裏方の時代

 9日に沖縄では県民大会があった。約10万人が参加したという。本島の人口が約120万人なので、人口比では高い参加率だ。東京でいえば100万人規模のデモがあるのと同じだ。311の震災でさえ風化しつつある本土では、ヘリコプターの配備問題でなぜそんなに人が集まるのかわからないに違いない。もっとも沖縄でも、新聞は県民大会を大きく取り上げているが、それと同じくらいエイサー大会にも興味があるように感じる。良い悪いではない。それが普通の事だ。

奇しくも、今日9月11日に尖閣諸島が国有化されそうだ。この日に合わせてきたのか?偶然なのか?なぜ尖閣諸島は買われて、北方領土は買われないのか?日々の生活に忙しい人がそこまで意識を向けられる訳がない。逆に日常の仕事ができない人たちが政治活動しているとも言える。どちらが偉いという訳ではない。

日本国の為に公に活動しているのが政治家だとすれば、私人として日本の為に活動している人たちもいる。表と裏のようなものだ。研究会などの組織を作ったりして、私的に公的活動を支援している個人・団体がある。表に出てこないが、彼らの存在なしには歴史は語れない。

功績を挙げた人たちに共通している事は、何らかの秘密があることだ。表向きの答えがすべてなわけではない。当たり前の話しだ。企業で例えるなら、ダイエーがなぜ飛躍できたのか?その秘密の一端が沖縄にある事はご存知だろうか?興味がある人は調べてみたらいい。

陰から支える人たちの力添えがあり、世の中は動いている。領土問題で言えば、沖縄復帰や北方領土問題に取り組んだ末次一郎氏を知っているだろうか?彼は青年海外協力隊の創設にも尽力した。歴代首相の指南役で陰の黒幕とも言われた。黒幕というと悪いイメージになりやすい。陰から支える人たちの悲しい宿命で、そういう役目の人は良からぬ事をたくらんでいるように思われやすい。裏方はどんな想いで自分の使命を全うしているのか?想像すると胸が熱くなる。最初に井戸を掘った人たちの想いを忘れてはならない。

話しを戻そう。沖縄復帰、北方領土問題に末次は南方同胞援護会として関わっていた。彼と一緒に運動をしていたのが、沖縄出身者である吉田嗣延氏や稲嶺一郎氏だ。いま南方同胞援護会は沖縄協会となっている。沖縄と本土の架け橋をされていた大先輩だ。

戦後すぐに、あちこちに散らばっていた日本人の帰還問題があった。沖縄はアメリカの政策により、当初は戦地からも本土からも引き上げをすることが禁じられていたのだ。そのせいで沖縄出身の県民たちは難民のような有様だった。そこでその状況を何とかしようと、南方同胞援護会や沖縄人連盟などができたのだ。

またアメリカ映画でおなじみだが、帰還兵の問題というものがあった。戦争という極限環境にいた人間は精神を病んでしまう事が多い。帰ってきて事件を起こす事はざらにあった。ただでさえ兵士は問題を起こしやすい。

そこで、一度沖縄にまとめて引き上げさせようという動きとも重なり、逆に今度は沖縄が過剰人口になってしまった。そこで稲嶺一郎氏らが戦前も盛んであった移民事業を推進し、世界各地に移民していった。今日和僑はないが、琉僑はあると言われ、5年一度沖縄に集まる
「世界のウチナーンチュ大会」の原点である。

その稲嶺一郎の家に学生の頃から入り浸っていたのが小渕首相だ。だからこそ、彼は沖縄サミットに尽力した。人と人の繋がりによって歴史は出来ている。

これからアジアの時代と呼ばれてはいるが、主に経済的な視点でしか語られない。歴史的に見れば、戦前から日本人はアジアに積極的に関わってきた。その先兵ともなっていたのが沖縄県民でもある。その歴史を知らずして、経済だけ語る貧しい感性では到底アジア人との絆は掴めない。

アジア人の精神性は、欧米の精神性とは異なる。それを思い出させてくれるのが沖縄の存在だ。アジアに入り込みたければ、まずは言葉の通じるアジアである沖縄に入る練習をしたらいい。沖縄は今も色濃くアジア的精神性を残している。その感覚がわからなければ、利益というメリットでしか繋がれないだろう。それでは尊敬は生まれない。

アジア解放を目指した先人の大義と想いを胸に、課題先進国である日本だからこそ出来る貢献を模索するのが、日本人の誇りではないだろうか。金儲けだけをやるのであれば、ユダヤ的発想が出来る欧米の方が得意なのだから。自分たちを反面教師にしてくれと、日本の悪いところをさらけ出し、出来る事で貢献していけば自然と相手は助けてくれるものだ。

自分たちが経済大国を作った訳ではない。再度同じ経済大国を目指しても進化がない。自分たちが作らなければいけないのは、次世代の生き方モデルなのだ。自然からの信号を受け取り、違いを受け入れる。想いがあれば最後は通じる。すぐに結果を求めがちな現代の風潮だけではなし得ないことだ。だからこそ、面白いではないか。時代の変革期だ。まだ形にもなっていない構想に積極的に関わっていく事、それが歴史に参加するという事だと信じている。

沖縄はずっと裏方で日本を支えてきた。いよいよそれが表舞台に立つ時期がやってきたのだ。支えてきてくれた事に感謝して、お互いに良いところを持ち寄れば良い。感性と理性。互いにないものがある。

自分が原点になる覚悟

 沖縄は旧暦でお盆を迎える。1日までお盆だったのだが、島のあちこちでご先祖様のことを意識する時間になる。エイサーなども若者たちが格好良く踊っている。生活に密着して祖先崇拝が守られているが、そんな沖縄でも年々おざなりになってきているという。

先祖崇拝はなぜ大事なのだろうか?ご先祖様がいなければ自分がいない、原点であるから大事なのは間違いない。それでは原点だから大事ということだけだろうか?

我々は「お天道様が見ている」ことを意識して来た民族だ。恥じない生き方とは何だろうか?先祖が一体どんな人間たちだったか?私はあまり知る事がなかった。祖父は二人とも自分が生まれる前に亡くなっていたし、聞いても詳しい事はわからなかった。祖父の代でそのような有様だ。役所に行き、さかのぼれるだけ調べてみたが、名前と家族構成がわかるだけで詳しい事はわからなかった。

わからないからこそ想える事もある。逆に先祖がどんな人か分かりすぎて、ご先祖さまの呪縛に囚われてしまう場合もある。いずれにしても、DNAを受け継いで来た想いがそこにはある。DNAの果たしている役割がすべて解明しているわけではない。それは間違いなく受け継がれて来たもので、生きてきた証でもある。

受け継いできたものをどれほど活かせるか?先人が経験してきたことが、きっと何らかの形で今の自分に影響しているに違いない。活かすも殺すも自分次第。そうした見えない資産を膨らますのか、失うのか、今の自分にかかっている。

見えない因縁の影響で人生は成り立っている。もしそれが見えていたら、すべて納得するしかない縁で満ちているに違いない。生まれた場所、出会った人、仕事などなど。

人は潜在意識の影響下にある。顕在意識がすべてだと考えがちだが、氷山の下にある氷のほうが表面に出ている氷より大きいように、潜在意識は深くて大きい。ご先祖様もそれと同じだ。見えていなくても影響している。

国だって会社だって、結局は見えている部分では動かない。見えていない要素で実際は動いている。表向きは誰々首相だとしても、見えない部分でその首相に影響を与えている人たちがいるのだから。

どんな想いで先祖たちは命をつないできたのか?
また、これから自分たちもどんな想いで、子孫につないでいくのか?
生きている人間には大きな責任がある。想いを継いだり、発展させたり、解消したり、テーマはそれぞれある。

原点への感謝を忘れてはならない。が、ただ感謝するだけでは駄目な場合もある。

逆に「こんなに頑張っているのだから先祖たちよ応援しろ!」と先祖にスゴンでも良いのだ。霊の世界は露骨だ。勿論その言葉が本当かどうかすぐバレる。だからこそ先祖とも真剣勝負だ。受け継いできたDNAの歴史の中で、
「俺が金字塔建てるから応援しろ」と見えない力までも巻き込むパワーがあれば面白い。

時代に影響を与える人間は、先祖子孫にすら影響を与える。半端な仲良しゴッコでは到底なし得ない境地だ。自分から家の歴史が始まる覚悟を持つ者だけが道を開くのだ。

徹底の先に愛がある

台風のエネルギーは凄い。破壊もするし、浄化もする。台風がなければ助かる事もあれば、来なければ困る事もある。短期的には台風はなければ良い。長期的には台風がなくては困るだ。影響力がある存在は善悪を超える。天使も悪魔も半端な状態が一番たちが悪い。助けられもせず、かといって破壊も出来ないようでは中途半端な状態が続いていく。

世の中の大半の人は、中途半端な状態が良いと思っている。中途半端とバランスが取れている状態は似ているように見える。中途半端なのか?バランスが取れているのか?自分だけでは判断が難しい。

現代では、個人主義、自由主義が正しいものだと大半が受け入れている。絶対的な正義などはない。自分一人だけ、個人だけの幸せを追求しても、分かち合えなければムナしいだけである。一人の満足は小さな自己満足にすぎない。かといって、自分一人の満足を追求するなというのでもない。

繋がりのある状態で、自分の持ち場を極めていく。繋がりのない状態では、自分が中途半端なのか?バランスがどうなのか?も見えてこない。お互い、真剣勝負の眼があるから磨かれる。普通の会社ではどうしても上下関係が出て来て遠慮が出てしまう。また、普通の組織は上下関係がなければ収拾がつかなくなる。だから、立場の上下関係でなく、持ち場と意識によって創られる関係は難しい。難しいからこそ価値がある。

どんな関係で繋がっているのか?お金なのか?情なのか?大義なのか?愛なのか?
それぞれにメリット、デメリットがある。使い分けられる人は少ない。とことん徹底的にどんな立場も極める事で、他の立場も見えてくる。徹底できなければ、天使が大天使へと進化する事はない。大天使と大悪魔は同じようなものだ。それぞれ力量がなければつとまらない。

徹底と言えば、かつて「いい人が飛躍できない理由」で書いた事だ。そのとき、トムクルーズの話しを書いた。そのトムは今年離婚をした。彼は徹底している。歴代の奥さんとかつての彼女を含め7人連続で同じ事を実行している。普通は情が入るものだ。情との戦いは苦しいものがある。なかなか出来る事ではないが彼は徹底して実行している。その詳細は敢えてここでは書かない。

破壊がなければ創造もない。日本全体が破壊を待っている。政治で言えば、議会制民主主義が限界に来ているのではないか?多数決がすべて正しいわけではない。どういう政治体制が機能するのか?経済的視点から見て資本主義は限界ではないか?金融はどうあるべきなのか?そもそも日本とはどうあるべきなのか?日本文化とは何か?根本から問うべき時代だと感じる。日本から見たら悪霊に見える国も、変化のためには必要なのだ。

自分たちは、来るべき時代の為の雛形を作っている。実践を通して学ぶしかない。家族のあり方も含めて、新たな生き方が問われている。いま当たり前と思っているスタイルは当たり前でなくなる。

ただでさえ、人口構造が代わるのだ。時代が変われば、考え方も変わらなければついていけない。目の前の事を徹底する事でそのヒントは見えてくる。短期ではなく、長い眼で物事を見なければ先は見通せない。見る目がなければ、どんな苦労も報われない。誰もが持っている直感と言う心の眼に従う事で道は開ける。

徹底して自分の心に従えば、途中の状態はどうあれ、最後は必ず
「終わりよければすべて良し」になる。途中良いけど終わり悪しより良いではないか。

時代とタイミング

とあるご縁から招待されて、シンガポールに行ってきた。シンガポールは島国で、マレーから見捨てられ、切り離されたような状態から奇跡の発展を遂げた国として注目していた。金融と観光立国で、沖縄の今後を考えるには学ぶところが多い場所だ。

かつては日本に学べと追いかけてきた国が、今ではもう自信にあふれ活気に満ちている。時代は変わった。アジアに来るといつも感じることだが、人々の目が輝いている。希望でいっぱいだ。今回お会いしたプライベートバンクの方が面白い表現をしていた。

「日本に帰るとまるでお葬式のような雰囲気。こちらは祭りのような楽しい雰囲気だ」と。日本にいるとアジアの一員という視点が見えにくい。この国だけで完結してしまうからだ。知らず知らずに内向きの考えになっていく。ちょうど面白い例を聞いた。日本の当局は日本に支店のある銀行にしか連絡をしないという。日本の支店に連絡して、日本支店から海外支店へと連絡させるのだ。わざわざ国際電話をかけてまで、自ら海外銀行に問い合わせたりしないという。日本の体質が現れる例だ。だから資産を守るには日本に支店がない方がいいそうだ(笑)

問題はそこだけ見ていては解決しない。外に目をやるだけで解決への糸口が見えてくる。

これから発展する国々と接点を持つのは大事だが、根なし草でつながっても何も生み出せない。きちんと根を生やす場所がなければ、ただのブローカーになってしまう。ただ儲けるという角度からしか繋がれないとしたら、資金力が上の海外勢に叶わない。影響力とは何だろうか?どこを磨けばよいだろうか?

日経ビジネスでも沖縄特集をする時代になった。自分が関わり始めた時、沖縄は詐欺が多いとか発展しないとか散々やめろと言われたものだ。それがいま、日本国内での成長率は沖縄が一番になり、今後も発展が見込まれる土地として注目されるようになった。人口も増えてる、基地の跡地利用もある、原発がなく自然エネルギー利用が進んでいる、といった好条件がそろっている。間違いなくこれから沖縄に参入する企業は益々増えるだろう。しかし、自分たちのように誰も注目しない時から関わっていたからこそ価値があるのだ。信用は後からでは作れない。

誰もが発展してると認めた時に来ても当たり前だ。それでは深く根差すには遅すぎる。これから発展する沖縄に深く根付いて、沖縄からアジアとの関わりを作っている。時代がやっと追い付いてきた。だから次の種をアジアにまいている。ベトナムがその筆頭だが、シンガポールでも種まきをしてきた。

我々は、ビジネスで繋がるのではなく、人として繋がることから始める。だから時間がかかるし、その方が断然難しい。目の前の仕事がないとわかりにくいからだ。会社を作るのはわかりやすい。人のつながりはそうしたわかりやすい基準がない。心を開くか開かないか。客観的な要素は何もない。

しかし最初が大変だからこそ、後が楽なのだ。最初楽をすると、後が大変だ。困難な時にすべてパーとなってしまう。今回お会いした人たちは、初めての人もいれば、10年来の人もいる。
「いよいよやっと一緒に仕事できるね」と。寝かせてきたから熟成した人間関係だ。

アジアからの投資、アジアへの投資。両輪が必要になってくる。日本の中で唯一の発展が見込める土地である沖縄をバックに、アジアの注目を集めている。海外から見ると日本は閉ざされて見えている。日本とアジアをつなぐ人がまだまだ少ない。チャンスは山ほどある。

今はどんなタイミングか?時代に合っているか、早すぎるか、遅すぎるか?タイミングによって関わり方も変わってくる。それを無意識に感じるのが時代魂なのだ。狙って出来るものではない。後で勝手に証拠がそろってくるのだ。

時代魂でなくても、見る目があればタイミングは見える。ただ、タイミングがいい時というのはタイミングが悪く見えるものだ。世間とのギャップに対し、自分を信じて飛びこめるか?勇気がなければ道は開けない。

見る目がある人間と付き合える人は幸せだ。見る目がない人間と付き合っても深い関係は作れない。勿論、自分に向き合っていなければ相手がどうであっても意味がない。見る目がある人は決断が早い。本当の価値とは何かを知っているからだ。荒波の中に答えはある。

九死に一生

九死に一生を得た。ひょっとしたら、前回の記事が最後の記事になるところだった。人生何が起こるかわからない。死ぬときはあっけないほど簡単に死んでしまう。何の予感もなく。

生れて育つには、時間と労力、資源がいる。死ぬのに時間も労力も資源もいらない。作るのは大変だが、壊すのは簡単だ。
死を目前に感じた時、とてつもない恐怖を感じ、心に葛藤が起きた。死は眠りと同じだと頭で理解したことなんて吹き飛んでしまう。ただ天の助けにすがりたくなる。少しだけ死が先延ばしになり、助かるかもと感じたら、途端に自分中心のエゴの考えが浮かんでくる。
自分との闘い。追い込まれて心の強さが試される。自分は弱い人間だ。焦りや動揺を表面的には隠せたとしても、心はすべて知っている。自分自身の弱さと向き合い見えたことがある。一人だけでは超えられない困難もある。
助かった今だからこそ言えるが、貴重な体験をした。いざというとき、人間にできることは少ないが、それでも出来ることはある。必死に生きた分だけ天はその想いに応えるのだと感じた。
生きているだけで感謝だ。これからはおまけの人生。死んでいたらなかった人生。であるならば、些末なことに思い煩うことなく、思い切り生きるのみ。
死んでしまえばすべて無だ。だからこそ生きているうちに思い切りやるのだ。
先日アメリカで、乱射事件で九死に一生を得た後に、再度乱射事件に会って亡くなった方がいるというニュースを見た。一度助かったからと言って、次も助かるとは限らない。
本当に人生は何が起こるかわからない。
奇跡としかいいようがない体験をし、計り知れない見えない働きを感じた。
感謝とともに精一杯生きるのみである。厳しい自然を身近に感じる環境にいる人は、そうした活かされているという感覚を肌で感じているのだろう。
今回の経験では大きな愛に守られて、
思い切り生きるように!
決まっていることなど何もない!
無駄なことは何一つない!
本当に大事なことは何か?
真剣か?

と、問いかけられ、励まされたように感じた。

人生一度きり。死んでしまえば残らないようなものに一喜一憂するのではなく、本当に大事なことに注力する人生でありたいと改めて原点を再確認させられた。
そして、危機の時にこそ頼りになる仲間、体験を共有共感できる仲間の価値も、再度認識し、沖縄に出会ってからやってきたことが何一つ無駄ではなかったと誇りを持って言える。人生の幸せは自分の周囲の人間によって影響される。その環境を選び、作るのもまた自分なのだ。
波瀾万丈の人生を自分は求めているから、こうした体験ができるのだろう。天の演出には驚かされるばかりだ。映画のような体験を求めている人にはおススメの環境だ(笑)あー生きてて良かった!!!

歴史の裏に因縁あり

 少し前に何かの記事で、岡田克也副総理の実弟が東京新聞の政治部長をしているという記事を見た。有名なことだが、岡田副総理の兄である岡田元也氏はイオングループの社長である。その記事を見て面白いと感じたのは、弟の氏名が岡田ではなく、高田昌也なのだ。こうした例はいわゆる上流階級にはよくある話だ。

一般的な感覚では、名字が違えば別人だと思う一方で、名字が同じであれば一族だと思い込んでしまうこともある。結婚に関する意識も、政略結婚という言葉があるように、ただの恋愛だけのこととは見ていない人間たちが時代を作る。因縁関係を作るというのは古今東西を問わず、勢力を作るのに有効な手段だ。岸信介元首相と佐藤栄作元首相が兄弟であることを知らない人もいる。

本名のほかに、通名を持って使い分けている人も居る。芸名も似たような効果がある。言葉のイメージとは意外に大きいものだ。事業で成功した人が、いわゆる名家と繋がろうとするのは、ただ格を得るだけではなく、メリットがあるからだ。どこの世界でも、因縁で世界は回っている。広瀬隆氏の「赤い楯」という本を読むと、ロスチャイルドの系図をよくぞここまで調べたものだと驚嘆する。

東急の創業者五島慶太。彼の元の名前は小林慶太である。彼は婿養子に入ったのだが、義父は久米民之助。二重橋の設計施工に関わったとして有名だが、国内の中国地方や海外では朝鮮、台湾などで鉄道事業に関わっていた。長女であった万千代は、久米民之助の祖母の実家であった五島家を再興するために養女になって、五島万千代となり、その万千代と慶太は結婚し、五島慶太となったのだ。久米民之助は、代々木御殿と呼ばれるほど広大な屋敷を持つほど成功した人間で、その後押しがあったから五島慶太は成功したのだ。ちなみに、恵比寿ガーデンプレイス、赤坂サカス、岡本太郎美術館などを手がけた久米設計は、久米民之助の次男が創業した会社だ。

人間一人では生きていないものなのだ。陰に因縁があり、それが応援することもあれば、足を引っ張ることもある。五島慶太に可愛がられた、小佐野賢治も華族の血族を嫁に迎え入れて発展したのだとしたらどう思うだろうか?それを入れ知恵したのが五島だとしたら?普通に伝記やWikiだけを見ていては裏側はつかめない。

当事者や関係者だけが知っているのだ。歴史の裏側は因縁で回っている。内助の功という言葉があるが、表に出ている人間の裏で関係している人たちがいるから、表面だけ見ても成功の要因はわからない。

今や経済界の大物となった、稲盛和夫氏も面白い。彼は京都の代表選手のようなイメージがあるが、元々は鹿児島出身である。大学も鹿児島大学で、生粋の薩摩っ子だ。勿論、西郷隆盛が大好きで、彼は出家したことからもわかるように、経営よりも宗教に興味がある人間だ。彼の経歴は華々しい。京セラというセラミック(陶磁)の会社をキッカケに、10年で上場したのだ。あの時代にしてはとても早い。そしてまた時代に先駆けて、第二電電(今のKDDI)も立ち上げ成功している。NTTを敵に回してなぜ平気なのか?そしてJALへと続く。華々しく成功しても、なぜ彼はライブドアのように叩かれないのか?それは彼が人格者だからだと不思議に思わないならセンスが無い。

稲盛和夫は、朝子という女性と結婚している。朝子の父は、バイオの神様と呼ばれた禹長春博士だ。長春博士がまた数奇な運命の持ち主だ。博士は朝顔の遺伝研究をしていた。そこから名付けられたのが朝子だ。博士の想いが入っている名前だ。博士の父は、朝鮮で閔妃暗殺に関わったことで日本に亡命していて、そこで出会った日本人と結婚して、長春博士が生まれた。禹長春博士は、日本で生まれ、日本語しか分らなかったが、後に韓国へとわたり、農業の父、キムチの父として有名になっている。国家が認めるほどの才能で、国を挙げて招聘されたのだ。後に、日本に帰られては困ると母の危篤でも日本へ出国させなかったくらいだ。博士の論文「種の合成」はいまだに古典として認められている。これが今まで存在しなかった植物を作ることができる理論として、バイオの神様と言われるゆえんである。

種の会社で有名な、サカタのタネも博士がいなければうまれなかった。彼のお陰でという功績は山ほどある。京都の千枚漬けにも貢献している。植物のプロということは、植物とは切っても切れない土壌にも詳しいということだ。稲盛和夫の研究を朝子も手伝った。セラミックも土と関係している。朝子という因縁を通して支援があったのだ。

数奇な人生を歩んだからこそ得た見識を禹長春博士は持っていた。そうした見識に触れるだけで人生はがらりと変化する。縁とは不思議なものだ。人が歴史を作るのだから、人のつながりこそが豊かな土壌となり花が咲くのだ。

肯定も否定もせず

今年の1月13日の金曜日に「聖と俗の境目」を書いた。その日に野田内閣が発足し、13日の金曜日に組閣したのは歴代初めてという。今日も13日の金曜日。まだまだ不吉というイメージがすぐ湧くだろうか?ちなみに、いまオスプレイ配備が話題になっているが、普天間で起きた沖国大米軍ヘリ墜落事故は、13日の金曜日に起きている。偶然その日に起きたのか?それとも狙って起こされたのか?今度のオスプレイ配備は強引に感じないだろうか?だとしたら何故か?墜落させて話題を作りたいのだとしたらどうだろうか?

真面目脳では絶対に出てこない視点だ。13日の金曜日が不吉とする意見の一つに、その日にテンプル騎士団が迫害された日だからという説がある。映画「ダヴィンチコード」でおなじみの陰謀論のスター騎士団だ。映画にも出て来たロスリン礼拝堂は明治維新後の岩倉使節団も訪問したという。その礼拝堂を作ったのがフリーメーソンとかテンプル騎士団だとかいう話しよりも、自分が面白いと思うのは、世界初のクローン羊が誕生した場所がロスリン研究所ということだ。つながりがあるのか?偶然なのか?そもそも一体何を求めてクローンの研究をしているのか興味深い。

テンプル騎士団やフリーメーソンというと、すぐに陰謀論という連想で思考停止してしまう。では、陰謀論の反対は何論なのだろう?世間の常識をそのまま受け入れろ論だろうか。陰謀という言葉は、怪しく受け入れてはならないという概念に洗脳されているのではないだろうか?歴史は勝者によって書かれることを忘れてはならない。

余談だが、誤解を恐れずに書くと、覚醒剤という言葉もそうだ。もうその言葉を聞いただけで、無条件にイコール悪となる。洗脳されている。剤という言葉をとって、覚醒という言葉だけを見たら、覚醒という概念は素晴らしいことではないか。覚醒させる剤があったとしたら、(例えば映画マトリクスでモーフィアスがネモに提示した薬のようなもの)本当は素晴らしい。いま言われている覚醒剤は、覚醒ではなく、興奮剤、麻痺剤、逃避剤、幻覚剤とか言うべきものだ。それを覚醒という言葉を使うところに、意図を感じるのだ。

「覚醒するな、奴隷でいることが大事だぞ」と。
「うん?何かおかしくないか?」と違和感を感じる人間は、非常識でおかしい人間とされていく。言葉の意味をよくよく考えることもせず、洗脳パターン化された反応をする、まさに奴隷だ。千と千尋で感じなかっただろうか?

薬による覚醒のイメージを描いている映画が最近では、「リミットレス」だ。善悪を超えて、もはやそうした薬も現実に出来ているのだろう。思いついたら試さなくては気が済まないのが人間の性だ。肉体でさえドーピングが話題になっている。頭脳のドーピングも確実にある。頭脳の生み出す価値は、肉体の生み出す価値に比べたら計り知れない。頭が良ければ世界は違って見える。小説「ジェノサイド」や映画「フィリップきみを愛してる」「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」などを見たら、頭をドーピングしたいイメージにかられるだろう。

私たちには思いつきもしない発想で、世界を見ている人間がいるのだ。13という数字に踊らされるのか?13という数字を使って、世界を誘導するのか?そのまま何の疑問もなく受け入れている人間は踊らされるだけだ。奴隷と同じだ。なぜ誘導したいのか?どこに誘導したいのか?何も考えない人間は、千尋の両親のように豚と同じ扱いを受けてしまう。銭婆の世界観が分かれば、自ずと自分の役目も見えてくる。

かつて13は聖なる数字だった。私たちが普段使っている西暦によって、今日は13日の金曜日になっている。別の暦であったら今日は違う日で、金曜日という概念さえなかっただろう。無意識に暦に支配されている。暦についてはまた詳しく書く。

13という数字はアメリカの一ドル札に見ることが出来る。スターウォーズに影響を与えた、神話学者のキャンベルによれば、
「十三という数字は、変身と再生の数字。十二という限界範囲から脱出して、超越界に入ることを示す」という。

今までの概念を破って、新たな世界に飛び込むにはちょうど良い日だ。世界を偶然の連続で出来ているカオスだけと見るのでもなく、意図的に仕組まれた世界だけと見るのでもない、善悪二元論を超えた世界だ。

偏見を捨てて、何でも受け入れつつも、尋ねる心はもち続ける。そこで次のステップに行ける。それはまた次の機会に。

千と千尋の神隠しの密教

先日、千と千尋の神隠しについて触れたところ、ちょうど7月6日に放映されるという。きっと今回も多くの人々が見るだろう。ジブリの映画は現代の神話である。何度も放映されて深層意識に監督の世界観が刷り込まれていく。

監督自身、無意識の世界からの感応を受けて、まるで宣託を受けるかのように制作しているようにみえる。宮崎監督は初めから結論ありきで映画作りをしない。自分自身でもわからないまま導かれるように作るのだ。無意識がキャッチした信号だから、本人が意図した内容を超える啓示もある。ポニョなんてまるで津波の予言だ。

映画に込められている暗号は、作者本人でさえも自覚していないこともある。時代に影響を与える作品というものはそうした深さを持っている。無意識をキャッチできるのだから、宮崎監督はシャーマンでもある。

さて、「千と千尋の神隠し」はどんな映画だろうか?世界の真理は堂々と現れているが、それに気がつかないものにとっては隠されているように見える。ここでは解釈のすべてを書く事はしない。あえて隠しておく。本当に求める者だけが、冒険をして得られることに価値がある。どんな神話も試練があるから盛り上がるのだ。

いきなりだが、神によって隠されていることはなんだろうか?
神とは誰だろうか?
千尋は千という名前となり、本来の名前が隠される。我が国も、日本、にほん、にっぽん、ひのもと、やまと、一体本来の名前は何だろうか?

名前を失う事は、自分を見失うことをほのめかしている。日本国民が本来の民族性を見失っていることを象徴している。本性が神隠しされている。原点や経緯といった歴史も隠され、奴隷となっているのだ。

テーマも隠されている。意図的なテーマと、監督自身も自覚していない無意識なテーマ。優れた神話は多様な解釈ができるものである。この世の仕組みを表しているという解釈も一つの見方で、そうといえばそうだし、そうじゃないといえばそうじゃない。しかし、そう見た方が筋が通っていたり、より面白く見える。

では、隠された名を取り戻すとはどういうことだろうか?

名実ともに、本来の自己を取り戻す事だ。ギリシャ神殿に「汝自身を知れ」と書かれていたように、本来の自己を知るものは少ない。本来の自己は自分だけでは発見できず、愛をもって接してくれる他人のお陰で気がつくのだと映画は教えてくれる。千尋とハクの関係が良い例だ。そして、そこには見えない因縁があった。

千尋がコハク川に落ちたことは、因縁付けしたと同じ事だ。因縁付けした相手に助けられ、因縁の相手だからこそ感情が入るのである。川に落ちて死にそうになった事は、一見悪い出来事と言えるだろう。でも実は逆で、悪いと思っていた事がかえって良かったわけだ。出来事の善悪は、長い目で見なければわからない。

なぜハクも千も危険を冒してまで、相手を助けようとしたか?単純に愛だけでは計れない。千はハクのことを信じられるかどうかの試練もあった。敵だか味方だかわからない、意味が分からないことをしたりするのは因縁の証拠だ。


神隠しは非日常の世界、異界への旅だ。非日常だからこそ、日常では気がつかない真理に気づけるのだ。昔は神が非日常に連れてってくれた。今は自然という神が都会からは隠れてしまった。一体誰が非日常へと誘ってくれるのか?非日常は怖いものだ。そうした怖さを都会はなくしてしまった。

興味がある人がいるようであれば、この続きはまた次回に書こう。

ゆいによる邦つくり

日本にはかつて結(ゆい)と呼ばれるつながりがあった。結は、お互いに助け合って共同作業を行うことをいう。もやいともいったようで、沖縄で言う模合(もあい)と似ている。

Wikiによると、厳密には「もやい」が「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」のに対し、「ゆい」は「共にはないが、たがいの約束にもとづいて共に事を行う」ものであるという。

沖縄では、ゆいまーると呼ばれていて、私はそのとき初めてゆいの精神を知った。調べてみたら本土でもあったことがわかり、日本の原点は沖縄に残っているのだと改めて感じた例の一つだ。

かつての絆はこうしたつながりもあって維持されていたが、近所付き合いもなくなると共に、つながりは薄くなっていった。それに応じて、しがらみや責任も薄まった訳で、それが現代の無責任、一億総評論家とも無縁ではない。絆が濃いと、それだけ厄介な事も増えるのは当然だ。無責任に暮らすのは楽で良いが、楽と引き換えに失っているものはツケとなって社会にたまっていく。

難しいのは、本人が楽をしていると自覚していない事にある。自分がどれだけ楽をしているかを知るには、無人島で一人暮らしたらよくわかるが、それを知ろうとも思わないだろう。仕事人間は、ビジネスを通して社会貢献していると言うに違いない。しかしビジネスにハマる事で本当は楽してるとも言える。ビジネスだけの絆しかなければ寂しいものだが、その寂しさにすら気がつかない。新しいビジネスアイデアのような好奇心の波に飲まれるか、趣味や薄い繋がりで、寂しさを誤摩化しているのが大半ではないだろうか。

都市では、共にあるものが行う「もやい」は難しいかもしれないが、共にはないが約束にもとづいて行う「ゆい」ならば形を変えて残っている。NPOのように、興味や意識が近い人同士が連携を組んでいるのは、結と言えるだろう。

今ではリアルに会わなくても、インターネットのお陰で、新たな繋がりが生まれやすくなっている。ノマドワーカーだとか、新たな働き方を模索する中で、多様な繋がりが生まれている。

ネットの繋がりは、気楽に繋がれるから、薄い繋がりだ。すぐに参加できるし、すぐに離れる事も出来る。深くコミットすると、それだけ責任も生じる。程よい距離感で付き合うには最適だが、やはりそれ故に弱点もある。

本来、あちらを立てればこちらが立たずが世の中だ。それを言いとこ取りしようとしてきた結果のツケが、回り回って戻って来てるだけの話しだ。現代の諸問題は人間関係から生まれている。だからこそ、薄い繋がりだけでなく、深い繋がりの再創造が必要ではないだろうか。

薄い関係も勿論あっていい。しかし、深い繋がりが根本になければ、根無し草のように、何か事があったときには流されてしまう。危機のときに本当の姿が見えてくるが、その時に分かったのでは遅いのだ。

深いつながりは簡単にはできない。お互いに覚悟がいる。嫌になったから、「ハイさようなら」とはいかないのだ。難しいからこそ学びが大きいし、簡単には真似ができない価値がある。

自分たちは仲間作りを通して、新たな「ゆい」を創ってきた。その約束は、真剣に自らの使命を追求すると共に、世界を共に創造し続ける事だ。その世界観に共感し参加、協力してくれる人たちの繋がりで、邦(くに)づくりは進んでいる。場所や人種は関係ない。心が共にあるかが大事なのだ。

潜在意識への刷り込み

沖縄にいると日本が奴隷状態である事が、目に見えてわかる。しかし、最近のニュースを見ていたら、沖縄にいなくともおかしい事に気がつくだろう。きちんと審議もされずに法案が通ったり、身内びいきが露骨に見えたり、やったもの勝ちの世界になっている。

それと共に、AKBや携帯ゲームに象徴されるように資本主義も露骨になってきている。歴史を見ると、市場が発達をして経済が盛り上がったときに、モラルが崩壊していくのをどう抑えていくかが問われているとわかる。大体そういう時に宗教や政治の力で、経済の獣をコントロールしてきたのが、人類の歴史だ。

欲望という獣は簡単には抑えられない。抑える方向ではなく、むしろ促進する方向でその力を利用して、勢力を拡大して来たのがユダヤ教とその子供のキリスト教である。資本主義の父はユダヤ教、母はキリスト教のようなものだ。

話しは変わるが、日本は既に知らず知らずのうちに魂を売ってしまっている。その事自体に気がついていない。そうした日本のあり方を皮肉り、自らも魂を売って大成功した映画がある。

その映画は、日本映画興行成績で圧倒的一位を記録した。ちなみに、2位3位も同じ監督で占めている。2001年に公開され、2300万人以上が映画館を訪れ、テレビで公開された時も紅白並みの視聴率を記録した。10年以上経ってもその記録は更新されないどころか、人口が減っている今となっては不動の一位だろう。海外でも評価された映画である。それも理由がある。

そう、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」である。これほどまでに見られて、日本人の潜在意識に影響を与えている映画はない。この映画は、日本の象徴である八百万の神様が、ユダヤ人が経営する遊郭に通っている映画だ。監督自身は、神様は霊の象徴と言っている。

10年以上前から今日の姿を予測し、だからこそ自らも錬金術を行い、壮大な呪術を人々にかけたのだ。その謎に多くの人が引き込まれ、解説本やネット上ではたくさんの解釈で満ちている。10年前より、より露骨になって来ている今だからこそ、この映画が示している内容を学ぶことができる。改めて見てみると、いろいろと発見があって面白い。

世界の真理を知りたい方には、「千と千尋の神隠し」から学ぶ事は大きいとお勧めする。

The way of every day and a bodhisattva