厳しい時は徹底的に厳しく。優しい時は徹底的に優しく。

いずれにせよ、中途半端な状態では何も出来ない。

「どうせ他人にはわからないんだよ」と自分の殻にこもっても、いつかは自分をわかってもらいたいと思う時が来る。それを待つのも愛の一つの形だ。

ただ待つだけでは芸が無い。そう思うよう仕掛けていく。これが本来の仕事の意味だ。悟りたい、魂を成長させたい、心を豊かにしたいと願うように、仕掛けていく。

向かいすぎて、相手が開き直ったり、居直る場合もあるだろう。相手に胆力が無いと問題と向かわずに逃げてしまう。逃がさないようにするのも愛だ。

諦めたらおしまい。諦めなければすべてがプロセス。向かい続けることで、終わりよければすべて良しになる。

自分が諦めたら、相手も諦める。
「まぁいいか、しょうがない」
「ご縁が無かった」
「あいつは馬鹿だ」
「時期じゃない」
などは自分の逃げである。諦めずに事を仕掛け続ける。

働くとは傍(はた)を楽(らく)にするという事だという。本当の意味で、周囲の人を楽にするとは何だろうか?人を幸せに導いていくことが、人間の本当の仕事である。

いつも目の前にヒントがある。それをヒントに仕事をしよう。