中途半端になってないか?

 あっという間に5月だ。ここ何年もずっと種をまいてきた甲斐があり、仕事の話がどんどん増えている。ともすると、忙しさに追われて表面的なことに目を奪われて、そもそもの想いを忘れてしまう。仕事をしていると、細かいことにハマりがちだ。

特に忙しくしていると、自分でも気が付かないうちに、モノゴトに振り回されてしまう。すると、モノゴトを徹底的に出来なくなってくる。気を抜いたり手を抜いたり、「まぁいいか」と妥協し始めてしまう。その結果、本当に大事なことよりも瑣末的なことに時間を取られることになる。
そしてその言い訳に、「前とは今は状況が違うから」と、ただ自分がラクしたいがために自分を偽ってしまう。折角、今まで徹底していたとしても、緩んでしまえば一瞬で終わってしまうのが、この世の厳しさだ。ほんの一瞬の気の緩みがすべてを無にしてしまうことなどザラにある。
勝って兜の緒を締めよと、言うは易く行うは難しだ。いい時ほど、チャンスの時ほどピンチが潜んでいる。落とし穴はすぐそこにあるものだ。かといって、慎重にし過ぎたらチャンスを逃すことにもなる。だから人生は面白い。
以前、「徹底の先に愛がある」と書いた。徹底すべきことは、その時によって違う。今は何を徹底すべきだろうか?その意識がなければ、同じ事を繰り返すことしかできない。状況が変わっても、まるで時代遅れのロボットのように同じことをしていては、誰にも相手にされなくなる。
同じ事を繰り返している人ほど、そこにハマっていて自分の人生が無駄に過ぎていることに気が付かない。人生が危ない人ほど無頓着だ。この世は面白い。必死にならなければ先がない人ほど必死ではなくて、余裕があって必死じゃなくてもいい人ほど必死なのだ。一見矛盾に見える。
持てるもののほうがそれを失う恐れを持ち、変わりたくないがゆえに必死になる。持たざるものは失う恐れがないゆえに、持つことで変わることを恐れている。表面上はまるっきり正反対の違うように見えて、本質は同じ恐怖から行動が出ている。恐怖からは救われない理由だ。
突き詰めてみれば、光を求めていないから真剣じゃないわけで、そこに矛盾はない。人間は慣れの生き物だ。どんな環境にいたとしても慣れてしまう。同じじゃないのに同じように見えてくる。意識を高く持ち続けるのは一人では難しい。まして普通の世界は、足を引っ張り合う人間で満ちている。悪口を言い、他人のあら探しばかりしている環境では、心も折れてしまう。ムリもないことだ。
どんなに人を信じようとしても、その千倍もの力で周囲が足を引っ張り信じられなくさせてしまうのだ。周囲の人間は自分が人を信じられないから、他人が信じていると「馬鹿だ」とか「騙されている」としか見えないのだ。自分の見た世界が反映される。人を信じない人間は、信じられない人間で世界が満ちているように見えて、自分が信じられないのはあなたのせいだと人のせいにし続ける。
この世を地獄にして生きている人のなんと多いことか。ほんの些細な徹底から世界は変わってくる。光が見えないのであれば、何か徹底違いをしているのだ。我を張っているのか、受け入れていないのか、素直になれないのか、下を見ているのか、理由は様々だろう。
迷った時、信じられない時、弱い時ほど、光を感じた時のことを思い出すのだ。その時の気持ちを徹底できれば道は自然と開き出す。そして、その道の先には、あなたが道を歩いてくるのを待っている人が必ずいる。その時、英雄(あなた)は試練の旅から帰還するのだ。

2 comments

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はやみん

宗教の奥義とは何なのでしょうか。
荒川秀作がキリスト教やユダヤ教を否定したように、わたしも否定しなければならないのでしょう。
幼い頃からの環境から、芸術的なものが好きなのですが、いざ自分がやろうとすると体が動かないのが不思議なところです。
観察して、紙におさめようとすると、目が閉じてしまったように頭からモノが消えるのです。
無理に行おうとすれば、その日は作ることしか出来いくらいに身体と心を消耗します。
宗教とは何なのでしょうか。
秩序を生む傍ら根底には必ず選民思想が流れています。
ぼくたちの世代では戦争や貧困、差別はなくならないかもしれません。
つまり、何かを信じるということは、誰かを殺していることなのです。
沖縄を追い出されたことには別段怒りを感じているわけではありません。
ですが、本来深めるはずのあなたたちが、「自分たちは真っ白ですよ」という顔をしながら気に入らない人間を次々と「人殺し」と揶揄して仲間ハズレにしたことに憤りを感じているのです。
謝るのは礼儀でしょう。
「こちらが悪かった」というのはもちろんですが、傲慢で謝る気持ちに欠けた所に何を持って帰ればよいのでしょうか。
わたしもあなたたち以上に霊的に恵まれているという確信、闇の先に光があることが見えているからこそこうしてこの場をお借りして話をしているのです。
今がどれだけ充実していたとしても、恐怖から来る行動は最後は出口を見失います。
年齢や、経験、性別、氏名、住む所に囚われているから判断が遅れるのです。
霊に囚われる人は、子どもを蔑み、障がい者を見下すのです。
先に立った、歳が上だ、それが傲慢になる理由にはならないのです。
彼らはいつも笑顔なのでしょうけど、私たち以上に私たちのことを気付いていますよ。

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oz信者

ozさんブログ読ませてもらいました。
とても難しくて私レベルの人間じゃ理解出来ないです…
もう少し簡単に説明して頂けないでしょうか?

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