現代の自己犠牲
自己犠牲というと、イエス=キリストのことが思い出される。
わが身を捧げるという行為は、当たり前だが簡単に出来ない。
特攻隊のように仕組みがあって捧げるのも辛い・・。
個人的には、自己犠牲というと、中学時代に読んだ、三浦綾子さんの
「塩狩峠」を思い出す。大人になってからは色々と突っ込みたくなるが
当時は純粋に感動した。
で、生命を捧げるのが究極の自己犠牲だとしたら、
それ以外にどんな自己犠牲があるだろうか?
私はよく、人、物、金を相手に賭けるのは自己犠牲だという話をする。
今日はその話ではなくて、現代だからこそ自己犠牲となる行為があるなと
つくづく感じたので書こうと思う。
現代は、人との直接交流なしに生きていける時代だ。
ネットや電話で、注文したら食料は宅配され、何年も引きこもる人も居る。
そこまでしなくても、嫌な人との交流は簡単に避けられる。都会に居たら
尚更、人を選んでコミュニケーションすることができる。
昔であれば、村八分のようなものもあり、村から出ること自体が
難しかったので、話さずに生きるということは逆に辛かっただろう。
人は本来コミュニケーションを求めるから、物理的接触を絶っても、
ネットで繋がろうとするのかもしれない。
こうして自分も避けられるし、相手も避けることが簡単な時代において、
人に向かい続けるということは苦痛を伴うものだ。
会いたくない人に敢えて向かい続ける。
嫌われてもやり続ける。
また、辛抱強く待ち続ける。
人に対して、大義と愛を訴え続けるということは大変だ。
馬鹿にされたり、理解されなかったり、伝わらなかったりするのが
当然の世の中だからこそ、やり続けることに価値がある。
私も嫌な奴はどうでもいいやと思ってしまう。
しかし、ご縁があった人たちだ。向かい続けなければならない。
情けは人のためならずである。
でも、想いのない行動は傷つく。
強くなりたいナー。
塩狩峠 (新潮文庫)
三浦 綾子
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