ああ無情!に見えるからこそ価値がある
横手志麻さんが事故のニュースにはビックリした。何度も会った事もあるし、沼津で花火大会で一緒の時もあった。旦那さんも知っているので、丸っきりの他人事と思えない感じだ。亡くなった方と自分が同じ年というのもあり、これも信号だと深めていくと見えたことがある。
それは今回書かないが、こうした事件の場合、加害者は全面自粛するしか道がなくなるのが日本だ。本来は加害者だからこそ出来る事もあるだろうし、被害者の分まで生きる為にも、事件から逃げない方がいいはずだ。でも、そうすると、事件を売り物にしているとか言われてしまう。
理性よりも感情が優先される。加害者を減らす意味で、当事者の言葉というのは重いが、それよりは被害者への感情が配慮される。未来へと活かすことが悪いような気がしてくる。本来は当事者同士の関係で決まる事だ。実際にどうだったか、当事者にしかわからない。
でも、生け贄となることで社会に材料を提供し、未来へと活かす事が出来る。ただの好奇心から来るゴシップにするのでは意味がない。
「なぜチノパンは逮捕されないのか?」という記事を見た。本人が有名だからとか、父親や配偶者が実力者だから、逮捕されないのではないかというような憶測記事だ。
逆に自分の場合は、配偶者が有名だったから逮捕されたと同情された。面白いと感じないか?かたや、本人が有名だから逮捕されないと言われ、かたや有名な人が配偶者だから見せしめで狙われて逮捕されたという。一方は被害者がいる事件。自分は被害者がいない事件。
証拠隠滅の恐れがないから逮捕されないという。自分の場合は被害者もいなくて、関係者は既に逮捕済みで、関係ない自宅の私物もあれこれ持ち去った後で、自分だけ10日以上遅れて逮捕。しかも事件に協力するために出頭する日時を約束していたのを、先方の都合で変えられて、それでも出かけた警察署で、話しも聞かずにいきなり逮捕だった。
警察を非難したいわけではない。逮捕という事実だけみていては見逃してしまうことがある。なぜ逮捕したのか?という、その心がわからなければ、
「事件とかけて、逮捕と解く」の解くを間違えてしまう。逮捕ということを日本人は重く捉えている。だからこそ、大衆はそれを恐れて法を守ろうとする意識が強い。治安の面では有効だ。だからといって、いつまでも恐れの意識だけでは成熟社会にはなれない。かといって、社会は幼稚な人間で満ちているのも事実だ。本質では体罰問題と似ている。
ケースバイケースが本当だ。でもそんなのは面倒だし、手間もかかる。多少間違いがあっても誤差の範囲内というのも必要だ。そうした現実的なこともわからなければ、理想論になってしまう。まただから生け贄というのもが必要になってくる。
逮捕されている人間は反社会的な人間だと思われて、関わるだけで損をしてしまうと思ってしまうのが、普通の人々の性(さが)だ。だから当時は、私に役員を辞任してくれとか、投資を引きあげてくれという話しがあった。
当時はそうした動きに怒りや悲しみを感じたが、今となってはそれが人間らしいなと思うようになった。そうした感覚だからこそ、普通に仕事ができるのだ。原点を大事にし、想いで動く人間は少ないからこそ、価値がある。それを相手に求めるほうがコクというものだ。少ないから良いのだ。皆がそうだと社会も困ってしまう(笑)
今となっては自分は逮捕されて本当によかった。鍛えられたし、今まで会う事もなかった人々と話す事が出来た。こうしてネタにすることもできる(笑)貴重な経験のオンパレードだ。取り調べなどでも、検察や警察の違いもあって非常に興味深い内幕がみれた。逆に警察に同情したくらいだ。私が接した警察官は良識的な人が多かったのも感じた。
妹の子供の為にパン一つ盗んだだけで20年投獄された、ジャン=バルジャン。レ・ミゼラブルの映画がいま上映されている。最近Blogのコメントに、ジャン=バルジャンの名前で、ミスチルの「過去と未来と交信する男」の歌詞が投稿された。面白い歌詞だ。また、微罪で人生を台無しにされた男の名前で投稿しているのが面白い。彼は最後には栄光に包まれた。終わりよければすべて良しだ。ひどい経験をしたからこそ、魂が磨かれたとも言える。
この映画を観た人は、フリーメーソンのマークに気がついただろうか?堂々と出されていた。さて何のためか考えてみると面白い。フランス革命にフリーメーソンの関与をアピールしたいだけだろうか?フリーメーソン的な思考を理解すれば、なぜ逆に自分が逮捕されなければならなかったのかも見えてくる。
「逮捕=悪い」という理解だけでは一面的だ。浅すぎる。そうした仕組みを通して伝えられる事がある。あえて起こして将来に活かす事も出来る。本人や当事者たちもわからない意図というものもあるのだ。
それを神の見えざる手という。神的な視点が普通の人はわからない。善も悪もない超越した視点。普通の人にはジャン・バルジャンの人生は試練の連続で、神なんていないのではないかと呪うだろう。
でも、試練が必ず活かされると霊をみて見抜いていたとしたら?もっと言えば、見抜いていなくてもいい。同じような試練を何千人にも与えたら、確率の問題で乗り越える人が出るとわかっていて、あえて無情なことをしていたとしたら?
たった一人の魂の輝きを生む為に、数千人、数万人犠牲になったとしても、それ以上の価値を生む事がわかっていたとしたら?頭で理解できたとしても、果たして実際に決断ができるだろうか?レ・ミゼラブル(悲惨な人々)を生む事が愛があることだとしたら?
マーク、象徴というものは、その真意がわかる人が見なければ、全く意味が分からないものだ。わかる人にはわかる。だから堂々と出す。ある思考パターンを象徴する物として、記号やイメージはある。フリーメーソンはそのわかりやすい象徴の一つだ。コンパス、定規、そしてピラミッドに世界を見通す目。
紋章も象徴の一つだ。なぜ政府の記者発表の演壇には、五七桐花の紋章がかかげられているのか?なぜ十六八重表菊の紋章ではないのか?
日本政府とかけて、桐紋章と解く。その心は?
このお題が解けるだろうか?
そして、最後にこの話しをもってきた意味も。
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