アルケミスト
先日、「錬金術の秘密」を書いた。それを更に深めてみる。まず、紙コップと聖杯の例えを書いたが、実は聖杯の対極が紙コップではない。聖杯の対極は、汚物入れみたいなヘドロカップとでも名付けよう。
聖杯が光の象徴だとしたら、闇の象徴としてヘドロカップがある。ヘドロが次々と湧いてきちゃうし、臭いので蓋をする。しかし、金じゃないと蓋できないのだ。蓋ができないと汚物を垂れ流し続けてしまう。貧乏人だと問題が露骨にならざるを得ないということだ。金持ちは問題をお金で解決できる。それは金で覆われて一見綺麗な聖杯に見える。が、実はヘドロカップでしかないのだ。見た目で騙される罠だ。
聖杯はパワーの象徴でもある。パワーをどう使うかで、聖杯にもヘドロカップにもなるのだ。更にわかりやすく例えるなら、お金もパワーだ。そのパワーをどう使うかによって、光にも闇にもなる。
錬金術とは本来、世界の神秘、人間の神秘を追求するところから始まった。人を錬金するという視点でみてみよう。
AがBに1千万投資したとする。普通の視点であれば、1千万が5千万とかに増えたら成功。無くなったら失敗と見るだけだろう。しかし、金額が増えたとしても、それによってBもAも慢心したとしたら、汚物を生み出しているのと同じだ。同じ慢心の汚物だとしても、この場合Aのほうが罪が重い。Bを慢心させてしまったキッカケを作ったと見るのだ。成功したとしても罠はある。
であるならば、失敗したとしたらどうだろうか?Aはそんなものだと諦めたとする。Bは自信を失くす、もしくはAに対してやましい気持ちを抱くとする。この場合も、AがいくらBに対して「気にしなくていいよ」と言ったとしても、Bの中では気にしない訳にはいかない。また、本当に気にしないのであれば、それはそれで罪だ。この場合も、Aのほうが罪深い。きちんとBの本質を見極めずに投資したことも、失敗してそこで諦めても良くない。
表面的な成功や失敗では見えない、無意識の功罪があるのだ。だからこそ、AはBに対して光を見せることも、闇を見せることも出来る、素晴らしいチャンスなのだ。チャンスはピンチということもこれでわかるだろうか。
成功したとしても、AはBに原点や感謝を忘れないように意識させ続ける努力が必要なのだ。そうすることで、Bは光を感じ続ける成功者となれる。
失敗しても、Bに向き合い続けて、チャンスを作り続けてあげることが大事なのだ。もういいやと諦めては絶対にいけない。失敗した人間ほど、Aから離れたがる。Aにしたって、会いたくなくなってくる。どちらも相手をヘドロに感じるだろう。
ヘドロだと思ったら、中から金がでてきた!とするのが錬金術だ。どんな人間も、金を含んでいるのだから。失敗しても向かい続けることで、ピンチをチャンスに変えられる。かえって失敗してよかったということになる。
金を出す側のほうが実は大変なのだ。人を活かすも殺すも出来るからである。そして、いっけん金持ち喧嘩せずのように、「損切りしてしまえば済む」と考えたとしたら、一番罪づくりなのだ。
視点を変えて、投資を受けたBがAに対してはどうだろうか?BがAに対して、投資をキッカケに光に導くか、闇に導くか、同じように出来るのだ。この場合、先ほどのケースよりも難易度は高い。投資するほうが大体立場が強いからだ。
上から目線の人に向かっていくことは難しいのがわかるだろう。教師と生徒を考えてみたらわかりやすい。教師も生徒を、聖杯にもヘドロカップにも導くことができる。だから聖職というのだ。
生徒が教師を導くのは一見難しい。しかし、意識が高い生徒であれば教師を導くこともできるのだ。本来、教師と生徒という立場は、人格の差で決まっているわけではない。その原点を意識して、相手に対して向かうことで、変化が起きる。
まず、相手に真意を伝えるためには、教師の意識の壁を破壊しなければならない。
「おれは教師だ。上なんだ」という意識と
「おれが投資家だ。金出してあげたんだ」という意識は、無意識にあるものだ。口では綺麗事をいうものだ。
「生徒に教えてもらっています」という感じに。
いざ、意見すると、途端に受け付けない。だから難易度が高いのだ。
人に影響を与えるというのはとても難しい。人の錬金は料理に似ている。煮立つ前に味付けるのか?煮立った後なのか?塩の量はいかほどか?隠し味は何が必要か?素材によって、美味しい調理方法が違うように、人によって錬金の方法も違う。
一人ひとりをきちんと見て、料理しないと美味しくならない。
我々は、難しいことから挑戦してきたと書いたが、生徒が教師に向かうようなことをイメージしてもらえたらわかりやすい。だから、教師になったとしたらとても楽に出来るのだ。
錬金術に興味ある人は、アルケミストから読み始めるのをオススメする。
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