千と千尋の神隠しの密教
先日、千と千尋の神隠しについて触れたところ、ちょうど7月6日に放映されるという。きっと今回も多くの人々が見るだろう。ジブリの映画は現代の神話である。何度も放映されて深層意識に監督の世界観が刷り込まれていく。
監督自身、無意識の世界からの感応を受けて、まるで宣託を受けるかのように制作しているようにみえる。宮崎監督は初めから結論ありきで映画作りをしない。自分自身でもわからないまま導かれるように作るのだ。無意識がキャッチした信号だから、本人が意図した内容を超える啓示もある。ポニョなんてまるで津波の予言だ。
映画に込められている暗号は、作者本人でさえも自覚していないこともある。時代に影響を与える作品というものはそうした深さを持っている。無意識をキャッチできるのだから、宮崎監督はシャーマンでもある。
さて、「千と千尋の神隠し」はどんな映画だろうか?世界の真理は堂々と現れているが、それに気がつかないものにとっては隠されているように見える。ここでは解釈のすべてを書く事はしない。あえて隠しておく。本当に求める者だけが、冒険をして得られることに価値がある。どんな神話も試練があるから盛り上がるのだ。
いきなりだが、神によって隠されていることはなんだろうか?
神とは誰だろうか?
千尋は千という名前となり、本来の名前が隠される。我が国も、日本、にほん、にっぽん、ひのもと、やまと、一体本来の名前は何だろうか?
名前を失う事は、自分を見失うことをほのめかしている。日本国民が本来の民族性を見失っていることを象徴している。本性が神隠しされている。原点や経緯といった歴史も隠され、奴隷となっているのだ。
テーマも隠されている。意図的なテーマと、監督自身も自覚していない無意識なテーマ。優れた神話は多様な解釈ができるものである。この世の仕組みを表しているという解釈も一つの見方で、そうといえばそうだし、そうじゃないといえばそうじゃない。しかし、そう見た方が筋が通っていたり、より面白く見える。
では、隠された名を取り戻すとはどういうことだろうか?
名実ともに、本来の自己を取り戻す事だ。ギリシャ神殿に「汝自身を知れ」と書かれていたように、本来の自己を知るものは少ない。本来の自己は自分だけでは発見できず、愛をもって接してくれる他人のお陰で気がつくのだと映画は教えてくれる。千尋とハクの関係が良い例だ。そして、そこには見えない因縁があった。
千尋がコハク川に落ちたことは、因縁付けしたと同じ事だ。因縁付けした相手に助けられ、因縁の相手だからこそ感情が入るのである。川に落ちて死にそうになった事は、一見悪い出来事と言えるだろう。でも実は逆で、悪いと思っていた事がかえって良かったわけだ。出来事の善悪は、長い目で見なければわからない。
なぜハクも千も危険を冒してまで、相手を助けようとしたか?単純に愛だけでは計れない。千はハクのことを信じられるかどうかの試練もあった。敵だか味方だかわからない、意味が分からないことをしたりするのは因縁の証拠だ。
神隠しは非日常の世界、異界への旅だ。非日常だからこそ、日常では気がつかない真理に気づけるのだ。昔は神が非日常に連れてってくれた。今は自然という神が都会からは隠れてしまった。一体誰が非日常へと誘ってくれるのか?非日常は怖いものだ。そうした怖さを都会はなくしてしまった。
興味がある人がいるようであれば、この続きはまた次回に書こう。
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