菩薩は誤解からうまれる
さすが2011年。激動の夏だった。
以前、「どんな菩薩も誤解からうまれる」と聞いた。菩薩道は誤解されてからが本物だということだ。
確かに、誤解をうまない生き方は無難である。無難な選択をしていれば、留置所に入ることもなかっただろう。 ちなみに、修業の場として、「刑務所」「病院」「寺」がある。どこの場所も不自由だからこそ、魂が磨かれるのだ。
刑事さんとも話したのだが、
「こうしておけば逮捕されることもなかっただろうに」と言われたとき、
「人を信じた末の結果なので後悔はないし、そうすることで人が救われる可能性もあった。たまたま今回はこうなっただけだ」と話した。
一度信じたらトコトン信じて向かうのが、私の信念だ。途中であきらめたら終わりである。捕まったからといって、人を信じなくなってしまえば、 それこそ、その程度の信念だったのかということになる。
普通の考えでは、リスクを避けようとするのが当然である。しかし、私は岡本太郎のように、あえて危険な道に飛び込んだ。
問題が起こったとき、自分と周囲、それぞれ試される。
私の場合、今回のことが起きて、自分の中のいろんな執着に気が付かされた。
無理やり手放されたものもあるし、自ら手放したものもある。
試練や迫害がなければ、信念は育たない。留置所という貴重な経験を得て、改めて自分の原点を再確認できた。
どんなに経済的に成功したとしても、そこに満足はない。私は普通のビジネスには関心がない。 自分の原点は、弱者救済である。高校生の時に読みふけった、本田勝一やタイの山岳民族での水道工事体験が忘れられない。
これからも自分の菩薩道をすすんでいく。
誤解されるのは、わかりづらいからである。わかりづらいから、一般の人はわかりやすい世間の枠に当てはめて、その人間をみる。だから誤解されるのだ。私はいつまでたっても、IT実業家でラベルされる。そんなものはとっくに捨てているのに。
今の風潮や常識に合っていれば、誤解などされない。人と違うことを行えば、怪しい人と決めつけられる。
何かコトが起こったとき、信じ続けるのは大変だ。疑うほうが簡単である。
困難な時ほど、人間の本性は露骨にあらわれる。
私の周囲でも、去って行った人間もいれば、逆に困難な時だからこそと応援してくれる人もいる。 事件がリトマス試験紙のようになり、信じ続けてくれる人々と、私を疑い離れていくものたちと分別することになった。
敵と味方がはっきりした。本当の意味では、敵味方もないのだが、現実世界においては役割というものがある。
自分の事件がきっかけで、あちこちに飛び火して、多くの方に迷惑をかけているのが本当に心苦しい。
創造は破壊から始まると書いた。これからの創造に期待していてほしい。
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