節目の活用
今日はスーパームーンの話題が出ても、沖縄の慰霊の日が話題になることは少ないだろう。沖縄は未だに戦争を引きずっている。実は日本も引きずっていて、もはや戦争など遠い過去のように感じるかもしれないが、戦争の影響は色濃くあちこちに残っている。
それがたまにマグマのように吹き出してきて、竹島や尖閣として認識される。自衛隊という存在も、日米安保も、日本の体制は戦後のまま続いている。どこでケジメをつけるのか。時代は次のパラダイム(認識の枠組み)を用意しだしている。
次第に次の世代のあり方を模索している人が増えてきている。今までのやり方が機能しなくなってきているので、既存のやり方から変えようとするのではなく、全く違うアプローチをとる人たちは目立たない形で増加している。
大変化ほど早い。あっという間に変わる。そして、その変化のスピードは情報化社会が加速させている。情報が情報を呼び、情報にまみれて溺れるほどインプットされる社会だ。誰かの意図にのせられたまま消化していくと、気がつかないうちに奴隷化している。
知識は増えても、知恵は簡単には身に付かない。
知識と知恵の違いはなんだろうか?
慰霊の日という情報から、どんな意識が見えてくるのか?
日本も、個人も、多くの人の力で支えられて今がある。その時々で節目の出来事があり、その節目があるから、思い返したり、感謝の気持ちを思い出すキッカケにすることができる。今日のスーパームーンを見たくても、見られない無念の想いでなくなった方もいるかもしれない。
今を生きる人間として、リアルにできることを意識して大事にすることの価値を前回書いた。いつも自分への戒めとして、自分へ伝えるために書いている。そして、その過程を共有することで、共に菩薩道を歩く同志としての応援でもある。
人それぞれステージは違えど、悩みはつきない。悩み、苦しみ、葛藤を体験しながら、喜び、幸福を感じていく。今は体験できない人たちからのバトンを受け取っているのだ。既に私たちは多くのものを先人たちから受け取っている。
今はとても素晴らしい時代だ。こんなにも学ぶに適した時代はない。過去かつて存在した王様たちよりも素晴らしい生活体験が出来る上に、学ぼうと思えば、中世の比にならないくらい簡単に学べる。隠されていた情報が開かれて、その気にさえなればある一定のレベルまでは到達できる。
そこからが、いつの時代も難しいのだ。達人と呼ばれる境地は、いつの時代でも時間がかかる。こればかりはITが逆にアダとなる。論理の先に到達できるものではないからだ。
体を使って、リアルにあって、話をして、感じて、体験を通してしか得られないものこそ、他の誰にもかえられない自分の価値となる。もちろん、人はそのままでユニークで意味がある。そこに安住していてはもったいない。
美人が努力しないようなものだ。それも一つの生き方ではある。ただ、自分は一生懸命に生きるのが好きなだけだ。戦争は有無を言わさず一生懸命にさせられる。強制されるのは辛いものだ。強制されるからこそ学べることも確かにあるが、自分は遠慮したい。
かといって、一生懸命になりたくないわけではない。自ら求めて、信念を持って生きる。そうした仲間たちと一緒に学べる今に感謝している。
自分たちの死が無駄ではなかったと思ってもらえるよう、心の支えの一つとして今日の節目を過ごすのが私なりの知恵だ。
こうしてBlogを書くことが、受け取ってきたものを次の誰かへのバトンとなれば幸いだ。たくさんの想いのバトンを渡し続けていく。
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