一瞬の価値
「みにくいアヒルの子」という童話がある。アヒルと思っていたら実は白鳥だったという話しだ。アヒルの世界においては、みにくかった子だが、違う世界の子だったからそう見えただけで、白鳥の世界においてはアヒルの子のほうがみにくいと思われたことだろう。同じだと思い込んでいたが為に、外見の違いからアヒルの子ではないと見抜けなかった。
人間も同じだ。外見はどの人も同じだが、魂は違う。アヒルの世界で生きていくのがいい人と、白鳥の世界で生きる人がいる。白鳥の魂でも、アヒルの世界が大半だから、自分もアヒルだと思い込んでしまい、アヒルの皮をかぶった白鳥となる。だからどこかお互いに違和感があるのだが、そんなものだと妥協して諦めて暮らしていく。
たまに自分は白鳥だと思い込んでいるアヒルもいるから面白い。どちらが良い悪いではない。向き不向きだ。どちらも、その世界での美しさはある。アヒルと白鳥の美しさは比べられない。人間の場合は外見でパッと変わらないから、わかりづらい。アヒルでも無理して白鳥の皮をかぶっていて頑張っている人もいる。
そうした無理は続かないものだ。いつかは化けの皮がはがれてしまう。そうしたときに、それぞれ自分の世界に帰った方が生きやすいのだが、執着や慣れがそうさせない。余計苦しむ事になる。
童話では、アヒルの子が白鳥になって、誰の目にも明らかな変化を遂げる。いつかはその瞬間がやってくる。
どんなに平穏な日常を積み重ねようと一瞬ですべてが変化してしまう。それがこの世だ。311がいい例だ。地震が起こり、その前とその後では生活は一変した。いま日本は色んな意味で激動期に入っている。今後10年以内に、地震と富士山の噴火が起こると言われている。
大衆は嫌でも変化させられてしまう一瞬を恐れている。まさかの一瞬が起こらないかのように生活している。逆に、一瞬の為に備えて生きている人たちもいる。軍隊がいい例だ。あるかわからない、戦争という事態に備えて日々訓練している。
平和時においては、軍隊などムダ飯くらいだ。日々、訓練をして、装備を揃えて、無駄にお金を使っているように見える。役に立たないとか、何もないときは文句を言われるものだが、まさかの一瞬が起きたときには、その評価は一変する。
「いてくれてよかった。ありがたい」と。しかし、平和時に言われる文句のプレッシャーに負けていたら逆に、
「なぜもっと訓練しておかなかったのか?」
「準備が足りない」などと文句を言われることになるだろう。
大衆は長期的な視点などない。目の前の事で精一杯だ。人生でも同じ事が言える。どんなに今が良くても終わりが駄目であれば、それは悲しい人生だ。終わりよければすべて良しという。終わり悪ければ、すべて悪しになるのだ。
途中でどう思われようと、最後には伝わればいいのだ。途中の評価を気にしていたら何も成し遂げられない。出来ない上に、中途半端で先ほどの話しのように、どちらにせよいつも非難されてしまう。だとしたら、いっその事やらないほうが身の為だ。中途半端にやるから自分も苦しいし、周囲にも混乱を与えてしまう。
非難を甘んじて受け入れて、最後に納得させたらいいのだ。途中であれこれ言い訳しても無駄なのだ。それがわからないから周囲は文句をいうのだから。それに付き合うよりはコツコツと言い続け、実践し続ける事だ。そうすればいつかは、
「なんだ、そうだったのか」と分かる日が来る。そうすれば途中の事など吹き飛んでしまう。意味が分からないと文句を言われていた事が、
「さすが先見の明がある」と変化するのだ。
ブレずに自分の道を信じ続ける事は簡単ではない。信念なのか?自分のエゴではないか?自分の軸を信じつつ、常にその軸を疑わなくてはならない。矛盾の中に答えがあるからだ。軸なのか?枝葉の事なのか?信念を悪用していないか?相手のためになっているのか?
悩み、葛藤を続けたものだけが、自分らしい鳥として輝くのだ。
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