深い愛の贈りモノ
6年ほど前の話だ。沖縄で初めてユタ(シャーマン)にあった。そのユタは、詳しくはかけないが、普通の人であればとても法的に住めないような場所に住んでいた。実際に、行政の人間などが、立ち退きさせようと働きかけても、そのユタに、
「私は意味があってここにいるんだ。それよりお前の家はこうだろう、ああだろう」と言われて、みんなビックリして立ち去ってしまう。そこに住んでいるだけで実力を証明しているようなユタだ。
そんなユタに、その時言われたことはさっぱりと意味が分からなかった。一体何を言っているのか?意味不明であった。時々、もっともだと思わせることもいっていたが、大枠では、変な人だけど、何か気になる。そんな印象であった。
それから3年ほどたって、ようやくその人の言っていたことの意味がわかった!本物はすぐにはその価値がわからないのだ。本物のユタであればあるほど、すぐに答えを与えない。自分で悩み、深め、体験してわかるように導くのだ。お金儲けのユタは、すぐに答えを与える。それも、わかりやすく、理解しやすく、相手が望んでいる答えを。だからそちらのほうが評価を得やすい。そして本物は、意味が分からないと誤解をされる。
すぐには理解できないからこそ、価値がある。それがわからないのが現代だ。よりわかりやすく、簡単に、お手軽にがはびこっている。だからこそ、本物の感動が得られない。漫画の感動は一瞬だ。実体験にはかなわない。
そのユタには、意味がわからないながらも印象に残る言葉を言われていた。その一つに、
「お前の眼はシシガミの目だ」と。右眼か左眼か忘れたけど、どちらかの眼に、シシガミの目が宿っていると。これで意味がわかる人いるだろうか?今となっては意味がわかったが、それはまた別の機会に。
のちにその話から、「シシガミの目」と名付けた施設ができた。この施設も、沖縄にいた仲間が、私を喜ばせようとして、真夏の暑いときに、熱射病でフラフラになりながらも作ってくれたモノだ。炎天下の中、1万16個もの琉球石灰岩を手積みで組んだ巨大構造物。
生れてはじめて、そんなに巨大なサプライズをしてもらった。お金に換えられない愛をかけてこられたからこそ、私は沖縄に対して感謝の念を忘れない。1万16個という数も、偶然に自分の誕生日の数とシンクロしたのだ。後から気が付いたことだった。
今年の誕生日の本当のサプライズは、写真を見て気付いた人もいるかもしれない。
普通であれば、完成させてその姿を見せるだろう。それも大事だ。でもいつもそれがいいとは限らない。人に応じた対応が愛なのだ。今回の場合でいえば、
「尾関さんは、自分たちと一緒になってプールを完成させたいはずだ。完成形を見せられるよりも嬉しいと喜んでくれるに違いない」と信じてくれたということなのだ。あえて、
「えっ?と思われるかもしれないけど、きっとそのほうが後々いい」と信じた行動だ。
普通であれば、
「彼は肉体作業は苦手なほうなので、嫌がるのではないか?」と気を使ってやらないだろう。あえて、きっと彼はわかってくれるに違いないと信じて、途中で待つ勇気。想い、それが伝わる相手でなければ、引かれるかもしれないという恐れ。
そうした気持ちを全部踏まえた上での行為なのだ。私も最初はまず、あるはずのないものがあることに度肝を抜かれた。落ち着いてくると、それが作りかけ途中ということに気が付き、みなの想いが想像出来て、にやけてしまう。
「もー嫌だけど、嬉しいな」と。表裏一体だ。表面では大変そうだし、面倒だなという昔からの怠け者の自分もいる一方で、みなの想いで、あえてやる大変さも、ここまで仕上げる大変さも考えたら、おいしいところを残してくれている愛に感動する。
一人一人の葛藤と勇気、信念がなければこのプールは生れていない。
これが愛だし、本当の豊かさなのだ。
その後、一緒に作って、想像を超える大変さを実感した。さらにここまで作ってくれたことへの感謝が深まった。太陽や雨や風に襲われ、ビニールシートをそのたびにとったり、かぶせたり、水をくみだしたり、もうそれは体験しないとわからない価値。また一ついい思い出ができた。皆にとっても、これを作る過程で、ブレークスルーが起きて、本当に心が楽になった人間もいたり、一石三鳥以上の効果をあげたプールである。そして、これからもこれを見ることで、本当の豊かさを感じる人々がうまれることで、更にその価値を発揮し続ける。ただのプールではなく、アート作品なのだ。
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