菩薩冥利に尽きる
想い通りにいかないと嫌な気持ちになるのが普通だ。仕事でも家族でも恋でも、自分の想いが伝わらないとか、理解不能な行動するとか、好きになってくれないとかで苦しい想いをする。それぞれ別のように見えるが、根っこは同じだ。相手の想いより、自分の想いが優先してしまうことで理不尽なように感じてしまう。
かといって、相手の方が想いがあるとは限らない。また、想い方の違いもある。一概に比較はできない。その人なりの想い方も認めつつも、それに合わせすぎてもおかしくなる。考えすぎると段々わからなくなってくる。気持ちが入っている因縁関係であれば尚更だ。冷静に見る事は難しい。感情が入るとほとんどの場合水掛け論になってしまう。
信頼や愛情はどこから生まれるのだろうか?
何も問題がないほうが生まれるのだろうか?だが時間がある以上、物事は変わっていく。いつかは必ず変化が起き、同じ状態ではいられない。
「このままの状態が続けばいいのに」と思う事もあるだろう。状態や感動が充実したものであればあるほど、終わった後、祭りの後の余韻は切なく、寂しくなる。逆に言えば、切なく寂しい気持ちを感じたなら、それは素晴らしい体験をしたという事だ。それだけ人生の質は豊かになっている。
いつかは終わってしまう。生きていると同時に死に向かっているのが生命だ。時間は有限だ。であるならば、問題には早く向き合って体験した方が良い。辛い事も苦しい事も、過ぎてしまえば良い思い出に出来る。ただ、きちんと向き合ってこそだ。逃げてしまえばいつまでも心の痛みとして残ってしまう。
それが悪い訳ではない。人間は痛い経験をしないと学ばない。しかしいつかは、その体験を克服し、次の世界へと旅立つ時が来る。卒業は寂しいが、また新たな世界も待っている。卒業したからといって、全く関係なくなる訳ではない。本人の霊魂に刻まれた体験は永遠のものだ。二度と同じ体験はできないからこそ、愛しく切ないのだ。
辛い体験も問題も、今だからこそ体験できる事だ。今しか体験できない。同じ時間を共有できることの素晴らしさは、後になってわかることだ。今分からなくてもいい。勿論、分かった方が良いが、分からなくても構わない。いつかは分かる事だ。
逆に後で分かった方が、感謝や感動、切なさは膨らむ。と同時に、
「なんて自分は世界が狭かったのか」と恥ずかしくなる。その気持ちををまた次のエネルギーに代えられる。次こそは一期一会を大事にしようと。
人は皆未熟だからこそ、この世に生を受けて体験している。同じ仲間だ。それぞれが助け合って、最適な経験をできるよう無意識に協力し合っている。一人ではできないことだ。敵でさえもありがたいことだと頭ではわかる。心では納得できないものだ。無理に納得しようとするとおかしくなる。嫌なものは嫌で、素直でいい。
ただ、その嫌なものの先に光がある。
どの道も楽ではない。この言葉に自分はどれだけ救われてきたか。どうせ辛いのであれば、魂の糧になる辛さが良い。辛いからこそ愛しい。見えないからこそ希望がある。自分の限界、試されている飛躍の機会、大きな喜びの前には必ず試練がある。
試練に向かっていると、時に思わぬご褒美がある。
回数にして言えば、ほんの数回しか合っていなかった男性がいた。後から聞いたが、私の事を相当怪しい人だと思って警戒していたという。彼は科学者で真面目な方だ。それに引き換え、自分は何者か不明な人間で、ネットで調べたら怪しい話ししか出てこない。それは警戒するだろう。警戒しない方が変だ。自分でもそう思う。
それでもご縁があって、信じて沖縄にまで来てくれた。来てよかったと感動してくれたが、そういう感動を味わう前に想いのこもった行動をしてくれていた。感動したからしたのではない。時に人は説明のつかない行動をする。本当に大事な事は説明などつかないことが多い。
彼は私の肖像画を描いてくれていた。一日で集中して、それを書く為にネットで写真を集め、ひたすらどんな人間かを考えて集中して書き上げてくれた。ただ、肖像画を描いてくれたから嬉しいというだけではない。
よくわからない人間の為に、そこまで時間と労力をかけてくれたのだ。そうさせたのは、自分の代わりに会って話していてくれた仲間の存在のお陰だ。想いがある彼らのお陰で、私もそうした魂を持っていると彼の霊魂は感じてくれたのだ。
肖像画のプレゼントをされて、改めて色々あったけど、沖縄や仲間を信じてここまでやってきてよかったなと報われた気分になった。幸せは予期せぬタイミングでやってくる。エネルギーを貰い、また更に頑張れる。濃い体験が出来て本当に菩薩行は素晴らしい。確かに大変だけど、それだけの価値があるよと、皆さんにも菩薩の道をお勧めしたい。
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