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不惑を生きる

四十にして惑わずの不惑の歳となりました。生きております。今日まで更新停止せざるを得ないほど激動な大変化を体験しました。事前に「経験したいか?」と聞かれれば、「いえ、結構でございます」と言いたいところですが、責任というものを背負った者としては逃れられないものであります。
この間、好むと好まざると関係なしに、自然と原点回帰をさせられてきました。大きな計らいを感じる、天の導きです。必然だったのでしょう。この世でのお別れを告げることも何度かありました。自然と道が開かれていきました。今の世の中、自分という自力に重きが置かれ、他力に任せることは良くないことのように捉えられています。本当の意味では人は、我を離れ、天の欲するところを務めることが幸せだと感じます。親鸞のいう、自然(じねん)であります。
もちろん、それはすべて他人任せでは到達できない境地です。私の場合は、間違っているかもしれないけれども、勇気をもって踏み出し体験しなければわからないことでした。私が今までにないほど心血を注いだプロジェクト、30代の人生を捧げた沖縄での活動は、家族や人間関係、経済的な価値、社会的な評価を失うこととなりました。しかし不思議なことに、20代のころのように自殺したいとは思わなかったのです。不感症になったわけではなく、20代の頃に感じた辛さとは比較にならないほど強烈に苦しくて、髪が薄くなったほどです。この痛みは、今も、もちろんこれからもケジメをつけるまでは続くことでしょう。忘れないために心に刻み続けねばなりません。
痛みと共に、信じるということの概念について、心の限界を試され続ける日々です。本来、信じることに限界はないですが、理解できるからといって、すぐに無条件に実行できるかというと別問題です。心のトレーニングが必要でしょう。自分が傷ついたことを理由に、信じない道を選ぶ選択肢もあるでしょう。しかし、信じる道と疑う道があるならば、信じる道を選ぶことに迷いはありません。けれども、無暗に盲目に盲信するのは奴隷です。葛藤の先に光の道が見えると信じています。
私がどんな境遇であろうと、変わらずに応援支援してくださる方々には本当に感謝です。思えば私は感謝を知らない人間でした。相手のことより、自分の感覚を強引に拙速にしていたと感じました。想いがあればすべて許されるわけではありません。原理主義を経験したからこそ、する側、される側の気持ちを体験しました。想いの話は、謝って済む問題ではないので、教訓を生かして前に進むしかありません。
誕生日を迎えた今日、多くの方から気にかけてくださるメッセージを頂きました。不義理をしている私に対しても、暖かく接してくださる皆様、本当にありがとうございます。その中でも、同志として一緒に励ましあえる友や、弟分なのに兄貴のように頼りがいのある人などに恵まれて、東京での活動拠点が出来ました。
彼は私に、
「かつて自分が育ったbirthのような場を復活させたい」と想いを伝えてくれました。そして、「Re Birth」が生まれました。詳しい場所は非公開ですが、六本木にあります。直接連絡頂ければご案内させていただきます。
沖縄との縁も切れたわけではなく、先日ご縁があり宮古島に行く機会がありました。同じ便に、必然としてビットバレー時代の縁があり、信号を感じました。あの時代に、ビットバレー提唱者の一人、小池さんからNetyear社の名刺をもらい、その肩書には「catalyst」とありました。彼が私の動きを見て名付けてくれたのです。以来、ずっと気になっていました。新たなケジメとして、Blogタイトルを変更しました。
インターネットで社会を良くしたいと願った当時の気持ち。沖縄は日本の南北問題だと感じた気持ち。その気持ちは忘れているわけではありません。デジタルとアナログの枠を超え、私の中に培った感覚を信じて、40代を築いていきます。昔から、厄年は飛躍の年だと言い続けてきました。
5日は体調が悪いこともあり早く床に就きました。6日なぜかとても楽しい気分で夜中に目が覚めました。すると171年ぶりの二度目の13夜のお月様。13夜は虚空蔵菩薩と関連つけられています。空海の虚空蔵求聞持法は有名ですね。広大な宇宙のような知恵と慈悲を持つ菩薩。その守護のもとに、愛とキッカケの「catalyst」となり、「Re Birth」していきます。
40代も宜しくお願い申し上げます。
 

シンクロニシティ

 いわゆる偶然の一致が起こると、ただの偶然だと思ったとしても、何かしら少しは意識するのではないだろうか。それが意味するものは何なのか、わからないことが多いに違いない。シンクロというと良いことのように思うかもしれないが、最終的には良いことでも表面的には最悪ということもある。

今日は7月30日。かつて、沖縄では730キャンペーンがあった。1978年に右側通行から左側通行へと県内の道路で一斉に変更した日だ。それを知っている人で、今日何か特別なことが起きた人にとっては、人生の切り返しのように感じシンクロに感じるだろう。この時代を知っている人間にとってはただの懐かしい思い出にしか過ぎないかもしれない。
シンクロニシティは個人的なものだ。本人にとっては、人生の鍵となるかもしれない価値がある。だがその鍵はわかりづらい。曼荼羅を書いて深めることも以前書いたが、そこまでする人は少ない。真剣に求めていたら、どんなキッカケも活かそうとする。それが善い悪いではない。
意味づけするもしないも自分次第だ。逆に、今日をキッカケに自分の人生を切り替えようとしてもいい。ふとしたキッカケで、今日この文に触れたとして、まるで左右逆にするように、正反対の考え方をしてみるシンクロニシティと捉えることも出来る。
自分の良いと思っていることがそうではないかもしれない。
自分が悪いと思っていることが、実は良いことかもしれない。
物事の本質から送られた信号がシンクロニシティとして現れるときもある。全部が全部そうであるわけではないし、シンクロニシティにも種類がある。
深層意識からのヒントだと思って、シンクロニシティと接したほうが面白いと私は思うだけだ。去年の7月は死にかけた。今年の7月も生死を意識することが多かった。夏は霊が騒ぐという人もいる。それが本当かわからないがどちらでもいい。
大事なことは受け入れられるか。器の問題だ。どんな視点も何かしらの真実を含んでいる。受け入れないで世界を狭くしてしまうのは勿体無い。偶然の一致をコジツケだと思うよりは、何かしらのまだわからない法則や世界があるのかもしれないと、1%でも可能性を認めたほうが世界は広がるではないか。
ほんのすこし受け入れるだけで、劇的な変化が起こる。蟻の穴から堤も崩れるというコトワザがある。自分の硬い概念を壊すキッカケにシンクロニシティは応援してくれる。見えない世界にこそ雛形があり、そこからのつながりでシンクロニシティが起きていると信じている。
慣れ親しんだ考えを変えるのは大変だ。右側通行から左側通行へ変わるのもそうだ。かわってしまえばまたそれに慣れる。慣れてきたらまた変化を起こす。形にとらわれないで、心が感じることを大事にしていきたい。

環境の価値

大半の人はキッカケを待っている。自らキッカケを作ろうと仕掛ける人は少ない。選挙が終わった。立候補した人たちの中で、どれだけの人間が本気で当選しようと時間と労力をかけて準備をしただろうか。また、投票する側も次の選挙には誰を選ぶべきかと意識していただろうか?

出る方も選ぶ方も、その場その場で、時間が来てその時の気持ちで選んでいる。立候補を誘われたとか、今回の選挙ではこの人が好印象だなとか、深い考えや信念があるわけではない。それが悪いといっているのでもない。
変化のキッカケを期待して待っている。宝くじが当たらないかなと待っている感じだ。変化が欲しいけど、自分の望みどおりの変化が欲しくて、人は旅行をする。気晴らしだ。自分が望む変化を誰もが希望する。

人は環境の影響を受ける。昔から、「朱に交われば赤くなる」とか、「孟母三遷の教え」といったコトワザがあるように、付き合う人や環境の大事さは語られてきた。また、「類は友を呼ぶ」というように、似たもの同士が集まる傾向もある。

親からの影響も強い。子は親を映す鏡。因縁は繰り返す。親の背を見て子供は育つだ。同じ檻の中にいたら、檻の外はわからない。何時の世も、親は子を自分の檻の中に入れておきたいと心配して無意識にしてしまう。
逆境という環境を逆手に取り、人間の可能性を引き出した例もある。
ロレンツォのオイル」という実話を元にした映画がある。子供が難病になり、親は銀行マンだったが、独学で医学を勉強し、子供のために薬を作った話だ。専門家でもないのに、専門家よりも結果を出してしまった。
どんな人でも、一万時間練習したら天才になれるという法則がある。
興味ある方は読んでみたらいい。「天才! 成功する人々の法則
どのくらいの時間を毎日かけたら、一万時間達成できるか?
 2年:10000 / (2 x 365) = 13.7 時間
 5年:10000 / (5 x 365) = 5.4 時間 
10年:10000 / (10 x 365) = 2.7 時間
継続して、時間をかけられる、そういう環境にいることが大事なのだ。やり続けられる環境。
どんな人と日常的にあうか?毎日会う人、職場の人、友人知人。そして家族も。
人は環境を変えることで変わる。意図的にどこまで出来るか?
どんな問題も、各人それぞれの問題と思いがちだ。私には特別な理由があると。経済的なことや、性格的なことを言い訳にしてしまう。人は問題を複雑にしがちだ。それぞれにあった対処が必要だと。正しいとも言えるし、間違っているとも言える。
大半の人は、問題を、人間の個人の問題だと思ってしまうが、実は環境の問題が大きい。誰でも環境さえ用意出来れば、自然とそうなる。環境がいかに大事か。仕組みがいかに大事か。
キッカケを待っているだけでは環境は作れない。
環境が先か?想いが先か?
キッカケを待つか?キッカケを作るか?
人生は面白い仕組みで満ちている。

葛藤こそ財産

 時代の流れを感じる。「待つのも愛」と前回書いたが、信じるとは何か?も同時に問われている。以前、「錬金術の秘密」を書いた。その中で信じることについて触れているが、信じるとは奥が深いものだ。

信じられない人間を責めるのは簡単だ。相手を責めても始まらない。信じさせることの出来なかった自分を反省しなければ進化はない。謙虚にその意味しているものを汲み取らねば、独善的な自分たちさえ良ければいいという道に入り込んでしまう。

それは「信じる」を悪用している道で、先に光はない。盲信している姿が魅力的でないのは、自分の道を生きていないからだ。自立しつつも、信じる。委ねていても自立している。信じるを悪用して楽をしていないか、自分に問いかける。信じて任せずとはよくいったものだ。
人の成長を望んで指摘するつもりでも、言う側のレベルが低ければそれは足を引っ張ることになる。良かれと思って、結果的には落としているというやつだ。でも、表面的には足を引っ張っていても、それは期待の現れで、もっと突き抜けろと励ましてくれているのだ。
いい人で真面目であると、そう言われるからにはそういう点があるに違いない。世間的にはいいのだろうが、それだけではただ利用されてしまう恐れがある。私の好きなセリフに、
「いい人、いい人、どうでもいい人」がある。
かといって、素直に直そうとしてしまえば、逆に本来の良さが失われる。焦ることはない。ただ、まだやり方が未熟なだけだと知れば良い。真摯にやり続けていれば、どの道も上達する。
どんな人間も自分は正しいと思っている。自分と違う人間を見つけたら、それは自分と違うのだから間違っていると言いたいのだ。その一方で、間違っているとも言われない人間もいる。構って貰えるだけ有り難い事だが、その感謝を忘れてしまえば、
「なんだあいつは何もわかってない」と独り心地になる。
正しいも、間違っているもない。善と悪、光と闇、陰と陽、それぞれが必要だ。関心のある人たちをどれだけ巻き込めるか?器の問題になってくる。形を見せて納得させるのは簡単だ。形を見せずに納得させるのは、詐欺師と紙一重になる。
起業したときもそんな葛藤があった。良いことを言って金を集めて自分の為に使っているだけではないのか?実際そういう人もゴロゴロいた(笑)利益が出ていなくても、車だけは立派で運転手付きだったりと世の中は広いと驚かされた。でも長い目で見ると、そういう人はいなくなってしまう。
疑ってばかりいるのも、何でもかんでも信じるのも、同じ事だ。どちらも相手のせいにしている。自分の道を生きねば輝かない。輝く者同士のツナガリで真世界は広がっていく。小さい世界の王様のなんと多いことか。心の中の秘密の花園。それぞれの王国と花園を結びつけることが出来たら、更に面白くなる。
経済的に自立していると、自我が強くなる。自我が強いとツナガルことが出来ない。真の自立とはなにか?心の自立は見えないだけにわかりにくい。責任を背負って生きることで自立していくのだが、そこにも罠はある。
嫌なことから逃げるために背負うこともあるからだ。子供のためというセリフはそういう時によく使われる。それは背負うのではなく、利用しているのだ。
大岡裁きで、子争いの話がある。似たような話が聖書にもあり、ソロモン王はもっと苛烈なことをいうが、結果は同じ話だ。愛とは、信じるとは、を考えさせられる小話である。興味ある人は調べてみたらいい。
簡単に自分の心を信じてはいけない。心は楽をするために、頭を使って正当化しようとするのだ。信念と葛藤の中で心は磨かれる。

待つのも愛

人々の忍耐力がなくなっている。すぐに結果を求めたり、短期的なことしか考えられないよう、時代の雰囲気により仕向けられている。企業は四半期決算を要求され、3ヶ月ごとに変化を求められる。失言したものなら、名誉挽回の機会を待つことなく、責任の追及が始まる。その結果、貴重な教訓を活かす熟成の時間がなくなり、表面的な対応と理解に終始してしまい、公共財としての知恵はたまらない。とにかく、答えはすぐにと焦らされる。

辛坊さんの事件は、「自己責任とは」という価値観について考える良い機会であった。それをただのお金の問題にしてしまうあたりが、現代の貧しさを象徴している。助け合うことの大切さも、冒険に出る勇気も、すぐに育つ価値観ではない。学ぶ機会をみすみすドブに捨てているようだ。
まずはじっくりと考えるが贅沢になっている。問題は放置しておくことで自然と解決してしまうこともある。が、その時間が待てずに、問題をすぐに解決しようとして焦って動いて、さらに事態を悪化させてしまうケースをよく見る。
人には時間が必要なときもある。焦って答えを求めても、表面的な答えしか出てこない。じっくり深めるのは大変なことだ。本当にそうか?と何度も、自分の中で試行錯誤して、熟成させる余裕はない。また、熟成させるのは大変だから、簡単な答えに逃げたくなる。
ぽんと出てきた答えに飛びつかず、じっくりと噛み砕くのは簡単ではない。現代では一日でも同じ問いに対して考えられないのではないだろうか?一日考えてみれば大抵のことは見えてくる。3日でもそれをやれば、それはたいしたものだ。なかなかそれは出来ない。答えのないことを求め続けることは苦痛だからだ。
私が沖縄で初めて出会ったシャーマン(巫女)は、私には意味不明なことばかりを話してきた。一体あれは何の意味があったのだろう?とよくわからないままに、心の中にずっと引っかかっていた。
数年後、あの時言われたことは、このことだったのか!と思い当たることがあった。自分の深層意識では感じていたのだろう。だから気になった。ふと何かの拍子でそのことを思い出す。ずっと数年間考え続けていた訳ではない。本当に大事なことは自分の中に残るものだ。そういうこともある。答えをすぐに出さないというのも、一つの知恵だ。
わからない、意味不明。はい、価値がないとするのは簡単だ。自分にはまだわからないが、何かあるのかもしれない?という可能性を認めることで、理解できないことへの受け入れる力がつく。理解できない人間をすぐに、馬鹿だとか、死ねだとか、短絡的に判断する人が増えている。
マスコミによる、操作された情報はヒントでしかない。本当にその場でどんなことがあったのかは当事者にしかわからない。発言も、一部を切り出してしまえば、本人の意図とはまるで違って見えてくる。自分が感じているのとは違う可能性があることを常に認めることが、違う存在の価値を見つけることに役立つ。
良き導き手は、答えを与えない。相手に考えさせることをヒントとして提示するのだ。考え続けたいと思わせるような問いが、良質なヒントだ。
IT世界にいた私は、スピード優先の世界にいた。そこから真逆の沖縄で、忍耐力を学んだ。性格からしてセッカチで結果をすぐ求めるタイプであったが、待つことを嫌でも学ばされた(笑)
ビルゲイツに並ぶ世界の金持ちである、バフェットに、amazon創業者のベゾスが聞いた会話を最近読んだ。要約すると、
「あなたの投資スタイルは簡単なのに、なぜみなは真似しないのか?」と。バフェットは、
「誰もが最短で金持ちになろうとし、ゆっくり金持ちになろうとはしないからだ」と答えた。
慌てる乞食はもらいが少ない。
急がば回れ。
そんなことわざがある。スピード時代だからこそ、じっくりと考えることが裏道で、結果的には早く着くのではないだろうか。すぐに判断しないのも、長い目で見るのも、愛の形なのだ。

節目の活用

今日はスーパームーンの話題が出ても、沖縄の慰霊の日が話題になることは少ないだろう。沖縄は未だに戦争を引きずっている。実は日本も引きずっていて、もはや戦争など遠い過去のように感じるかもしれないが、戦争の影響は色濃くあちこちに残っている。

それがたまにマグマのように吹き出してきて、竹島や尖閣として認識される。自衛隊という存在も、日米安保も、日本の体制は戦後のまま続いている。どこでケジメをつけるのか。時代は次のパラダイム(認識の枠組み)を用意しだしている。
次第に次の世代のあり方を模索している人が増えてきている。今までのやり方が機能しなくなってきているので、既存のやり方から変えようとするのではなく、全く違うアプローチをとる人たちは目立たない形で増加している。
大変化ほど早い。あっという間に変わる。そして、その変化のスピードは情報化社会が加速させている。情報が情報を呼び、情報にまみれて溺れるほどインプットされる社会だ。誰かの意図にのせられたまま消化していくと、気がつかないうちに奴隷化している。
知識は増えても、知恵は簡単には身に付かない。
知識と知恵の違いはなんだろうか?
慰霊の日という情報から、どんな意識が見えてくるのか?
日本も、個人も、多くの人の力で支えられて今がある。その時々で節目の出来事があり、その節目があるから、思い返したり、感謝の気持ちを思い出すキッカケにすることができる。今日のスーパームーンを見たくても、見られない無念の想いでなくなった方もいるかもしれない。
今を生きる人間として、リアルにできることを意識して大事にすることの価値を前回書いた。いつも自分への戒めとして、自分へ伝えるために書いている。そして、その過程を共有することで、共に菩薩道を歩く同志としての応援でもある。
人それぞれステージは違えど、悩みはつきない。悩み、苦しみ、葛藤を体験しながら、喜び、幸福を感じていく。今は体験できない人たちからのバトンを受け取っているのだ。既に私たちは多くのものを先人たちから受け取っている。
今はとても素晴らしい時代だ。こんなにも学ぶに適した時代はない。過去かつて存在した王様たちよりも素晴らしい生活体験が出来る上に、学ぼうと思えば、中世の比にならないくらい簡単に学べる。隠されていた情報が開かれて、その気にさえなればある一定のレベルまでは到達できる。
そこからが、いつの時代も難しいのだ。達人と呼ばれる境地は、いつの時代でも時間がかかる。こればかりはITが逆にアダとなる。論理の先に到達できるものではないからだ。
体を使って、リアルにあって、話をして、感じて、体験を通してしか得られないものこそ、他の誰にもかえられない自分の価値となる。もちろん、人はそのままでユニークで意味がある。そこに安住していてはもったいない。
美人が努力しないようなものだ。それも一つの生き方ではある。ただ、自分は一生懸命に生きるのが好きなだけだ。戦争は有無を言わさず一生懸命にさせられる。強制されるのは辛いものだ。強制されるからこそ学べることも確かにあるが、自分は遠慮したい。
かといって、一生懸命になりたくないわけではない。自ら求めて、信念を持って生きる。そうした仲間たちと一緒に学べる今に感謝している。
自分たちの死が無駄ではなかったと思ってもらえるよう、心の支えの一つとして今日の節目を過ごすのが私なりの知恵だ。
こうしてBlogを書くことが、受け取ってきたものを次の誰かへのバトンとなれば幸いだ。たくさんの想いのバトンを渡し続けていく。

意識して生きる

運命と宿命。命を運ぶと書く運命と、命を宿すと書く宿命。どんな選択をしようとも既に決まっているのか?それとも選択の余地はあるのか?どのみち、人生は生きると同時に死へと続く道であることは間違いない。生死は隣り合わせ。誕生と同時に、終わりがくることは宿命づけられている。

はじめから終わりの間、どのような人生という道を歩いていくのか。喜怒哀楽があり、悲喜こもごもに、様々な出来事から感情が刺激される。辛い感情は受け入れるのが辛いものだ。どうにかして逃げたいと思うのが人情だ。
辛い、苦しい。そんなことは経験しない方がいいという人もいる。ひねくれてしまうとか、他人に無理強いするからとか、確かにそのような側面もあるだろう。では逆に、喜びの経験ばかりしたいのが世間の望みだが、麻薬と同じで、喜びばかりでは喜びを感じづらくなっていく。
人生にはスパイスが必要だ。そのスパイスをより深く味わうのに、意識して生きることが活きてくる。いま、自分は何を感じているだろうか?
考えはすぐ言えても、感じていることを表現することに慣れていないから、自分が何を感じているかもわからなくなっている。
会いたい人に会えなかったとする。最初、寂しいとか切ないとかの感情がおこったとする。そういう感情は嫌だと思っていると、その感情を消すために思考は動き出す。しょうがないとか、今は時期ではない、相手がどうしようもない人間だとか。すると、段々感情がいつの間にやら怒りに変わったりする。
はたまた、寂しいけど、何か意味があるに違いないと自分に返していく思考もできる。人を責めずに自分を責め続けてしまう場合もある。どちらも良い悪いではない。
いずれにしても、感情は思考とともに揺れ動きつつ変わっていく。嫌な感情でも好きな感情でも、
・嫌な感情から逃げたいと考えるか、
・好きな感情をできるだけ長く続けたいと考えるか、
思考を始めて、感じることより考えが優先になっていく。
感情は、いましか感じられない。落ち着いて自分の内面との対話をすることで、感じることができる。
「いま、悲しみや切なさを感じているなぁ。会いたいなぁ」と。感じていると、連想が起きる。幸福な感情へと連想するか、不幸な感情へと連鎖するか、それは自分の意識次第。
鍵は自分にある。良いときも悪いときも、そこから逃げたり、より追い求めようとせずに、自分が感じていることを感じる。何でもないときでもできる。
手を動かしているのを感じる。ゆっくりと呼吸を感じる。ゆっくり歩いて、全身の動きを感じる。感じるようにすると、意識の動きを感じる。どんな体験も無駄がない。せわしない時代だからこそ、ゆっくりと自分と対話する。たまに気がついたときにするだけで、そのときの体験がより味わえる。それが食事中なら、より味わえる。
意識するとは集中することでもある。本当に真の喜びを味わいたいなら、悲しみや苦しみも逃げずに味わうことで、感情が引き立つ。喜怒哀楽を思い切り感じることで、魂に刻まれるものがある。
うまくいっているときこそ、感謝できるか?
うまくいってないときも、感謝できるか?
自分の思い通りのときは、自分の力を過信して自己満足が優先しがちだ。
自分の思い通りにいかないときは、相手や環境のせいにして、自分ではない他者を責めがちだ。
そこに良い悪いはない。どんな感情も感じられるのが幸せではないか?不感症だとしたら?ロボットになってしまう。好きとか嫌とかも、表面上のさざ波のようなものだ。深い部分ではつながっていると信じている。
想える相手がいることにそもそも感謝だ。心も、体という相棒がいるからこそ感じられる部分がある。心は感じることで育っていく。その心が感じたことを魂がもつ意識の力で頭を誘導するのだ。魂が心を使って感じようとすればするほど、頭にとっても学びが深くなる。
自分をもっと感じられたら、他人のことも感じられる。逆もまた真なり。他人の感情を感じたら、自分の感情も感じる。つながっているのだから、自分のためも相手のためもなくなってくる。
意識することで、その対象とつながりを感じられる。新しいゆいまーるが生まれてきている。見返りのない、相互扶助、お互い様の精神が、心と社会を豊かにする。意識して、つながりを感じて自然と広がっている。

タイミングはいつも今!

よく上京した人が、「東京は人が多い」というのを実感するようになった。沖縄にいて東京に来ると、駅などに見る人口密度の高さに、人をモノとして捉えてしまうのも無理もないと感じる。出勤前に、コンビニで暖めた弁当を、ゴミ箱の前で立喰している人を見かけた。以前なら何も感じなかっただろう。今回は強烈な違和感を感じた。

ただの餌としての食事。ご飯も落ち着いて食べられない社会はどこかおかしくないだろうか?彼だけの問題ではない。社会がスピードを要求し、コスト低減を要求しているのだから、ゆっくりと落ち着いてというのは贅沢なことになっている。
放射能による汚染で今後出るであろう病気を、他の原因にすり替えるかのように、急に報道されるようになったPM2.5。その一方で、無農薬の奇跡のリンゴだと、ありのままがいいようなイメージでムーブメントが仕掛けられる。どちらを向いても、経済経済の大合唱。首相も口を開けば経済成長。
どんなにキレイ事を言っても、金儲け優先、金がなければ生きていけない、とヒステリーのように強迫観念になっている。よほど、これこそ洗脳ではないか。今の時代には、三年寝太郎は即刻切り捨てられてしまう。余裕のない社会だから、自殺者も減る気配が一向にない。
都会が悪いわけではない。人は無意識に周囲の行動を真似ている。見殺しにする人が多ければ、自分も見殺しにする。若い女性と子供が餓死した事件を思い出してほしい。自分に関係ないと思うのが普通だ。ふつうのコトをしてきた結果、今の社会があるのだとしたら?
普通じゃないことをするのは勇気がいる。しかし、よく考えた時、どちらが普通なのだろうか?見殺しにする社会が普通なのだろうか?
「100万人の母たち七夕プロジェクト」という運動がある。子供を抱えた母親の気持ちは動かずにはいられないのだ。これが普通ではないだろうか?日々危険が垂れ流されていることに不感症になりがちだ。今までの自分がダメだと思ったしても、今からの自分はいつでも可能性に満ちている。
沖縄にいては知らなかったことだが、東京の霞ヶ関から神谷町の方まで、TPP反対のデモがあり長蛇の列だったという。こういうことはあまり報道もされないから、全然知らないでいた。
最近元CIA職員が秘密をリークした事件があった。
「米政府が秘密裏につくりあげた監視機関を使ってプライバシーや基
本的自由を侵害していることに、良心が許さなかった」という。
良心に従うのは勇気がいる。大きなことをしなくてもいい。ほんの少し、毎日、ほんの少しだけでも、良心に従う行動を起こすことで、いつかは大きな流れになる。
何かを買うときに良心に聞いてみる。お金を使うのは社会への投票と同じだ。どんな選択でもいい、自分の価値観を確認するのだ。
また、絶望や怒りに囚われた時、
困ったときに、
一歩引いて落ち着いてから良心に問いかけてみる。
感情にとらわれてはいないか?勇気を出すとしたらどんなことができるか?
いつでも、始まることができる。ほんの些細なキッカケで、世界は変る。

正しさの罪

 沖縄に来てからというもの、数百人の人たちを沖縄案内してきた。いわゆる観光地よりは、御嶽(ウタキ)という聖地や、自然、基地といった、観光ガイドにのっていないような場所を選んで連れて行っていた。

沖縄に関わった当初は、沖縄が日本の中の南北問題のようであり、差別問題でもあると強く感じ、戦争も含めて、多大な犠牲を払った、沖縄を何とかしたいという想いから関わるようになった。良く言えば純粋な想い。悪く言えば、世間知らずで独善的とも言える、弱者救済という想いで突っ走っていた。
大義名分から始まったが、次第に自分自身が沖縄で会った人々に救われたことで、この人達のために何とかしたいと燃えて活動するようになり、更には実は自分がしたいことが沖縄にあったと気がつかされて、人のためと自分の為が融合していった。
最初、IT企業の仲間たちを、やんばるの山奥まで連れて行って、沖縄の現状を訴え、
「自分たちが東京で安心してIT事業に邁進できたのは、日米安保があるからで、そのアメリカに一番恩恵を与えている沖縄に恩返しをしようじゃないか」と熱く訴えていた。
「それなら政治家になったら」とよく冷めた声で言われたものだ。
今思えば、稚拙なのだが、純粋に良かれと信じてやった挙句、IT経営者の仲間たちから距離を置かれてしまうこととなった。因縁には良かれと思ってやっても伝わらないということを学んだし、彼らには彼らの正義があることも考慮にいれなければ伝わるわけがないのだ。
人にはそれぞれ正しさがある。今は、逆にIT企業の面々は、資本主義のスピードを早くして、社会の問題を露骨にしていく役目があると感じている。中途半端な状態より、トコトンやったほうがいいのだ。役目が違う人に、違う役目を頼んでも、それは押し付けに感じてしまう。
自分には彼らのように上場させたり利益を出すために必死になることはできないし、またその能力はない。自分はベンチャービジネスというより、ビットバレー運動に燃えた、どちらかというと起業家より革命家志向だったのだ。自分は次世代のひな形を作る仕事が好きで、それをする役目がある人たちとは自然と縁もつながってくるのを実感している。
ちなみに、高校の頃から、「パラダイムシフト」という言葉が好きで、その言葉を知った「パラダイムブック」という本を愛読していた。ニューサイエンスにワクワクしたタイプだった。その頃から革命が好きだったんだなと改めて思う。
沖縄に関わりだした当時、熱心すぎて当時の仲間たちから距離を置かれたからこそ、新たな人間関係を作るしかない状態に追い込まれた。困らなければ、新しいキッカケを掴めない。あの時、身近な人達に拒絶されたからこそ、新たな人間関係がうまれ、次のキッカケを作る役割の人達と繋がれた。また、人と関わるのを避けていた自分だが、人と関わらざるを得なくなったキッカケでもあった。
今でも、自分は当時の想いも考えも恥じることはないが、本当に何かをしたいのなら、自分の概念だけで凝り固まっては、小さな王国の独裁者でいるしかない。そこを勇気をだして飛び出すことで、新しい世界と繋がれる。わからない奴は、わからなくていいという想いも大事だが、わからないひとにどうしたらわかってもらえるかを努力し続けることも同時に大事なことだ。
今、ビジネスで成功しようとすれば、想いは邪魔なのだ。本当に想いがあると儲からない。大量を求めるとどうしてもそうなるのだ。相手のために本当に想えるのは、多くても100人前後だ。それ以上になると、相手は友人ではなく、顧客となる。
話を戻そう。自分の信念が強ければ強いほど、同時に相手へ違和感を与えてしまう。その正しさの罪も自覚した上で、その正しさを広げていけるか、器が求められる。清濁併せ呑むとはまさにこのことだ。
器の大きさが大事で、その器を広げるには、狂信的な期間が必ず必要なのだ。そうした思い切りがないと、今いる居心地の良い世界からは抜け出せない。理性で冒険には飛び込めないからだ。
かといって、いつまでも狂信的では世界は閉じたままで広がらない。その狂信者と大衆との間に入る、フォロワーがついて変化が加速しだす。人間、一人だけでは何も出来ないが、一人でもやり遂げてやるという覚悟がなければ始まりもしない。
日常に生きている人をいかに非日常の生活へと導くかが、本当の仕事で、それが菩薩道だ。ただ、単純に正しさを訴えるのではなく、その危うさを自覚した上で、正しさの裏側にある想いを伝える、より高度な仕事が要求される。論理は伝えるのは簡単だが、想いを伝えるのは楽ではない。
正しさだけでは難しいが、正しさなくして、何も伝わらない。矛盾の中に答えがある!

菩薩宣言(ぼさつせんげん)

「人が変わるのに時間は必要ないのだ。たった一瞬で変わってしまう。(中略)
石炭の時代から石油の時代へと変わったように、時代は確実に変わっていく。

人は、安心・安定を求めて行動をし、そこに成長という軸をもって三角形を形どり動いている。成長するから安定し、成長するから安心する。ところが、それがいつしか、やりすぎて、必要以上の成長、安定を求めだしたからおかしくなった。

必要以上のお金を欲しがるのは餓鬼道。
求められているのは、物質的な成長から精神的な成長に変わった。」

2009年10月20日のこのエントリーから、Blogのタイトルを「日々、菩薩の道」と変更しました。その時は菩薩の意味を説明しませんでしたが、当時「長崎出身の主婦」の方が調べてコメントしてくれました。

「菩薩の意味が分からなかったので、調べました。自ら修行し、衆生を教化する人。仏陀に次ぐ位」

一緒に学び、共に歩くのが菩薩で、何かを求めて何とかしたいと願う人はみんな菩薩予備軍です。社会に表立って影響を与えてきた人間は菩薩たちなのです。宗教家に限らず、経済人でも政治家でもスポーツ選手にだって菩薩はいます。善人にかぎらず、悪人であっても菩薩なのです。そこに良いも悪いはありません。長い目で見れば、どんな悪党にだって役割があるからです。ちなみに、影から影響しているのが如来的といえます。

人は、みなそれぞれの考え(思い込み)で生きています。しかし、決めつけては、見えるものも見えなくなってしまいます。自分の近くにはないと思い込んで、頭の上にメガネをかけたまま、メガネを探すことになるかもしれません。菩薩への第一歩は、

「これで本当にいいのか?」と疑問を持つことから始まります。

「本当にこのままの仕事のやり方でよいのでしょうか?」

「当たり前と思って、本当に大事なことを見逃してはいないでしょうか?」

「人生を本当に生きているのでしょうか?」

「必要以上にお金、時間、自由、平等、その他を求めすぎてはいないでしょうか?」

「本当に必要なものとはなんでしょうか?」

 改めて、菩薩の道とはどんな生き方なのかを考えて行きます。 共に学び、共に歩いていけたら幸いです。