最小単位で最大効果

革命は3人から始まるという。真剣な人間が3人いれば十分なのだ。キューバ革命でも上陸後12人からのスタートだった。その中でも中心人物は、カストロ、カストロ弟、そしてチェゲバラの3人だった。

何かをしようとするとき、人数や資金など、とかく少ないよりは多い方が素晴らしいと錯覚してしまう。企業においても、規模の拡大追求がこれまで是とされてきた.
確かに、大きいからこそできることはある。しかし、大きいから何でも出来るという訳ではない。むしろこれからは、規模の大きな組織は恐竜のように身動きがとれなくなる。
時代の変化が激しいからである。変化に対応するには大きいと不利なのだ。 我々は、最小の単位で、最大の効果を目指してる。 1万人の真剣でない人間を集めるより、一人の真剣な人間と連帯をくんだ方がよほど価値がある。
大きくなると守らなくてはならないものが増えてくる。小さければいつでも捨て身になれるのだ。失うものがない方が強い。
いざという時、
「家族のことで用事がありいけません」
「お金がないので難しいです」
「仕事の都合で・・・」
などと言い訳を始めるのが普通だ。
突然、「明日からベトナムいくぞ!」といっても、すぐにいける人間じゃないと革命などできるわけがない。
本気ではない人間は、選択を迫ればすぐにそれが透けてくる。我々は選択を迫り、本気でない人間は脱落していく。
来るもの拒まず、去る者を追わず。
しかし去ったものでも、またいつでも受け入れる。
小さくても、まるで核爆弾のような効果を生み出していくのだ。

ヘルタースケルター

人生の最後はどんなシーンだろうか?そのことについて思案すると、私はいつもあるシーンが浮かんでくる。実際に見たことがないのに、多分それは自分の臨終のような感じがする。今回の生でそうなるのか、前世だったのか、よくわからない。

その時、満足して微笑んで死ねれば本望だ。

またそれとは別に、自分には自殺願望といったら変だけど、死をもいとわず何かのために死ぬことに憧れがある。

生のための死。
死のための生。

どんな死を迎えたいか?
どんな生を送りたいか?

生き甲斐のある生。
死にがいのある死。

穏やかな長寿もよいが、今は短くても強烈な印象の死に惹かれる。映画やアニメなどで、そういうシーンに出くわすと無性に切なくなり感動する。

信念があれば、善悪を超えてしまう。

ただそれが独りよがりの自己欺瞞であれば、悲しみしか生み出さないであろう。

原点

自分でも不思議なのだが、飽きっぽい自分がこれほどまでに一つのことに燃え続けていることに改めて気がついた。

沖縄でのことに出会うまでは、何をやっても好奇心が満たされると飽きてしまう。そしてまた、新たな好奇心を満たす何かに取り組むといった連鎖だった。

結局同じことの繰り返しだと気付き、当時の私の口癖は、「何か面白いことないかな。つまらないな」だった。

真剣に人生を賭けて取り組むことが出来ることがあるのはとても幸せなことだ。そしてそれを共に真剣に向かう仲間がいて分かち合うことができる。

それぞれが、言葉にはできなくても、「ここしかないんだ」と感じて人生を賭けてきている。だからこそお互いに緊張感もあるし、馴れ合いのない真剣勝負が出来る。

自分が間違っていないか?欺瞞に陥っていないか?常に自分をかえりみながら向かっていける。

恐怖がなければ感動もない。

安全安心だった当時の自分では燃えることが出来なかった。危険な環境だからこそ、面白いのだ。勿論怖いけど。

でも、かつての自分を思い出すと、煮え切らない、燃えきれない時の辛さよりは全然今のほうがよい。

私が沖縄に関わるキッカケの原点は、沖縄の為に必死に動いている人の姿だった。

今まで会ったどんな人々よりも熱意を感じた。

その熱に自分の心が動いた。

本当に人を動かすのは、論理や利益などではなく、想いの強さ、情熱なんだ。

人は、人の為にしか燃えることは出来ない。そしてそれが自分の為でもある。

魂の喜びを伝えたい。人生は素晴らしい体験だと心から感動したならその瞬間の為にほかのことはどうでもよくなる。

人はその瞬間の為に生きている!

如来の世界

この世には、人の数だけ、人それぞれの概念の世界がある。同じ人間の中にも、いくつかの世界があり、使い分けたりしている。例えば、趣味の世界、仕事の世界といった感じだ。

そうした意識できる世界(表)の他に、意識していない世界(裏)がある。我々が気づかないだけで、重力や太陽といった自然の世界に包まれて生かされているように、人間である以上、誰でも平等に包まれている世界がある。信じようと信じまいと関係はない。

どの世界を中心に意識して生きているかで、見えてくる世界はかわってくる。例えば、恋人のことばかり意識している世界では、政治の世界などどうでもよいだろう。

人によって、見えている世界が違うからこそ、この世は多様性に満ちている。どんな人も必要だ。無駄な人などいない。

私が面白いと思って飛び込んだ世界の一つに、如来の世界がある。如来の世界では、私は菩薩という役割があり、その世界において面白いことがあった。

ある日、如来から
「これから菩薩道のために特別なシーンを用意する」と言われ、行き当たりばったりでないことを証明するために、映画でいえば予告編の話をされた。

そしてそのあと、映画でいえば本編の出来事があった。これだけでもすごいのだが、そのあとその本編に対する解説があった。まるで上質な映画を何本もまとめてみたような感覚。

あまりの意外さと、完全な出来事に衝撃を受けていると、そのあとには自分がそれを体験でき、実行できる機会まで与えてくれた。

映画に感動したら、そのあとその映画に出演したようなものだ。

如来の世界では、進化のスピードが桁違いに早い。起こることすべてに、矛盾がなく、無駄がない。前に書いた「一石三鳥」が普通にあるからだ。

如来の世界は、すべてが用意されている世界だった。そして、これは裏の世界だ。これだから、この世界はやめられない。

最低でも一石三鳥を狙え

我々が普段から意識しているやり方がある。それは一つの行動で、副次的な効果を狙うということだ。

何をするにしても、ただそれをするのと、一石三鳥以上の効果を狙ってするのでは、全くその効果が違ってくる。どちらが発展するのかは言わなくてもわかるだろう。

例えば、一番わかりやすい例が「投資」だろう。ただ投資するのであれば、投資時点で終わり。あとは成功か失敗かしかない。

その先をイメージして、そこがゴールではなく、経過点として意識できるかどうかが重要だ。

最初は「投資はただの手段だ!」と言っていた人が、いつの間にか「投資で儲けることが目的」になってしまっていることは多々ある。

「儲け」を目的にしてしまうと、投資から得られるモノは必然的に限られてくる。儲けなんていうのは、ただの付加価値でしかない。その本当の価値を意識できているかどうかで、その投資のリターンは劇的に変化する。金銭的にマイナスになったとしても、それ以外の本物の価値を得ているので、絶対に失敗することがないのだ。

儲けが目的になってしまっている人は、それこそ価格の上下に一喜一憂し、すぐに魔界入りする。私から言わせれば、そこで成功しても失敗しても、人間的には常に失敗である。

投資することで特別な情報が入るとか、人間関係が広がるとか、その他にも色々な付加価値を求めていれば、副次的な効果は得られるし、それが本質だ。

これは投資に限った話ではない。あなたが行動することすべてにおいて意識することで、あなたの人生が180度変わる効力を持っている。

自分が今から行動しようとしていることには、一体どんな効果があるだろうか?

一つのことだけを目的にしてはいないだろうか。

最低でも、その行動に対して、3つ以上の付加価値がついてくるように最初は意識してみよう。

段々とこれを極めていくと、一つの行動で無限の価値を生み出せるようになる。意識することが大事だ。イメージするのだ。

「最低でも一石三鳥を狙う。」

日常に生きる人にとって、これを意識し続けることがどんなに難しいことか。これは特別な世界のテクニックだから、日常で実行することは、あなたが思っている以上に不可能なのだ。

それは、あなたの能力的に、できる、できないの問題ではなくて、普通の世界ではそれができないように成っているのだ。

だから、このブログで書いても何の支障もない。普通の世界では「できない」のだから。これを実践したいのであれば、特別な世界に踏み込むしかない。

我々はいつでも受け入れる。

魔界入り

人間ならではの特有の働きの一つに「好奇心」がある。

よく一般的に「好奇心を持て!」と言われるが、好奇心は無理に持つものではなく、自然に在るものだ。

しかも、その言葉はポジティブなイメージを持っているが、実は危険でもあるのだ。パンドラの箱のように、好奇心が身を滅ぼすこともある。

勿論、以前書いたように危険だから面白いのだ。しかし、好奇心の特性を理解していないと、下手したら好奇心は、魔界に突き進むエネルギーになる。

エネルギーがある人は特に、どっぷりとハマりやすい。知的興奮のあまり、専門バカになってしまったり、際限のないループにハマることになる。

他にも、浮気の疑惑や、事件の真相など、知りたい衝動を我慢できずに知らなくてもいいことを知り苦しんだり、知ってしまったがゆえに解決から遠ざかることがある。

好奇心を持った事物に対して、知れども知れども、きりがない。終わりがないのだ。そこだけにどんどんハマり、光を失っていく。

また、ハマればハマるほど、そこに問題解決の光はなくなる。もっと別の場所に答えがあったりする。

行き詰まった時に、全く別のことを考えたり、違うことをするのは理にかなっているのだ。

考え事をしていて、何か苦しくなったら、
「魔界入りしていないか?」と自問自答してみたらよい。そのまま無理に考えても、本当の創造的解決はないだろう。

好奇心はいけないといっているのではないので、悪しからず。足るを知る心がなければ、余計な問題まで背負いこんでしまうのだ。

必要な時に、必要な情報はやってくるものなのだ。

賭けること

どんなに素晴らしい気付きを得ても、清々しく心が解放されても、目に見える環境を変えなければ、また封印される。元に戻る。

今の環境が今の自分を創ってきているからだ。

啓発セミナーで意識が高くやる気になったとしても、結局環境を変えなければ何もできない。

全身マッサージで疲れが取れ爽快になったとしても、結局環境を変えなければ元通り。

大自然を目の前にして自分の小ささを感じ何かを悟ったとしても、結局環境を変えなければ目の前のことしか見えなくなる。

本当に成果を得たいなら、環境を変え、人・物・金・情報を賭けなければならない。

飛躍するには、今の全存在を賭けなくては始まらない。自分が信じる光に賭け、リスクを背負わなければ、人は本気にならない。(逆説的だが、信じるから賭けるというより賭けたから信じざる得ないのだ)

本気にならなければ、結局は既成概念という鎖に縛られ、元の木阿弥である。

あなたはいつ、生きることに対して本気になるのだろうか?
あなたはいつ、自分の人生に対して、真剣になるのだろうか?

「本気になる!」と自分の中だけで決めたのでは何も始まらない。結局本気になれずに終わる。

本気にならなければならない状態に自分をまず追い込むことだ。それにはまず本気になる対象に対して「賭けること」だ。背水の陣がなければ人は本気になれない。

賭けた途端にあなたの世界はとてつもない広がりを見せる。見えなかったものが見えてくる。そして、「なぜ今まであんなものに縛られていたのか!」と不思議に思うくらい心が開放される。

後はやるだけだ!
できるか、できないか、ではない。
やるか、やらないか、だ。
そして、やらない、は無い。

本当は時間などかけなくても、今すぐにでもあなたは開放される。それは瞬間の出来事だ。

映画マトリクスで、モーフィアスはネオにこう言った。
「やろうとするな。出来ると知れ」意訳

危険は魅力

危険なモノは面白いし、興味深い。しかしそれには、責任と能力が伴う。

中途半端に関わると、それこそ「死」に直結する。興味本位で関わると身を滅ぼしかねない危険であればあるほど、環境は飛躍するし、有り得ない成果を手にすることに繋がる。核兵器が良い例だ。

では、普通の人の危険とは何か?生命の危機や経済的な危機を想像する人が大半であろう。

しかし本当に危険なのは、それが危険だとそう思わされている、自らの「既成概念」なのだ。その考えこそが人生を無駄にさせる。

あなたは今、何者かによって創られた世界の中にいる。それはいわゆる「社会」と呼ばれるモノであり、または、「会社」という世界を考えてみても良いだろう。

そこには何者かが作った法律や規則があり、それを守らないものは罰せられる。まるで映画「トゥルーマンショー」の主人公のように、すべて創られた世界で生きている。そのなかで暮らしていれば、安心・安全に生活することができる。

そこから抜け出されることが、環境の支配者にとっては危険なことで、あなたにとって一番身近な生死を賭けた危険なのだ。

その安心・安全の世界に生きるならそれもいい。否定も肯定もしない。しかし、そこには夢も希望もない。いや、正確には夢も希望も持つことはできるが、それを実現することはできない。

夢と希望を本気で実現させたいのであれば、危険に身を投じるしかない。危険は本来魅力的なものだ。そこには、真逆の光がある。

危険であればあるほど、それをチャンスに変えることができたときのリターンは大きい。そして、危険であればあるほど、自分は「生きている!」という実感が持てるのだ。

今の時代、光を掴みたければ、危険に向かえ!

危険と思わされているにすぎないのだから。だが、時代の変わり目に、思考することも行動することもできず、いつまでも既成概念に捉われているあなた自身がいる。

自分が苦しんでいるのを自分自身で気づいていない。これこそが一番の危険だ。

危険は自覚が伴わなければチャンスに変えることはできない。そこには魅力もなにもない。

長生きしたい?一瞬の生もない長生きに満足はない。

経済的に不安?不安を感じるのは余裕がある証拠。必死であれば不安もクソもない。ただやるだけだ。戦後の物不足の中のほうが、人々は生きている実感を得ていたのではないか?

今自分がいる環境の危機を感じ取って、それをチャンスに変えていこう。

今自分がいる環境が安心・安全であるならば、すぐにそこを抜け出して、危険な場所に身を投げ出そう。

そのときにあなたは自分が「生きる」という真理に気が付くはずだ。

世の中はカンニングで成り立っている

今の世の中、新しいモノで満ち溢れていると勘違いしている人が多いが、ほとんどのものは実はカンニングによって成り立っている。

事業だって、本だって、ほとんどのものは何かのパクリだ。著作権などの法律によって、そのスレスレのところで世の中は成り立っているのだ。

学校ではカンニングはいけないと教わるが、実社会においては「うまくカニング」できる人が成功している。これが業というものだ。

成功事例を真似るというのはわかりやすいカンニングだろう。成功法則を求めて、多くの人は本やセミナーに投資しているが、これもカンニングして実を取ろうとするからこそだ。

しかし、そこにあまり意味は無い。
表のテーブルと裏のテーブル」でも述べたように、表だけカンニングしても意味がない。カンニングするなら、表と裏の両方をカンニングしなければならない。

では、究極のカンニングとは何であろうか?
それは、霊長類である人間の霊魂を知ることだ。

相手がどんな霊魂かわかってしまえば、その人間の心を掴むことが出来る。云わば、その人間の裏がわかるということだ。

表は日常会うときの建前も含めた人柄、裏はその人の根本にある本音を越えた霊魂。本人すら、自分の裏を知らない人が多い。無意識、潜在意識の領域だからだ。しかし、実は少し本当は気づいているのに、認めないだけの部分もある。

実際のところ、霊魂を知ってもらった方が、その本人も本当は嬉しいのだ。本当は認めたいのだ。私も霊魂を掴まれたからこそ、自分がわかった人間だ。自分の中にある表と裏。自分のなかにある霊魂。

それをカンニングされ、答案用紙に書かれたら、実際にそれが価値を生み出す。今までは採点もされず、価値もなかったものだ。能力も気づいてなければないのと同じだ。

そのカンニングのなかにこそ、無から有を生み出す錬金術が隠されている。

表のテーブルと裏のテーブル

物事には表と裏がある。
そして、裏のテーブルがあるからこそ、表が活きているのだ。
裏がない表は力を持たない。

政治も祭りも事業も、世の中を動かしてきた全てのことは、表と裏で成り立っている。誰もが知ることができる情報は、表に属する情報だ。誰も簡単に知ることができないからこそ、裏の情報なのだ。

沖縄の問題にしても全て裏ありきのものだ。基地問題にしても、沖縄だけなぜ免税店があるのかにしても、カジノ構想にしても、すべて裏のテーブルで創られたストーリーに乗っ取って、表の人間が動いているだけなのだ。

裏が大きければ大きいほど、表もいきてくる。だから、このブログで裏のことを全部書くことはできないが、少しは書いている。もっと興味があれば実際に沖縄にきて我々の活動に参加してみると良い。

まあ、そこでも最初は表のテーブルしか見えないように創っている。裏のテーブルを見たければ、「本気」になることだ。

「本気」で世の中の裏を見たい!と思うのであれば、見れる。しかし、別にいいや、なら絶対に見ることはできない。世に流される表の情報だけを信じて生きればよい。どちらが良いも悪いもない。

太陽があれば月もある。
男がいれば女もいる。

表の契約があれば、裏の密約もある。

原点があって、今がある。しかし、そのことを忘れたとき本来の意味、機能は消失し、ただの形式と化す。

大木もその下に根という裏があるから、上にのびていける。裏の仕組みを創りだし、表を活かすのが特別な仕事だ。世間に流布している情報に真実はない。

だからこそ、事業などで表の表面的戦略だけを真似ても、どうにもならない。本当に動かしているのは、裏のテーブルなのだから。

全てのことに表と裏がある。そして、両方を知らなければ、なにも始まらない。

本当に環境問題とは、危機的問題なのか?
本当に日本の政治は、政治家が動かしているのか?
本当にこれからの世界はG20で動いていくのか?

信じるか信じないかは自由だが、本当にそうなのだから仕方がない。

The way of every day and a bodhisattva