世の中は綺麗事では収まらない
世間では問題を起こさないことが良いことという認識がある。問題を起こすくらいなら、無難な反応が望まれる。行動も、発言も、波風立たせないようにすることを、良いことのようにとらえている人が多い。本当にそうだろうか?
例えば、綺麗事の発言を考えてみよう。
敵を作らないのが大事だとか、
裏切られたのではない、自分が悪いんだとか、
自分も昔はそう思っていた。
しかし、今はそうではない。現実はそんなに甘くないし、もっと深いところで、人間関係を見据えたら、愛憎は表裏一体だ。自分も悪ければ相手も悪いのが本当で、敵がいなければ本当の味方もいないのだ。
自然は冷徹である。そんな綺麗事は絵空事で、理想という頭の中にしか存在しないし、通じない。だからといって、モノゴトを悲観的にみる人になるのは簡単だ。そうではなく、現実を冷静にみつつも、そこから更に深めたら、冷徹の中に愛を感じることが出来る。
大きな愛は時に冷たく残酷に見える。 耳障りの良い言葉は、表面的なことしか触れられない。 自分をよく見せようとするのは簡単だ。イイことを言っていればいい。
心がざわつくこと、なんだこいつと思われるようなことを言ったり、書いたりすれば、嫌われるし、関係が不安定になる。それは恐ろしいことだ。また正直にして、問題が起きたら面倒だという意識もあるだろう。
しかし、考えてみて欲しい。 世の中の大半は、自分と同じ意見の人を求めて、自分を認めてもらいたがっている。そこで敵を作らないというのは、相手に自分を合わせることしかないではないか。
もしくは、納得していなくても、「そういう考えもあるよね」といった理解者だとしよう。 ほんとは納得していないのだから、その人の味方でもないし、敵でもない。
敵を作らない=何でもない人だったら、関係を持つ意味がないではないか。
だったら、何のために出会いがあるのか? お互いがぶつけあってこその切磋琢磨で、そこには綺麗事など入る余地はない。真剣になればなるほど、甘い言葉など、ぬるく感じるし、時には怒りすら感じる。岡本太郎が、
だったら、何のために出会いがあるのか? お互いがぶつけあってこその切磋琢磨で、そこには綺麗事など入る余地はない。真剣になればなるほど、甘い言葉など、ぬるく感じるし、時には怒りすら感じる。岡本太郎が、
「すこしづつ自分を殺して譲り合うことでなれ合う調和なんて卑しい」と言っているのもこのことだ。
今でこそ彼の言葉は、その通りだ、納得だと人気があるが、発言していた当時は叩かれ続けていたのだ。時間が経てば本物は残る。ある意味で、叩かれなければ本物ではない。
どんな人間だって、完成されていないからこそ、この世でいろんな体験をしているのだ。厳しく見つめたら、進化の種は必ずある。その種に本人が気づくチャンスを<綺麗事>は見えなくさせてしまう。
言っても無駄だと感じたならば、相手のために祈るだけでも違う。 自分のエゴで相手に伝えても、勿論それは伝わらない。 真に相手のことを想って伝えた言葉は、表面的には拒絶されようと魂には届くのだ。
綺麗事は自分を良い人に見せたいエゴかもしれないと、自分を疑ってみる事だ。綺麗事で思考を停止させないで、本当にそうだろうか?と自分の霊に問い続けることから、本当の人生は始まる。どんな道も楽ではない。
綺麗事しか言わない人間は、表面的には味方でも、いざとなると簡単に去っていくものだ。輩(やから)も高度になると、
「ほんとは言いたくないんだけどねー」と、綺麗事に見えないように綺麗事を言って、本当の味方のふりをするから、また面白い。
この世は本当に上手くできている。
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