真理の探究
この菩薩Blogの読者の方はわかるだろうが、真剣に人生の意味を求めて生きる人間は少ない。
本当はどんな人間だって、このBlogに書いているようなことには興味があるのだが、金儲けのほうが楽だからついついそちらに走ってしまう。100年経てば忘れ去られているようなことに一喜一憂し、貴重な体験を逃している。勿論、長い目で見れば各自必要な体験であり、そこに優劣があるわけではない。
自らの人生に終わりが見えた時、一体何が価値のあることで、何が価値のないことなのか?自分にとっての価値観が非常にはっきりしてくる。酸いも甘いも経験し、日常という体験をした後に感じる真理は表現することが難しい。
人生の真理に近づけば近づくほど、何も表現できなくなってくる。例えば「別れ」という現象を考えてみよう。若いころは単純に、悲しいとか怒りとか、わかりやすい形で表現できるだろう。しかし、その別れの真実を、多様な視点でその体験を見られるようになった時、単純に悲しいと一言でいうことが出来なくなってくる。
悲しいと言えば悲しいが、別れを選択せざるを得ない背景まで視点が及ぶようになれば、当然のことと感じる。と同時に、それがわかってしまうと切ないという気持ちもでてくる。だからといって、事前に察知し別れを防ぐようにしたらよかったのか?というとそれもまた正解なのだが、別れという体験をした方がお互いにとって価値あることもわかるので、また何とも言えないのだ。
そのときの気持ちといったら、すべての感情が混ざり合ったような何ともいえないのだ。抽象的な説明になってしまい申し訳がない。説明できないものを説明しようとすると、「矛盾」という言葉が最適だろう。人間は矛盾の中に生きている。生きていると同時に死に向かっている。愛したいし、愛されたい。理解してほしいし、理解されたくないといった具合だ。
求めているのに、求めていない。それを求めるように仕向けるのが、本当の仕事だと以前に書いた。それが菩薩の仕事でもある。
この世の仕組みを知りたいと興味をかきたてられた時、先人の中で同じような願いを欲し、悪戦苦闘の末に到達した人間が、その叡智を求めている人間に伝えたいと残されたモノと出会うことができる。
そのモノとは、書物の形をしていたり、アートであったり、映画であったりと多種多様である。求めている人間には伝わるようになっている。同じ言葉に触れても、時期によって理解が異なる。自らが深くなれば、より深く理解できるようになる。
自分が理解できないからといって、そのモノの価値は変わりはしない。
今回コメント頂いた方はさすがだなと感心した。言葉にしないまでも感じている方はもっといる。
「エクソシスト」「天使と悪魔」「フィリップ、きみを愛してる」「マトリクス」「セブン」上がった映画はどれも興味深いものだ。
是非鑑賞してみてほしい。そして感想をコメント頂けたら幸いだ。正解不正解はない。感じたものが正解だ。多くの同志のために共有する勇気を出して頂けると嬉しい。与えるものは与えられるのだから。
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