「悪霊喰 The Sin Eater」2
Sin Earterはアレックスたちのカロリング修道会を破門された人間が元々始めたことだった。因縁の関係だ。仕組んだのか、仕組まれたのか?映画においても、枢機卿がイーデンを利用しているのか、はたまたイーデンに利用されているのか、その真実はわからない。利用していようが、利用されていようが本来は関係のないことだ。そこに答えはない。
そこにハマりすぎると魔界に入って、ドミニクのようになってしまう。知りたい欲求を抑えられず、魂を売ってしまう。そこまでいかなくとも、知りたい気持から疑心暗鬼も生まれやすい。なぜすべてを教えてくれないのか?と。
私も昔は、ITを活用することで、どんな情報も共有することが無条件に良いことだと信じていた。しかし今は、何でも無差別に情報や物資・資金を提供することは、本人にとって学びとならないこともわかった。
我々の世界では、あえて全てを伝えないことが多々ある。そのせいで、仲間であるのにその気持ちを疑ったり、騙されているのではないか?と疑いの心が起きやすい。でもだからこそ、その人の本質が現れやすいのだ。隙がなければ、人は本心を隠したままだ。それではお互いに表面の付き合いとなり、魂の学びがない。喧嘩や疑いは起きたほうがいいのだ。それも魂の向上のキッカケとなる。我々はあえて相手が攻撃しやすい隙を作ることもする。だから誤解されやすい。それが菩薩の道なのである。
「知識は信仰の敵だ」と本屋の主人が言った。信仰は信頼・愛と言い換えてもいい。すべてを教えることが信頼へと繋がるわけではないのだ。しかし、求める者はその人に応じて知ることになる。それが物足りないからと言って疑うようであれば、それは信じていないということだ。ここまで知ったから、ここまでは信じようでは取引だ。条件付きの信頼は本当の信頼ではない。真理をいえば、何も分からなくても信じるのが本当の愛だ。
更に本屋の主人は、
「奈落を覗き込むと、奈落と目が合うよ」とも言った。彼は「奈落の底」とは言わないのは何故だろうか?その意味をよく考えてみてほしい。奈落とは何か?不安、恐れ、疑い、闇の知識、これらは人が信じられなくなり、自分すらも信じられなくなる。これらの力は下に引っ張る引力のようなものだ。浮き上がる力と落ちる力、どちらが強いか?地上に住んでいる我々はよくわかるだろう。
アレックスが入った不思議な本屋はヴァチカンの周囲に実際いくつかある。どうやって生計を立てているのか?そんなにお客がいるとも思えない。謎ではないか?入った瞬間に、異端のカロリング修道会の名前を出すくらいだ。来店する人は限られている。偶然入った人間は、裏の世界である地下の書庫へと案内されることはない。
我々の世界でこの本屋の存在を例えるならば、それは猫寺だ。表の入り口から入った人間は、そこにあるアートや場所の意味を知ることはない。繋がり、縁がある人間だけが裏の入り口から入れる。猫寺は完全予約制で、普通の飲食店として考えたら赤字確実で三日と持たないやり方をしている。猫寺の存在意義を理解し、必要としている人間の支援があるから存在していけるのだ。裏のつながりがなければ維持できないのは、映画の中の本屋も同じである。
この本屋の店主も只者ではない。初対面だとしても、アレックスを地下へ案内する資質を備えた者であると、一目で判断し導いている。また、すべてを見せるわけでもない。意味深い言葉を伝えながら、今のタイミングで見せて良いものだけしか見せない。
「君の値打ちは?
知らぬ方がいいこともある」
といいながら、アレックスが見ていた本を閉じる。
自分の役割、持ち場をしっかりと理解している。またアレックスも無理やり見ようともしない。どんな人間にも値打ちはある。その持ち場に応じて。それがその人の使命であり役割なのだ。
自分の役割、持ち場をしっかりと理解している。またアレックスも無理やり見ようともしない。どんな人間にも値打ちはある。その持ち場に応じて。それがその人の使命であり役割なのだ。
このシーンの時、本屋の主人とアレックス、どちらが偉いとか優れているとか判断できるだろうか?そんなものはないのだ。この状況では、店主とアレックス、二人がいないとシーンが成り立たない。二人とも必要だし、またこのシーンだけでも映画は成り立たない。前後のシーンと他の登場人物がいて初めて成り立つのだ。繋がりによって世界は成り立っている。自分の値打ちや役割が今はわからないとしても、必ず登場シーンはあるし、必要な役割がどんな人間にもあるのだ。
そして本屋の地下通路。線が引かれていて、その線を越えないようにと店主は警告する。線を超えてしまうと、犬が襲ってくる。前回書いた、イーデンの兄が破門された話を思い出してほしい。歩いて良い道、これはつまり戒律に守られた道だ。それを踏み外すと痛い目にあうのだ。アレックスは道を外れるが間一髪で助かっている。世の中不公平なのである(笑)
これは差別でもないし、区別でもない。その人の値打ちや役割は、その責任を全うするかどうかで決まる。例えば、本屋の主人と言う役割を貰ったとしたら、それを極めることができるかどうかなのだ。極めてしまえば、もう主人公なのだ。すると彼を主人公にした、「世界の秘密を握る本屋」という興味深い映画になる。
我々の世界では、誰もが自分の映画の主役になって欲しいとチャンスを作っている。自分を知り、自分をプロデュースしてくれる仲間がいて、その導きを信じて、新しい自分を創造すると自然と主役になっている。
主役になるには、今までの自分が持っている概念を捨てて、新しい概念を信じて実践することが要求される。今の自分は人生の主役ではないのだ。世間に合わせた自分像を演じているのだが、それに気付いていないだけ。
プロデューサーに、本屋の地下で、
「この道を踏み外さないように歩いてみて」と言われた時、理由がわからなくてもそれが信じられるか?そして実際に歩けるかがすべてだ。
自分は自由に歩きたいとか、自分勝手な役柄を気分に応じて演じていたら、一体何の映画なのか意味不明の映画になるだろう。今まで自分が演じていた映画から、新しい映画の主役の演技を掴むまでは、監督やプロデューサーの指導を聞くのが当然だろう。そうして初めて役に成りきれるのだ。
話を戻そう。ドミニクがこの本屋で最後に買ったのは、アラム語で書かれた羊皮紙。羊皮紙も信号だ。羊の皮と言えば、羊の皮をかぶったオオカミという表現が有名だ。これについて面白い話がある。
ある羊の皮をかぶったオオカミが悔い改めることを決意し、そのために儀式をすることを望んだ。神父もそれを大層喜び、大事なことだからと念には念を入れて準備をして、儀式を行った。羊の皮をかぶったオオカミ本人も望んだことで、本当に悔い改めようとしていた。
神父は一生懸命やり過ぎて、いつもよりも長く時間がかかってしまった。そのせいで、羊の皮をかぶったオオカミは退屈してしまった。その時、神父が力を入れ過ぎて怪我をし、少々血を流してしまったのだ。その血を見た瞬間、羊の皮をかぶったオオカミの血が騒ぎ出し大変なことが起きた。
血が騒いでしまっては、自分ではもうどうにも抑えられなかったのだ。羊の皮をかぶったオオカミは、神父を殺してしまった。どうしようもない性(さが)というものがある。これは一体誰が悪いのか?熱心にしすぎた神父のせいか?血が騒いでしまった羊の皮をかぶったオオカミのせいか?答えは簡単に言えないのがわかるだろう。良い悪いではない世界があるのだ。そうした寓話を含んだ羊皮紙に、悪霊喰のことが書かれているのだ。
書きたいことが山ほどある。質問があればコメント頂ければ幸いだ。
続きは次回!
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