永遠のいま

私たちには自由意思があると思っています。しかし、本当はそんなものがないとしたらどうでしょうか?いまこの文章を読んでいるあなたと私は、決められたレールを走る玉のように導かれていたとしたら?私たちが意志を発する前に脳は活動しているという研究があります。体は無意識のうちに判断しているというデータもあります。
意識とは何のためにあるのでしょうか?意志とはなんでしょうか?自分だと思っていても、まるで映画の観客のように実際は受け取るだけの存在なのかもしれません。発明やひらめきは、天からやってくるもので自分のものではないという話をした人もいます。人はただ生かされているだけなのでしょうか?
宇宙の成り立ちを調べると不思議なことがいくつも出てきます。人間の神秘も同様です。まるで生命を生み出すために用意されたかのような環境。そもそも私たちを構成する一番小さい要素を見ていくと、生物も無生物も関係なく同じ素粒子になっていくのですから不思議です。生物と無生物は違うと思っていたのに、突き詰めていくと同じなのですから。その素粒子の中はいったいどうなっているのでしょうか?のぞいてみたら、あちらから自分がのぞいているかもしれませんね。宇宙がこんな途方もない時間と計り知れない計画で導いたとしたら、ただ生かされているだけの人間を生むためとは思えません。
物を叩けば音がします。その音が巨大になれば、音で物に影響を与えられます。当たり前だと感じていることも、改めて考えてみると不思議で面白いことです。人の意志は肉体を動かします。心を動かすものは何でしょうか?心と意志は同じでしょうか?感じる想いは何を動かすのでしょうか?
伝えたい人を想って書く文章は想いが入ります。その想いは、重い存在となり、人間の原子、素粒子を通って、世界に拡散するのかもしれないと妄想します。世界と私は繋がっているのだと。私の好きな言葉を紹介します。
 

一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする。哲学者ホワイトヘッド
あなたの意志は私たちに影響し、私の意志も私たちに影響し、主体と客体がどちらもなく、私の意志もあなたの意志も錯覚なのかもしれません。その錯覚を楽しみながらも、全世界に責任を負っている存在という自覚を持つのです。いまの心の在り方を、いま決める行為が生きることなのだと感じます。自分の在り方が世界に影響を与えているのです。お天道様はどんな時も私たちを見ているということですね。
宇宙と私たちはかけ離れた存在ではなく、共に必要とする同志なのだと思います。天の声は私たちの無意識でもあると感じるのです。導かれるのも導くのも、自分一人でやれることではないというか、そもそも自分一人という概念、考え自体が錯覚なのでしょう。今日も出会いに感謝です。ありがとうございます。弥栄。
 

コメントを送信