「映画」カテゴリーアーカイブ

真理の探究

この菩薩Blogの読者の方はわかるだろうが、真剣に人生の意味を求めて生きる人間は少ない。

本当はどんな人間だって、このBlogに書いているようなことには興味があるのだが、金儲けのほうが楽だからついついそちらに走ってしまう。100年経てば忘れ去られているようなことに一喜一憂し、貴重な体験を逃している。勿論、長い目で見れば各自必要な体験であり、そこに優劣があるわけではない。

自らの人生に終わりが見えた時、一体何が価値のあることで、何が価値のないことなのか?自分にとっての価値観が非常にはっきりしてくる。酸いも甘いも経験し、日常という体験をした後に感じる真理は表現することが難しい。

人生の真理に近づけば近づくほど、何も表現できなくなってくる。例えば「別れ」という現象を考えてみよう。若いころは単純に、悲しいとか怒りとか、わかりやすい形で表現できるだろう。しかし、その別れの真実を、多様な視点でその体験を見られるようになった時、単純に悲しいと一言でいうことが出来なくなってくる。

悲しいと言えば悲しいが、別れを選択せざるを得ない背景まで視点が及ぶようになれば、当然のことと感じる。と同時に、それがわかってしまうと切ないという気持ちもでてくる。だからといって、事前に察知し別れを防ぐようにしたらよかったのか?というとそれもまた正解なのだが、別れという体験をした方がお互いにとって価値あることもわかるので、また何とも言えないのだ。

そのときの気持ちといったら、すべての感情が混ざり合ったような何ともいえないのだ。抽象的な説明になってしまい申し訳がない。説明できないものを説明しようとすると、「矛盾」という言葉が最適だろう。人間は矛盾の中に生きている。生きていると同時に死に向かっている。愛したいし、愛されたい。理解してほしいし、理解されたくないといった具合だ。

求めているのに、求めていない。それを求めるように仕向けるのが、本当の仕事だと以前に書いた。それが菩薩の仕事でもある。

この世の仕組みを知りたいと興味をかきたてられた時、先人の中で同じような願いを欲し、悪戦苦闘の末に到達した人間が、その叡智を求めている人間に伝えたいと残されたモノと出会うことができる。

そのモノとは、書物の形をしていたり、アートであったり、映画であったりと多種多様である。求めている人間には伝わるようになっている。同じ言葉に触れても、時期によって理解が異なる。自らが深くなれば、より深く理解できるようになる。

自分が理解できないからといって、そのモノの価値は変わりはしない。

今回コメント頂いた方はさすがだなと感心した。言葉にしないまでも感じている方はもっといる。

「エクソシスト」「天使と悪魔」「フィリップ、きみを愛してる」「マトリクス」「セブン」上がった映画はどれも興味深いものだ。

この中で「フィリップ、きみを愛してる」は、スティーブ169さんがお名前をもじられたように、IQが169のスティーブが主人公で、この映画もいつか書こうと思っていた映画だ。

そして、「エクソシスト」。この映画によって、世界は悪魔祓いの祈祷師(エクソシスト)という存在を広く知るようになった、記念碑的な作品だ。そしてこれから書こうとする題材は、エクソシストを超える「悪霊喰 The Sin Eater」という映画だ。

是非鑑賞してみてほしい。そして感想をコメント頂けたら幸いだ。正解不正解はない。感じたものが正解だ。多くの同志のために共有する勇気を出して頂けると嬉しい。与えるものは与えられるのだから。

危険は魅力

危険なモノは面白いし、興味深い。しかしそれには、責任と能力が伴う。

中途半端に関わると、それこそ「死」に直結する。興味本位で関わると身を滅ぼしかねない危険であればあるほど、環境は飛躍するし、有り得ない成果を手にすることに繋がる。核兵器が良い例だ。

では、普通の人の危険とは何か?生命の危機や経済的な危機を想像する人が大半であろう。

しかし本当に危険なのは、それが危険だとそう思わされている、自らの「既成概念」なのだ。その考えこそが人生を無駄にさせる。

あなたは今、何者かによって創られた世界の中にいる。それはいわゆる「社会」と呼ばれるモノであり、または、「会社」という世界を考えてみても良いだろう。

そこには何者かが作った法律や規則があり、それを守らないものは罰せられる。まるで映画「トゥルーマンショー」の主人公のように、すべて創られた世界で生きている。そのなかで暮らしていれば、安心・安全に生活することができる。

そこから抜け出されることが、環境の支配者にとっては危険なことで、あなたにとって一番身近な生死を賭けた危険なのだ。

その安心・安全の世界に生きるならそれもいい。否定も肯定もしない。しかし、そこには夢も希望もない。いや、正確には夢も希望も持つことはできるが、それを実現することはできない。

夢と希望を本気で実現させたいのであれば、危険に身を投じるしかない。危険は本来魅力的なものだ。そこには、真逆の光がある。

危険であればあるほど、それをチャンスに変えることができたときのリターンは大きい。そして、危険であればあるほど、自分は「生きている!」という実感が持てるのだ。

今の時代、光を掴みたければ、危険に向かえ!

危険と思わされているにすぎないのだから。だが、時代の変わり目に、思考することも行動することもできず、いつまでも既成概念に捉われているあなた自身がいる。

自分が苦しんでいるのを自分自身で気づいていない。これこそが一番の危険だ。

危険は自覚が伴わなければチャンスに変えることはできない。そこには魅力もなにもない。

長生きしたい?一瞬の生もない長生きに満足はない。

経済的に不安?不安を感じるのは余裕がある証拠。必死であれば不安もクソもない。ただやるだけだ。戦後の物不足の中のほうが、人々は生きている実感を得ていたのではないか?

今自分がいる環境の危機を感じ取って、それをチャンスに変えていこう。

今自分がいる環境が安心・安全であるならば、すぐにそこを抜け出して、危険な場所に身を投げ出そう。

そのときにあなたは自分が「生きる」という真理に気が付くはずだ。

デスノートとは社会である

「デスノート」は時代を表す一つの作品だ。これはかなり奥が深くて、少し帝王学の要素も入っている。

ここから学べる帝王学はかなり有効なものばかりだ。これに関しては、ブログで書けることには限界がある。文字では情報量が少なすぎて誤解を招くので、詳しく知りたい人は是非沖縄にきてほしい。

と、それだけだと何なので、誤解を恐れず一部だけ書いてみよう。

続きを読む デスノートとは社会である

肩書きの限界

2005年前後、「デスノート」という漫画が連載されていた。人を殺せる死神のノートを使って理想郷を作ろうとする「キラ=夜神月」と、「キラ」を捕まえようとする「L」という探偵とその後継者の物語だ。

お互いに、知恵をこらして名前も顔も知らない相手を探し出す、という大雑把に言えばそんなストーリーだ。

デスノートで面白いのは、「キラ」が「L」を倒した後に、「キラ」が「L」にもなり、また「L」の助手の「ワタリ」にもなっているということ。一人で何人もの役をこなしている。

「キラ」と「L」は同一人物になるが、見せかけの対立をすることによって、まるで本当に存在しない人間を存在するかのように見せている。

これは「一人は一人」であるという概念を吹っ飛ばしたものであり、実際にこの手法は特別な世界ほど使われている。

例えば、私の尊敬する沖縄の人物は、あるところでは「黒幕」、あるところでは「資産家」、あるところでは「宗教家」、あるところでは「政治家」、あるところでは・・・、といくつもの顔を持っている。

世界を創っている人間というのはそういった人であり、本当にすごい人間というのは、見る角度を変えるだけでいくつもの顔が見えてくるのだ。多重人格とも違い、我々がよく使う言葉として、「霊」と呼ぶことができるモノだ。

物語内では、夜神月=優秀な学生=キラ=L=繋ぐ者=・・・であったりする。これは頭の中で、同時に2つ3つの思考をしているのだ。つまり、世界を動かすくらい本当にすごい人は、いくつもの顔を持っている分だけ、同時に思考を展開している。

これは普通の世界に生きる人、つまりは、肩書を持って「自分は~~です。」と言いきってしまえる人は、一生たどり着けない領域であり、絶対に超えることのできない壁なのである。

これは漫画のなかの話ではない。肩書きをつけることによって、人は自分自身で可能性をそこまでの領域に留めてしまう。そうであるほうが安心できるからだ。そして、さらに上の肩書きを求めるようになり、どこまでいっても満足しない。

大企業の社長であれ、その肩書きで押さえつけられている。本当にすごい人は、名刺に肩書きなどは書いていない。名刺さえない。「人間」で勝負するのだ。

自分が培ってきたオーラのみで勝負できるからだ。また、それを支える環境が構築されているからだ。

こうした特別なやり方も、ただ手法だけ真似ると輩(やから)となる。例えば、詐欺師。一人何役もこなして人を騙すが、それは自分の利益のためだ。

すごい人間の場合は、相手を導くために、話しを受け入れやすくするために、その人に合った顔となる。観音様が相手に応じて多彩な顔をするようなものだ。自分の利益ではなく、その人の為にする行為なのだ。

しかし、人はその愛に気づくより、自分の概念を優先し、「何者なのだ?怪しい」と警戒してしまうのだ。自分の概念が世界を狭くする。

本当に愛から来ているのか?利益のためにやっているか?これを判断するのは難しい。しかし、すべて向き合って逃げずにいれば、自ずと答えはでてくる。インチキは長続きはしないものだ。

本物しか残らない。肩書きを超えて、自分の本質を磨き続けよう。

菩薩シザーハンズ

映画「シザーハンズ」は我々の世界すべてが表現されている。

如来、菩薩、菩薩道を歩もうとする人間、大衆、悪霊、ユタ。

シザーハンズでいえば、お城に住んでいた博士が「如来」である。博士は一見「手がハサミ」という化け物を作ったマッドサイエンティストのようにも見える。しかし、映画のなかをよく観察すると、可愛らしい暖かい機械たちが、ハート形のクッキーを焼いていたのがわかる。心優しいからそういう形の機械とハートのクッキーを作るのだ。

広大なお城に一人で住んでいて寂しいように感じるが、本人の博士自身は微笑んでいて楽しそうでもある。

またあれほどのお城を持っているのだから、経済的にも成功しているし、博士が死んだ後も、その城は治外法権のように残されている。エドワードがジムを殺しても、警察は立ち入らなかったし、その後もエドワードは住み続けた。

体制に守られているともいえる。特別な地域として残されている神社仏閣のようなものの象徴でもある。

神社仏閣といえば、シャーマン(巫女、またはユタ)も映画には登場している。彼女は最初からエドワードを悪魔の使いとみなしていたが、彼女自身も世の中では浮いた存在だ。

彼女のような人間も、社会には必ず存在するという信号だ。彼女のような感じやすい霊感の持ち主は、どこの社会にもいて、ある一定のパワーを超えた人をみると、悪魔とか天使とか言うが、その二つはパワーのベクトルが違うだけである。

自分を超えたパワーの持ち主のことは、当人には理解できないものだ。彼女は、目に見える物質的なことよりも、心が大事とわかっているから、大衆とも仲良く一緒にはいられない。

でも、エドワードのような愛そのものが来たら怖い。だから否定する。人より霊感があり、見えない世界をわかっている自信から、理解できない存在は認めないのだ。

大衆はなにか未知のものが来ると、興味本位と本来の噂好きでみんな集まってくる。そして、お祭りのようにゴシップで騒ぎ立てる。

エドワードが町にきたとき、町に住む人々は最初エドワードを賑やかに迎え入れてくれた。興味本位で彼に庭を整備させたり、髪を切らせたりした。使えると思うと本人の意思など関係なく事業をやらせようとして、果ては性的に襲いかかってきた。

しかし、どうだろう。一度悪い噂が流れると、それが事実ではなくとも、一気に悪者に仕立て上げる。あれだけ、みんなが喜ぶことをしていたのに、一変して「あいつは悪だ!」と騒ぎ立てる。無責任この上ない。

これを「大衆」と呼ぶ。
そして、大衆は何の罪悪感もなく、次の未知なるものをただ待つだけの生活に戻る。

最後にこの映画の最も大事なメッセージだ。

なぜ博士は最初から普通の手を作らなかったのであろうか?これも意味がある。

普通に考えたら、人型ロボットを作るのに一番苦労するのは「心」である。他のどのロボット映画も「心」を創ることができなくて困っている。それは現実のロボット工学でもそうだ。

しかし、博士が創ったエドワードは心は完璧なのだ。人間の心を完全に創りだした天才なのだ。その天才が普通の手を先に作れないはずがない。完成していないのは「手」だけなのである。

エドワードは手がハサミであるせいで、人間に近づけば近づくほど、文字通り人を傷つけてしまう。悪い者に利用されたり、愛する人を抱きしめてあげることもできない。

だからこそ、この映画はものすごい人間の深い心(愛しさ、切なさ、尊さ)というもの、つまりは、愛と自己犠牲というものを表現することができるのである。

つまり、博士はわざと手を完成させなかったのだ。
(映画ではそれだとわかりづらいから、演出として死んだことにしたのだ)

エドワードがそれによって苦しむことも知っていた。悲しむことも知っていた。(だから城の庭には手の形をした木があるのだ。あれは、エドワードが、せめて片手だけでもあったらという願いの表れだ)

しかし、如来である博士はエドワードに菩薩としての、「愛」と「自己犠牲」を教えたかったのである。本当の愛は深いのだ。

これもまた私が進むべき菩薩への道のりなのである。

新世紀エヴァンゲリオンの秘密

2010年が始まった!今年はさらに激動の時代となり変化が加速するだろう。今の時代のピークである2011年に向かって突き進む年だ。我々が生きている時代は、とてつもない時代なのだ。有史以来の変化が起きているといっても過言ではない。新年はまず少し時代背景の話からスタートしたい。

これからどんな時代になるのだろうか?それを理解するのに最適なのが、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」だ。

実はつい先日、エヴァ制作の中心的人物とお話をする機会を頂いたので、その時に聞いた話と合わせて、時代をできるだけわかりやすく解説していきたい。

「Neon Genesis Evangelion」
日本語では、新世紀となっているが、ラテン語タイトルを素直にとれば、「新創世記」となる。つまり、新創世記エヴァンゲリオン。「新しい時代の聖書」ということだ。

主人公である碇シンジは、新時代のキリスト、菩薩なのだ。

さて、そこに詳しく入って行く前に、今どんな変化が起きているか理解するために、大雑把だが時代の整理をしよう。わかりやすく言うと、1995年前後から前を旧時代、その後を新時代とする。

なぜ95年を境目としたかは、創造の前の破壊の働きをしたオウム真理教が、95年に強制捜査を受け、そしてエヴァンゲリオンが始まった年だからだ。

麻原は95年タイム誌の表紙を飾っている。日本人としては昭和天皇以来だ。それくらいオウムのインパクトは世界的に凄かった。今に続く宗教テロのさきがけで勿論、大罪も含め研究の価値がある。

オウムについてはまた今度詳しく書こう。

で、日本はバブル以降、宗教テロ、デフレ、ゼロ金利、高齢化等々、先進国の中で初めてという課題に直面してきた、先進国中の先進国である。つまり、日本は新時代の先導をしているというわけだ。

話を戻して、旧時代と新時代の話を続けよう。旧時代は、男性の時代で物質重視、競争意識、重厚長大の時代であった。そして、現実と空想の世界の狭間ははっきりとしていた。ここが大事である。

そうはいっても現実は理想と違う、という割り切りが世間にはあったのだ。

それに引き替え、新時代は、女性の時代で精神的重視、共生意識、軽薄短小の時代だ。そして、現実と空想はお互いに影響し合い境目はない。つまり、映画マトリクスのような感覚である。リアルとバーチャルが融合している感覚だ。

新時代は、アニメ脳とかバーチャル脳とかいうような人種が世界を創っていく。

旧時代と新時代の人の違いは、男女の違いのようなものだ。同じ人間でも、男性と女性は考え方や行動に当たり前の様に違いがあるように。

新時代のアニメ脳人種は、リアルの中にヴァーチャルでの世界を持ち込みたいのだ。だからコスプレなどをする。また、リアルとバーチャルの融合が出来ない場合は引きこもる。

100パーセントバーチャルの世界に浸かるのである。現実と空想、どちらが優先されるか?といったら、空想世界が優先されるのが特徴だ。

アニメ脳人種は、心のひだといった、人間関係の煩わしい部分は苦手である。でも興味はある。苦手だけど、自分の中の世界にある修業的要素と合致すれば向き合うことができる。自分の体験をアニメや漫画のシーンと関連付けられればいいのだ。

基本的に理想とするのは、ふわふわとした人間臭くない軽薄な人間関係なのだ。新時代では、映画やアニメなど様々な世界観があり、現実のモノの価値よりも、そうした世界観に入り込んでいることのほうが価値があるようになる。面白い世界を創るクリエイターが尊敬され、政治家は勿論、大統領だろうが社長だろうが、現在のこの世で重要視されていることは、実はどうでもいい。重厚長大な世界はとっくに、うんざりで面倒くさいだけなのだ。

人の価値も、自分の中の世界観でしか判断しない。いわゆるセカイ系アニメと呼ばれているものは、自分の主観が世界の中心というもので、そのさきがけがエヴァンゲリオンなのである。

エヴァンゲリオンには、オウム信者のインテリ層が関わっていたという話がある。劇場版ではないアニメ最終2話を是非見てほしい。それまでの24話までとはまるで違うアニメかと思うほど表現が変わっている。当時はかなりの論議が巻き起こった。

あまりにも哲学的で解り難く、批判的な意見が出ていたため、「劇場版」にて最終2話がわかりやすい「形」として、作り変えられたほどだ。しかし、あのアニメの本質はアニメ放映版最終2話に存在し、そこから全ての物語が創られていったのだ。主人公である碇シンジの内面世界=外的世界で、現実と空想の狭間がないのだ。

エヴァンゲリオンには、オタク受けするための技法が数多く取りこまれている。例えば、技法の一つとしてエヴァンゲリオンでは、少し難しくわかりにくい秘教的な言葉やイメージをわざと使っている。それによって、インテリやオタクは優越感を感じ、普通の人も理解していなければ恥ずかしいような状態になった。

エヴァンゲリオンはある意味ソフトオウム的なアニメだったのだ。またここから我々はすでにいつの間にかオウムの根本原理に触れている。地下鉄サリン事件の大罪により、徹底的に世間から非難されているオウム真理教の根本原理はその非難ゆえ知られていない。

しかし、その奥に隠されていた本当に伝えたかった根本の部分を、私たちはいつの間にか形を変えて知らずに自然と受け入れている。ちなみに、歌手の尾崎豊も当時、オウムとの関係性をいろいろと言われ、歌詞等が危険と評価された。しかし今も彼は人気がある。エヴァもまた今も人気が続いている。

エヴェンゲリオンにはパイロットがいる。エヴァンゲリオン自体は、人の形をした兵器である。実は、現実の人間にもパイロットがいるのだ。そのパイロットが人の形をした人間を動かしている。そのパイロットとは霊魂である。

人間を見るとき、その人の表面意識を見るのではなく、その人を操縦している霊を見るようにしなければならない。普段見ているのは、ただの乗り物であり、操縦している“霊”が必ずいる。少なくとも自分自身はそう捉え相手を見ている。

エヴァンゲリオンの闘いは、魂、霊力、イメージの力が勝負を決める。いちいち詳しく操作などしないのだ。自分の持っている見えない力が重要である。筋力など肉体的影響は受けない。脳力・霊力勝負と言ってもいい。これからはそういう時代だ。いかにすごい霊が降ろせるか?そこに興味が移っていく。

物質的な欲よりも、自分の世界を豊かにしてくれる世界観とそれに連動した現実を求めるようになる。究極的には、映画「マトリックス」「アヴァター」のような世界を求める。

実は、前時代に成功していた人間達は、ある意味で今のゲーム脳のようなモノの持ち主だった。現実をゲームと捉え、大胆に世間では無理だとおもう空想ごとを現実社会に持ち込んだ。その結果、そのイメージを現実化させることができた。

今は逆にゲーム脳が多すぎて、それが通用しない時代になったのだ。価値観が多様すぎるのだ。だから有史以来の大変化なのである。新時代の新しいルールに突入したのだ。

これからは、自分の中の世界と周囲の世界をジョイントできるかどうかが問われてくる。

特別な世界に住む人間はみなアニメの世界のキャラクターのようであり、それすらも超える存在だろう。その人の特性が活かされて、それぞれが想像の世界で生きているキャラクター達なのである。

誰もが特別な世界を創れる。そこに矛盾はない。自分の想像が現実化しているだけだ。

我々の活動で起こることは、想像の世界よりも面白く、興味深いことが起こる。

「事実は小説よりも奇なり」というが、当たり前の様に本当にそうなのだ。我々の世界は小説、アニメより遥かにダイナミックでエキサイティングである!さて、あなたの現実は小説、アニメに勝っているだろうか?

いつの間にか社会の歯車の一つになり、脇役にもなりきれていないのではないだろうか?あなたは自分の人生の主役にいつでもなれる。なんの矛盾もなく。自分が本気になれば、自分の人生はノーベル賞を受賞する小説なんかよりも、断然面白くなるのである。

Ps:
‥ちなみに、私、尾関茂雄は当時も今もオウム真理教との繋がりは、全くございません。

ただ係わりのある沖縄で知り得たことから時代、霊魂の繋がりを現在、未来に展開、記述してみました。

因縁の法則

以前、シザーハンズの解説をしたが、その続きである。
http://ozeki.fa-fa.com/?eid=1227017

シザーハンズを観たことのない人はわからない内容になっているので、是非映画をみてほしい。

因縁に興味ある方が多いようなので、その話からしよう。

主人公のエドワードとヒロインのキムは「因縁」だろうか?

実は彼らは因縁ではなく、キムとジムが因縁なのだ。因縁は究極の関係になると最後は殺しあいになる。キムとジムは、エドワードがいなかったとしたら、最後はどちらかが相手を殺していただろう。それを菩薩であるエドワードが自己犠牲で救ったのである。

よく、夫婦や恋人、親子で殺人事件があるのはこういう理由もある。
今生でいよいよ、因縁解消かというクライマックスで、殺して終わるか、
昇華できるかが問われているのだ。

因縁の問題は、当事者だけでは解決できないという法則がある。だからこそ、昔は仲人という制度があったのだ。当事者では冷静な話し合いはできない。信頼できる第三者の存在が欠かせないのだ。その他にも因縁の法則はある。それはまた書こう。

話を戻して、ジムは実は悪霊である。だからこそ菩薩が引導を渡した。また彼の父親は深層意識では財産を憎んでいた。だからジムはそれを盗もうとした。その為にエドワードは利用されたが、知っていてもそれをやるのが菩薩なのである。

因縁の特徴として、意味がわからないことを相手がする、ということがある。この場合、親からしてみたら、子が盗みに入るのは意味がわからない。なんでこんなことをするのだろうか?ということを因縁の相手はするし、またそういうことを言う。

因縁だからか!とわからなければ、ずっとそのことで悩み苦しむ。逆に因縁だからなと理解できれば、心も納得し苦しむことはすくない。

理解できないことを相手が行ったり言ったりするのは、相手が因縁である信号の一つである。

これがわかるだけで、どれほどの価値があることか考えてもらいたい。煩悶し、苦しむことが解消される価値を!

みなそうした苦しみを解消するために、金を使って癒すわけである。男性であれば、女性に使ってみたり、女性であれば買い物などだ。

そうではなく、互いが信頼できる第三者に間に入ってもらうだけで、因縁のほとんどの問題は解決することができる。

ただし、その第三者に入る人間も因縁の関係というものを理解していなければならない。

重大な責任を背負わなければならない大変な役割なのだ。
それを忘れてはならない。

因縁の知恵があるだけで、心安らかになれるのだから大きな財産といえるだろう。

イエスマン

イエスマン “YES”は人生のパスワード 特別版 [DVD]
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ペイトン・リード,ジム・キャリー,ズーイー・デシャネル,ブラッドリー・クーパー,ジョン・マイケル・ヒギンス,テレンス・スタンプ
イエスマンを題材に菩薩の話を書こうと思います。
これも如来の方よりの信号を受けての話です。
まず「イエスマン」というタイトルは、キリストのイエスとも
かけています。映画の中で、ノーマンはたくさん出てくるが、
イエスマンは彼しか出てきません。最初のセミナーのシーンで
皆が「ノーマン、ノーマン」と連呼しますが、「イエスマン」とは
言わずに、「イエス」とだけ言うのにも意味があります。
かつ大衆は、ノーかイエスか、どちらかしか言わないのです。
どちらかを信じることだけしかできないとも言えます。
洗脳されているのと同じです。
さて、主人公の転機は突然の出会いから始まります。
知人が突然、銀行の窓ガラスを割るシーンを覚えていますか?
これは二つのことを象徴していて、イエスマンの心の壁を割った
ことと、大企業である銀行の壁を割ったことです。後者は後で。
普通なら、ガラスを破るような人間が薦めてきたセミナーに
参加はしないでしょう。心の壁が衝撃によって壊れたときだから
あり得ない行動がとれるのです。そして、セミナーでも講師(如来)
に信号を送られ、イエスマンは菩薩の道を歩みだします。
本来の道を歩み始めると、最初は試練の連続から始まる。
彼の場合は前世までに頑張っていたから、菩薩として誰に向かうか
という試練がなく、向かうリストもプレゼントされている。
銀行の顧客リストが彼の救う対象者。
彼らに融資許可のハンコを押して、彼も救われる。銀行も
今までしていなかった個人向け融資という新市場を開拓でき、
彼は出世する。今までの銀行の壁を破ったわけです。
最後には彼が助けた人のバイクに乗り、彼は助けられましたね。
これも象徴。こういうことが次々と起こるのです。そして、
裸(執着がない状態)でバイクに乗り時空を超えて飛んでいく。
まるで雲に乗っているようです。
雲から降りてきた菩薩は、最後には大衆を裸(無執着)にして、
ボランティア活動を支援する。われわれの場合は、これがクーピー
活動なのです。
私にとって何より印象的だったのは、この話をした場所が
映画とシンクロしていたのです。テレンスというセミナーの講師
が、イエスマンに告白する病院のベットでのシーンです。
たまたま備え付けられていたオンデマンドTVで「イエスマン」が
用意されていて、私が来たときにたまたま見ていて、それで
話が始まり、気がついたら映画と同じようになっていたと。
こういうシンクロの連続を現実に体験することが面白いし、
それをすべて受け入れていくと、この世の中は矛盾もないのだと
理解できるようになっていくのです。
Ps:コメントにあった、イチギさんの、
「試されているのだとしたら、いままで逃げてきたぶん、YESと言いたいです」というのも、今日このエントリーを書いた信号になりました。これもシンクロだなと思ってです。

シザーハンズ

シザーハンズ<製作15周年 アニバーサリー・エディション data-recalc-dims= [DVD]” />
シザーハンズ<製作15周年 アニバーサリー・エディション> [DVD]
ティム・バートン,ジョニー・デップ,ウィノナ・ライダー,ダイアン・ウィースト,キャロライン・トンプソン
◆あらすじ
「エドワードは人造人間。だが、完成直前に博士が急死し、両手がハサミのままこの世に残された。心やさしい化粧品セールスウーマン、ペグに引き取られたエドワードは、ペグの娘キムに恋してしまう…。
鬼才ティム・バートン監督の描くラブファンタジー。純真無垢な心をもつエドワードはキムに恋をするが、哀しいかなハサミの手をした彼は、永遠に彼女を抱くことができない。そんなおかしく哀しく美しいラブストーリーを、詩的で夢幻的なタッチで描いた傑作。」
今日は広島に原爆が落とされた日ですね。
原子力という力をどういう方向に使うかで、破壊してしまうか、
大勢の人を助けるか、変わってきます。原子力自体は巨大なパワーで、
それ自体には罪はありません。
使う人の心が大事なのです。
これからを考える際に、今日はで新たな見方を教わった映画を
基にして書きたいと思います。
映画「シザーハンズ」は、手がハサミの人造人間の話です。
見られた方も多いのではないでしょうか。見てる前提で書きます。
見てない人は見てから、この続きを読んでください(^^)
普通は紹介した粗筋のように、ラブファンタジーだと思っているでしょう。
しかし、ある方に教わった見方をするならば、とても深い話となります。
その話を聞いて、勝手に私が原爆とつなげたのですが、結論から言うと、
原子力がハサミだと思ってみてください。
ここで一旦、私が教わった新しい見方に話を戻します。

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イエスマン

ジムキャリーの映画はコメディのなかに真理を入れ込んでいて面白い!
自分の概念で拒否したいものを受け入れてみた時、新たな可能性が現れる。
チャンスは外からそれとわからない形で現れるのだろう。