魂の修行方法
魂の修行と一言で言うが、それはどうしたら良いのかと聞かれた。
分かりやすくするために、具体例をあげよう。先日こんな話があった。
ある社長が部下に対して仕事上で不満があった。まぁどこの会社でも不満がない上司はいないだろう。そして、大抵上司のほうが実績経験があるので、上司のほうが結果が出る見方をできることが多い。指摘が誰の目から見ても正しければ、なおの事怒るか諭すか教えるだろう。
当たり前の話だ。言わなければ伝わらないし、絶対に外してはならないこともある。しかし、大抵の問題は上司が頑張ればフォローできるようなことだろう。フォローするのは面倒だ。思い切り失敗させて、本人に経験を積ませるよりは、事前にあれこれ伝えて上手くいかせて結果をださせたほうが上司のためにもなる。部下が成長するなんて悠長なことをいっていられないのが大多数だ。自分で気がつくまで待っていることが出来る上司はそうはいない。
今、相手に言うべきか言わざるべきか、真剣に相手を見て判断している人は少ない。上司であれば、言いたいことを我慢する忍耐も修行になる。そして、部下を背負っている覚悟があるならば、部下を守り共にプレッシャーと戦うことが人に向かう修行になる。社長なら株主に。部長なら役員に。
下に向かうより、上に向かうのが修行だ。下に向かうのはたやすい。部下に文句をいう方が、上司に文句をいうより簡単だ。でも、楽をすれば学びはない。部下をかばって上司に向かうから、大変だし学びがある。
弱い相手より、強い相手に向かうことだ。弱い相手に対しては、弱点などを指摘をしやすいものだ。強者に対しては、指摘するのはかなり難しいだろう。「実績出してからな」とか、「まだ経験がないからな」とか言われてしまえば、その通りだけに言いづらい。
だからこそ、頑張らなければならないから好都合なのだ。自分から向かっていく人間しか何かを掴むことはない。
苦手な相手こそ向かうべき相手だ。嫌だなと避けたくなる相手に向かうときは、胃が痛くなったり、憂鬱になったりする。しかし、一度覚悟を決めて、向かってしまえば終わったあとにはスッキリする。達成感や満足感がある。
得意な相手、むしろ向かいたい相手に向かっても、学びは少ない。
胃が痛くなるのはいい信号だ。それに向かえということだ。しかしただ向かえばいいというわけではない。それは無謀なだけだ。無駄死してしまっては元も子もない。自分が苦手だと思った相手を得意としている仲間に作戦を考えてもらえばいい。
自分以外の力を借りるチャンスでもあるのだ。キッカケがなければ相談することもできない。問題があるから相談ができるのだ。それを活かして深まっていけばいい。
嫌な相手ほど、愛をかけてあげたくないものだ。こちらも嫌な対応をしてしまいがちになる。無理に愛をかける必要はない。嫌な相手でも普通に接するだけでも向かっていることになる。気持ちが逃げていなければ、それは向かっているのと同じだ。
逃げたいこと、嫌なことから、逃げずに立ち止まってみる。消極的でもいい。まずは立ち止まり見つめることからしたらいい。忍耐も修行の一つである。
何かのヒントになれば幸いだ。
8 comments