「知恵」カテゴリーアーカイブ

心の壁

アニメ「エヴァンゲリオン」でATフィールドという言葉が登場する。

いわゆる、心の壁のことだ。心の壁はなぜあるのだろうか?

自分を自分として維持するためには、外の世界との境界が必要だ。外の世界を簡単に受け入れていたら、混ざり合って影響されすぎてしまう。内の世界を維持するためには壁が必要だ。しかし、閉じたままでは濁り淀んでしまう。また、インプットがなければ、アウトプットもない。
どんな情報を内に入れるか?基本的に大半の人は、頭が判断している。自分の概念、常識をもとに、理解できる情報だけを取り入れていく。抵抗も葛藤も少ない世界。簡単なことだけしていると進化が起こらない。無味乾燥とした世界になる。
逆に、何でもいつも受け入れていては、自分がなくなる。周囲や環境に影響されているだけの反応者になる。自分がない世界もつまらない。心を殺して生きるしかなくなる。その反動は大きなものとなって自分に返ってくる。
心を開くときと閉じるとき、心は心に反応する。想いは理性を超える。自分の心に聞いてみる。今は素直になるべきか?それとも頑なになるべきか?見極めは自分の責任だ。慎重に聞くがよい。
自分がわかれば、相手もわかる。
ATフィールドは、ATフィールドで中和できるのだ。
その時、心の壁は違う性質をもつ。

どさくさの罪

 輩(やから)がよく使う手に、どさくさがある。

例を挙げよう。
例えば喧嘩をしていた、AとBがいたとする。そんな時、ワールドカップのサッカー観戦で盛り上がっている場面に出くわしたとしよう。Aはここぞとばかりに、友達と盛り上がっているBの近くに寄っていって、その友達たちの前で
「おお、今のプレイすごいなー。Bもサッカー巧かったよなー」といった感じで、喧嘩していたことをウヤムヤにしてしまおうとしたりする。さりげなく、
「この前は悪かったなあ」と本当に反省してるのかよくわからないまま、言葉だけの謝罪で済まそうとしたりする例もあるだろう。

つまり、どさくさに紛れて、こっそりと主張や気持ちを表現するのである。自分にやましさがあったり、筋が通ってないことなどをするときによく使われる。

周りの空気を読む人は、輩に「どさくさ」を使われやすい。仲良くもないのに、
「俺たち仲良しだよなー」といわれたとしよう。和気あいあいの空気だったら違うとは言いにくい。まぁいいかと認めてしまったとすると、その後、その場にいた第三者に対して輩は仕掛けるかもしれない。
「彼とは仲良しでさー」といった具合に、仲良しということを利用して、信用を得て入り込もうとする。

どさくさは、応用範囲が広い。共通しているのは、キチンと向き合って筋を通さないで物事を都合よく進めようとすることだ。イチイチ異を唱えるのは大変だ。その気持ちのコストを考えたら、しょうがないと諦めたり許してしまう。それを利用して、輩はどさくさに物事を進めるのだ。

こっそりと既成事実を積み上げて、ちゃっかりと筋を通さずに済まそうとする。本来自分にやましさがあるから、堂々と向き合わずに、こっそりと秘密裏にする。

今の政治が一番わかりやすい例だ。脱自民という主張で支持を受けたのに、いつのまにやら脱自民どころか、最初と違うことをしだしても筋を通さずに、どさくさにやってしまう。これは民主党に限った話しではないが、どさくさに紛れて法案提出や廃案にする例は、山ほど見つけられる。

何でもかんでもハッキリしっかりとケジメをつけろという訳ではない。日本人は曖昧が好きだと言われているから、何事も穏便にでやってきた。しかしそれを悪用されることもあることを知らなければならない。

キチンと認識しておかないと、後でどさくさを活用されて痛い目を見るのは、善良な人間のほうなのだ。「優しさの罪」でも書いたが、ドサクサを見逃した罪もあることを心に留めておかねばならない。

輩の手法をしっかりと研究して理解しなければ、輩に食い物にされてしまう。パーティや葬式といった空気では要注意だ。言いにくいことも、そういう場であれば言いやすいからだ。本来、一対一で向き合って話す事柄でも、どさくさに紛れて済ませてしまえる。

結局は自分に帰ってくるのだが、輩はラクしようと逃げる傾向にあるから使ってしまうのだ。どさくさを使う方も、使われた方も、心理的障害を乗り越えて向き合おう!嫌なことにも向き合えば、必ずご褒美がある。

霊を憎んで、人を憎まず

 罪を憎んで人を憎まずというが、我々は
「霊を憎んで、人を憎まず」と言い換えたりしている。

一般的に、整合性のない発言や行動をする人間は、矛盾していると批判されることが多い。私も一貫していない発言や行動を見ると嫌で仕方がなかった。しかし、そもそも自分自身も
「完全に矛盾がないか?」と問われたらそうではないし、むしろ矛盾をはらんでいることが人間の本質だ。

霊=人格と捉えると、感情や状態によって、同じ人間でも色んな人格がでてくるものだ。見た目は一人の人間だが、その中にある霊は一つということはない。主人格はあるが、状況によって霊は変わっていく。

霊に操られるか、自分で霊を操るか。これが魂の力だ。意識していなければ、霊に操られるだけだ。気分屋はまさにその例だろう。しかし、押さえつける意識が強すぎると、頭が強くなりすぎて感情を無くしてしまう。

感じていることを意識しつつ、自分らしく表現できるようになりたいものだ。

一流の役者は、その役に成り切る。その霊そのものになるのだ。だからハリウッドでは、役を落とすのに数ヶ月かけるのだ。ある芸能事務所社長も、
「自分の仕事は霊をつけたり、外したりが仕事ですよ」といっていた。

霊がその人のすべてではない。憎らしいことをしたとしても、人間の本質は別にある。変わらない人間もまたいないのだから、向き合い続けるしかないのだ。そこにお互いの成長がある。

聖書に、こんなシーンがある。ヨハネによる福音書の8章だ。イエスを試そうと罪人を連れてきて、
「罪人は石で撃ち殺せと法であるが、あなたはどう判定するか?」と問う。
イエスキリストは、
あなたがたの中で罪なき者が、まずこの女に石を投げよ」と答える。

また、アニメ「コードギアス」で主人公のルルーシュはこういった。
撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」と。

魔界入り

人間ならではの特有の働きの一つに「好奇心」がある。

よく一般的に「好奇心を持て!」と言われるが、好奇心は無理に持つものではなく、自然に在るものだ。

しかも、その言葉はポジティブなイメージを持っているが、実は危険でもあるのだ。パンドラの箱のように、好奇心が身を滅ぼすこともある。

勿論、以前書いたように危険だから面白いのだ。しかし、好奇心の特性を理解していないと、下手したら好奇心は、魔界に突き進むエネルギーになる。

エネルギーがある人は特に、どっぷりとハマりやすい。知的興奮のあまり、専門バカになってしまったり、際限のないループにハマることになる。

他にも、浮気の疑惑や、事件の真相など、知りたい衝動を我慢できずに知らなくてもいいことを知り苦しんだり、知ってしまったがゆえに解決から遠ざかることがある。

好奇心を持った事物に対して、知れども知れども、きりがない。終わりがないのだ。そこだけにどんどんハマり、光を失っていく。

また、ハマればハマるほど、そこに問題解決の光はなくなる。もっと別の場所に答えがあったりする。

行き詰まった時に、全く別のことを考えたり、違うことをするのは理にかなっているのだ。

考え事をしていて、何か苦しくなったら、
「魔界入りしていないか?」と自問自答してみたらよい。そのまま無理に考えても、本当の創造的解決はないだろう。

好奇心はいけないといっているのではないので、悪しからず。足るを知る心がなければ、余計な問題まで背負いこんでしまうのだ。

必要な時に、必要な情報はやってくるものなのだ。

賭けること

どんなに素晴らしい気付きを得ても、清々しく心が解放されても、目に見える環境を変えなければ、また封印される。元に戻る。

今の環境が今の自分を創ってきているからだ。

啓発セミナーで意識が高くやる気になったとしても、結局環境を変えなければ何もできない。

全身マッサージで疲れが取れ爽快になったとしても、結局環境を変えなければ元通り。

大自然を目の前にして自分の小ささを感じ何かを悟ったとしても、結局環境を変えなければ目の前のことしか見えなくなる。

本当に成果を得たいなら、環境を変え、人・物・金・情報を賭けなければならない。

飛躍するには、今の全存在を賭けなくては始まらない。自分が信じる光に賭け、リスクを背負わなければ、人は本気にならない。(逆説的だが、信じるから賭けるというより賭けたから信じざる得ないのだ)

本気にならなければ、結局は既成概念という鎖に縛られ、元の木阿弥である。

あなたはいつ、生きることに対して本気になるのだろうか?
あなたはいつ、自分の人生に対して、真剣になるのだろうか?

「本気になる!」と自分の中だけで決めたのでは何も始まらない。結局本気になれずに終わる。

本気にならなければならない状態に自分をまず追い込むことだ。それにはまず本気になる対象に対して「賭けること」だ。背水の陣がなければ人は本気になれない。

賭けた途端にあなたの世界はとてつもない広がりを見せる。見えなかったものが見えてくる。そして、「なぜ今まであんなものに縛られていたのか!」と不思議に思うくらい心が開放される。

後はやるだけだ!
できるか、できないか、ではない。
やるか、やらないか、だ。
そして、やらない、は無い。

本当は時間などかけなくても、今すぐにでもあなたは開放される。それは瞬間の出来事だ。

映画マトリクスで、モーフィアスはネオにこう言った。
「やろうとするな。出来ると知れ」意訳

世の中はカンニングで成り立っている

今の世の中、新しいモノで満ち溢れていると勘違いしている人が多いが、ほとんどのものは実はカンニングによって成り立っている。

事業だって、本だって、ほとんどのものは何かのパクリだ。著作権などの法律によって、そのスレスレのところで世の中は成り立っているのだ。

学校ではカンニングはいけないと教わるが、実社会においては「うまくカニング」できる人が成功している。これが業というものだ。

成功事例を真似るというのはわかりやすいカンニングだろう。成功法則を求めて、多くの人は本やセミナーに投資しているが、これもカンニングして実を取ろうとするからこそだ。

しかし、そこにあまり意味は無い。
表のテーブルと裏のテーブル」でも述べたように、表だけカンニングしても意味がない。カンニングするなら、表と裏の両方をカンニングしなければならない。

では、究極のカンニングとは何であろうか?
それは、霊長類である人間の霊魂を知ることだ。

相手がどんな霊魂かわかってしまえば、その人間の心を掴むことが出来る。云わば、その人間の裏がわかるということだ。

表は日常会うときの建前も含めた人柄、裏はその人の根本にある本音を越えた霊魂。本人すら、自分の裏を知らない人が多い。無意識、潜在意識の領域だからだ。しかし、実は少し本当は気づいているのに、認めないだけの部分もある。

実際のところ、霊魂を知ってもらった方が、その本人も本当は嬉しいのだ。本当は認めたいのだ。私も霊魂を掴まれたからこそ、自分がわかった人間だ。自分の中にある表と裏。自分のなかにある霊魂。

それをカンニングされ、答案用紙に書かれたら、実際にそれが価値を生み出す。今までは採点もされず、価値もなかったものだ。能力も気づいてなければないのと同じだ。

そのカンニングのなかにこそ、無から有を生み出す錬金術が隠されている。

表のテーブルと裏のテーブル

物事には表と裏がある。
そして、裏のテーブルがあるからこそ、表が活きているのだ。
裏がない表は力を持たない。

政治も祭りも事業も、世の中を動かしてきた全てのことは、表と裏で成り立っている。誰もが知ることができる情報は、表に属する情報だ。誰も簡単に知ることができないからこそ、裏の情報なのだ。

沖縄の問題にしても全て裏ありきのものだ。基地問題にしても、沖縄だけなぜ免税店があるのかにしても、カジノ構想にしても、すべて裏のテーブルで創られたストーリーに乗っ取って、表の人間が動いているだけなのだ。

裏が大きければ大きいほど、表もいきてくる。だから、このブログで裏のことを全部書くことはできないが、少しは書いている。もっと興味があれば実際に沖縄にきて我々の活動に参加してみると良い。

まあ、そこでも最初は表のテーブルしか見えないように創っている。裏のテーブルを見たければ、「本気」になることだ。

「本気」で世の中の裏を見たい!と思うのであれば、見れる。しかし、別にいいや、なら絶対に見ることはできない。世に流される表の情報だけを信じて生きればよい。どちらが良いも悪いもない。

太陽があれば月もある。
男がいれば女もいる。

表の契約があれば、裏の密約もある。

原点があって、今がある。しかし、そのことを忘れたとき本来の意味、機能は消失し、ただの形式と化す。

大木もその下に根という裏があるから、上にのびていける。裏の仕組みを創りだし、表を活かすのが特別な仕事だ。世間に流布している情報に真実はない。

だからこそ、事業などで表の表面的戦略だけを真似ても、どうにもならない。本当に動かしているのは、裏のテーブルなのだから。

全てのことに表と裏がある。そして、両方を知らなければ、なにも始まらない。

本当に環境問題とは、危機的問題なのか?
本当に日本の政治は、政治家が動かしているのか?
本当にこれからの世界はG20で動いていくのか?

信じるか信じないかは自由だが、本当にそうなのだから仕方がない。

男へ

嫌われることを恐れるな。
嫌なことへ向かえ。
思考を捨てろ。
遠くを探すな、足元を掘れ。
のんびりするな。背水の陣を敷け。
褒美は後からやってくるものだ!
すでに褒美をもらった人は、それを捨てろ。
次の人に繋げろ。
自分は何にも捉われずに先に進め。
何にも執着するな。
真っ直ぐ生きてやるぞ!という心だけを忘れるな。

女性の時代だからこそ

女性よ、男を叱れ。
感情で「怒る」のではない。愛で「叱る」のだ。
男を甘やかすな。逃げるやつは徹底的に追い込め。
情を捨てろ。情は自分も相手もダメにする。
愛情を「愛」と「情」に切り離せ。
「情」はただの自己満足だ。そこに大した価値はない。
「愛」をもって男性を見てくれ。
自身が本来持っている男気を思い出せ。
男には男気がないもんだ。
直感で生きろ。
封印を解け。
本当の愛は、厳しさもなければ嘘だ。
これぞと思った人をとことん支えろ。
持ち前の柔軟性でしなやかに変化を受け入れろ。
強くなったら、女らしさを磨け。

自然界の法則

ここでいう「自然界」とは、山や海などという、いわゆる「自然」的な生態系の話ではなく、この世の全ての事象を含めた世界のことである。人間や人間が作り出したモノも自然の一部だ。

普通の世界であろうと、特別な世界であろうと、「物事」というモノは、上手にそれを活用できなかったり、持っている人の器に相応しくなかったり、何かが矛盾していたり、それらを活性化できなかったら、結局淘汰され、なくなってしまう。

そして、その「物事」は、巡り巡って相応しい人に渡るようになっている。それが自然界の法則だ。以前江戸城の話をしたのを覚えているだろうか?

例えば、会社もそうだし、建築物や芸術品などもそうである。個人的資産を例にとってみるとわかりやすい。

個人で資産を所有する人々は、常に「相続税」を気にしている。そして、相続税を取られないように、税金対策に奔走するのである。今ごろ、4月から法律変更ということで、資産相続に大慌てだろう。

しかし、相続税とは「自分の資産を世の為、人の為、社会の為に使うことが出来なかった個人に対するペナルティ」なのである。

つまり、相続税を取られるような人、もしくは相続税対策に奔走している人は、その資産を持つに値しない、その器がない、ということを意味しているだ。

だから、国に没収され、資産を失う。なんとか相続税対策を立て、没収されなかったとしても、その器がないのだから、結局はその資産はあらゆる形で失われ、それを所有するに値する人物のもとへ渡っていく。それが「自然界の法則」である。

だが、普通の世界では、科学で証明できていない法則は一般的には受け入れられないので、自然界の法則は無視されている、もしくは認識されていない。

特別な世界では、その法則があるものとして思考、行動するため、科学を超えた理屈では説明できない出来事が当たり前のように起こるのである。

普通の「物事」は淘汰される。しかし、念は一生残る。人間が本気で込めた念は、実際の物質である。

私が人生で最も尊敬する方の特別室を見せてもらったことがあるが、そこには国宝レベルの陶器や芸術品が置かれている。

それらがなぜ今まで割れていないのか?

2000年前に創られたガラスや陶器がなぜ残っているのか?

2000年前のモノが、2000年間何もなかったのか?
いや、戦争も、盗難も、災害も、何もかも経験し、それでもなお壊れていない。

それは何なのか?価値がわかる相応しい人たちに、相応しい場所に置かれて次々とリレーされてきたから残っているのだ。

またそこに込められた念という物質の影響もある。念が込められているので不思議と守られているだけなのである。そして、その念を持てる器のある人物に自然と渡るようになっている。

私が現在創っている特別な世界は物理法則をも超えている。信じるか、信じないかは踏み入れたものしかわからない。