「知恵」カテゴリーアーカイブ

空想が世界を変える

「新時代は、アニメ脳とかバーチャル脳とかいうような人種が世界を創っていく」と以前書いたのを覚えているだろうか?
新世紀エヴァンゲリオンの秘密」という記事だ。たまたま友人と、時代と若者についての会話をFacebookでしていたときに、アニメ脳について書いたら、面白い感想をくれた。
「コスプレは特殊な人だけの趣味嗜好だと思ってたけど、新たな時代の価値観を伝える先行指標であったのかぁ。」と。以前、エヴァンゲリオンを題材にアニメ脳の記事を書いたのはもう二年も前のことだ。
改めて、アニメ脳について書いてみたい。アニメ脳とは、現実より空想が優先される脳だ。3次元(現実)の人間より、二次元(アニメ、ヴァーチャル)のキャラクターに魅かれる。現実にいないからこそいいのだ。
ファッション誌のモデルに憧れて、同じような洋服を買うのと一見似ているが、キャラの内面や設定をより重視するのがアニメ脳だ。そのアニメの設定(自分の空想含む)と現実をシンクロさせたくて、コスプレをする。恰好だけでなく、その世界観の中で、キャラクターの性格も同期させたいのである。 
空想を現実とシンクロ(同期)させたいので、リアルなガンダムが登場すると動かなくても嬉しい。現実にいながら、空想にいる。が、自分のシチュエーションがつまらないから、空想に逃げている人が多いのも確かだ。現実よりも空想世界のほうが面白いのだから、夢中になるのも無理はない。
「あの世界に登場したい」現実の世界を、ディズニーランドにしたくてたまらない。その世界にどっぷりと浸ろうとする。空想に浸れば浸るほど、逆にリアルにそれを感じたくなる。
本当は現実ほど面白い物語はないのだが、目の前にありすぎてそれに気が付かない。空想世界は、作られた限りのある世界だから、すぐに消費しつくしてしまう。なので、その題材を借りて、新たにストーリを作っていくのが同人誌の世界だ。
しかし、空想はどこまでいっても空想である。現実の深みに比べたら、圧倒的な体験が情報量としてある。情熱的な仕事の例として、こんな話を聞いたことないだろうか?ただ石を積んでいる仕事とみるか、教会を作っているとみるかで、仕事のやりがいが違ってくると。
教会という偉大な存在を作るプレイヤーとしての自分。これも空想を現実に持ち込んでいる例だ。
ヴァーチャル物語の登場人物になりきる人が、燃えてその世界を更につくりあげる。たとえば 、菩薩劇場という物語が、現実に展開している。その意識がない人は、自分がその物語の登場人物であることに気付かない。現実の世界は即興劇のようなものだ。意識しない人がいても、その人は意識しない人の役を担うことになる。
この世界では、皆が役持ちで、自覚して動きだせる環境でもある。自覚したら、ただの脇役から主役へと躍り出る。大きな脚本のもとに、いまこの瞬間に物語がつくられている。役を譲り合ってたらストーリーにならない。
アニメ脳の人間たちは、現実世界の動きに興味を失っているが、現実が物語を超えることがわかったら途端に燃える。たとえわからなかったとしても、一瞬でもアニメの世界を現実に感じたら熱狂する。それが、単純に言葉のフレーズに惹かれ、その世界に酔っていただけだとしてもだ。
江戸時代の日本人もオタクのような職人が、あれこれ技を競っていた。そのお宅芸が世界に受けたのだ。葛飾北斎がいい例だ。今も昔も日本は最先端の視点を持っている。アニメ脳のなかにヒントがあるのだ。
今の自分の状況をどんなアニメや漫画、映画のシーンと同期させることができるか?同期できたら、その世界の中で自分が脚本を書けるのだ。こんな楽しいことはないではないか。イメージ持っている人間のほうが、現実をリードするのだ。これも錬金術なのである。

錬金術の秘密

2012年に入ってから、今まで封印してきたモノゴトを解禁しだした。情報を公開したり、自分からアクションしたりと、新たな流れを作ることを意識している。
今までは、あえて真っ向勝負でやってきた。まずは人生を賭けて一緒に戦える仲間を創ろうとしてきた。これに限らず、とにかくやり方も難しいことから挑戦してきたので、どんな問題も余裕を持ってむかえるようになった。仲間が面白い例をあげていたので紹介しよう。
「今までは、ただの紙コップを100万円で売っていたようなものですよね。でももう既に100万の価値があるコップなら、余裕で1億円で売れるくらいの実力がついたと自信がありますよ」
誤解のないようにいうが、価値のないものを伝えていたわけではなく、真に価値はあるけど、価値がわからない人にとってはただの紙コップと同じにしか捉えられないからだ。
まさに豚に真珠、猫に小判である。しかし、そうした人にさえも、価値を伝える努力をしてきたのだ。由緒書きとか保証書、血統書など、わかりやすい表面的な形式が揃っていると誰でも納得しやすい。しかし、そうしたものをなしで、人間力だけで価値を伝える努力をしてきた。
わかりやすい説明をしない、もしくはできない(真理は体験するまでわからない)ことで、真に信じるとはなにか?を追求できた。情報を与えて、それで信じるというのであれば、それはただの取引だ。取引で大事なことは、人を信頼するのではなく、その情報やモノが信頼できるか?だ。第三者機関や裁判所といった組織が保証していたら信頼できるというのは、要は情報が大事で、人は誰でもいいということだ。
その人を信用出来ないから、契約書が欲しいのだ。とことん信じたくないのだ。限定で信じたいから、限定された契約という形にして、そのことだけを信じる形を取る。契約期間が終了すれば、あとは知った事ではないということだ。
「こいつは価値あるコップではなく、紙コップを売りつけているのだろうか?」モノゴトの価値もわからないし、人も信じられないから、
「鑑定書見せろ」となる。だとすると、売る方だって、
「信じてくれない人に売りたくないな」とか、
「だったら高く売りつけてやれ」となるのが人情だ。
人の気持ちを悪用した詐欺があるから、契約や目に見える保証を欲しがる気持ちもわかる。信じるものはバカを見るということわざがある。しかし、それは途中で信じるのをやめたからだと言いたい。自分も途中で沖縄詐欺にあったのかもと悩んだものだ。しかし、詐欺にしては真剣な熱を感じたので、
「もうこうなったら信じ続けるしかない」と決めた途端に、道が見え出した。信じるものは救われる、のだ。
例え、最初は紙コップの価値だったとしても、それを特別な紙コップに出来るということも学んだ。それがわかった途端に、実はそれが紙コップなどではなくて、とてつもない聖杯だったと気がつくのだ。聖杯は一見、紙コップに見えるのだ。これが真の錬金術の秘密だ。
インチキをやろうとしても、すぐに化けの皮は剥がれる。しかし、本物の価値ある人間になれば、紙コップでさえも価値をつけられるようになる。わかりやすく言えば、レディーガガが飲んだ紙コップだとしたら、欲しがる人はたくさんいるとわかるだろう。
真の錬金術で創った価値であれば、時代を超えて残る。錬金術を表面だけ悪用して作ったモノは、消え去るか、価値がわかる人の元へと流れていく。いずれにせよ、この世に無駄なものはない。
いま住んでいる庭にある、お気に入りの苔の生えた岩。雪化粧してるのは初めて。この庭も長い間、たくさんの人の想いを入魂してきて今がある。今も変化を続けている。こうした価値がわからず、時代を超えて残るモノなど創れるわけがない。庭全部を紹介したいが、それは実際に見てのお楽しみにしておこう!

聖と俗の境目

 13日の金曜日だ。不吉だとか気にしている人もいるだろう。誰かが作った概念に支配されて、気分を左右されるのは面白く無いではないか。その裏の意図、もしくは、ある世界観による理屈を理解することで、その概念を逆に使えるようになったらどうだろうか?

東日本大震災も、鬼門の方角だからだという人もいる。正しいといえば正しいし、正しくないといえば正しくない。じゃあ、そこからどうするか?が大事なのだ。鬼門だとしたらどうするのか?裏鬼門に気をつけるのか?気をつけて何とかなるものなのか?自分にとって何の意味があるのか?そうしたことを深めずに、危ない危ないと避けようとしても、全く意味が無い。
忌み嫌われるものは、同時に聖なるものでもある。聖なるものは、普通ではないゆえに聖なるものとなる。異端もまた、普通ではないゆえ異端となる。キリストも、最初は忌み嫌われ、後に聖なるものとなった。
今の世界は、悪を許さないという、ひどく狭い世界になっている。そういう意味では、人類は退化している。聖なるものと俗なるものは、本来は切り離せないのだ。正負のバランスを上手にとってきたのが日本人なのに、いまや善か悪か、単純なハリウッドスタイルしかない。
差別は悪いで思考停止。江戸時代であれば、貸金業は目の見えない人だけに許された職業で、勝海舟の祖先はそれで成り上がって旗本の権利を買った人だった。歌舞伎の興行だって、汚物の処理を担っていた人の許可がなければ、興行できなかったのだ。汚物処理という人の嫌な仕事をする代わりに、利益と人気を得ていたのだ。歌舞伎という芸能に彼らが関わっていることに、妬みや嫉妬が湧いたとしても、所詮は汚物処理屋だと思うことで、大衆は胸のつかえを下ろしたのだ。
差別や悪を、無批判に拒否するのではなく、現実にどう活かすか?その視点を忘れて、切り捨てようとしても、そのしっぺ返しは必ずくる。知恵のない世の中だ。
弱い者たちや、世間とは違う生き方しかできない人たちの居場所がドンドンと奪われていく。しかし、そうした弱い者たちこそが、普通の人たちが超えない境界を超えて、新たな活力を生み出してきたのも事実だ。
昔は、河原者と呼ばれた、どこから来て何処へ行くのかわからない人たちがいた。役者や革職人たちが多く、そうした流れ者たちの中から、芸能は生まれてきた。元からアウトローだと誰もが自覚することで、自ずと役割は見えてくる。
それを忘れて綺麗事を言った所で、何か時代を作るものは生まれないのだ。わかりやすいラベルを貼って、感じることを忘れてしまえば、そこには常識という非常識があるだけだ。この意味がわかるだろうか?
日本人の常識である、お正月には鏡餅と門松、注連縄。一体それらはなぜ飾るのか?と疑問を持たないのが一般常識だ。これについては、面白いコトタマ理論もあるが、知っても好奇心が満たされるだけだろうから、書かないでおこう。
聖なる日々が去り、俗なる日常がやってきた。ハレ(非日常)とケ(日常)の狭間が面白いではないか。ケが枯れて、ケガレというが、活力を再生させる装置は、両極がハッキリしないことには機能しない。
ハッキリさせたり、清濁併せ呑んだりと、矛盾の中にしか、真理はない!

占い師や霊能者が必要とされる政治的な理由

 以前、藤田小女姫という占い師の話を書いた。その時に、それなりの人間が占いに頼るのは信じがたいという意見を頂いた。
普通に考えたらそうだろう。

まさか、トップの人間が占星術で方向を決めていたと聞いたら驚くし、そんなトップを信じられなくなるかもしれない。勿論、そう思われることは熟知していて、あえてそのことを出す人もいれば、怪しいと思われると困るからこそ隠す人もいる。
 堂々と「霊的情報を活用しているよ!」と出しても、聞いた方は、
「まさかそんなことないだろう」と信じなくて、面白い冗談をいう人だと思われることもある。
 霊の世界が当たり前の人は、ユタの活用などは当然の話だ。霊的なことの活用方法を知らない人は、周囲の人間が「あの人に霊的な話を言ったら怪しいと思われるに違いない」と判断して言わないだけかもしれない。実際、沖縄に足しげく通っている本土の人でも、ユタのことを地元の人から聞いたという人は少なかった。
最近は、そうしたことを表にだそうとしていることもあるので変わってきているが、ウチナンチュだって遠慮して話さないことはまだある。しかし、こちらが先にユタや御嶽の話をすると、面白いくらいに、
「実は行きつけのユタがいてさぁ」とか「家族がユタ狂いで困っている」と告白する人は多い。沖縄では、相談するなら弁護士半分、ユタ半分とか、医者半分・ユタ半分、警察半分・ユタ半分などといって、専門の職業の人間に相談するより、ユタに相談することを選択肢の大部分も占めているのだ。本土の人からしたら信じられない話だろう。それだけにユタの偽物も多い。これはまた別の機会に。
  企業も役所も、組織というものは大きくなればなるほど、決めるということが難しくなっていく。どちらも正しいと言えたり、そもそも答えがないような事例が増えてくるからでもある。そして、その決断によって、得する人、損する人、それぞれ利害関係が絡む人が多数になるから決めづらい。そんな時、鶴の一声が求められるのだ。
 以前、ある省庁の官僚に聞いた話だ。その省では、小女姫(こととめ)案件と呼ばれていた案件があったと。小女姫案件であると、異議もいえず、とにかくやるしかない面倒で嫌な案件だったという。
「これは小女姫案件だから」と言われてしまうと、有無をいわさず実行させられてしまうのだ。面白くないだろうか?霊とか占いというのは検証が不可能な世界だ。だからこそ、これを逆に利用することができるのだ。
そのことを政治的に利用して、決断を正当化することも出来るというわけだ。
小女姫が言っているのだから仕方が無い。これほど便利な言い訳はない。
小女姫が関与したという松下電器の山下飛びをご存知だろうか?
経営の神様と呼ばれている松下幸之助の指名で、序列25番目の平取締役から社長に抜擢したごぼう抜き人事のことだ。東京五輪の体操で「ウルトラC」を出した山下にちなんで「山下飛び」と言われた。
 当時はもう幸之助といえども、組織が大きくなりすぎて誰がいいかわからなくなっていた。でも社長を決めなければならない。実際は誰にしたってそう大差はない。でかい組織というものは、そういうものだ。誰がいいのかわからない、論理や、まして好き嫌いでは決められない。そんな時に、占い師や霊能者の出番がやって来る。
 末席からごぼう抜きするという話を聞いた時、幸之助は「これは面白い」と思った。そういうセンスはあるからこそ、名を残しているのだ。使えるものは何でも使うのが概念のない人間だ。
霊的な人たちは、しがらみや常識から自由である。だからこそ、普通の人たちにはない視点でモノゴトが見えるのだ。全部が全部占い師や霊能者の言うとおりにする人間は失敗する。
一方で、霊的な世界を活用できない人間も限界がある。人智を超えた現象を利用して、勝利に導いたリーダーの例は、歴史を調べたらいくらでもある。それを本当に信じていたかどうかなど、どうでもいい話でもある。勿論自分はそうした世界があることを信じているし、その方が面白いと感じているから、信号を活用しているのだ。

因縁の力

 日付は節目となる。誕生日はいい例であろう。本当を言えば、毎日が誕生日で、同じ日など二度とないが、一年に一度だからこそ感慨深いし、自分以外の人間を想うキッカケにもなる。

自分の縁ある数字に触れると何か嬉しくなる。それが時間だろうと、整理番号だろうと、走行距離や、車のナンバーでもいい。そこから連想する人やモノゴトに、想いを飛ばしたりして、念を込めている。

人知れず、祈りをあげる。自分の場合、毎朝掃除をしているとき、必ず想っている人の名前を心の中で唱え、念を飛ばしている人たちがいる。実際には会っていなくても、いつも想うことは出来る。
お百度参りとかで、人に見られないほうがいいと言われているのは、表面的なことよりも、心の中の状態を重視してのことだ。真意(真実の意味)をはき違えて、形だけにこだわって、こそこそ見えないようにお参りしても意味がない。
お百度参りしたいと思う相手は、その人にとって因縁の相手だ。そうでなければ、そこまでの想いは湧くものではない。愛するにしろ、憎むにしろ、相手に対して深い想いがなければ、無関心で思い出しもしない。
そうした相手がいることは幸せなことだ。そのために人は頑張れたり、自殺を思いとどまったり、普通では投げてしまうことも頑張れたりする。悔しさで、あいつを見返すまでは死ねないというのもいい。そのエネルギーを生み出すのは因縁にしかできない。
あの人は今どうしてるだろうか?
苦しいとき、切ないとき、悲しいとき、嬉しいとき、その人と分かち合いたいと思う相手がいないことはとても寂しいことだ。実際にできなくても、想いを飛ばすことは出来る。彼女、彼らのために頑張ろうと思えるのが最高だ。
血縁というわかりやすい因縁であれば、分かち合いたいのは当然だ。それも目に見える表面的な分かち合いをしたがるのが普通だ。あえて、目に見えない形(心中心)で分かち合うことを選択する人間は少ない。自分たちの仲間で、特別な家族関係を作っている人がいる。
夫は沖縄。妻は東京。子供たちは父とも母とも一緒に暮らしていない。普通であれば、家族バラバラと見るだろう。しかし、そういう家族の形があってもいいし、またそうすることを魂は望んでいたからこうなった。普通であれば、そういうのは常識に反するとか真面目脳で判断してしまう。また、当人も「私は普通の人と違うからおかしいのか?」と悩んでしまう。
いろんな家族の形があってもいい。どういう形にするかは、当事者たちが決めればいいことだ。試行錯誤して、常に創造していけば、いつか各自が輝く形が見えてくる。大事なことは、相手を想えるかしかない。心が一番大事なのだ。形にこだわっても、表面は仲良し家族に見えるけど、内情はバラバラなんてこと、よくある話だ。
他にも、因縁である子供を、他人であるが仲間である人間たちに預けている親もいる。預けられたほうも、普通は面倒だし、とても責任とれないと尻込みするだろう。他人の子供に対しても、どこまで想いを持てるか?血縁である相手に想いがあるのは、ある意味当然だ。血縁でない相手に想いを持てるか?
因縁に対してのヒントは、感情が入ってしまう相手ほど冷静に見て、感情が入らない相手にこそ感情的になることだ。肉親は他人のように。他人を肉親のように。
私には、自分たちを信じて、自分に正直に生きることを選択した仲間も共に家族だ。血縁関係だけではない、大きな家族。中には、誰にも達成できないような金字塔を打ち立てた人間もいる。これもいつか書く。誰かの励みになるような因縁は貴重だ。赤の他人がいくら頑張っても、自分も頑張ろうとは思えない。所詮、他人ごとだ。因縁づけで繋がった仲間は、他人だけど他人事ではない。そうした人間を裏切ることは決してない。
因縁づけによって、肉親・家族と同等以上の因縁になった仲間たち。因縁であるからこそ、伝わる想いと伝わらない想い。両方ある。血縁因縁には伝わらない想いも、因縁づけによって繋がった因縁からは伝わることもある。また、血縁ではない因縁だからこそ伝わらない想いもある。
濃い因縁、薄い因縁。いろんな因縁があるから、人生は面白い。深い学びを感じ取れる。嬉しい思いも、嫌な思いも、全部魂が進化するための材料だ。どんな因縁であろうと、因縁から逃げずに向かうことで人生は輝くのだ!

世の中は綺麗事では収まらない

世間では問題を起こさないことが良いことという認識がある。問題を起こすくらいなら、無難な反応が望まれる。行動も、発言も、波風立たせないようにすることを、良いことのようにとらえている人が多い。本当にそうだろうか?

 例えば、綺麗事の発言を考えてみよう。
 敵を作らないのが大事だとか、
 裏切られたのではない、自分が悪いんだとか、
 自分も昔はそう思っていた。
 しかし、今はそうではない。現実はそんなに甘くないし、もっと深いところで、人間関係を見据えたら、愛憎は表裏一体だ。自分も悪ければ相手も悪いのが本当で、敵がいなければ本当の味方もいないのだ。
 自然は冷徹である。そんな綺麗事は絵空事で、理想という頭の中にしか存在しないし、通じない。だからといって、モノゴトを悲観的にみる人になるのは簡単だ。そうではなく、現実を冷静にみつつも、そこから更に深めたら、冷徹の中に愛を感じることが出来る。
 大きな愛は時に冷たく残酷に見える。 耳障りの良い言葉は、表面的なことしか触れられない。 自分をよく見せようとするのは簡単だ。イイことを言っていればいい。 
心がざわつくこと、なんだこいつと思われるようなことを言ったり、書いたりすれば、嫌われるし、関係が不安定になる。それは恐ろしいことだ。また正直にして、問題が起きたら面倒だという意識もあるだろう。
 しかし、考えてみて欲しい。 世の中の大半は、自分と同じ意見の人を求めて、自分を認めてもらいたがっている。そこで敵を作らないというのは、相手に自分を合わせることしかないではないか。
 もしくは、納得していなくても、「そういう考えもあるよね」といった理解者だとしよう。 ほんとは納得していないのだから、その人の味方でもないし、敵でもない。
 敵を作らない=何でもない人だったら、関係を持つ意味がないではないか。
だったら、何のために出会いがあるのか? お互いがぶつけあってこその切磋琢磨で、そこには綺麗事など入る余地はない。真剣になればなるほど、甘い言葉など、ぬるく感じるし、時には怒りすら感じる。岡本太郎が、
「すこしづつ自分を殺して譲り合うことでなれ合う調和なんて卑しい」と言っているのもこのことだ。
今でこそ彼の言葉は、その通りだ、納得だと人気があるが、発言していた当時は叩かれ続けていたのだ。時間が経てば本物は残る。ある意味で、叩かれなければ本物ではない。
 どんな人間だって、完成されていないからこそ、この世でいろんな体験をしているのだ。厳しく見つめたら、進化の種は必ずある。その種に本人が気づくチャンスを<綺麗事>は見えなくさせてしまう。
 言っても無駄だと感じたならば、相手のために祈るだけでも違う。 自分のエゴで相手に伝えても、勿論それは伝わらない。 真に相手のことを想って伝えた言葉は、表面的には拒絶されようと魂には届くのだ。
 綺麗事は自分を良い人に見せたいエゴかもしれないと、自分を疑ってみる事だ。綺麗事で思考を停止させないで、本当にそうだろうか?と自分の霊に問い続けることから、本当の人生は始まる。どんな道も楽ではない。
綺麗事しか言わない人間は、表面的には味方でも、いざとなると簡単に去っていくものだ。輩(やから)も高度になると、
「ほんとは言いたくないんだけどねー」と、綺麗事に見えないように綺麗事を言って、本当の味方のふりをするから、また面白い。
この世は本当に上手くできている。

真理はあるが、答えはない

時代の深層は大きな節目を超えた。これから徐々にそれが表面化してくるだろう。だからこそ、私は次に2016年に向けて意識をあわせている。2016年に向けて、時代の深層を創造していく。
見えないところから変化が起こり、その後見えるところが変わってくる。これは人間でも同じだ。心が変われば、行動が変わる。そして、行動が変わった結果、環境も変わる。環境が変われば、心もまた変わる。こうして螺旋状に影響し、変化が加速していく。
天災は何を伝えているのか?一人ひとり感じることは違う。しかし、誰もが天災という信号によって、心に影響を受け変化していく。表面意識と潜在意識、両方に影響を与えている。例えば、タイの洪水はどうだろうか?
50年に一度の大洪水と言われ、日本企業が多大な影響を受けた。東南アジアに進出するなら、ベトナムよりも、上下水道や交通機関が整ったタイのほうが便利だと言われていた。その結果がこれだ。天災だからしょうがないのだろうか?当初、タイ当局は楽観的に捉えていた。それを間に受けた結果、本来避難させられた機械類も水に浸かることになり、被害が拡大した。これも仕方がないのだろうか?信号なのだろうか?ベトナムに追い風になっているのは偶然だろうか?運も実力の内なのだろうか?
天災の他に、人が起こす事件がある。では、オリンパスの問題はどうだろうか?日本を代表する企業が、実はライブドア事件など比較にならないほどのことを隠していた。オリンパスという、一企業の問題では収まらず、日本の信用を落とすほどの影響を与えた。一体、どちらが罪深いのだろうか?日本人の価値を傷つけたのはどちらだろうか?これは何を伝えようとしている信号なのだろうか?
一体誰の判断でそうなったのか?オリンパスの経営陣の顔は見えない。千と千尋の神隠しにでてきた、カオナシが経営しているようだ。顔が見えない集団による行動。無責任体質。これは彼らが悪いからなのだろうか?自分も無責任の一員になってはいないだろうか?しっかりとカオがあるだろうか?
ホリエモンはカオナシではなかった。顔が見えることで生じる責任はあるだろうか?顔が見える集団は必ず責任感があるだろうか?一体どこまで責任を感じればいいのだろうか?見えすぎて潰されるのは必要なことだろうか?秩序は守られなくていいのだろうか?なんでもやりたい放題がいいのだろうか?ちょうど良いバランスなどあるのだろうか?
世の中は矛盾で満ちている。そうこの世はできている。
 生と死。明と暗。上と下。縦と横。この世は、対極があって成り立っている。その対極の中に答えなどない。極と極の間の中で、どこがいいかなんてことは、人によって違うからだ。こちらがいいと思えば、こちらが悪いという見方もある。どれも正解なのだ。人の数だけ正解がある。だから、罰などない。そういうルールなのだ。失敗と思えることも、それを通して気付くきっかけに過ぎない。進化することがこの世のルールだ。体験することが大事で、そこに良い悪いはない。
深遠な答えが真理だ。そして、真理はあるけど、単純な答えはない。 真理を知るために、体験があり、この世がある。地球という制限のある場所で何を体験し、何を得るのか?どんな体験も真理へと繋がるヒントだ。
嫌な事でさえもキッカケだ。例えば、苦しみを通してしか理解できない真理がある。苦しみがあるからこそ、優しさや愛がわかることもある。苦しいからこそ喜びもある。いつまでも同じ状態はない。常に変化し続ける中で、出来る限りの体験をするために今がある。
人は自分の生きた証を残したいと願っている。自分のブランドを築きたいのだ。それが会社なのか?アートなのか?平凡な市民という形なのか?どんな形でもいい。ただ、楽な道を歩んでいてはブランドは築けない。
世の中をうまく生きようとする答えを求めるのではなく、真理を求めることだ。一見遠回りに見えるが、結局は自分ブランドを構築することへと繋がり、その結果そのブランドを欲しがる人に支えられるだろう。迷ったら答えはないのだから、飛び込んで体験するしかないのだ。

真面目脳の罠

 良い人はたいてい真面目脳だ。

世間の常識を良しとし、人に迷惑をかけないように気をつける。
そういう無数の良い人が日本を支えている。満員電車でも我慢して、通勤しているのを見ると頭がさがる思いだ。311の災害の際にも、暴動など起きないことに海外からは驚きの目で見られていたのも、日本人は真面目脳な人が多いからだ。
これは素晴らしいことだ。長年培ってきた文化で誇りである。明治維新後も、名も無き真面目脳の人達が日本の近代化を支えてきた。
しかし、光があれば闇もある。美点の裏側には、真面目さから生じる負の部分も必ずある。真面目な人だからといって、時代の変化は容赦しない。こつこつ真面目に農業していたとしても、工業化という時代が来れば、その波にさらされてしまう。真面目=型通りとなりがちだからだ。真面目脳であると、自分と言うよりは相手や環境に左右されやすい。真面目脳は受身の傾向がある。
 また、真面目脳は世間という常識に影響されやすい。だから一斉に戦争賛成と真面目に突き進んだりする恐ろしさもある。真面目脳というのはある意味楽なのだ。周りに合わせて、問題を起こさないようにする守りの思考だ。
 例えば、受けたメールに返信しないということは真面目脳からしたら有り得ないことだ。
「無視は相手に失礼だ」とか、
「返信を待っているのに待たせたら悪い」とか相手に気を使い、とにかくすぐに対応しようとする。IT化が進むに連れて、益々早く対応するように心がける。それが大事な時もあるだろう。しかし、どんな時も真面目脳が考える対応が一番であるとは限らない。
相手を救おうとする意識がある人なら尚更だ。表面的な人柄の良さは捨てないと、より大きな悪霊には対応しきれない。悪霊はずるがしこい。相手を焦らせて、自分の思い通りにしようとする。そんな時、焦って急いで対応したら、悪霊の思うつぼである。
先程の例で言えば、メールを返信しないことが愛であることもある。目先の常識にとらわれず、本当に相手のためを思うなら、自分が恨まれたとしても、敢えて返信しないという選択をする場合もある。低レベルのメールに合わせてしまえば、自分も魔界に落ちてしまう。ただのストレス発散メールなど、相手を想ってしてきたメールではない場合などは、真面目に返してもいいことはない。無視することで、送信者が今までの経緯を振り返り自分の行いを深めると信じて、無反応という反応を真面目に選択するのは深い愛だ。しかし真面目脳にとっては、無反応は常識外なので嫌なことである。嫌だからこそヒントがあるのだ。
このスピード一番の時代だからこそ、落ち着いてじっくりと相手に向かうのだ。昔、手紙を人が運んでいた時代のようにしてみるのだ。手紙を待つ間に想いが募るし、一度出したら取り返しがつかないのだから、じっくりと想いを込めて手紙を書くようにメールをするのもいい。
本当の真面目は、常識や概念をいつも疑い、相手のためにどの選択をすればよいかと真摯に向き合うことだ。それが真の誠実だし、真剣である。変化の激しい時代だからこそ、真面目脳を破壊して、本当の真面目とは何かを極めるのだ。そうしなければ、時代が移り変わり、次の世代の真面目脳にやられてしまう。
いつもしていることをコツコツと何も考えずに実行する真面目脳ではなく、今日していることは本当に大事な事なのか?を真面目に日々問いかけることが真の真面目である。
いつもそうしているからといって、今もそうするべきだとは限らない。一瞬足りとも同じ状況はないのだから、その場その場で感じて選択をすることに真剣になるのだ。それを真面目にしなければ、真面目脳は結局自分の首を絞めることになる。
真面目に返信したのになんでこんなひどいことをされるのだろう?といった具合に。

執着というキッカケ

人は自分が何に執着しているか、気付いていない。わかっていないから、執着を捨てることもできない。

この世が幸せに回るのは実は簡単だ。執着を皆が捨てればいい。自分の所有にこだわらず、分けあえば足りるのだ。言うは易し、行うは難しである。また、満たされてしまえば資本主義経済では儲からない。それではお金は困ってしまう。だからこそ、人生は面白い。愛着があるモノであればあるほど、捨てるときに複雑な感情が胸に湧き起こる。切ない、悲しい、離れがたい、怖い、懐かしいなどなど。

しかし、執着を捨てた人のほうが、捨てない人より強いのだ。この世の面白い仕組みの一つだ。失うものが無い人ほど怖いものはない。命さえ執着せずに投げだしてしまうテロリストを想像してみたら、その怖さがわかるだろう。持っている人間のほうが有利に見えるが、持たない人間の強みもあるのだ。
 面白いことに、大きい家に住める人ほど、その家にはいないものだ。忙しくて家にいる時間がない。大きい家に住むことにこだわっていないから、その人の器の大きさに合う場所が向こうから自然とやってきて、そこに収まるのだ。そういうものは失われることがない。だが、大きい家に住むことに執着して、ガムシャラに働いて、やっと大きい家に住んだとしても、幸せなのは一瞬で、次からはその家を失う恐怖に怯えることになる。執着すればするほど、失う恐怖が増える。
 ブッダが、お金持ちに全財産を賭けさせたのは何故だろうか?
キリストは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」といったのはどうしてだろうか?執着があるうちは、心が真の喜びを体験できないからではないか。
だからといって、全部裸になれといっているのではないし、金持ちだからといってお金に執着していない人間もいる。
 企業の上には国家があり、国家の上には宗教があり、宗教の上には、無執着の人間たちがいるのだ。
表に出ることも名誉も求めることもなく、悪く言われようとも気にせずに。まるでイルミナティのような人たちが。
執着を捨てたからといって、すべてが正しく見えるわけでもない。どんなときも無執着が正解でもない。執着があるからこそ、必死になって成長できることもある。大事なことは、自分では気が付かないことを指摘してくれる仲間がいるかだ。
同じ指摘をされても、
「お前には言われたくないよ」ということもある。魂は露骨だ。見下してる相手のいうことは聞かないものだ。
ビジネス社会にいると、売上や成績で優劣を判断しやすい。同じような価値観を持つ中にいては、その中で優劣ができるため、下から上への指摘は難しい。部下の言うことを素直に受け取るより、部下に教えようとする意識のほうが強くなりがちなのだ。価値観も執着の一つだ。
だからスティーブ・ジョブズだって、ビジネス世界にいないお坊さんに意見を求めたのだ。自分が何に執着して、それをどう活かすか?もしくは捨てるか?そうした視点で、執着を活かさなければ、執着に自分が使われてしまう。
世間から見たら成功者に見えても、ただ執着に使われている人も一杯いる。執着のために働いて、本当の自分のためには働かない。すると魂は死んでいくのだ。
本当の自分の人生を生きるために、執着を利用して自分を知る。そして執着をキッカケとして使い、一回り大きい自分を創造しよう。執着は階段だ。上に登るも下に登るも自分次第である。

人はすぐ経緯を忘れる

人はすぐ経緯を忘れる。勿論、そうなると原点も忘れる。

 本来、いまの一点だけを切り取って判断などできない。
 原点と経緯があって、今がある。
地球があって、祖先がいて、親がいて、世話をしてくれた人々がいて、自分も生きてきて、今という自分がいる。どんなことにも、原点と経緯があることを忘れてはならない。そこを外してしまうと、モノゴトの筋道を間違えてしまう。
大衆は目先のことで頭いっぱいになり、どうしてこうなったか?と考える余裕を無くしてしまう。そうした人間は、人間魂より動物魂が優勢なのだ。
以前、「罪にならない罪」という記事でこう書いた。

想いを無視する言動は、罪にならない罪なのだ。そして、想いこそが一番価値があり高いものだ。それをお金の為に踏みにじったりするのは、人として最低だ。昔は義理や人情として大事にされたものが、経済論理で踏みにじられている。

原点や経緯を忘れて、そのことを棚上げにして、自分は正しいと責める人間は、罪にならない罪を犯している。人間社会においては法的な罪に問われないが、霊的な世界では真の犯罪者だ。いまの社会はそうした人間で満ちている。自分勝手に、気ままに、義理も人情もあったもんじゃない。
最近こんなことを相談された。
・心と心で交わした約束を、契約書の形にしていないことをいいことに、状況が変わったなどと都合のいい事をいって平気で破られた。
相手が破ったことを自覚しているならまだいい。罪を自覚していない相手、自分は間違っていないと確信を持っている人間を自覚させるのが「本当の仕事」だ。
 人はコロコロ変わるのが当たり前だと思っている。確かに、この世は一時として同じ状況は存在しない。それを正当な理由(言い訳)にして正義を主張することもできるだろう。しかし、不動の心を持っている人もいる。そういう人間は信念という柱があるからブレないのだ。
やる気と真剣さで向かった経緯があって、約束を果たせないのか?
そこまで真剣に向かうことなしに、すぐ諦めて約束を果たせないのか?
結果としては同じ約束破りかもしれないが、経緯に誠意があるかないかで、気持ちは違う。
変わるのが当たり前と、諦めてしまうか? 
心が変わる度に、ぶれる度に、相手に向かうことが大事だ。それが菩薩道である。
どこでだって、菩薩の仕事はある。
 普通の仕事をしていたって、目の前の出来事だけを見るのではなく、原点と経緯に想いを巡らせ、どう感じるか?まずこれが難しい。しかし、一つ一つ目の前の出来事に真摯に向かえば、感じられるようになるのだ。
原点と経緯を意識して過ごすことから菩薩道は始まる。
本当に大事な事を忘れないのが菩薩なのだ。