歴史の創造

 鳩山元首相がまた面白い動きをしてくれている。馬鹿だ馬鹿だと言われているが、バカにしか世の中は変えられないのもまた事実である。細かい発言などは時の流れにおいては忘れ去られていき、印象的なことだけが残っていくから、案外100年後には鳩山さんは歴史に名を残している可能性がある。アメリカ追従の鎖をはじめに解こうとした人物といわれるかもしれないのだ。

評価や意味は時代によって変化する。私はキリスト教の学校で学んだが、キリストの生誕時に登場する東方三博士(マギ)が、ゾロアスター教の祭司だったとは習わなかった。祭司の名称であるマギから、魔法(マジック)などの言葉がうまれてきた。エヴァンゲリオンにもマギというコンピューターがでてくる。魔法少女まどか☆マギカのマギカも、同じ由来だ。
祭司が魔法使いになり、聖なるものから魔なるものへと変貌していった。歴史は公平でも事実でもない。偏(かたよ)った世界観でストーリーをつづっている。善とか悪とか、世界観が変わればその役目も入れ替わることは何度もあった。
いまは西洋世界の歴史が正統な人類史のような形で進んでいるが、この先はどうなるかわからない。東洋史からみた世界。中東世界からみた世界など、多面的な世界史を理解するとさらにこの世界を面白くみられる。
世界の発展には、人間の欲望が原動力となってきた。その欲望が分かりやすいのが、輩ともいえる。人間世界を上手に動かすのは、輩的な人間たちだ。またそうした存在がなければ、社会は停滞してしまうだろう。やる気や希望を人に感じさせるのがうまいのも、その人の欲望を見抜けるからでもある。表面的な欲を見抜くことに関しては、輩にかなうものはない。その力を目先の自分のために使っていては、輩という言葉はイメージが悪いままだ。その力を社会の発展に使用したとき、輩という言葉が有能という良いイメージに変わるだろう。
実際、輩的な才能をより大きなことに使っている人間は、輩とは呼ばれなくなっているのが現状だ。成功者と呼ばれている。以前も書いたが、成功も詐欺も紙一重だ。自分から言わせれば、資本主義自体が詐欺だ。だからといって、社会に参加している人々が詐欺しようとしているわけでもないのは当然だ。人は気づかないままに、大きな枠組みに乗せられている。
自分の本当の使命を知らずに、表面的な目的で生きている人間個人の姿の延長線上に、いまの社会の姿がある。自分の姿が世界の姿だ。自分を知ることで、世界を知ることになる。自分の歴史が世界の歴史と繋がってくる。世界をどういう世界観で見るか。
自分の目先の欲望のために生きている人なのか、大義をもって長期的な大きな目的のために生きているのか、決めるのは自分だ。我々は沖縄において、どういう自分像なのかをトコトン向き合って作っていっている。歴史を作っているのと同じなのだ。
天使か大天使か、悪魔か大悪魔か、どちらがいい悪いではない。自分の力の特性をどのように活かすかしかない。活かすためには、特性を知ることから始まる。

沖縄の価値

投資が面白いのは、新たな価値を創造することだ。投資に関して、私がやっていることの一つとして、投資家のために、新たな投資先を用意することをしている。投資しやすい環境を整備しているといったらわかりやすいだろうか。投資家のためのプレ投資だ。

一番美味しい投資はなんだろうか?土地でいえば、魅力がないと思われている土地を安く手に入れ、その土地の価値をあげて価値を膨らませることだ。誰かがやってくれるのを待つのでは宝くじを買うようなものだ。

価値とは何か?を理解していれば、価値の上げ方も下げ方もわかる。価値を上げさせては売り、下げさせては買う。だから必ず儲かる経済の仕組みはマッチポンプ、出来レースなのだ。いつも損をするのは無知な者というわけだ。
経済活動と戦争はとてもよく似ている。経済も戦争も、その両方が得意なアメリカが世界帝国なのは理にかなっている。そんなアメリカが日本の中で一番土地を持っている沖縄。日本全体の中では小さいが、その小さい資本で大きな資本を動かしている。経済ではそれをレバレッジ、てこの原理という。最小の力で最大の効果を生み出すのが投資の基本だ。
資本主義教の教祖であるアメリカが押さえている沖縄に、興味を持たないほうが馬鹿ではないか?ビジネス教の信者失格である。わかる人間は、311以降特に沖縄に投資を加速している。時代の流れを敏感に感じる人間は、沖縄をテーマにしつつある。エウレカセブンという人気アニメの最新作は沖縄に住んでいる少年が主人公だ。沖縄という言葉が日常に触れる機会は確実に増している。どうして沖縄というキーワードを使うのか考えてみてほしい。どんなイメージがあるのか、そうしたイメージが投資においては重要だ。イメージこそが、価値を左右する。株式市場は美人投票とは本質をついている。
沖縄に支社を作る人、移住する人、理由は人それぞれだ。花粉がないからとか、放射能が怖いからとか、地震がないからとか・・・。でも実は投資先としても魅力があることはまだまだ知られていない。気付いてる人間はとっくに投資をしている。美味しい話は表には出てこない。出てきた時には、売り時だからだ。しかし、長期的に見れば沖縄という島の価値が上がることは間違いない。
土地でも会社でも人でも、投資の基本は同じだ。まだ気づかれていないだけで、実は価値が眠っているのが一番投資効果が高い。先程あげた中で、一番投資効果が高いのは人だ。一人の人間が自分の価値に気が付くだけで、どれほどの価値を創造できるようになるだろうか?経済も所詮人が動かしているのだから、本物の価値ある人間が一人でもいれば、その人間を中心として経済圏がうまれる。アーティストの例を考えたら分かりやすいだろう。レディーガガひとりでどれほどの経済圏が生れたことか。
ダイヤの原石を見分けられる知恵ある人は少ない。大抵の人にとってはただの石ころだ。見分けられないのだとしたら、自分の役目はなんだろうか?世の中は不平等だ。ダイヤの人もいれば、本当にただの石炭の人もいる。良い悪いではない。ただ、石炭は石炭として燃える覚悟さえあれば、本来の自分以上の力を発揮できる。
一人で燃える分にはただの火だが、タイミングと場所さえ用意されたら、とんでもないキッカケを作ることもできる。例えば、爆薬と繋がった導火線に火をつけるのだとしたら、ビルひとつ解体する力のキッカケを作ることもできる。
話を戻そう。沖縄という価値も活かすことができれば、世界に大きなインパクトを与える可能性がある。政治的にも、経済的にも、文化的にも、地政学的にも、沖縄には大きな可能性が眠っている。橋本市長も、沖縄で同じことをしていたら、もっとアメリカも中国も巻き込んで、国政にでる必要を感じなかっただろう。
海外留学などするくらいなら、沖縄に住んで、軍のエリートと交流したらいい。世界情勢の勉強は、彼らに聞くのが一番だ。当事者なのだから、一番の情報を知ることができる。沖縄にいても、積極的に交流する人は少ない。ITだって、元々軍隊の技術からきているのだから、シリコンバレーに行くよりもよほど勉強になるだろう。
人の行かぬ裏道だからこそ、世の中の意外な本質が見えたりするのだ。いつも異端者が新世界を開くのだ。日本の中で、他に異端の地があるだろうか?その価値がわからない人は、豚に真珠、猫に小判としかいいようがない。
沖縄のほかに、どこに希望の光があるのか、逆に聞きたいくらいだ。ビジネスの世界に夢があるか?量子コンピューターを作って世界を変えるぞ!くらいの意気込みだったら、それはすごいと納得する。
でもそんなことに、資金も人もつかないことは誰もがわかるだろう。本当の価値ある夢は誰も追わずに、どうしようもない食い扶持を稼ぐためだけに一生懸命。一体そこに人生を賭ける意味があるのか?世界の問題に自分なりに向かう意識はないのか?
日本人だからこそできることを強く意識したら、もっと違う世界が見えるのではないか?我々は、そんな意識のある人間たちと邦創りをしているのだ。そうした人間たちが集まる場所が沖縄という地なのである。価値ある人間が集うのだから、価値が出ないほうがおかしいのだ。

考察

いざというとき、柱がある人間は強い。核となる信念や信仰がある人は、困難や問題に対しての抵抗力がある。人生を意味づけするのに、宗教や哲学は強い力を有する。意味を感じられたら、困難や問題を心の儲けの種にできてしまうからだ。
世界をどういう枠組みで見るか、自分自身を世界の中でどういう位置に置くか、そうした視点を持っている方が、何も考えがない人よりも強い。逆に、何も考えないで、無でやり続ける選択肢もある。中途半端が一番厄介だということだ。現代日本においては、馬鹿正直にやり続けて報われる環境はない。だからこそ、自分たちはそういう愛すべき馬鹿が活かされる環境を作っている。真面目なものが報われる世界を、まずは自分たちの周囲から作っている。
器用で思考しがちな人であれば、あえて不器用にひたすら体を動かしてみる。自分もどちらかというと思考しがちだ。自分たちはワークという手段を通して、自分と向き合う体験を積んでいる。
先日、自分も一人でプール掃除をした。普通に考えたら、水をくみだすのもポンプを使うだろう。そこをあえて、バケツを使ってくみ出す。バケツを使う方法も色々やってみる。腰を入れて連続してくみ出してみる。はたまた、一つ一つコップですくってバケツ一杯にしてみる。ただ、綺麗にすることが目的なのではなく、そのプロセスを体験することで、自分の糧にできるかどうか、自分のもうけにできるかどうかを自分に挑戦する。そしてそのプロセスが美しいか?を意識することで美意識が磨かれる。こうした作業自体がストーリーになり、自分を表現するアートとなる。
信仰は依存へとつながりやすい。ただ、宗教団体に簡単に所属して、そこに埋没することは、人間の集団化、個性の放棄へとつながる。一人一人の意味、個人の価値を希薄化してしまう。同質性に依存するのは楽だし、安心ではある。皆で経済活動に励んでいる現代をみれば、経済教の信者がいかに多いことか。ビジネスしていれば安心安全である。であれば、それを逆手に取ればいいのだ。相手の力を利用する合気道のようなものだ。利用されるか、利用するか、器の大きさが立場を決める。同質化していたら、利用される羊のようなものだ。牧場の羊のように暮せば、日々の心配はないかもしれないが、ある日突然運命が相手によって決められてしまうことがある。毛だけ剃られているつもりだったのが、ジンギスカンが流行って、命まで取られることになるかもしれない。
本来、人はこの世に生まれ、家庭や学校で教育を受ける中で、その国特有の文化や風習を身につけていく。個人の習慣の中に、宗教的な要素が育っている。だからこそ、先ず個人が習慣という無意識から脱出することが始まりとなる。その人の存在の意味、役割、使命が問われるのは、無意識から意識的な生を生き始めてからになる。
自分自身としっかり向き合った人間には、その個人の能力が最大限発揮できるタイミング、場所が用意される。その時には、捨て去った体験さえも生きてくる。捨てた時に初めてそれは使えるようになる。この意味がわかるだろうか?
日々個人が、自分自身とワークを通じて向き合い、そのチャンスを待っている。 だからこそ、チャンスの時には真剣勝負!待ったなし! 生きることに懸命になる。いつもあるわけではない、そのチャンスを決して無駄にしないように。
自分という人生のストーリーの脚本や演出が自分の発想だけでは限界がある。タレントにもマネージャーやプロデューサーが必要なように、どの人でも自分より他人のほうが、その人の価値が本人よりも見えることがある。人が活かされるタイミングも、自分で作る部分と人によって作られる部分とがある。どちらが欠けてもうまくいかない。必死で努力して信じてくれる姿を見たら、託される方も燃えるのが人情だろう。適当にやっていたら、誰があいつのために準備してやるものかと思うのが当然だ。
努力も体験もしていない人には何も見えない。ではどういう努力や体験をしたら、本質を見抜く力を身に着けられるのか?そのような問いを自分に問いかける人は少ない。自分が知らない世界に飛び込みたいと願ったとき、知恵がどういう価値を持つのか初めて知ることになる。そのスタートラインに立つまでは、知恵は豚に真珠なのだ。

狐と狸の化かし合い

 世の中は、嘘や綺麗ごとであふれている。だから面白くもある。残念なことは、面白く興味深い嘘や、夢を見られる綺麗ごとが少ないことだ。レベルの低い嘘では、聞かされるほうもすぐに相手の目的が透けて見えて、嘘っぽいけど乗ってやろうかとは思えない。どうせ騙すなら上手にだましてほしいのが人情だろう。

東電の一連の騒動を見ていると、なんて馬鹿なのだろうと感じるに違いない。勿体ない。折角、このピンチを活かして、さらに巨大企業になれるチャンスにも変えられるのに、機会を活かそうとする意思がないから、綺麗ごとも上手な嘘もつけない。どうせ払わなくてはいけないものならば、何かに役に立つと信じたいのが人情だ。
千両役者がいないから世間という舞台はしけた三流芝居しか上演されない。そういう意味では、一流の脚本家も演出家もいないのだ。また観客も目が肥えていないから、三流芝居のほうに流れてしまう。一流の良さを伝えようと芝居案内を作っても、観客はそんなものより三流だけどわかりやすくて刺激的な案内を求めてしまう。まさに、鶏が先か、卵が先かだ。
答えを言えば、順番などない。どれも大事に決まってる。役者だろうが、脚本家だろうと、演出家だろうと、観客だろうと、目の前のことを真剣に楽しもうとするだけで、本物は本物を知る。勉強して、痛い経験を積んで、目が肥えてくれば、自然とモノゴトの良し悪しは見えてくるものだ。楽な道を選ぼうとするから、いつまでたっても狐と狸に騙される。
楽しようとする心があるから、その心の隙に、悪霊は入り込む。不安にさせ、簡単な判断へと導かれる。人を信じるより疑うほうが簡単だ。悪霊は仲間が欲しいのだ。自分と同じように、人を疑い、いつも不安な状態の仲間が欲しい。自分が幸せでないから、他人には幸せになってほしくない。足を引っ張ることが仕事だ。誰も得がないのに、どうしてこんなことをするのだろう?と思うことはないだろうか?(これもすぐにはわからない視点だが、原点や感謝を忘れなければわかる)悪霊は嫌がらせが目的なのだから、悪霊は悪霊を産むことで得になるのだ。
嘘も方便という言葉もある。これは前から書こうと思っているテーマだが、伝えるのが非常に難しいためにタイミングを見ている。少しだけ書くと、自分の利益のためについている嘘は、どこまでいっても嘘にしかならない。相手が真理へと到達し、救われるのだとしたら、それは方便になる。最後になるまで嘘なのか方便なのかわからない。だからこそ難しい。
人は誰しも本当は救われたいと同時に救われたくないという、相反する気持ちを持っている。楽したいからだ。本物になろうとするならば、苦労は覚悟しなければならない。怠け者からすぐに悟ったものになれるわけではない。自分もお気楽な人間から菩薩を志すまで、方便によって導かれてきた。嘘といえば嘘だが、逆に信じ続けたお蔭で嘘が本当になった。
「嘘から出たまこと」という言葉の通りだ。
ブッダもキリストも、詐欺師やペテン師だと言われた。ベンチャー企業でも、夢を語り、成功すれば立派な人。失敗すれば、実力がないとか、悪く言えば詐欺師となる。たちが悪いのは、本当に信じて実行して失敗した人と、最初から騙すつもりで失敗した人との見分けがつきづらいことだ。表面だけ見ていては騙される。
また騙す人のほうが、上手な嘘をつくものだ。自分すらも騙しているから、本人には騙すつもりはなかったと堂々と言うだろう。騙せない人間は、根が真面目だから逆に責任を感じすぎ、背負いすぎて失敗しやすい。真面目脳だけではうまくいかない。
世の中は、表面しか見ない人が大半だ。綺麗なスーツを着て、流ちょうに話して、理路整然と説明する人間のほうが信用されやすい。失敗しても堂々とされたら、仕方がなかったのかと納得してしまうものだ。そういう人は、次のネタを忘れない。そしてまた次こそはと何度でも騙されるのだ。
勝てば官軍とはよく言ったものだ。負けてしまえば賊軍。詐欺師扱いなのだ。最初からどこかで負けてもいいと思ってやっているのが、狐や狸たちだ。将来はどうなっても、目先のご飯が確保できればいいのだ。
今年の決算さえ赤字でなければ。自分が関わっている時だけ嘘がばれなければ。そんな気持ちでやっているから、東電もオリンパスも救われない。ピンチはチャンスなのだ。今こそ、誰もが驚くビジョンを出して、目先の利益ではないことに投資したらいいのだ。どうせ赤字になるのだとしたら、とことん出したらいい。その勇気がないだけだ。
これは彼らに限った話ではなく、今を生きる私たちの問題だ。何も失うことなど本来はないのだから、勇気をもって、狐と狸の化かし合いから離れることだ。より高度な仕事をする上では、狐も狸も必要になってくることも分かる。この世に無駄はない。すべて必要なのだ。狐と狸が増えたら、それを餌にする猟師になればいい。
狐と狸が化けている人間なのか、本当の人間なのかを見極める目を持たないと、猟師にはなれない。イエスが弟子に、
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話した意味がこれでわかるだろうか?

子供の目

人は我欲だけでは限界がある。自分のことだけでは頑張れない。大義や人を背負うことで、自分の潜在能力が引き出される。人は人の生きざまを見て感じる。恥ずかしくない生き方とは何だろうか?美意識が問われる。

信念を持って生きるには強さがいる。責任感の強さが、その人の強さになる。顔も見たこともない人のために一生懸命になれるだろうか?どこまで責任を感じられるかで強さは変わってくる。

フランスでユダヤ系子女を狙ったテロが起きた。今も中東で起きている、パレスチナ子女に対する弾圧への抗議だという。なんと切ないことか。どうしようもない無力感から、憎しみの連鎖はいま世界をおおいつつある。子供は未来の宝。子供を大事にしない社会は長続きしない。まして自民族だけの子供を優遇し、多民族の子供を虐げていては、敵が増えていくだけである。会う人を味方にしていかずに、敵にしていく人に未来はあるだろうか?

アタリマエのことが当たり前でない社会。今回の事件は遠い国の出来事だけに、他人ごとに思えるだろう。他人ごとだからこそ、当事者にはできない見方ができる。離れているからこそ、見えることがある。すべては根本で繋がっている。お節介が必要な世の中なのだ。
自分の子供が殺されたとしたらどうだろうか?報復して憎しみの連鎖を産み出すだろうか?嘆き悲しみ苦しみと共に生きるだろうか?自暴自棄になるだろうか?子供たちのためにいま自分ができることは何だろうか?311以降多くの方がそう感じているに違いない。
目の前の子供に恥じない生き方をしているか?子供は親たちの背中を見て育つ。誇りに思ってもらえる親だろうか?父としての役割、母としての役割、それぞれ違う役目がある。子供たちのために素晴らしい社会を残せるか?今を生きる世代の仕事である。子供たちの目は正直である。子供の目に映る姿が、鏡のように自分たちにかえってくる。
男は子供が産めないので、創造行為の代償作用を求めているという。価値有る人生を創造することが、社会にとっても家族にとっても有意義なことだ。価値有る人生を創造しようと思えば、傷つくことを恐れてはできない。傷つくことは磨かれることだ。同じ事を別の言葉で表現しているだけにすぎない。傷つくと取るか、磨かれたと取るか。
必死で磨きまくらねば魂は輝かない。一人ひとりが輝く社会こそが、素晴らしい社会だ。子供たちのために何とかしなくてはという想いは、自分が親になって初めてわかったことだ。産んでくれた母と子供には感謝しかない。そのお陰で今日も自分は創造の決意を日々更新できる。
生まれてきてくれて、ありがとう!そして、おめでとう!

本物の価値

 どの世界でも道を極めようと努力している人には共通している特徴がある。本物は本物をすぐ見抜く。偽物はそれがわからない。自分も数多くの失敗をして、少しづつ本物を学んできた。本物ほどわかりづらい。

何年越しで、人によっては数十年越しで、自分の担当する道で革命を志している人々がいる。いまの権威に挑戦し、破壊して新たな道を創造しようと淡々に進めている。表面は淡々とでも、魂は熱く燃えている。一見、そんなことを志しているとは見えない。
自分から言わせれば、そういう人物に投資することが一番投資効果が高い。今の投資は短期的な利益しか見ていない。長期とは最低100年、長くて千年、人によっては1万年のスパンで見ている人もいる。道を追求している人は、はした金よりも、道を追求して得られる精神的なリターンのほうが素晴らしいと知っているから、金では動かない。道を極めようとしたことがない人には一生涯わからない境地だ。
偉大な人物には不遇な時代やひきこもりの時代が必ずある。そうして内省して熟成されなければ、本物にはなれない。こんな話を聞いたことがある。
明治維新の英雄、桂小五郎は優秀な官僚だった。次から次へと藩の仕事を頼まれ、優秀だからこそ、仕事をこなしてしまう。すると目先の仕事に益々忙殺されることになる。そこである人物が彼にこう言った。
「このままでは使われる役人になるだけだぞ。仕事は自分がやらなかったとしたら必ず誰かそれを埋める人が現れる。仕事を断る勇気を持って、自分の時間を作ることが大事だ。そうでなければ本当の仕事はできない」と。素直にその助言に従い、実行した桂もスゴい。
いま自分が手がけている仕事をやめて、何の目的もなく内省する時間をとれる勇気がある人は少ない。そうはいっても家賃がとかカネのことを言い出すのが関の山だ。自分でその選択を出来る人は素晴らしい。
いまやっていることが、本当に魂の喜びに繋がるのか、何のために生きているのか、自分の使命は何なのかをゆっくり考えたことがない人が大半だ。自分が中心だと思って社長業をしている人であっても、実態は会社に使われているようなものだ。
どうでもいい情報の渦に巻き込まれ、自分の人生を生きていない。くだらない情報に一喜一憂してしまう。本物でなければ、メッキは剥がれ、無様な姿をさらすことになる。まぁ、それが無様だと感じる感性がある人が少ないから、本人も周囲もそのことに気が付かないだろう。
美意識はだからこそ重要だ。どんな道でも、美意識なければ極めることはできない。お金があっても、使い方に品がなければ馬鹿にされるだけだ。お金は稼ぐより使うほうが難しいのだ。
信念のために痩せ我慢出来なければ本物にはなれない。目先の欲に負けずに強く生きている人と会うと勇気をもらえる。
この前あった方は、確信犯的に実践してきた人だった。教養ある知識人になるには20年は最低かかると覚悟して今まで努力してこられたのだ。頭は良いのだからいくらでも出世の道はあっただろう。それを投げ捨て、信念に生きる。そんな人物にあったことあるだろうか?
自分たちの周囲にはそのような本物の人物が集まりだしている。そうした人たちと話をするだけで楽しい。お互いの道で苦難を乗り越えてきたからこそわかる実感。あ・うんの呼吸のように話が早いのだ。
利益ではなく、価値を考えたらいい。どれほどの価値なのかを。それがわからない人は、わかるまで苦労するしかない。体験していない人に教えることは不可能だ。苦労は買ってでもしろと昔の人はうまいことを言ったものだ。
楽な道だけを選んでいたら、絶対に本物の価値を知ることはない。アップダウンがあるからこそ、物語は面白いのだから。勿論、そのまっただ中にいる時はそんな風に感じる余裕はないだろうが、振り返ってみたら、辛いことこそ良い思い出になるものだ。

現代病

現代に生きる人々が普通と感じている考え方は、時代が違えば普通ではない。かつて世界は恐れ多いものであふれていた。例えば地震はただ揺れるから怖いとか、災害だから嫌だとかいう意味ではなく、神の力を感じておそれていた。何かの意味があるに違いないと感じていた。
現代では、科学的思考によって一応は数々の自然現象も説明ができるようになり、その仕組を再現、利用することで文明を発達させてきた。その力はめざましく、人間を中心とした科学信仰を生み出した。アタリマエのこととして意識していないが、現代人は科学的思考によって洗脳されている。
全体を部分に分けて、部分ごとに理解していく。例えば、仕事をしてると、全体の数値目標を設定し、部分ごとに目標数値を決める。そして、目標を達成できない問題を解決しようと思考し、その裏側にある想いというものを感じる力が欠如してしまう。想いは見えない。そんなことより、見える化が大事になってくる。
仕事に限らず、何かを問題と捉えたら、それは解決しないといけないものとしてしまう。心の葛藤はどんなに細分化しても解決はできまい。しかし気持ちでさえも、操作可能なものとして扱おうとする。
問題の根っこを見つめることなしに、表面的なことをやっても解決はしない。そもそも、問題ではないかもしれない。問題と考えてしまう、考え方自体に原因はあるやもしれない。マッチポンプのように、問題を創りだしては解決する。何かが変わるが、本質は変わらない。
何もやらないと焦ってしまう。時間がただすぎることに罪悪感を感じてしまう。産業革命の頃から、時間は直線的な過去・現在・未来という流れになってきた。始りから終わりへの流れ。自然の四季のように、循環する時間においては、螺旋状に時間は流れていく。
また流れてくるなら焦ることはない。ただ、それは同じものではない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」方丈記
同じように見えて違う、永遠が今にある心境から、ワビサビといった日本人の感覚が生まれてきたのではないだろうか。
別に科学的思考をやめろと言っているわけではない。それだけしか考え方がないのでは、狭い視野に陥ってしまう。視点を変えるだけで違う世界が見えてくる。考え方は一つの武器である。武器は多いほうが、状況に応じて最適な選択ができる。一つしかない武器を無理やり使おうとするから、余計に問題が増えるように見える。
仕事も人生も流れがある。その流れを断ち切り感じづらくしてしまうのが、現代病の特徴だ。世界を狭くし、可能性を見えなくしてしまう。世界を広くするためにも、自分と違う世界の人達とあったらいい。違いの中から、新しい流れが生まれる。

お気楽から菩薩道へ

 ここ数年引きこもりのように、初めて会う人たち以外とはあまり会わないできた。真剣じゃなければ話をしない覚悟だったので、以前のお気楽な自分を知る人達からみたら、どこか違う世界に行っちゃったなと思われていたようだ。
外に向かうより、内に向かったお陰で、結果を早く求める現代病に、自分が陥っていたことがわかった。スピード優先の世界で生きてきた弊害。短絡的になり、表面しかみられなくなってしまう、視野が狭くなるのは、車を高速で運転をしている時と同じだ。
風景を楽しむ余裕すらない。いま自分がどこにいるかじっくり落ち着いて考えることも無駄にみえてしまう。刺激的なジェットコースターも楽しい。でもそればかりでは勿体無い。草花を愛でることも、風景から偉大な感覚を感じることもできなくなる。次から次へと変わる景色は好奇心を満たしてくれるのも間違いない。旅の楽しみ方は人それぞれだ。いま自分は何を感じたいのか?本当に感じたいものは自分の中に答えはあるが、ない。気づかなければあってもないのと同じだからだ。
その他にも、絆や責任、想いという、人が真に動かされるものを感じることができた。そして、信念を持って人に向かった結果、摩擦が起こり、心も鍛えられた。自分で言うのもなんだけど、大分強くなった。事件の渦中にいてわかったことは、本当に世の中嘘ばかりでいい加減なモノだということ。だからこそ、だったらどうせ誤解されるのだから思い切りやったほうがいい。その方が後々伝わる。中途半端にやると何も残らない上に、誤解されて誰にとってもよくない。だったら何もしないで引き篭っていたほうが断然いい。
人の数だけ正義がある。相手の言い分もわかる。だからといって、認めていたら利用されるか、何も成し遂げることはできない。(注:自己欺瞞に注意)
闘いがあるからこそ、人は磨かれる。そして形がなければ、多くの人は認めないのも事実だ。(形があるから誤解するのもある)
大衆は、いちいち本質を考えたり、真理を知ろうとはしない。そのまま受け取るのが楽でいい。情報を送る方も、そのまま考えないで伝えたほうが楽なのだ。
トコトンやっていたら、あとでいくらでも評価は変わってくる。歴史を見ていたら明らかだ。評価されたり、落とされたり、そんなものを気にしていたら何もできない。世間に対していい顔をしたかった自分にも、事件のお陰で向き合うことが出来た。普通の道を閉ざしていただいたお陰で、背水の陣で頑張れる。去年で本当によかった。それまでの体験がなければ、本当に終わっていた。こんな呑気にBlogなんて書いていられなかっただろう。
どんなことがあってもブレない仲間や、本質真理を観る人たちに救われた。それは自分たちが本質真理を求めて、ブレないように真剣に生きてきたからだ。必死で求め、信じ続けることで道は拓けると改めて思う。それをやり続けるのが難しいのだ。
例え表面では敵に見えても、その存在があったから、頑張れたり、意識が高くなれる。普段は、嫌いだったり、ムカツイていたりするが、改めて考えると心の中に意識する相手がいることでモチベーションが維持できていることに感謝できる。いつかはお互いこの世を去ると想うと、遊び仲間のようで、嫌だけどなんか愛しい複雑な気分になる。
お気楽だけだったらこんな気持ちにはなれなかった。試練は人を変える。そのキッカケをどう活かすかは自分とその周囲にかかっている。自分だけでもないし、周りだけでもない。自分が変われば周囲も変わる。周囲も変われば自分も変わる。鶏が先か、卵が先か。
好きな方をいきなり持ってくるのが錬金術だ。環境を変えてもいい。自分がいきなり変わってもいい。自分が驚くか、周囲が驚くか、どちらにしても想像したら面白いじゃないか。人生は楽しんだ者勝ちだとつくづく感じる。 
気付きの信号を送ってくれる存在に感謝。ミロクの日に記す。

視点の拡大

目の前のことにハマりすぎると、視点が狭くなる。日々の仕事に埋もれてしまうと、何のためにそれをしていたのかを忘れがちだ。大事を忘れて小事にハマりすぎると、大事を失うことにもなる。

 かといって、小事をおろそかにして、大事は成し遂げられない。基本は目の前のことができなければ、その先もない。ただ、時には小事だからこそ、大事のために優先順位を考えることも出てくる。目の前の仕事をやり遂げようとするあまりに、大きな仕事のチャンスを失っては元も子もないからだ。
 コツは、自分で気付こうとしないことだ。
自分ではどうしてもハマりやすい。客観的に見てくれる仲間がいると心強い。
問題にハマっていないか?
いま優先すべきなのか?
意識を向ける先が違うのではないか?
問題は単独では存在しない。つながり合っているからこそ、そこだけを見ていては「木を見て森を見ず」となる。バタフライ効果のように、全然関係ないと思われることが関係してるかもしれない。日本流に言えば、風が吹けば桶屋が儲かるだ。
桶を何とかしようとしても、風が吹かなければどうにもならないのかもしれない。見えないこと、分かり難いこと、一見遠回りに見えることから挑戦するのがいい。難しいことからやるべきだ。簡単なやり方はいつでも出来る。いつでも出来ることからやるのではなく、いつでも出来るからこそ、それを取っておいて、難しいやり方から挑戦するのだ。
1+1=2
当たり前だ。しかし、
1+1=6
1+1=11
にならないだろうか?と発想を飛ばしてみる。すると、思いがけないヒントが見えたりする。そこから独創は生まれる。
ビジネスマンだからビジネス本しか読まないのは世界を狭くしている。関係ない世界と触れることで、新たな気付きが得られる。
この世の真理を最初に見出したのは、宗教や芸術だ。感性が先で、あとから論理がやってきた。科学にしたって、先に仮説があって検証してきたのだ。だからこそ、美意識が必要なのだ。ビジネス上の問題を解決するのでも、センスがあるのか、センスがないのかで、全然違ってくる。
どの世界にいたって、道を極めるには苦悩が必要なのだ。どんな道も楽ではない。センスは簡単には身につかないのだから。

想いの連鎖

閏日に雪が降る。この時期の雪というと、226事件を連想する。そして昭和11年2月29日に彼らは想い敗れた。青年将校はどんな想いで決起したか?現代のぬるま湯にいる我々にはその悲壮な想いは理解できまい。

貧困に苦しむ地方の農民のために、純粋だからこそ葛藤し行動を起こした、止むに止まれぬ想い。

それが良いとか悪いとかではない。浅はかだったかもしれないが、純粋に何とかしたいという想いに自分は感動する。

その想いは儚く消える雪のように見えて、時代を超えて伝わっていく。行動を起こすまでにどれほど思い悩んだろう。そんな葛藤がない時代の幸せと不幸。見方によっては、ダラダラとただ生きるよりは、短くても真剣に生きた分幸せだったとも言える。

自分と照らし合わせて考えてしまう。俗にいう世間の幸せの良さもわかりつつ、自分の内なる想いは何を表現したいのか?生きた証を残したいのか?子供に恥ずかしくない生き方とは何なのか?

愛する子供を残し、革命に殉じたチェゲバラの想いと青年将校たちの想いは、どこかで繋がっているように感じる。家族を想って、特攻に散った若者たち。彼らの想いを忘れてはならない。

ただ惰性で生きるのではなく、意識的な生を全うした人々を励みにし、今世を精一杯駆け抜けたい。後世に想いの連鎖を引き継げるよう、いまの時代を生きる人間の責任がある。

義をみてせざるは勇なきなり。

小さいとか大きいとか関係なく、目の前のテーマに向かう。いまを生きるにはそれしかないし、いまを真剣に生きることだけが、想いを残すことができる道なのだ。

1940年に宗教家出口王仁三郎が無期懲役の判決を受けた宗教弾圧の日でもあり、1952年アメリカにより琉球政府の設立が公布された日に記す。

The way of every day and a bodhisattva