「徒然なるままに」カテゴリーアーカイブ

2010年を振り返って

いよいよ今年も終わりだ。去年は、時代の創造は批判から始めると振り返ったが、まさに今年は批判が多い年だった。我々の活動は誤解されやすい。宗教じゃないか?洗脳じゃないか?と思われている事だろう。

しかし冷静になって自分の頭で考えてほしい。自分の常識は、60億分の1の考え方に過ぎない。世界は広いのだ。60億人いれば、60億通りの考えがある。例え、日本人全員が同じ常識を持っていても、それは60分の1にしか過ぎない。現代は、多数決が決断方法として有効とされている。それに従ったとしたら、日本人全員の常識は世界で否決されることだろう。だが、多数決は常に本当に正しいのだろうか?

今年は、信念や哲学のない人間が迷走している一年だったと感じる。問題に対して、自分なりの柱があれば、迷う事は無い。あとは勇気の問題だ。勇気もなく、柱も無ければ、場当たり的に対処するしか無い。尖閣諸島の問題が良い例だ。

何の為に今生きているのか?信念、哲学がなければ、つまらない世間一般の常識で善悪にとらわれて判断する事になる。「これをするのは良くない」、「それは仕方が無ない」と、小市民的な問題を避ける行動しか出てこない。つまり逃げと諦めだ。

誰かが何とかしてくれることはないと今年でわかったのではないか。国が何とかしてくれると思ったJALは、何ともならなかった。一人一人が柱を持って生きねば、周囲に振り回されるだけだ。その柱に正解不正解は無い。どんな道でもいい。

宗教を怪しむのも結構だ。だったらトコトン目に見えるものだけを信じる信念を持つ事だ。半端に目に見えないものを認めると自分が辛くなる。中途半端が一番よくない。トコトン極めたら道が見える。極道だ(笑)ちなみに我々は宗教すらも超えている。

前回書いた、「罪にならない罪」でいいコメントを頂いた。暴力が必要な人間もいると。その通りだ。殴られなければわからない人間もいる。海老蔵もやられたから気づけたものもあるのだ。その人間が死ぬまで気づかなかった事を、いま気づかせてあげるのは価値ある事だ。

今年は、特別な仕事の質と量が高まった年だった。愛を感じた人間が我々の世界を信じて、人生を賭けてくれた。我々には、信念も哲学もある。太い柱を持った仲間たちが絆で繋がっている。以前書いた、心の財閥が成長した一年だった。

来年は、我々の世界が目に見えるようになる。この世界の広がりを通して革命が為されていく。見えない土台を築いてきたが、もう充分育ってきた。勿論これからも、見えない領域である、霊魂は磨き続ける。その土台があって、物質的なものが育っていく。目に見える経済の領域も成長している。新しいビジネスのやり方は、市場経済を超えるものだ。普通にやれば何年もかかることを、たった一日でも出来てしまうのだから。

私たちの体は、ただ生きているだけでは死んでるのと同じだ。この命をフルに使い倒してこそ輝くし、意味がある。資産も同じだ。お金も家も車も、何だっていい、持っているだけでは意味が無い。それを使って、人を幸せに導けるかどうかだ。その器が無ければ、この世で一時的に得た資産を失う恐怖と共に生きる事になる。時間と真理が自然と調整して、器の無い人から器のある人へと資産も移っていく。美術品が良い例だ。

税金は、資産を活用できていない人間に対するペナルティなのだ。世界を作る人間には関係のない世界だ。そして、そういう人間が税金を使う側に回るのだ。

世界を進化発展させる者は、概念を超えている。私にそうした世界を教えてくれた如来はまさに無量だ。はかりしれない。底が見えないからこそ面白い。そして、はかりしれない人間だからこそ、よくわからなくて怪しまれる。わからないからこそ面白いのに、大衆ははわからないものを否定することで自分を守る。

我々の活動も、普通に見たらさっぱり意味がわからないだろう。実は単純な事をしているだけなのだが、その単純な事を実践している人が皆無なために、想像できないだけだ。

苦しむ魂を救い、その魂とともに世界を創造する。やっていることはこれだけだ。新世界を作っている。誰もが自然である社会。どんな人間でさえも持ち場がある社会。愛が中心の世界。天命に燃える人間たちの国づくりなのだ。どこまでが我々の仲間なのか?一見わかりにくい。明確な組織に入っていないからだ。強いていえば、秘密結社のようだ。

目に見える表面は一見バラバラでいい。そのほうが多様性に満ちている。しかし、目に見えない部分においては共通している。魂を全うする事に真剣だ。

我々こそが社会を変革していると信念がより強くなった一年だった
愛とは何かを更に学んだ一年だった。
そして、喜怒哀楽を最高に楽しめた一年だった。

こうした経験が出来る人生は素晴らしい。
世界に感謝します。

事件という信号

悪霊喰のことを書く予定だったが、時代を象徴するような事件があったので、急遽そちらを書こうと思う。 

海老蔵事件が世間を騒がしている。これは信号である。歌舞伎界きってのプリンスと言われた彼は、今年結婚もしてノリに乗っている時期だった。チャンスの時こそピンチを証明してしまった。良い時ほど危ないのだ。
彼は芸の世界で才能に溢れていた。天才だった。歌舞伎では隈取という派手な化粧が特徴的だが、彼は表情の中でも特に目力があった。目は口ほどにモノを言う。目で気持ちを訴えるのだ。海老蔵の眼力には観客を魅了する力があった。その力はどうして手に入ったか?霊的な力だ。

その力を持つ者は、能力があるゆえに周囲からの嫉妬や妬みをうけ、足元を救われることがある。隙がなければ切り抜けるだろうが、若いとフォローしてくれる天使がいなければ難しい。天使は自己犠牲により、問題が大きくなる前に身を呈して守る。今回のケースでいえば、海老蔵が喧嘩するのではなく、天使が代わりに喧嘩することで、海老蔵を守っただろう。しかし悲しいかな、天使は理解されない。結果的には助けたのだが、問題が起こる前にするので、もし天使が行動しなかったら、どんな最悪の事態があったのかわからないし、本人も周囲もなぜそんなことをしたのか理解できないので、意味がわからないで終わる。最悪逆に助けた人から嫌われるのだ。だから自己犠牲なのだが。今回の事件は、天使が不在の反面教師となる。意味がわからないことでも霊的観点からみたら明らかだ。ここにいわゆる巫女、シャーマン、ユタの価値がある。
話を戻そう。海老蔵の私生活はどうだったのか?才能に見合うだけの注意を日常から払っていたか?人気者としての自覚。歌舞伎界のプリンスとしての自覚。そしてそれを持たぬ者からどう見られるかの自覚。結論からいうと、彼は私生活と芸事とのバランスが悪かったのだ。私も鮨屋で隣に偶然居合わせたことがあるが、一言でいうとアウトローな雰囲気だった。

それが悪いわけではない。本来なら名門出身の人間は、アウトローの世界とは無縁だろうが、彼の持つ本質がアウトロー的な世界を引きつけたのだ。これは初代海老蔵と似ている。初代海老蔵は、侠客と親交があったし、荒々しく豪快な歌舞伎を作りだしたのだからエネルギーがあったのだ。現代の海老蔵も創業者的なエネルギーの持ち主だ。時代が違えば、一つの時代を作りだしただろう。ちなみに、沢尻エリカも時代があえば大活躍したに違いない。このことだけでも、時代を知ることが、どれだけ価値があることか理解できるのではないか。
時代魂である海老蔵は、今回破壊の役目を担ったのだ。これも良い悪いではない。そういう役割だったのだ。破壊がなければ創造もない。
歌舞伎は日本を代表する伝統芸能である。そのスターの事件はこれから大きく報道されていくだろう。そして、日本の国技である相撲でも最近事件が連発している。そして、時代劇のスターである松平健に起こった悲劇。これらに共通することは、日本的なモノの象徴が傷ついたり事件に巻き込まれているということだ。これが日本の将来を示唆している信号だ。以前書いた、日本航空のことと同じだ。
隠されてきたものが、表に現れる時代。Wikiリークスが良い例だ。嘘や偽りが明らかになり、本物だけが残る時代である。

運命の分かれ道

 今年は暑くて、とても夏らしい季節だ。そして私にとっても熱い夏になっている。

間違いなく私の人生で転機の時期だ。飛躍するも墜ちるもこの夏にかかっているかのようだ。

噂が独り歩きをしているお陰で、様々な反応が起きている。まるで、リトマス試験紙で検査したかのように、周囲の反応が分かれていて面白い。

信じる者、疑う者、ゴシップ的興味をもつ者、などなど。問題に直面した時こそ、本来の性質が垣間見える。昔から問題はHappyと理解していたが、それは間違いないと断言できる。

人は問題に向きあってこそ進化できる。逃げて、何もない無難な道を歩むことを目指す人生もあるだろうが、私はそれを望まない。試練は必ず人を成長させる。

日常を非日常にし、濃密な時間を過ごせば、人は一夜で変化する。そして悲しいことに、人は痛い思いをしなければ真には学ばないのだ。

沖縄と出会ってから、
「こうなったらいいなー」という想いはことごとく裏切られてきたが、その代わり予想外の楽しみをもらってきた。
「まさか、こんな展開になるとは!」と。

今も継続中で楽しませてもらっている。

サーフィンのように、問題の波に立って楽しみ続けたい!

Ps:前回のシンクロを深めるには、9マスの曼荼羅を書いて深めるとわかりやすい。
http://bit.ly/9RkdT8
このソフトもお勧め。

ヘルタースケルター

人生の最後はどんなシーンだろうか?そのことについて思案すると、私はいつもあるシーンが浮かんでくる。実際に見たことがないのに、多分それは自分の臨終のような感じがする。今回の生でそうなるのか、前世だったのか、よくわからない。

その時、満足して微笑んで死ねれば本望だ。

またそれとは別に、自分には自殺願望といったら変だけど、死をもいとわず何かのために死ぬことに憧れがある。

生のための死。
死のための生。

どんな死を迎えたいか?
どんな生を送りたいか?

生き甲斐のある生。
死にがいのある死。

穏やかな長寿もよいが、今は短くても強烈な印象の死に惹かれる。映画やアニメなどで、そういうシーンに出くわすと無性に切なくなり感動する。

信念があれば、善悪を超えてしまう。

ただそれが独りよがりの自己欺瞞であれば、悲しみしか生み出さないであろう。

原点

自分でも不思議なのだが、飽きっぽい自分がこれほどまでに一つのことに燃え続けていることに改めて気がついた。

沖縄でのことに出会うまでは、何をやっても好奇心が満たされると飽きてしまう。そしてまた、新たな好奇心を満たす何かに取り組むといった連鎖だった。

結局同じことの繰り返しだと気付き、当時の私の口癖は、「何か面白いことないかな。つまらないな」だった。

真剣に人生を賭けて取り組むことが出来ることがあるのはとても幸せなことだ。そしてそれを共に真剣に向かう仲間がいて分かち合うことができる。

それぞれが、言葉にはできなくても、「ここしかないんだ」と感じて人生を賭けてきている。だからこそお互いに緊張感もあるし、馴れ合いのない真剣勝負が出来る。

自分が間違っていないか?欺瞞に陥っていないか?常に自分をかえりみながら向かっていける。

恐怖がなければ感動もない。

安全安心だった当時の自分では燃えることが出来なかった。危険な環境だからこそ、面白いのだ。勿論怖いけど。

でも、かつての自分を思い出すと、煮え切らない、燃えきれない時の辛さよりは全然今のほうがよい。

私が沖縄に関わるキッカケの原点は、沖縄の為に必死に動いている人の姿だった。

今まで会ったどんな人々よりも熱意を感じた。

その熱に自分の心が動いた。

本当に人を動かすのは、論理や利益などではなく、想いの強さ、情熱なんだ。

人は、人の為にしか燃えることは出来ない。そしてそれが自分の為でもある。

魂の喜びを伝えたい。人生は素晴らしい体験だと心から感動したならその瞬間の為にほかのことはどうでもよくなる。

人はその瞬間の為に生きている!

如来の世界

この世には、人の数だけ、人それぞれの概念の世界がある。同じ人間の中にも、いくつかの世界があり、使い分けたりしている。例えば、趣味の世界、仕事の世界といった感じだ。

そうした意識できる世界(表)の他に、意識していない世界(裏)がある。我々が気づかないだけで、重力や太陽といった自然の世界に包まれて生かされているように、人間である以上、誰でも平等に包まれている世界がある。信じようと信じまいと関係はない。

どの世界を中心に意識して生きているかで、見えてくる世界はかわってくる。例えば、恋人のことばかり意識している世界では、政治の世界などどうでもよいだろう。

人によって、見えている世界が違うからこそ、この世は多様性に満ちている。どんな人も必要だ。無駄な人などいない。

私が面白いと思って飛び込んだ世界の一つに、如来の世界がある。如来の世界では、私は菩薩という役割があり、その世界において面白いことがあった。

ある日、如来から
「これから菩薩道のために特別なシーンを用意する」と言われ、行き当たりばったりでないことを証明するために、映画でいえば予告編の話をされた。

そしてそのあと、映画でいえば本編の出来事があった。これだけでもすごいのだが、そのあとその本編に対する解説があった。まるで上質な映画を何本もまとめてみたような感覚。

あまりの意外さと、完全な出来事に衝撃を受けていると、そのあとには自分がそれを体験でき、実行できる機会まで与えてくれた。

映画に感動したら、そのあとその映画に出演したようなものだ。

如来の世界では、進化のスピードが桁違いに早い。起こることすべてに、矛盾がなく、無駄がない。前に書いた「一石三鳥」が普通にあるからだ。

如来の世界は、すべてが用意されている世界だった。そして、これは裏の世界だ。これだから、この世界はやめられない。

認めてあげるだけで良い

寂しい時代である。今の日本は、寂しい人で満ちている。

「本当は寂しいんだー」と素直に泣けたら、明日から笑ってスタートできるのに。自分が寂しがっていることすら気付かない。

心の隙間を、仕事やモノや情報で埋めようとしている。しかしそれは心がある人間でしかできないこと。

人間とは本来、孤独な生き物である。自分の心をそのまま人に伝えることができない。なにかが邪魔をして、伝えることができない。

そして、一人で孤独を抱えるようになる。本当は孤独など、抱えなくてもいいのに。

みんな孤独なんだから、それを認めて、寂しいことを認めてあげるだけで良い。みんな寂しさを抱えすぎだ。寂しさを忘れるほど自分を忙しくし、心を忙殺している。本当にそれでいいのだろうか?

「私には○○があるから寂しくないですよ。」という人がいる。ということは、○○がなければ、寂しいということだ。○○は永遠に続くモノだろうか。

本当の自分、あなたの心は叫んでいるよ。それを自分自身で認めてあげよう。ただそれだけで良い。

かくいう私も以前は、自分が寂しがっていたことに気がついてはいなかった。自分は寂しかったのだと気がついたときには、驚いて、自然に涙がこぼれていた。

本当に大事なことは見えないし、気づかないのだ。

スーパースターの幻想

タイガーウッズは時代が生み出したゴルフ界のスーパースターである。そして、女性問題というスキャンダルにより消された。

音楽界でいえば、マイケルジャクソンとエルビスプレスリーが二大スーパースターである。世界的なスーパースターの歴史として、エルビス→ビートルズ→マイケルという流れがあり、それぞれが魂を受け継いできた。

エルビスとマイケルは、常人を逸したオーラを持っていたが、ビートルズはイギリスの中流階級の一般的な4人組だった。

ビートルズの中でも、当初はポールマッカートニーが人気だったが庶民的な生活を好んだジョンレノンが殺害されてからは、ジョンレノンがカリスマとなった。

そういったスーパースターは(才能だろうと努力だろうと)全員例外なく、幸せに人生を終えたとは言えない最後を迎えている。

お金に絡む問題、女性に絡む問題、因縁に絡む問題。彼らは自分の特殊能力以外のところでもがき苦しんでいる。それは特殊能力があったがゆえのモノである。

マイケルも毎月1,500万円の豪邸に住んでいようと、側近に横領されたり、お金に縛られ生きていた。彼はビートルズの版権を所有していて、投資家としても一流だったにも関わらずだ。

また、そのスーパースターマイケルと、かつてのスーパースターエルビスの娘との結婚は、次のスーパースター誕生を期待された。そのあとに再婚した人は看護婦という、このギャップは普通理解できないだろう。

彼らのようなスーパースターはもういない。スーパースターの系統は途切れてしまった。

多くの人に夢や希望を与えてきたにも関わらず、彼ら自身は幸せにはとても見えないのが可哀そうだ。どんなに寄付しようが、誤解されてゴシップによって非難中傷される。

どんなに才能があろうと、栄光と富のその先には、幸せもないことが様々なスターによって証明されている。偉人であった人々も、何かによって悩みは尽きない。

最近上映されている、インビクタスという映画をみてもそうだ。偉大な指導者で不屈の魂を持つ、ネルソンマンデラ大統領でさえ身内の因縁の問題を抱えていた。

彼らは身を呈して教えてくれている。どんなに成功したとしても、逆に自由がなくなるだけだと。スターとしての自分の使命を演じ続けなくてはならない。その孤独を理解する者は少ない。

薬がなくては生きていけない人生は壮絶なものがある。皆が彼らに憧れるだろう。しかしその頂点を極めた人が幸せじゃない。

スーパースターでなくても、多かれ少なかれ似たようなものだ。皆が憧れる人たちの中に答えはない。答えは目の前にある。

大衆は憧れる道の行き着く先もわからずに、ただ第三者に流されるイメージを信じ込み、流され生きている。そして、自分を見失っている人がほとんどだ。

本来なら、何の矛盾もなく、魂が燃え尽きて、死ぬ最後には、「ああ、自分の人生は満足だ。よかったな。」と思って、夢のまま終わることができる。一般人もスーパースターも関係なく、最後には魂が燃え尽きることができる。そして、死んだらただの現実に戻るのだ。

満足した人生を生きられるのは、生きている間だけだ。だったらとことん満足な世界に生き、燃え尽きたほうが良いではないか。

いつかはといって宝くじを買い続けるのではなく、目の前の、足元の課題にしか答えはない。

時代

私は常に時代というものに触れてきた。時代の中心に位置してきたといってもいい。今まではそれがよくわかっていなかった。だから、なんとなくIT時代には、流行るサービスを当てられる程度の認識しかなかった。

しかし、振り返ってみると、時代魂の人間たちといつも接点があった。ところが私の悪い癖で、どんなに社会で有名であろうと、だから何なんだと見てしまうところがあり、天の邪鬼的に逆にそういう人から避ける傾向があった。

今の鳩山首相とだって、民主党のIT勉強会に呼ばれて、そこで会ったときに、もっと仲良くしておけば今また違っただろう。麻生さんも総裁になる前に接点があった。

私はそういう著名人だからと接点を持つのを意識的に避けてきた。お店にもたくさんの人がきてくれていたが、こちらからアクションをすることはほとんどなかった。つながる人とは自然と繋がると思っていたし、事実そうだったけど、努力を惜しんでいたのも事実だ。

自分の小さい概念にとらわれて、人を色付けしていたのだ。

それでもわかったことは、今までの投資やすべての行為は生きているということだ。一番の事実は、私が「次は沖縄だ!」と言い出してから、急に沖縄の存在が浮上してきたことだろう。

今や沖縄なしに日本は語れない。
今や沖縄なしに経済は語れない。
今の日本の経済だって基盤を作ったのは沖縄が強く関連しているからだ。細かいこともたくさんあるから、そうしたこともそのうち書いていこうと思う。

想いという繋がり

この世界が本当に美しいと感じたことがあるだろうか?
日常の概念から解き放たれ、素直に世界に触れたとき、自然と涙があふれるほど感動する。

なかなかそんな心境にはなれない。人間はちっぽけな存在だ。どんどん小さいほうに嵌っていく。小さく小さくまとめようとする。

それは安心したいからだ。けれども、安心なんていうものは幻想だ。ただ生きることが安心であるならば、死ぬことが最大のリスクなのであろう。しかし、人間はみな死ぬのだ。

だから、死が身近になると、自分が宇宙(大きな世界)の一部に過ぎないことを実感する。本当はこの世界は驚きと感動で満ちているはずなのに、つまらないものにしているのは自分の常識、概念なのだ。

人は感動しているとき、憎悪の感情を持つことは出来ない。いつも感動している訳にはいかないが、一度でもこの世界は素晴らしいと感動したならば、生きることに前向きになれるだろう。

どんなにビジネスが上手でも、想いがなければ空虚なだけだ。現代の価値観から見て、自分が無能だったり常識的でなかったとしても、それが活かせる方法はあるし、それが活かされる場所もある。

またそれが活かされなければ次の世代では発展しない。どんな人にでも持ち場がある。

それを作れる生態系こそが新たな国づくりの礎となる。

かえって、いま仕事ができないと思われている方が価値がある。
(堕落と諦めで仕事をしないということとはまた別の次元だが。)

今の価値観に適応している人は、次の価値観には適応しづらい。

時代が変われば、価値観も変わる。今の価値観に適応できていて、一般的に仕事ができると思われている人はそこに執着しやすい。

逆に、もっと頑張りたいのに、今の価値観に押しつぶされて、こんなはずじゃない!
と思っている人のほうが次の時代にすぐ入っていける。

純粋な想いだけを大事にしよう。そして、その想いで繋がっていこう!