あえてすることの意味
アレルギー治療についてのテレビ番組を見た。アレルギーを治すために、あえてアレルギー物質をとると。この「あえて」という言葉は、自分たちの世界では流行語である。
何でもそうだが、分かり難いと誤解が生まれやすい。人はわかりやすいのを求める一方で、その裏表で、分かり難さも求めている。どちらもある。わからなければ、不安がうまれる一方で、わからないからこそ希望もうまれる。
分かり難いからこそ、分かった時の喜びも大きい。
「実はそうだったのか!」と思いも寄らない結末であればあるほど、魂は喜ぶ。その結末をどこに持っていくか?すぐネタバレしてしまうのか、死ぬ間際にわかる壮大なドラマになるか?いずれにせよ、どんな人間も終わり良ければ全て良しとなる。
自分と同じような考え方をしている者同士であると、意外だ!とか分かり難い、ということはあまりない。大体こう考えているのだろうなと想像できてしまうからだ。全然違う考え方をしている人間と出会ったならば、恐怖と不安のほうが大きくなるのが大衆だ。
違うものを受け入れようとするよりも、拒否し排除しようする傾向にあるのが人間だ。歴史を見ると、異質なものを受け入れる文化は発展するが、拒否・排除しようとする文化は廃れていくのがわかる。
しかし、自分にとって異質なモノ、嫌いなモノを受け入れることはそう簡単ではないのも事実だ。頭ではわかっていても、実践は難しい。
ある人が嫌だ、苦手だと感じていることがあるとする。男性が苦手だとか、宗教的なものが嫌いとか、他人から変な目で見られたくないとか、何でもいいのだが、その嫌だという原因が過去のトラウマなどにあったとしよう。当然、自分自身はそういうことが嫌なのだから、男性や宗教的なモノゴト、他人から変と思われる行為、などを避けるだろう。
目の前の人間が嫌がっているのを情(じょう・なさけ)でみれば、かわいそうとなる。トラウマを抱えているのだから、かわいそう、だから守ってあげようとか、慰めてあげようとなる。ではそれで本当に問題が解決するだろうか?
イヤも嫌も好きのうちというが、本人がいくら認めないとしても、嫌いな反面、絶対に嫌いなことに興味が有るのだ。表と裏である。愛憎が表裏一体のように、嫌いなこと・苦手なことにはヒントが隠されている。そこに向かうことが自分を知るヒントなのだが、自分でそこに向かう人間はほとんどいない。
情をかけてしまうと、本人の進化をストップさせているという見方もできるのだ。ストップさせることができるのだから、逆に進ませることもできる。真に相手のことを思うならばこそ、自分が嫌われることを恐れず、相手がトラウマに向かうような助けをするのが愛だ。愛情というが、愛と情はハッキリと違う。究極の愛は、相手の嫌だと思っている存在に自分がなってしまうことだ。
相手が嫌だと感じていることをするのは心が痛いかもしれない。その痛みは表面上の相手の痛みを見ているのか?もしくは嫌われたくないというエゴの痛みなのか?相手からしてみたら、嫌な事をしてくる相手として、誤解して嫌ってしまうことのほうが多いだろう。愛が深ければ深いほど、すぐ相手に気がつくものではないから、どうしてもそこに時差はでる。でもいつかは伝わる。相手からの誤解を恐れず、その人のために必要なことをしてくれる存在こそが本当に愛のある人間だ。
そういう人間は説明もしないから、余計に分かり難いし、誤解をされるのだ。なぜ説明しないのかと言ったら、聞かれないからだ。聞かれたとしても、その返答は臨機応変だろう。説明しても説明しなくてもいい。だが、聞く方はわからない人間だからこそ、いまその環境にいるのだ。それに尽きる。わかる人間は、説明しなくてもわかるのだ。
一歩間違うと、愛のある人も、単なるレベルの低い嫌がらせをしている人間に見えなくはない。また、こうした視点を悪用して、自分の利益を追求する人間もいるから、言葉という限界を認識し、そのまま受け取るのではなく、しっかりと自分で深めて欲しい。
「そうか、そうか、相手の嫌がることをするのが愛なんだ。じゃアイツは俺のことを嫌がっているが無理やり襲ってしまえ。いつかおれの愛がわかるだろう」と自分勝手に悪用する人間がでてくる恐れもある。このBlogに来られる方はわかっているとは思うが、相手に嫌な事をいつもしろといっているわけではないし、低レベルの自分勝手な迷惑をかけろと推薦しているのでもない。それも踏まえた上で、誤解を恐れず表現している。
しかし、わかる人間にはわかる。視点が低い人には見えていないだけで、見守っている存在は確実にいる。少なくとも自分の良心は絶対に自分の行為を見ている。だからこそ、勇気と信念を持って、あえて嫌なことに向かって欲しい。
高度な視点を獲得すればするほど、危うい世界に堕ちていく危険も増える。どんなことも正当化できてしまうからだ。その危険性は本人では気が付けない。だからこそ、仲間や師という存在が必要になってくる。自分一人であえてやろうとしないことだ。いつも自分は間違っているかもしれないという恐れを片側で抱きながらも、もう片方で絶対に間違ってはいないという信念を持つ。この極と極こそが、矛盾に見える一方で矛盾がない世界なのだ。
アレルギー治療と同じで、何も考えずにただアレルギー物質を取ったら命に関わる。医者のもとで、入院して、細心の注意を払って、そこに向かうから結果がでるのだ。思いつきでぽっとやって成功するほど甘くはない。人間はそう簡単ではないのだ。だからこそ面白い。
追記
あえてというのは、本来やらなくてもいいということだ。やらなくてもいいことをあえてすることで、お互いに魂からのいい関係になれる。相手にとっても自分にとっても価値有ることだ。ただの表面的なつながりだったとしたら、それをキッカケに深めることができる。一時的には離れたとしても、求めている者同士は、また引きあうものだ。
2 comments