肩書きの限界

2005年前後、「デスノート」という漫画が連載されていた。人を殺せる死神のノートを使って理想郷を作ろうとする「キラ=夜神月」と、「キラ」を捕まえようとする「L」という探偵とその後継者の物語だ。

お互いに、知恵をこらして名前も顔も知らない相手を探し出す、という大雑把に言えばそんなストーリーだ。

デスノートで面白いのは、「キラ」が「L」を倒した後に、「キラ」が「L」にもなり、また「L」の助手の「ワタリ」にもなっているということ。一人で何人もの役をこなしている。

「キラ」と「L」は同一人物になるが、見せかけの対立をすることによって、まるで本当に存在しない人間を存在するかのように見せている。

これは「一人は一人」であるという概念を吹っ飛ばしたものであり、実際にこの手法は特別な世界ほど使われている。

例えば、私の尊敬する沖縄の人物は、あるところでは「黒幕」、あるところでは「資産家」、あるところでは「宗教家」、あるところでは「政治家」、あるところでは・・・、といくつもの顔を持っている。

世界を創っている人間というのはそういった人であり、本当にすごい人間というのは、見る角度を変えるだけでいくつもの顔が見えてくるのだ。多重人格とも違い、我々がよく使う言葉として、「霊」と呼ぶことができるモノだ。

物語内では、夜神月=優秀な学生=キラ=L=繋ぐ者=・・・であったりする。これは頭の中で、同時に2つ3つの思考をしているのだ。つまり、世界を動かすくらい本当にすごい人は、いくつもの顔を持っている分だけ、同時に思考を展開している。

これは普通の世界に生きる人、つまりは、肩書を持って「自分は~~です。」と言いきってしまえる人は、一生たどり着けない領域であり、絶対に超えることのできない壁なのである。

これは漫画のなかの話ではない。肩書きをつけることによって、人は自分自身で可能性をそこまでの領域に留めてしまう。そうであるほうが安心できるからだ。そして、さらに上の肩書きを求めるようになり、どこまでいっても満足しない。

大企業の社長であれ、その肩書きで押さえつけられている。本当にすごい人は、名刺に肩書きなどは書いていない。名刺さえない。「人間」で勝負するのだ。

自分が培ってきたオーラのみで勝負できるからだ。また、それを支える環境が構築されているからだ。

こうした特別なやり方も、ただ手法だけ真似ると輩(やから)となる。例えば、詐欺師。一人何役もこなして人を騙すが、それは自分の利益のためだ。

すごい人間の場合は、相手を導くために、話しを受け入れやすくするために、その人に合った顔となる。観音様が相手に応じて多彩な顔をするようなものだ。自分の利益ではなく、その人の為にする行為なのだ。

しかし、人はその愛に気づくより、自分の概念を優先し、「何者なのだ?怪しい」と警戒してしまうのだ。自分の概念が世界を狭くする。

本当に愛から来ているのか?利益のためにやっているか?これを判断するのは難しい。しかし、すべて向き合って逃げずにいれば、自ずと答えはでてくる。インチキは長続きはしないものだ。

本物しか残らない。肩書きを超えて、自分の本質を磨き続けよう。

想いという繋がり

この世界が本当に美しいと感じたことがあるだろうか?
日常の概念から解き放たれ、素直に世界に触れたとき、自然と涙があふれるほど感動する。

なかなかそんな心境にはなれない。人間はちっぽけな存在だ。どんどん小さいほうに嵌っていく。小さく小さくまとめようとする。

それは安心したいからだ。けれども、安心なんていうものは幻想だ。ただ生きることが安心であるならば、死ぬことが最大のリスクなのであろう。しかし、人間はみな死ぬのだ。

だから、死が身近になると、自分が宇宙(大きな世界)の一部に過ぎないことを実感する。本当はこの世界は驚きと感動で満ちているはずなのに、つまらないものにしているのは自分の常識、概念なのだ。

人は感動しているとき、憎悪の感情を持つことは出来ない。いつも感動している訳にはいかないが、一度でもこの世界は素晴らしいと感動したならば、生きることに前向きになれるだろう。

どんなにビジネスが上手でも、想いがなければ空虚なだけだ。現代の価値観から見て、自分が無能だったり常識的でなかったとしても、それが活かせる方法はあるし、それが活かされる場所もある。

またそれが活かされなければ次の世代では発展しない。どんな人にでも持ち場がある。

それを作れる生態系こそが新たな国づくりの礎となる。

かえって、いま仕事ができないと思われている方が価値がある。
(堕落と諦めで仕事をしないということとはまた別の次元だが。)

今の価値観に適応している人は、次の価値観には適応しづらい。

時代が変われば、価値観も変わる。今の価値観に適応できていて、一般的に仕事ができると思われている人はそこに執着しやすい。

逆に、もっと頑張りたいのに、今の価値観に押しつぶされて、こんなはずじゃない!
と思っている人のほうが次の時代にすぐ入っていける。

純粋な想いだけを大事にしよう。そして、その想いで繋がっていこう!

人間はどこで満足するのか?

普通の世界は、比較によって思考されている。

例えば、ブルジェドバイ。世界一高いビル。上空は人間にとって適切な環境ではない。高すぎるほど、景色という美は損なわれ、開きもしない窓に囲まれた閉鎖空間である。

そこに何があるのだろうか?
その先に何があるのだろうか?
くだらない見栄の張り合いである。次に、どこかの国が「こっちのほうが高い!」などと言って、追い越し追い越されの、永遠の魔界の入口でしかない。

例えば、コーヒー。
「このコーヒーおいしい!」というのは、~と比べておいしい、ということだ。では、豆がよかったらおいしいのか?プロが入れたらおいしいのか?

どこまでいったらそのおいしさに満足できるのだろうか?その先に人間として満足できるところなどない。一時の幸せでしかない。

世界一おいしいコーヒーでも毎日飲んでいたら飽きるものだ。人間とはそういう生き物である。

例えば、お金。
どれだけお金を持っていたら満足なのか?
お金をいっぱい持っていて豪遊できたら満足なのか?

その先には孤独と虚しさがあるだけだ。
自分はお金を持っている!と言っている人間こそ、本当は寂しいのだ。寂しくなかったらそんなことを他人に言う必要はないのだから。

どのくらいお金を持っているかなんて、比べても上には上がいて、どこまでいっても満足しない。

逆に失う不安に陥るだけだ。一番魔界に入りやすい魔物である。お金を持つのであれば、まずは、それを持つことができる器を身につけなければならない。

「比較」は魔界の入口になりやすい。比較はキリがない。終着点がないのだ。終着点がないということは永遠にそれに囚われ執着し、抜けだせないということ。つまり、その先には何もないということだ。

どんなに栄光を掴もうが、それは過ぎゆくもの。

私は、あなたに自分のオリジナルの魂を見つけ出すためのキッカケを与えることができる。
その環境が整った。みんなに時代を享受してほしい。

因縁の特性

最近、夫婦間の相談で聞かれることが多い質問に、
「因縁の相手とは切れないのか?」というのが多い。

結論から言うと、切れることは切れるが、また同じことを繰り返すだけだ。離婚した人はまた離婚するのと似ている。相手が問題ではなく自分が問題なのだから。だからといって、絶対関係を切るなというものでもない。

そのニュアンスはケースバイケースだ。

また濃い因縁ほど切れづらい。関係を切るのも一苦労だ。それなら、因縁に向かった方がいいと私はおもう。逆に言うと、なかなか切れないのだから思い切っていろんなことをやったらいいともいえる。

ひと口に因縁に向かうといっても、馬鹿正直に自分の思うがままにぶちまけろというのではない。相手を想うだけでも向かうことになる。要は諦めないことが大事だ。

困ったときは、止めるのではなく休むことが大事だ。まずは距離を置くことから初めてみることをお勧めする。お互いに冷静になり、いろいろ考えることができるだろう。

因縁の相手に対する感謝が突破口になる。

シンクロニシティ

シンクロは、気がつかないと意味がない。

我々の世界では、シンクロが頻繁におこる。すると、論理を超えたつながりが生まれ、一足飛びに事態が進展する。これからの社会は、こうしたことが自然になっていく。いま常識とされている論理的なやり方が、効率悪いことがわかってくる。

シンクロに気づけるか?これからの主流の人間には必須のスキルだ。そして、その流れに乗ることが出来るか?時代を創る人間に必須の特攻精神だ。

多くの人は、意味ある偶然(シンクロニシティ)とは捉えず、偶然の一致と捉える。それでは何も生まれない。

シンクロの連続こそが、非連続な結果を生み出し、驚異的な出来事を出現させる。振り返ってみれば、絶妙なタイミングの連鎖による化学反応のように。

時代の変化というのは、こうしたシンクロにより加速していく。絶妙なタイミングが重ならない限り、大きな変化は一気には起きない。ドミノ倒しに似ている。バタフライ効果といってもいい。

手元の些細な一手が、やがて大きな変化として戻ってくる。これが意識できないと、今の現実に潰されるだろう。

世界を単純な因果関係とみるか、もっとダイナミックで有機的な世界と見るかで意識は変わる。

近年、時代の流れを見ると、企業の発展も論理の世界である程度まではいけることがわかったが、そこからの飛躍はないということもわかった。その先はシンクロの中に飛躍の芽が隠されている。その信号に気づくものが、成果を得られるだろう。

因縁の戦い

魂の進化のために因縁は存在する。因縁との相互作用で人は進化をする。人は人によってしか磨かれないというが、どんな人でも磨かれるという訳ではない。例えば、知りもしない人から欠点を指摘されても、感情的に受け取ることはないだろう。他人からみたら、そんな風に映っているのかと冷静に受け取れる。

でも、その意見が親や兄弟、恋人、夫婦、親友からだと、途端に感情が入り、冷静に意見を受け取ることが出来なくなる。普通、全く頓珍漢な指摘であれば、「それは違うよ」と冷静に受け取れるのだが、因縁からの指摘は正しいかどうかより、その人にとって一番指摘されたくない部分を指摘してくるので、更に厄介になる。これは、良い悪いではなく、その人が傷つく部分を無意識に理解しているのだ。

だから、因縁ほど言葉に気をつけなくてはならない。言葉で、人を救うことも殺すこともできるのだ。日本は特に因縁間の殺害事件が多い。たった一言で、相手の感情に火をつけて、逆に刺し殺されたりする。傾向として、女性は言葉で、男性は暴力で表現しやすい。

言葉の暴力、肉体の暴力。どちらも愛があれば、愛のムチになるが、それには感情を制御できなくてはならない。大抵は相手を傷つけるだけだ。心に長く残る傷になるので、こうしたことは避けたいが、これこそが因縁の学びでそこから人は成長する。嫌なことだと避けていては、何も得られないのだ。

また、因縁の関係でよくあるのが、意味が分からない言動をするということだ。鳩山兄弟がいい例だ。兄と弟、肉親なのだから不利なことをしないようにするのが普通と思うが、因縁だから逆をしたりする。

今まで何度も話題を振りまいているが、今回も弟が発端で、自分の母親までまた巻き込んで、兄を傷つける。これはかなり吹っ切っている例だが、どんな人にでもこういう例はある。しかし彼らは親不孝ものだ。

ここでこんなことして、誰も得にならないのに何故こんなことをするんだろう?と思ったことはないだろうか?もうこれは普通に理解しようとしても無理だ。ストレスがたまるだけだ。

その背景には、二つの原因がある。一つは、発言した本人の魂が自分の人生に納得していないためストレスを発散している。二つ目は、相手の魂の進化のために、気づきを与えるための例。

どちらも、大抵は無意識だ。だから厄介なのだ。当事者同士も本質的な理由がわかっていないのだから、いくら議論や説明をしても解決をすることはない。また違う理由で意味が分からないことをしだす。

一見、意味がわかることでも、それは表面的な問題で、それを解決してもまた違う表面的な問題がおこるだけだ。例えば、親が子供に勉強しなさいという。子供はおとなしく勉強したと思ったら、次は部屋が汚いと言い出す。といった具合だ。どんどんあら探しをする。他人の子供と比べたりすればいくらでも問題はでる。

人を非難する前に、自分に向かうべきなのだが、それはやり方がわからないし、面倒で大変なのでそれを避け、他人のあら探しをしてしまうのが多い。先ほどの例では、子供に向かう前に親自身が自分の人生に満足をしていないことの方が重要だ。本当に子供(相手)のことを想って、愛から出た言葉であれば、子供(相手)には素直に通じる。

しかし、指摘されたことにも真摯に向かうことが大事だ。それは、言葉通りではなくて、その言葉の奥にあるメッセージを受け取れたら、自分の進化につながるヒントを得られる。

よく仕事では摩擦に向かう人は多いが、本当に人間的に学べるのは、因縁の相手なのである。仕事の相手は、ビジネスとして割り切って我慢できるからだ。

大抵の人は、因縁の相手とは諦めの関係になる。すると、一番身近な赤の他人となってしまう。因縁は、最大の味方でもあり、最大の敵でもある。

一番エネルギーを吸われる相手でもあるし、
一番エネルギーを与えてくれる相手でもある。

自分が成長すれば、相手も成長する。相手も成長すれば、自分が成長する。こうした相互作用で人は進化することが出来る。

こうした特性を理解し、魂の成長に役立ててほしい。相手が因縁だと理解するだけで、ストレスは減るだろう。

死んだら現実

我々の世界は、生きている「今」が夢の世界。死んだら現実に戻るだけだ。
「ああ、生きていたときは夢のようだったな」と。

制約があるから突破する喜びがある。何でも自由だったらつまらないのだ。

普通、人々が考えているのは、死んだら天国に行きたいな、というのが一般的だ。死んでからが特別な世界だ、と考えている人が多い。しかし、死んだら何もないし、何でもある。両方は同じだ。

一般的に言われる宗教では、来世やあの世で救われるために信仰している。いわば「逃げ」の宗教が多い。

しかし、実際は生きている「今」だけしかない。チャンスは「今生」しかないのだ。「今生」どう生きるかにかかっている。あの世や来世のために、今を生きるのではない。

次の人生こそは!では同じことを繰り返すだけだ。夢の世界、あり得ない世界、憧れの世界、アニメのようなハプニングが起こる世界に生きることができるチャンスは今しかない!

しかし、人間という生き物は、
「そうはいっても生活が・・・。」とか
「そうはいっても今の仕事が・・・。」などと言い訳を必死で探そうとする。本当は求めているのに・・・。

これは安定を望むDNAと、変化を望むRNAの人間の中の遺伝子に組み込まれた矛盾した戦いであり、これにより葛藤や苦悩が生まれる。本当はそんなことで悩む必要などない。今死んだら「自分は満足な人生だった!」と言えるだろうか?それが答えだ。

死んだら現実に戻ると思え!今が夢の世界なのだ。今が現実という夢を見ているにすぎない。死んだら現実なのに、生きている今も現実に生きるのはあまりにもナンセンスだろう。

軍用地主の焦り

沖縄の軍用地主は、絶対に沖縄の基地が返還されることはない、ということを知っていた。だから、基地反対を叫んだのだ。(もちろん純粋に反対している人もいるが少数)

理由は基地反対しないと、その土地代が上がらないから。基地反対を叫ぶ人々はほとんどが軍用地主である。もしくは、地主との繋がりで恩赦を受ける人々である。軍用地料は、既にその土地の上でどんな商売しても割が合わないくらい上がっている。

逆に、軍用地主でない人は、基地に反対していない。一般的には親米反基地と言われているが、どちらかといえばそうだという話であって実はどうでもよい、と考えている。

別に基地の恩恵もなければ、害もない。

世間一般では、飛行機が飛ぶ音がうるさい、墜落したら危険だ、という声が聞こえるが、関東近辺にある厚木基地だって、横田基地だって危険だ。

沖縄ほど住んでいて住み心地の良いところは、ほかにない。だから移住者が増えている。アメリカ人の中でも、米軍を引退した人が、わざわざ沖縄に家を買ってすんでいる人もいるほどだ。ハワイがあるのに。

都心をのぞいて、日本中どこを探してもこれだけインフラが整備されている土地はない。人口当たりでいったら、それこそダントツ一位だ。ちょっと散歩に、きれいな整備された海沿いの海岸を歩けるし、ちょっと行けば、リゾートホテルが何軒もありホテルの料理も食べられるし、マッサージやら、エステやら、なんでもある。これほど過ごしやすい場所はない。

こんな場所で、後は、音がうるさいから静かにしてくれ、なんて言ったら罰が当たりそうだ。それがなくなったら完璧になってしまう。それをみんなわかっている。飛行機の音がうるさいくらいがちょうど良い。個人的には、飛行機より暴走族がうるさい。

だから、軍用地と関係のない人は、べつに米軍基地を反対する人もいない。

それを騒ぎ立てるのは、マスコミであり、政治家(主に社民、共産党)なのだ。政治家ほど自分たちの思惑通りに世論を操作するのに長けた人種もいないであろう。

反対もしないが、賛成もしない人が多いため、恩恵を受ける人たち(利権)の思うがままなのである。沖縄米軍基地問題について今報道されていることが真実ではないことは明らかである。

そして、今、米軍基地が本当に返還されてしまいそうになっているため、反対をしていた軍用地主が困っているのである。反対の声が大きくなりすぎて、また大阪の橋下府知事も関空に米軍を呼びたい、と言っているため、本当に基地が移動してしまうかもしれないのだ。沖縄の軍用地主ピンチ!

はっきり言うと、すでにアメリカは日本を見ていない。日本に米軍基地があろうがなかろうがもうそんなことはどうでもよいことなのだ。

沖縄基地問題の全ては、恩恵を受ける軍用地主の損得勘定か、政治的利権を守ろうとする利権屋たちの、内なる紛争でしかない。内輪でごちゃごちゃやっている間に、経済的に破綻しかけているアメリカが、日本からお金をふんだくろうと画策し、すでに実行に移し始めた。

海兵隊グアム移転の費用1兆円を全て日本が負担することにもなっている。アメリカは沖縄でなくてグアムでも良いのだ。日本に金出せよ、と言ったら、じゃあ出しますよ、と言うから貰えるものは貰っておこうというだけ。

今の世界情勢では、米国は自国で訓練すれば良いくらいのものなのだ。そして、問題を長続きさせてさらに日本から金を引っ張りだそうとしている。日本が内側でもめていることはすでにアメリカの手の上で動かされているのである。

田中角栄から小沢一郎に引継がれた魂

小沢氏の疑惑で報道が盛り上がっていた。本質を追究することなく、表面的で瑣末なことにハマっているからこの国は沈下を続けていく。これも必要なプロセスだ。表層に答えはない。ただ反応があるだけだ。

マスメディアはそれが仕事だ。大衆を愚民化することが一番の仕事なのだから、憤るほうが間違っている。そうした情報に振り回されることなく、自ら疑問を求めて行動する人に道は開かれる。

小沢氏騒動の信号は、一つの時代の終わりを象徴している。

彼は田中角栄に最も可愛がられた。その原点は、角栄の息子が5歳で夭折したことにある。小沢一郎の父も政治家だったつながりで、幼いころから角栄と出会っていた小沢氏は、角栄のなくなった息子と同じ歳で似ていたことから可愛がられたのだ。

小沢一郎も田中角栄を慕い、その政治手法は田中角栄を真似ている。彼と一体だと考えてもよい。田中角栄は偉大な人間であった。日本列島改造と称し、大胆なやり方をする一方で、細やかな気遣いを身近な人間にまでする人間味ある男だった。

ファンも多いが敵も多い。田中角栄が行った列島改造で、この国は目に見える形で変った。国土が破壊され、見えない心も変わった。それは時代の要請で必要であった。

小沢氏は不起訴になったが、時代の終わりを象徴しているから、仕事を成し遂げたのちは、やはり師の角栄と似たような結末を迎える予感がする。角栄は国土の破壊、小沢氏は国体の破壊といえるかもしれない。

角栄は、ゼネコン献金システムを作り上げた。その一方で本気で国を憂いていた小沢氏も角栄のシステムとある仕組みで力をつけ、角栄よりも選挙での大勝を得た。どぶ板選挙のプロであった角栄システムは今こそ効果があったのだ。

角栄的なものがいま集大成を迎えている。あとは崩壊するのみだ。角栄も小沢氏も本気で国を憂いている。しかし、その一面は知られることなく、大衆はわかりやすい図式を求める。

大衆は金のことばかり考えている。だから、それと関連付けると納得する。やっぱり金かと思うと理解が早い。金丸氏もそう見られて失脚した。

この世は何をするにも金がかかる。金で動く人が多いからだ。しかし、時代を作る人は金では動かない。それが空虚なものと知っているからだ。しかし、だからこそ金の使い方、重要性を心得ている。金を得るためではなく、金を使ってやりたいことがあるから金を得る。

小沢氏問題の本質は、角栄システム的な献金システムではなく、彼がいくつか潰してきた政党の資金問題だ。無くなった党にあった政党助成金はどうなったか?政党の金庫番をしていたのは小沢氏だ。政党助成金は税金である。

企業に仕事をふって献金させるより、直接税金から資金を得られる助成金のほうが、集金システムとしては進化している。角栄システムより一段進んだわけだ。間接から直接へ。これは金融でもITでも叫ばれたことだ。これ以上のシステムは望めまい。

今の政治はパワーゲームなのだから、金や権力といった力がなければ何もできない。しかしパワーを得ると叩かれる。横並びで何もしないでいたら叩かれないだろう。

疑う方は楽だ。しかも一見大義があると、大衆はそちらに流されるのだから。しかし、疑われるほうは大変だ。それはいわゆる「悪魔の証明」を考えたらすぐわかる。小沢氏に何もないといっているのではない。

資金問題を追求するより、いったい彼は何をしたいのかを考え、その行動で判断したほうが結局は皆の得であろう。瑣末的なことに拘りすぎて大局を見失う恐れがある。

自分自身の大局を見失わないよう、自分の本質を問い続けよう。

時代の溝

最近、寝ても覚めても考えていることがある。どのようにしたら、真に我々の活動の価値を伝えられるか。これは本当に難しい問題だ。どんなに素晴らしいものでも、価値が伝わっていなければ何もないのと同じだ。

半端な人間にこの価値がわかるものかと、一人悦に入ってしまえば自己欺瞞となってしまう。仏でさえも、皆を悟りへと導くために、様々な方便を使って導いた。素直に説明してわかるものだったら、それは今までと同じ概念だ。簡単に理解できないから新しい概念なのだ。

時代が移り変わる時には、「時代の交通整理」がある。新時代に移行するには、ある程度の犠牲が必要になる。例えば、武士が刀を捨てたように。

廃刀が世の流れとなるまでは、刀は武士の魂だという強固な概念を持つ人々と戦っていかねばならない。やがて、時代がその戦いを応援するが、それまでは新たな概念を訴え続ける必要がある。

時代に逆行するものとは、戦い続けなければならない。中途半端に残しておいてはいけないのだ。廃刀令がでたことで、時代の変化を嫌でも感じ、次の時代へと向かうことができたのだ。

時代を読むことができる人間は大勢いるが、その人間達も2種類に分けることができる。
「時空を飛び越え、リスクを背負って新時代に突入する人間」と
「今までの概念に執着して、旧時代の終わりが来るまで待機する人間」である。

後者が新時代に移行するには、新時代の流れが出来るまでの時間が必要となる。旧時代と新時代の間には溝があるのだ。その溝を埋める人間にならなければならない。それは新時代に生きる人たちの役割である。

私は現在、昔の人脈に時代を享受させきれていない。それは意識的であれ、無意識的であれ、そうなのだから認めなければならない。その上で、ご縁があった人々に時代を享受させるためにはどうしたら良いか、と思考錯誤をしている。

まず、今までの歴史を見ると、石油(旧々時代)→IT(旧時代)→沖縄(新時代)と時代の変化が起こっている。言い方を変えると、工業化→情報化→感性化社会となる。

最初にITの人間は石油の人間を誘導することが必要であり、沖縄の人間はITの人間を誘導することが必要となる。要は石油とIT、ITと沖縄の間の溝を埋めていかなければならないのだ。

石油からITへはすでに起こった出来事だ。前時代の変化時、ITの人間は、上手にIT時代をイメージさせることによって、石油の人間から資金を投資させた。金融というシステムもIT時代を迎えたから飛躍した。最初さえうまくいけば、後は大衆の原理により、自然に時代が移行していく。前時代変化はそう起こった。

では、次の時代の鍵となるのは、やはりITのなかでも先に新時代を体験した私なのである。(如来から「お前は先の時代を走っているのになんで時代を昔の人脈に享受してないんだ。しっかり菩薩の仕事をしろ。」と言われてしまった。)

ITの世界に生きる人々は、ITの世界のなかでの比較によって、物事を決定するようになっている。それはその世界を創ったモノの強固な概念であり、そうでなければ困る人間もいるのである。しかし、その世界の比較の中に答えはない。

そこではないところに、人間としての本当の答えがあり、
そこではないところに、時代というモノの物質がある。

それを私が感じさせなければいけないが、例えば、私がいくら一生懸命説明したところで、沖縄に逃げている、宗教に逃げている、などと低レベルな次元で話をされたら、そこで終わってしまう。

そうではなく、本当は旧時代から新時代に移行した人間の変化をお見せしたいのである。体験すれば一発で理解させることができるのであるが、説明することはできないのだ。

旧時代と新時代の溝、普通の世界と特別な世界との溝、を埋めることが重要だ。おそらく、その溝を超えることは人間の進化とも呼べるべきものであろう。つまり、我々がやろうとしていることは、人間の進化の促進につながる。この溝は、いつの時代でも常に現われてきたものである。

人類の歴史は変化の連続によって成り立っている。その大きな流れの中で、時代が一瞬にして変わってしまう時期がある。それは人類が発展するのに必ず必要な時期であり、その連続で時代はできている。

The way of every day and a bodhisattva