特別な投資をされたい人へ

この記事は、題名通り「特別な投資をされたい人」のための記事であり、それ以外の人は誤解してしまうかもしれないが、できるだけ本質だけを読み取ってほしい。

「菩薩の仕事」でも少し触れたが、投資されたい人、つまり「資産を持たない者」へ、その極意をお教えしようと思う。

勘違いしないでほしいが、「お金を流す」ことが菩薩の仕事ではない。ここでは、「特別な投資」の話で、普通の世界の金融業界的投資の話ではない。その本質を感じ取ってほしい。

まず大前提として、お金の世界の矛盾を頭に叩き込むことが重要だ。

「資産を持つ者」は、お金など求めていない。つまり、すでにお金に興味はない。
「資産を持たない者」は、お金を求める。つまり、お金にものすごい興味がある。(気をつけるべきは、ベンチャーキャピタルやファンドなどは投資する側だが「資産を持たない者」だ。)

つまり、両者は、まったくと言っていいほど違う世界に生きており、その両者の世界では、「常識」というものが全く異なるのである。だから、「持つ者」と「持たない者」がお互いの世界の常識で話をしたとしても、かみ合うはずがない。

例えば、「持たない者」が投資をしてほしい!と考えたときに行うプレゼンなるもの。そのプレゼンは、自分が考えた事業が如何に儲かるか!を根拠をつけて説明したものである。

しかし、そんなものには何の意味もない。「持つ者」は、儲かろうが儲かるまいが知ったこっちゃない。

だから、その人がどんなに一生懸命お金が儲かるかを説明しても、興味がない。プレゼンが終わったときには、「・・・で?」という感覚しか抱かないのだ。ただ単に、「また儲け話か、つまらないな」と取られるだけだ。

プレゼンした人のほうも、「反応が薄いな、何か気に障ったかな?」と意味がわからない。ものすごい頑張って考えたプレゼンに対して、全く反応が薄いのだから。そして、プレゼンの何が悪かったのかを探そうとする。そこに正解はない。

また、「社会貢献」という言葉も一つ気をつけなければならない罠である。「社会に貢献するために!」という大義名分を持って、事業を説明してくる人が多い。

実際、本当に社会のために!と思っている人もいるのだろう。しかし、「資産を持つ者」にとって、「社会貢献」などはどうでも良く、興味がない。というよりも、本当におもしろい事業であれば、「社会貢献」などという大義名分を持ち出さなくても、それが社会貢献に繋がることを知っているのだ。だから、「社会貢献」を堂々と表に出して事業をやろうとする人が、「嘘」をついていることも知っている。(こんなことを言うと、「みんながみんなそうではない!」と反駁されそうだが、それも正しい。これは「資産を持つ者」の視点であり、それが良いか悪か、という議論に意味はない。)

では本題に入ろう。どうしたら「資産を持つ者」から特別な投資をしてもらえるのだろうか。

簡単なことだ。「資産を持つ者」が何を求めているのかをわかれば良い。間違ってもお金ではない。

だが、これが意外と難しい。「資産を持つ者」の世界は、「持たない者」の世界とは全く違うので、普通の「常識」や「概念」は通用しない。ある人間が全く違う世界の常識や概念を身につけるのは相当難しい。いや、難しいというよりも、「勇気がいる。」なぜなら、今まで自分が生きてきた常識や概念を一度ぶち壊さなければならないからだ。自分の生きてきた人生を全て否定する、と言ってもいいし、自分が今まで培ってきたもの全てを捨てる、と言い変えても良い。

それには、相当の「勇気」と「覚悟」がいる。半端に何かを身につけてしまった人のほうが、抜け出せなかったりする。

まずここで、「自分の人生を否定できない」人は、脱落するしかない。次に「自分が培ってきたことを捨てることができない」人も、脱落するしかない。一生、自分の世界だけで小さく縮こまって生きていくしかない。

そして、自分の人生の否定を行い、培ったものを捨て、常識や概念をぶち壊した人間にしかいけない領域がある。そこでは、不思議なことに、今までの自分の人生、培ってきたもの、常識や概念が全て活きてくるのだ。

一見、矛盾しているように思えるが、何の矛盾もなくそうなのだから仕方ない。

それが、私がいつも言う「特別な世界」であり、それを求めている人を繋げるのが、「菩薩の仕事」なのだ。

話を戻すと、その世界では「資産を持つ者」が求めているモノが手に取るようにわかる。普通の世界の常識や概念を超えた世界だからだ。だから、自分の常識や概念を捨てられない人に、特別な投資は100%ない!と断言する。

逆に、自分の常識や概念をぶち壊し、特別な世界の法則を掴んだ人間は、100%特別な投資がある!と断言できる。

そして、この「特別な投資」というモノが、お金だけではない、ということを言えば、少しはこの記事の本質が伝わるだろうか。

その本質がこの菩薩ブログの至るところにちりばめられている。全ては用意されているのだ。

常識や概念をぶち壊す方法もあるし、特別な世界の法則を掴んでいる人もいるし、それを実践するための「資産を持つ者」も大勢いる。

正直、みんななぜ飛び込んでこないのか、不思議でしょうがない。自分ももっと菩薩の仕事を加速して行わなければ!!

デスノートとは社会である

「デスノート」は時代を表す一つの作品だ。これはかなり奥が深くて、少し帝王学の要素も入っている。

ここから学べる帝王学はかなり有効なものばかりだ。これに関しては、ブログで書けることには限界がある。文字では情報量が少なすぎて誤解を招くので、詳しく知りたい人は是非沖縄にきてほしい。

と、それだけだと何なので、誤解を恐れず一部だけ書いてみよう。

続きを読む デスノートとは社会である

認めてあげるだけで良い

寂しい時代である。今の日本は、寂しい人で満ちている。

「本当は寂しいんだー」と素直に泣けたら、明日から笑ってスタートできるのに。自分が寂しがっていることすら気付かない。

心の隙間を、仕事やモノや情報で埋めようとしている。しかしそれは心がある人間でしかできないこと。

人間とは本来、孤独な生き物である。自分の心をそのまま人に伝えることができない。なにかが邪魔をして、伝えることができない。

そして、一人で孤独を抱えるようになる。本当は孤独など、抱えなくてもいいのに。

みんな孤独なんだから、それを認めて、寂しいことを認めてあげるだけで良い。みんな寂しさを抱えすぎだ。寂しさを忘れるほど自分を忙しくし、心を忙殺している。本当にそれでいいのだろうか?

「私には○○があるから寂しくないですよ。」という人がいる。ということは、○○がなければ、寂しいということだ。○○は永遠に続くモノだろうか。

本当の自分、あなたの心は叫んでいるよ。それを自分自身で認めてあげよう。ただそれだけで良い。

かくいう私も以前は、自分が寂しがっていたことに気がついてはいなかった。自分は寂しかったのだと気がついたときには、驚いて、自然に涙がこぼれていた。

本当に大事なことは見えないし、気づかないのだ。

男へ

嫌われることを恐れるな。
嫌なことへ向かえ。
思考を捨てろ。
遠くを探すな、足元を掘れ。
のんびりするな。背水の陣を敷け。
褒美は後からやってくるものだ!
すでに褒美をもらった人は、それを捨てろ。
次の人に繋げろ。
自分は何にも捉われずに先に進め。
何にも執着するな。
真っ直ぐ生きてやるぞ!という心だけを忘れるな。

女性の時代だからこそ

女性よ、男を叱れ。
感情で「怒る」のではない。愛で「叱る」のだ。
男を甘やかすな。逃げるやつは徹底的に追い込め。
情を捨てろ。情は自分も相手もダメにする。
愛情を「愛」と「情」に切り離せ。
「情」はただの自己満足だ。そこに大した価値はない。
「愛」をもって男性を見てくれ。
自身が本来持っている男気を思い出せ。
男には男気がないもんだ。
直感で生きろ。
封印を解け。
本当の愛は、厳しさもなければ嘘だ。
これぞと思った人をとことん支えろ。
持ち前の柔軟性でしなやかに変化を受け入れろ。
強くなったら、女らしさを磨け。

スーパースターの幻想

タイガーウッズは時代が生み出したゴルフ界のスーパースターである。そして、女性問題というスキャンダルにより消された。

音楽界でいえば、マイケルジャクソンとエルビスプレスリーが二大スーパースターである。世界的なスーパースターの歴史として、エルビス→ビートルズ→マイケルという流れがあり、それぞれが魂を受け継いできた。

エルビスとマイケルは、常人を逸したオーラを持っていたが、ビートルズはイギリスの中流階級の一般的な4人組だった。

ビートルズの中でも、当初はポールマッカートニーが人気だったが庶民的な生活を好んだジョンレノンが殺害されてからは、ジョンレノンがカリスマとなった。

そういったスーパースターは(才能だろうと努力だろうと)全員例外なく、幸せに人生を終えたとは言えない最後を迎えている。

お金に絡む問題、女性に絡む問題、因縁に絡む問題。彼らは自分の特殊能力以外のところでもがき苦しんでいる。それは特殊能力があったがゆえのモノである。

マイケルも毎月1,500万円の豪邸に住んでいようと、側近に横領されたり、お金に縛られ生きていた。彼はビートルズの版権を所有していて、投資家としても一流だったにも関わらずだ。

また、そのスーパースターマイケルと、かつてのスーパースターエルビスの娘との結婚は、次のスーパースター誕生を期待された。そのあとに再婚した人は看護婦という、このギャップは普通理解できないだろう。

彼らのようなスーパースターはもういない。スーパースターの系統は途切れてしまった。

多くの人に夢や希望を与えてきたにも関わらず、彼ら自身は幸せにはとても見えないのが可哀そうだ。どんなに寄付しようが、誤解されてゴシップによって非難中傷される。

どんなに才能があろうと、栄光と富のその先には、幸せもないことが様々なスターによって証明されている。偉人であった人々も、何かによって悩みは尽きない。

最近上映されている、インビクタスという映画をみてもそうだ。偉大な指導者で不屈の魂を持つ、ネルソンマンデラ大統領でさえ身内の因縁の問題を抱えていた。

彼らは身を呈して教えてくれている。どんなに成功したとしても、逆に自由がなくなるだけだと。スターとしての自分の使命を演じ続けなくてはならない。その孤独を理解する者は少ない。

薬がなくては生きていけない人生は壮絶なものがある。皆が彼らに憧れるだろう。しかしその頂点を極めた人が幸せじゃない。

スーパースターでなくても、多かれ少なかれ似たようなものだ。皆が憧れる人たちの中に答えはない。答えは目の前にある。

大衆は憧れる道の行き着く先もわからずに、ただ第三者に流されるイメージを信じ込み、流され生きている。そして、自分を見失っている人がほとんどだ。

本来なら、何の矛盾もなく、魂が燃え尽きて、死ぬ最後には、「ああ、自分の人生は満足だ。よかったな。」と思って、夢のまま終わることができる。一般人もスーパースターも関係なく、最後には魂が燃え尽きることができる。そして、死んだらただの現実に戻るのだ。

満足した人生を生きられるのは、生きている間だけだ。だったらとことん満足な世界に生き、燃え尽きたほうが良いではないか。

いつかはといって宝くじを買い続けるのではなく、目の前の、足元の課題にしか答えはない。

時代

私は常に時代というものに触れてきた。時代の中心に位置してきたといってもいい。今まではそれがよくわかっていなかった。だから、なんとなくIT時代には、流行るサービスを当てられる程度の認識しかなかった。

しかし、振り返ってみると、時代魂の人間たちといつも接点があった。ところが私の悪い癖で、どんなに社会で有名であろうと、だから何なんだと見てしまうところがあり、天の邪鬼的に逆にそういう人から避ける傾向があった。

今の鳩山首相とだって、民主党のIT勉強会に呼ばれて、そこで会ったときに、もっと仲良くしておけば今また違っただろう。麻生さんも総裁になる前に接点があった。

私はそういう著名人だからと接点を持つのを意識的に避けてきた。お店にもたくさんの人がきてくれていたが、こちらからアクションをすることはほとんどなかった。つながる人とは自然と繋がると思っていたし、事実そうだったけど、努力を惜しんでいたのも事実だ。

自分の小さい概念にとらわれて、人を色付けしていたのだ。

それでもわかったことは、今までの投資やすべての行為は生きているということだ。一番の事実は、私が「次は沖縄だ!」と言い出してから、急に沖縄の存在が浮上してきたことだろう。

今や沖縄なしに日本は語れない。
今や沖縄なしに経済は語れない。
今の日本の経済だって基盤を作ったのは沖縄が強く関連しているからだ。細かいこともたくさんあるから、そうしたこともそのうち書いていこうと思う。

自然界の法則

ここでいう「自然界」とは、山や海などという、いわゆる「自然」的な生態系の話ではなく、この世の全ての事象を含めた世界のことである。人間や人間が作り出したモノも自然の一部だ。

普通の世界であろうと、特別な世界であろうと、「物事」というモノは、上手にそれを活用できなかったり、持っている人の器に相応しくなかったり、何かが矛盾していたり、それらを活性化できなかったら、結局淘汰され、なくなってしまう。

そして、その「物事」は、巡り巡って相応しい人に渡るようになっている。それが自然界の法則だ。以前江戸城の話をしたのを覚えているだろうか?

例えば、会社もそうだし、建築物や芸術品などもそうである。個人的資産を例にとってみるとわかりやすい。

個人で資産を所有する人々は、常に「相続税」を気にしている。そして、相続税を取られないように、税金対策に奔走するのである。今ごろ、4月から法律変更ということで、資産相続に大慌てだろう。

しかし、相続税とは「自分の資産を世の為、人の為、社会の為に使うことが出来なかった個人に対するペナルティ」なのである。

つまり、相続税を取られるような人、もしくは相続税対策に奔走している人は、その資産を持つに値しない、その器がない、ということを意味しているだ。

だから、国に没収され、資産を失う。なんとか相続税対策を立て、没収されなかったとしても、その器がないのだから、結局はその資産はあらゆる形で失われ、それを所有するに値する人物のもとへ渡っていく。それが「自然界の法則」である。

だが、普通の世界では、科学で証明できていない法則は一般的には受け入れられないので、自然界の法則は無視されている、もしくは認識されていない。

特別な世界では、その法則があるものとして思考、行動するため、科学を超えた理屈では説明できない出来事が当たり前のように起こるのである。

普通の「物事」は淘汰される。しかし、念は一生残る。人間が本気で込めた念は、実際の物質である。

私が人生で最も尊敬する方の特別室を見せてもらったことがあるが、そこには国宝レベルの陶器や芸術品が置かれている。

それらがなぜ今まで割れていないのか?

2000年前に創られたガラスや陶器がなぜ残っているのか?

2000年前のモノが、2000年間何もなかったのか?
いや、戦争も、盗難も、災害も、何もかも経験し、それでもなお壊れていない。

それは何なのか?価値がわかる相応しい人たちに、相応しい場所に置かれて次々とリレーされてきたから残っているのだ。

またそこに込められた念という物質の影響もある。念が込められているので不思議と守られているだけなのである。そして、その念を持てる器のある人物に自然と渡るようになっている。

私が現在創っている特別な世界は物理法則をも超えている。信じるか、信じないかは踏み入れたものしかわからない。

国は崩壊しコロニーが生まれる

国や地方自治体はすでに崩壊過程に入っている。すでに日本の借金は800兆円を超え、世界第二位の日本のGDPは今年までで来年には中国に抜かれる。

そして本日の朝日新聞一面記事の見出し。‘悪夢「20XX年」日本破綻’大手新聞でここまで踏み込んだ記事がかつてあっただろうか?

日本の象徴であった「日本航空」も破綻してしまった。また世界のトヨタがこうなるとは、だれが予測できただろうか?世界的にみて、日本はすでに死にかけている。

この貧困国の国内のみで経済が回るはずがないにも関わらず、多くの国民は未だ世界を見ていない。世界の中心であったアメリカは、すでに日本国など眼中になく、中国及び中央アジア諸国を見ている。

今後、日本は素通りされる国になるだろう。すでに日本人は無意識のうちに戦えない人種になってしまった。今のままでは、これから日本が世界の中心になることはなく、どこか発展する国の金魚の糞のように動く癖がついてしまっている。

日本の金魚であるアメリカはすでに瀕死の状態である。リーマンショックやサブプライム問題によって、死にゆく金融機関を、連銀が救済に入ってなんとか回復してきた、という報道が流れているが、すでに連銀すらゾンビ状態だ。

いくら回復してきているとは言っても、実際にアメリカは失業者が増える一方だし、不動産価格も落ち続け、ローン破綻の増加も止まっていない。今の状態は1930年代の世界恐慌と似ている。今年の夏以降に、もっとひどい不況の二番底に陥る可能性が高い。

日本の金魚がそんな状態だから、その糞である日本の経済は益々疲弊していき、地方自治体もうまく機能せずに、国のシステム自体が寿命を迎える。

国というシステムが崩壊後、人々はそれぞれが生き、最小単位のコロニーになる。世界の再構築が始まり、時代に乗り遅れる人は、淘汰される。

破壊と創造である。
これほどの世界的大変化に直面出来ることはそうはない。
面白い時代である。

肩書きの限界

2005年前後、「デスノート」という漫画が連載されていた。人を殺せる死神のノートを使って理想郷を作ろうとする「キラ=夜神月」と、「キラ」を捕まえようとする「L」という探偵とその後継者の物語だ。

お互いに、知恵をこらして名前も顔も知らない相手を探し出す、という大雑把に言えばそんなストーリーだ。

デスノートで面白いのは、「キラ」が「L」を倒した後に、「キラ」が「L」にもなり、また「L」の助手の「ワタリ」にもなっているということ。一人で何人もの役をこなしている。

「キラ」と「L」は同一人物になるが、見せかけの対立をすることによって、まるで本当に存在しない人間を存在するかのように見せている。

これは「一人は一人」であるという概念を吹っ飛ばしたものであり、実際にこの手法は特別な世界ほど使われている。

例えば、私の尊敬する沖縄の人物は、あるところでは「黒幕」、あるところでは「資産家」、あるところでは「宗教家」、あるところでは「政治家」、あるところでは・・・、といくつもの顔を持っている。

世界を創っている人間というのはそういった人であり、本当にすごい人間というのは、見る角度を変えるだけでいくつもの顔が見えてくるのだ。多重人格とも違い、我々がよく使う言葉として、「霊」と呼ぶことができるモノだ。

物語内では、夜神月=優秀な学生=キラ=L=繋ぐ者=・・・であったりする。これは頭の中で、同時に2つ3つの思考をしているのだ。つまり、世界を動かすくらい本当にすごい人は、いくつもの顔を持っている分だけ、同時に思考を展開している。

これは普通の世界に生きる人、つまりは、肩書を持って「自分は~~です。」と言いきってしまえる人は、一生たどり着けない領域であり、絶対に超えることのできない壁なのである。

これは漫画のなかの話ではない。肩書きをつけることによって、人は自分自身で可能性をそこまでの領域に留めてしまう。そうであるほうが安心できるからだ。そして、さらに上の肩書きを求めるようになり、どこまでいっても満足しない。

大企業の社長であれ、その肩書きで押さえつけられている。本当にすごい人は、名刺に肩書きなどは書いていない。名刺さえない。「人間」で勝負するのだ。

自分が培ってきたオーラのみで勝負できるからだ。また、それを支える環境が構築されているからだ。

こうした特別なやり方も、ただ手法だけ真似ると輩(やから)となる。例えば、詐欺師。一人何役もこなして人を騙すが、それは自分の利益のためだ。

すごい人間の場合は、相手を導くために、話しを受け入れやすくするために、その人に合った顔となる。観音様が相手に応じて多彩な顔をするようなものだ。自分の利益ではなく、その人の為にする行為なのだ。

しかし、人はその愛に気づくより、自分の概念を優先し、「何者なのだ?怪しい」と警戒してしまうのだ。自分の概念が世界を狭くする。

本当に愛から来ているのか?利益のためにやっているか?これを判断するのは難しい。しかし、すべて向き合って逃げずにいれば、自ずと答えはでてくる。インチキは長続きはしないものだ。

本物しか残らない。肩書きを超えて、自分の本質を磨き続けよう。