2012年01月15日のつぶやき

11:16
『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 疑問積み重ね丹念に追求 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース http://t.co/rFVxMWaF
11:34
今日は朝から研究会した。朝から、信号の取り方、曼荼羅のやり方、悪霊の使い方など、危ない会話で、はたからみたら気持ち悪い人たちだと再確認。
12:21
これ面白かったな。高野 和明 の ‘ジェノサイド’ を Amazon でチェック! http://t.co/YdTw3Lnt @さんから
12:24
これもオススメです。伊藤 計劃 の ‘虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)’ を Amazon でチェック! http://t.co/YhNx9aet @さんから
21:46
沖縄密約の山崎豊子さんの原作ドラマ。http://t.co/DMt3Wr1M

聖と俗の境目

 13日の金曜日だ。不吉だとか気にしている人もいるだろう。誰かが作った概念に支配されて、気分を左右されるのは面白く無いではないか。その裏の意図、もしくは、ある世界観による理屈を理解することで、その概念を逆に使えるようになったらどうだろうか?

東日本大震災も、鬼門の方角だからだという人もいる。正しいといえば正しいし、正しくないといえば正しくない。じゃあ、そこからどうするか?が大事なのだ。鬼門だとしたらどうするのか?裏鬼門に気をつけるのか?気をつけて何とかなるものなのか?自分にとって何の意味があるのか?そうしたことを深めずに、危ない危ないと避けようとしても、全く意味が無い。
忌み嫌われるものは、同時に聖なるものでもある。聖なるものは、普通ではないゆえに聖なるものとなる。異端もまた、普通ではないゆえ異端となる。キリストも、最初は忌み嫌われ、後に聖なるものとなった。
今の世界は、悪を許さないという、ひどく狭い世界になっている。そういう意味では、人類は退化している。聖なるものと俗なるものは、本来は切り離せないのだ。正負のバランスを上手にとってきたのが日本人なのに、いまや善か悪か、単純なハリウッドスタイルしかない。
差別は悪いで思考停止。江戸時代であれば、貸金業は目の見えない人だけに許された職業で、勝海舟の祖先はそれで成り上がって旗本の権利を買った人だった。歌舞伎の興行だって、汚物の処理を担っていた人の許可がなければ、興行できなかったのだ。汚物処理という人の嫌な仕事をする代わりに、利益と人気を得ていたのだ。歌舞伎という芸能に彼らが関わっていることに、妬みや嫉妬が湧いたとしても、所詮は汚物処理屋だと思うことで、大衆は胸のつかえを下ろしたのだ。
差別や悪を、無批判に拒否するのではなく、現実にどう活かすか?その視点を忘れて、切り捨てようとしても、そのしっぺ返しは必ずくる。知恵のない世の中だ。
弱い者たちや、世間とは違う生き方しかできない人たちの居場所がドンドンと奪われていく。しかし、そうした弱い者たちこそが、普通の人たちが超えない境界を超えて、新たな活力を生み出してきたのも事実だ。
昔は、河原者と呼ばれた、どこから来て何処へ行くのかわからない人たちがいた。役者や革職人たちが多く、そうした流れ者たちの中から、芸能は生まれてきた。元からアウトローだと誰もが自覚することで、自ずと役割は見えてくる。
それを忘れて綺麗事を言った所で、何か時代を作るものは生まれないのだ。わかりやすいラベルを貼って、感じることを忘れてしまえば、そこには常識という非常識があるだけだ。この意味がわかるだろうか?
日本人の常識である、お正月には鏡餅と門松、注連縄。一体それらはなぜ飾るのか?と疑問を持たないのが一般常識だ。これについては、面白いコトタマ理論もあるが、知っても好奇心が満たされるだけだろうから、書かないでおこう。
聖なる日々が去り、俗なる日常がやってきた。ハレ(非日常)とケ(日常)の狭間が面白いではないか。ケが枯れて、ケガレというが、活力を再生させる装置は、両極がハッキリしないことには機能しない。
ハッキリさせたり、清濁併せ呑んだりと、矛盾の中にしか、真理はない!

ひとつになること

人に伝えること。知識(頭)を伝えることがあっても、想い(心)を伝える機会は少ない。それが現代ではないだろうか。例えば、会社に新たな仲間を迎えるとしよう。普通の会社のやり方では、想いは伝わらない。想いありきではなく、仕事ありきで入社となるからだ。
普通の組織では、売上や利益などの拡大・増大が成長の指針となる。勿論、それが間違いではないが、利益と想いのどちらを取るか?となれば、利益を取るのが普通の会社だ。想いの成長という指針は目に見える形にしにくいからでもある。心は見えないからと、どれくらい想っているのかを感じようとすることはない。感じるためには手間暇がかかるのだ。
じゃあ想いは測れないのか?測れるのだ。覚悟という形で、想いを見せることはひとつの例として出来る。他にも、必死に訴える。信じる。委ねる。などなど行動で想いを測ることもできる。勿論測れない想いもあり、それは感じるしかない。
普通の会社であれば、給料があって当然だというスタンスだ。生活のために入社するのだから当たり前だ。受け入れる方も、入る方も、どこまでいっても契約という形の中での、想いということになる。生活が保証された上での想いだ。ないよりはあったほうがいいという立場だ。となると、想いがある人が作った会社も、段々と想いが薄まり、想いがある人と、想いはないけど、人の想いを今だけ手伝う人とに別れていく。
当初は生活よりも想いを優先して始めたことも、同じ熱をもって一緒にやる人はそうはいないのだと気がつくにつれて、自分の想いを実現するために、お金をあげるからやってくれる人を探そうとなり、その中でも、想いを比較的持っている人にお金を払おうとなる。最初からお金を儲けようという想いであれば、同志は見つかりやすいだろう。しかし、そうした気持だけでは発展しないのが相場である。誰しも、自分の得になると感じない限り、応援することはない。「一緒に儲けようぜ」も、うまくいっているときはいいが、上手く行かなくなった途端に破綻する。
社会では、露骨や正直であると問題が生じるため、本音を隠した社交辞令で動いている。会社に入る人も受け入れる人も、それぞれ別なことを欲している。
・楽して金が欲しい人(ほぼ全員)
・自分の成長のための職場を求めている人
(自分の想いが優先だけど、今は金のために妥協している)
・好奇心を満たしたい人(知識欲のため)
・言うことを聞いてくれる奴隷が欲しい人
(自ら考えたくないので奴隷になりたい人も)
・自分を儲けさせてくれる人(傭兵)
こうしたことを露骨に言うとカドがたつ。
それを隠して、綺麗な形式的な形に変えて伝えていく。綺麗事を言っても、入ってしまえばそれが嘘だとすぐにわかる。それでも、綺麗事の戦いはやめられない。お互いに暗黙の了解で、最初から綺麗事だとわかっているからだ。狐と狸の化かし合いである。
こうして現代人は、心が感じなくなっているので、表面的な言葉にとらわれて、本音を見抜けないまま、頭を使った化かし合いを続ける。想いなんてことよりも、いかに期日までに形を作るかのほうが優先される。だから、心ない人でも、形にできる方が評価されていく。
家庭で言うと、女性がただ寂しいだけのことが言えずに、
「約束したじゃない。なんで帰ってくるのが遅いの!!」と怒るようなものだ。そこで男性は、寂しいという心を理解せずに、
「仕事だったんだからしょうがないじゃないか。金がなければ暮らせないぞ」と、相手の表面の怒りに反応した、自分の怒りを隠して、形式の戦いに入っていく。
なるべく本音に近いほうが、人も熱心に働くということで、やる気の動機づけを一生懸命あとからつけようとする。順番が逆である。本来であれば、自分がやりたいから入ったのなら、お礼としてお金を自分が払うのが筋だ。昔は、だから丁稚奉公で住み込みで奉仕しながら学ばせてもらっていたのだ。自分のために学ぶから、自分の時間を売るに意識が変わったから、今の考えが常識だと勘違いしている。
「経験させてもらえて有難いから授業料を払わないといけないな」そういう気持ちであれば、給料をもらえたら、
「本来自分が払うところなのに、逆に貰えて有難いものだ」と感謝を忘れない。
「自分のためじゃない。お前のために時間を売ってやってるんだ」という本音を隠して、綺麗事で上手く回そうとするから、どこかにひずみが生じる。想いのある仕事を成し遂げようとするのではなく、金儲けのための仕事をするためと割りきっていれば話は早いのに。
そのことを隠して、「お客のためにこうしよう!」と方法論を押し付ければ、押し付けられた方は心では拒否しながら、そのことを隠して、真面目にやっているフリをする。しかし、心のなかではイヤイヤに仕事するので、創意工夫もなく心が入らない。
次に相手に気を使って、優しく相手の気持を引き出すようにしてみると、今度は自分を舐めてつけあがり、楽して終わらそうとしてまたまた出来が悪くなる。
それではと、自分の姿を見せて解ってもらおうとしても、そもそも想いが伝わっていないのだから、誰も見ていない・・・。
「一体どうすりゃいいのだっ!」 と自暴自棄となり、あの手この手で言うことを聞かせようと益々敵対的になるか、自信をなくし、うつ病になってしまう。
優しい人間は、元々自分を責める傾向にあるため、こうした反応で魔界入りしてしまう。仲間同士でこんな話をしていた。
「自分に自信を持てない人間は、弱いところを突かれて弱ったらそこまでよ」と。チームに責任を感じれば感じるほど、どうにも一つにまとめられない現実に打ちのめされてしまう。

良い人はこういう風に考える。
「頑固にならないように、相手の言い分にも聞く耳を持つようにしなければ」と。自信があって聞くのと、自信がなくて聞くのとで、結果は変わってくる。信念がなければ、結局相手の言いなりになってしまう。
かといって、無理に自信や信念を持とうとしても、作った姿勢は不自然となり、相手に違和感を感じ取られ、違和感のある人間の言う事には耳を貸さない結末となる。違和感がある人が、このBlogで掲載しているようなやり方を表面だけ真似してもおかしなこ
とになる。
我々の世界でよく使われている言葉でも、悪用したら、エゴの想いが広がってしまう。
「敢えて」を自分にも向けてではなく、相手だけに強要する。
「自分で深めて」と真に相手のことを想ってではなく、自分が楽するために突き放す。
「共有」を「ただの情報共有」としかとっておらず、
「相手の想いを共有する」感じる事をしない。
現代は、バラバラな状態だ。国も会社も家族も、個々に切り離されている。バラバラにしなければ金が儲からないからだ。一家に一台より、一人に一台なのだ。繋いでいくのは大変な作業だ。例えば携帯を一家で一台にするための労力を考えてみて欲しい。説得、譲り合い、我慢、不便利、もう想像するだけで大変だろう。一人一台にする方が圧倒的に簡単だ。お金で摩擦を避けられる。
愛と感謝がなければ、お互いに繋がることはできない。
自分と相手、どちらか一方だけでは無理なのだ。双方が共に繋がる努力をしなければ、ひとつになることはできない。目の前で一つになれなければ、世界も一つにはならない。
ふたつ以上がひとつになった時の喜びは、個人が追求する喜びを超えるのだ。元旦の駅伝が素晴らしい教訓を伝えてくれたではないか。個人の偉業よりも、集団で成し遂げるからこそ、喜びも深いのだ。駅伝の結果という知識ではなく、青春を賭けたというそれぞれのチームの想いを感じることだ。それを感じることができたら、見知らぬ彼らともひとつになれる。
自分の縁がある人と、小さくてもいいから何かを一生懸命に一緒に成し遂げ、ひとつになる感覚を味わうことが、世界を繋ぐ糸となる。

占い師や霊能者が必要とされる政治的な理由

 以前、藤田小女姫という占い師の話を書いた。その時に、それなりの人間が占いに頼るのは信じがたいという意見を頂いた。
普通に考えたらそうだろう。

まさか、トップの人間が占星術で方向を決めていたと聞いたら驚くし、そんなトップを信じられなくなるかもしれない。勿論、そう思われることは熟知していて、あえてそのことを出す人もいれば、怪しいと思われると困るからこそ隠す人もいる。
 堂々と「霊的情報を活用しているよ!」と出しても、聞いた方は、
「まさかそんなことないだろう」と信じなくて、面白い冗談をいう人だと思われることもある。
 霊の世界が当たり前の人は、ユタの活用などは当然の話だ。霊的なことの活用方法を知らない人は、周囲の人間が「あの人に霊的な話を言ったら怪しいと思われるに違いない」と判断して言わないだけかもしれない。実際、沖縄に足しげく通っている本土の人でも、ユタのことを地元の人から聞いたという人は少なかった。
最近は、そうしたことを表にだそうとしていることもあるので変わってきているが、ウチナンチュだって遠慮して話さないことはまだある。しかし、こちらが先にユタや御嶽の話をすると、面白いくらいに、
「実は行きつけのユタがいてさぁ」とか「家族がユタ狂いで困っている」と告白する人は多い。沖縄では、相談するなら弁護士半分、ユタ半分とか、医者半分・ユタ半分、警察半分・ユタ半分などといって、専門の職業の人間に相談するより、ユタに相談することを選択肢の大部分も占めているのだ。本土の人からしたら信じられない話だろう。それだけにユタの偽物も多い。これはまた別の機会に。
  企業も役所も、組織というものは大きくなればなるほど、決めるということが難しくなっていく。どちらも正しいと言えたり、そもそも答えがないような事例が増えてくるからでもある。そして、その決断によって、得する人、損する人、それぞれ利害関係が絡む人が多数になるから決めづらい。そんな時、鶴の一声が求められるのだ。
 以前、ある省庁の官僚に聞いた話だ。その省では、小女姫(こととめ)案件と呼ばれていた案件があったと。小女姫案件であると、異議もいえず、とにかくやるしかない面倒で嫌な案件だったという。
「これは小女姫案件だから」と言われてしまうと、有無をいわさず実行させられてしまうのだ。面白くないだろうか?霊とか占いというのは検証が不可能な世界だ。だからこそ、これを逆に利用することができるのだ。
そのことを政治的に利用して、決断を正当化することも出来るというわけだ。
小女姫が言っているのだから仕方が無い。これほど便利な言い訳はない。
小女姫が関与したという松下電器の山下飛びをご存知だろうか?
経営の神様と呼ばれている松下幸之助の指名で、序列25番目の平取締役から社長に抜擢したごぼう抜き人事のことだ。東京五輪の体操で「ウルトラC」を出した山下にちなんで「山下飛び」と言われた。
 当時はもう幸之助といえども、組織が大きくなりすぎて誰がいいかわからなくなっていた。でも社長を決めなければならない。実際は誰にしたってそう大差はない。でかい組織というものは、そういうものだ。誰がいいのかわからない、論理や、まして好き嫌いでは決められない。そんな時に、占い師や霊能者の出番がやって来る。
 末席からごぼう抜きするという話を聞いた時、幸之助は「これは面白い」と思った。そういうセンスはあるからこそ、名を残しているのだ。使えるものは何でも使うのが概念のない人間だ。
霊的な人たちは、しがらみや常識から自由である。だからこそ、普通の人たちにはない視点でモノゴトが見えるのだ。全部が全部占い師や霊能者の言うとおりにする人間は失敗する。
一方で、霊的な世界を活用できない人間も限界がある。人智を超えた現象を利用して、勝利に導いたリーダーの例は、歴史を調べたらいくらでもある。それを本当に信じていたかどうかなど、どうでもいい話でもある。勿論自分はそうした世界があることを信じているし、その方が面白いと感じているから、信号を活用しているのだ。

神話の始り

 壬辰(じんしん)の年が始まった。じんしんという響きを聞くと、壬申の乱を思い出す。干支は違うけど、音は一緒。兄弟争いで、弟が勝った乱。兄弟喧嘩の題材は、神話に数多く登場する。親子・夫婦喧嘩と並んで、昔から人々の切実な問題だった。争いをどうおさめ、解決するか、これからは新たな神話を生み出す時期だ。兄弟争いも神話とは違う結果が求められる。

我々は、因縁の問題に数多く関わり、経験を積んできている。それが口コミで広がり、相談が増えている。因縁を通して、人は進化する。進化するための道筋も、神話の英雄物語が参考になる。このあたりは、ジョゼフ=キャンベルの「千の顔を持つ英雄」が詳しい。簡単にいえば、
1.セパレーション(旅立ち)
2.イニシエーション(通過儀礼)
3.リターン(帰還)
である。
ひな形を学び、現実に活かす。神話に限らず、歴史や由来を知ることで、過去の財産を有効活用できる。人類が残してきた無形資産を受け継ぎ、将来の糧となる無形資産を築いて残していくことが、今の時代に生きる人間の大切な仕事だ。エヴァの主題歌で、
「少年よ、神話となれ」と歌われていることの真意だ。
自分の中にある、意識と無意識の対立と融和。(自分を知る)
自分と他者との間(関係性)に生じる危機と機会。(自分と世界を繋ぐもの)
自分と社会との間にある溝の克服、境界線の設定。(世界を知る)
いま目の前にあるテーマを、過去の神話をヒントにしつつも、新たな神話を紡ぎだす。漫画や小説では、真の神話は生まれない。キッカケとはなるが、人が真に体験した感動にかなうものはない。事実は小説よりも奇なり。こうした物語こそが、心に残るし、深層意識に刻まれる。深層意識から、テーマを拾うことは漫画などでもできるが、深層意識に刻むことは体験しかない。
昨年11月の誕生日後から、妙見菩薩の信号を得ていた。妙見信仰はとても幅広く、簡単には書けないが、北極星信仰と通じている。妙とは、きわめて優れている意味がある。妙見とは、きわめてよく見える、先が見通せる、善悪の区別をつける、などの意味となる。
妙見菩薩は、別名、妙見尊星王(みょうけんそんしようおう)、北辰(ほくしん)妙見菩薩とも呼ばれる。龍馬が学んだ剣術の流派が、北辰一刀流で、教えていた千葉一族は代々妙見信仰を守ってきた一族である。千葉一族が龍馬をバックアップしていた。また龍馬の先見性と妙見は繋がるところがある。
千葉一族は、平氏の一族だったが、源頼朝を応援した。なぜか?単純に源平の戦いとは言えないのだ。今年は、平清盛が大河ドラマの題材に選ばれている。武家として初めて太政大臣になった清盛だが、それよりも前に、新皇を名乗った平将門に自分は注目している。将門は妙見菩薩により守られたと厚く妙見菩薩を信仰していた。
将門はたった数年だけの活躍にすぎない。しかし、今も密かに影響を及ぼしている。誰しも、皇居前にある将門の首塚の話は知っているに違いない。たった数年だけ表舞台にたった人間が、なぜいまも神田明神に祀られているのか?
そして、源頼朝がつくった鶴岡八幡宮と、彼を尊敬していた徳川家康が作った、日光東照宮の関係。妙見信仰が結んでいく霊的結界と世界観。日本の神話は古事記、日本書紀だけではない。時代を創ってきた人々の背景にある、信念や信仰こそが、日本の歴史を創ってきたのだ。彼らの意識を理解したとき、日本人である自分をより意識して、日本人ならではの創意工夫が生まれるのだ。妙見信者である葛飾北斎の絵が、欧米の絵画に影響を与えたように、日本的方法が新たな世界を作り出し、世界に伝えられることがあるのだ。
こうしたことを知らなくても、無意識に従って生きていれば、時代の流れを掴むことはできる。むしろ、知らないほうが概念に囚われずに、自由に創造できるとも言える。知ってもいいし、知らなくてもいい。いずれにせよ、求めるものには信号があるし、ご縁がある。
自分はただこうしたことが好きで調べているだけだ。そこに良い悪いはない。見えない信念と信仰こそが、世界を産み出す母なる大地と感じている。だからこそ、過去の菩薩たちが母体とした信仰や世界観を知りたいと思う。意識しなければわからないが、堂々とそうした秘密は開示されている。
何も知らないで出かけた先で、シンクロと信号があり、隠された一面を知ることが多い。そうした出来事がその人の物語となるのだ。自分しか知らない物語だとしても、それは世界を陰から見守っている無意識と繋がっている。
一人ひとりが、どう生きるか?世界を良くしたければ、それしかない。一人ひとりが神話になれ!どの物語が生き残るか?それも楽しい付録だ。生き残ることを意識したら、それは残らないだろう。人生を貪欲に、真剣に生きる人間の物語は当人も周囲も楽しいものだ。
世界は今年、更なる波乱で盛り上げてくれるだろう。舞台は整っている。激動の時代だからこそ、恐れず飛び込むしかない。守ればやられる時代だ。波乱万丈だからこそ、人生は楽しいのだ。
自身の原点への想いを忘れず、感謝と共に歩く人間には、必ず世界は応えてくれる。自分と世界を信じて、神話を創造しよう!

無量無辺な世界

まだ弱い太陽の薄明かりの中、男が目を覚ました。一瞬、自分はどこにいるのかわからなくなるが、寒さと布団の感触で、いま自分がどこにいるか理解した。目が覚めた時、無意識からの贈り物である、夢のお告げを書き留める習慣があった、偉人の話を思い出す。さっきまで覚えていたのに、もう次の思考へと変化していて、昨夜の夢はまた無意識の中に沈んでいった。

男の朝は、法華経の読経から始まる。思考と体験の末にたどり着いた、思考を超えた信仰の世界。一心に読経を行い、自らの声と一体化する。その時、閃きもあるが、閃きを受け止めつつ、まだまだ没頭の余地があると精進を自分に戒める。
霊能は女性のほうが優れていることが多い。自らの感覚と霊的感覚の違い。共に生活をしている受信者と、会話とも打ち合わせとも言えない時間を持つ。霊告日記はそうして生まれた。今日も始まったばかりだ。明日どこにいるか、今の時点では何ともいえない。予定はあってないようなものだ。未来は何も決まってはいない。
平均的な日本家屋の居間で、親子が会話している。技術者である父は昔から、技術が、技術を知らない人間によって活かされないことを嘆いていた。技術を持って世界に影響を与えようとしてきた父は、社会の動きに敏感だ。
「一連の原発・地震関連被害などの問題を生み出した、真の犯人たちは逮捕されることもなく、堂々と生きている。かたや、たいした問題でもないことを、重大な問題のように仕立て上げて、罪に落とされる人間もいる。権力を持つ人間の罪を身代わりに払わされる。イケニエだよ。原始社会と何ら変わらない。いや、原始社会より更にたちが悪い。神に捧げるほうがまだましだ。自分のエゴために犠牲を捧げるのだから、イケニエにされた方も救いがない。これが今の社会だよ」
その話を聞いた娘は、もっともな話だと納得はしながらも、違和感を感じていた。
「そうだろうけど、お父さんも口だけの人間じゃないか。言うことは立派で反論はできないが、ただの評論家で、仕事はしているだろうけど、家族はバラバラで、権力者たちと本質は変わらないじゃないか。ただ立場が違うだけで、本質は同じで、目の前のことから逃げている」
しかし、その言葉を口にだすほど、娘は愚かではなかった。何度となく衝突してきた結果、思ったことを口に出しても、受け入れられないことは痛いほどわかっていた。娘も父も、心の壁を作り、あきらめの中にいる。
「もうすぐ50歳か。おれの半世紀は一体どんな意味があったのだろうか?」誕生日を間近に控え、日課となっているが、やらされているのでイヤイヤ掃除をしながら、背の高い男がぼやいていた。まるで昼ドラのような家族の争いのはてに、すべてが嫌になってお寺に入れてもらったのだ。ここにいれば、衣食住はある。しかし、それだけだ。自殺しようと思ったが、最後の最後で勇気がでない。子供という存在がなければ、とっくの昔に、自然に還っていたはずだ。寺の和尚の言葉を思い出す。
「この世には人間が作ったルールよりも、はるかに大きく、そして大切なルールがある。それは、生まれたからには、とことん人生を味わい尽くして、立派に死ぬということだ。途中で、自ら退場するということは許されていない。ルール違反だ。どんな悩みも苦しみも、またどんな繁栄も富も幸福も、永遠には続きはしない。いずれ過ぎ去るのだから、いま感じることを大切にしていきなさい」
「そんなことを言っていたような気がするが、自分の都合のいいように覚えているのかもしれない。てっとり早く、誰か教えてくれ!今って言ったって、何も感じないよ。意味が分からないよ。もう何でもいい。助けてくれ。ふー。しょうがないか。あー金があればなぁ。」どうしたらお金儲けできるか考えながら、とりあえず掃除を始めだした。またいつもの日常を繰り返す。
かつて体験したことがないほどの感動と幸福感を感じている若者がいた。一体この感覚はなんだろうか?説明は難しいが、今まで意味がわからなかった絵や音楽の意味が理解できたような気がしていた。こういう感覚を何度も感じたくて、きっと麻薬にハマるのだろうと思った。何を見ても、美しく見える。特に自然を見たときにそれは強く感じた。
波打つ海面。降り注ぐ陽光と月光。すべてが昨日までとは違って見える。今まで同じだとおもっていたものが、一瞬一瞬移り変わり、その姿を変えていくことが、心で感じられる。ただただ、涙が出てきて、胸が一杯になる。一体今まで自分が見ていたものは何だったのか?と自分を殴りたくなる。目玉の前に、何十ものフィルターを通して見ていたようだ。目からウロコが取れるとはまさにこのことだと、頭の中で、膝を叩いている自分が見えた。
いまこの瞬間でも、平将門を思えば、彼と繋がることはできる。時代を超えて、同じ想いを感じられるのが霊長類の特権だ。日本人は面影の中に、大切なモノを感じてきた。表面にあるモノの影にあるモノ。感じるしかないもの。感じる力を失っては、遺伝子や国籍は日本人だとしても、もはやそこに日本人の魂はない。感じた見方、見立てを楽しみ、風流に生きる。限界がある表面の世界から離れて、際限のない影の世界を楽しむ。
繋がりを感じ、それを表す。見えない糸を見えるようにして、また見えないものを更に繋げていく。終わりのない楽しい遊び。自分だけが感じることが、どんな人でも必ずある。同じ人はいないのだから当たり前な話だ。誰かの概念だけで表面的に生きることのつまらなさ。自分の世界を感じ、他の世界と繋げることで、更に豊かになっていく、心の世界。誰かの概念が自分の概念へと繋がっていく。人と人、人と世界、霊と魂の繋がり方は多種多様だ。たった一つの答えなどない。
世界はあなたが心をひらくのをずっと待っている。物語はいまから始まる。

因縁の力

 日付は節目となる。誕生日はいい例であろう。本当を言えば、毎日が誕生日で、同じ日など二度とないが、一年に一度だからこそ感慨深いし、自分以外の人間を想うキッカケにもなる。

自分の縁ある数字に触れると何か嬉しくなる。それが時間だろうと、整理番号だろうと、走行距離や、車のナンバーでもいい。そこから連想する人やモノゴトに、想いを飛ばしたりして、念を込めている。

人知れず、祈りをあげる。自分の場合、毎朝掃除をしているとき、必ず想っている人の名前を心の中で唱え、念を飛ばしている人たちがいる。実際には会っていなくても、いつも想うことは出来る。
お百度参りとかで、人に見られないほうがいいと言われているのは、表面的なことよりも、心の中の状態を重視してのことだ。真意(真実の意味)をはき違えて、形だけにこだわって、こそこそ見えないようにお参りしても意味がない。
お百度参りしたいと思う相手は、その人にとって因縁の相手だ。そうでなければ、そこまでの想いは湧くものではない。愛するにしろ、憎むにしろ、相手に対して深い想いがなければ、無関心で思い出しもしない。
そうした相手がいることは幸せなことだ。そのために人は頑張れたり、自殺を思いとどまったり、普通では投げてしまうことも頑張れたりする。悔しさで、あいつを見返すまでは死ねないというのもいい。そのエネルギーを生み出すのは因縁にしかできない。
あの人は今どうしてるだろうか?
苦しいとき、切ないとき、悲しいとき、嬉しいとき、その人と分かち合いたいと思う相手がいないことはとても寂しいことだ。実際にできなくても、想いを飛ばすことは出来る。彼女、彼らのために頑張ろうと思えるのが最高だ。
血縁というわかりやすい因縁であれば、分かち合いたいのは当然だ。それも目に見える表面的な分かち合いをしたがるのが普通だ。あえて、目に見えない形(心中心)で分かち合うことを選択する人間は少ない。自分たちの仲間で、特別な家族関係を作っている人がいる。
夫は沖縄。妻は東京。子供たちは父とも母とも一緒に暮らしていない。普通であれば、家族バラバラと見るだろう。しかし、そういう家族の形があってもいいし、またそうすることを魂は望んでいたからこうなった。普通であれば、そういうのは常識に反するとか真面目脳で判断してしまう。また、当人も「私は普通の人と違うからおかしいのか?」と悩んでしまう。
いろんな家族の形があってもいい。どういう形にするかは、当事者たちが決めればいいことだ。試行錯誤して、常に創造していけば、いつか各自が輝く形が見えてくる。大事なことは、相手を想えるかしかない。心が一番大事なのだ。形にこだわっても、表面は仲良し家族に見えるけど、内情はバラバラなんてこと、よくある話だ。
他にも、因縁である子供を、他人であるが仲間である人間たちに預けている親もいる。預けられたほうも、普通は面倒だし、とても責任とれないと尻込みするだろう。他人の子供に対しても、どこまで想いを持てるか?血縁である相手に想いがあるのは、ある意味当然だ。血縁でない相手に想いを持てるか?
因縁に対してのヒントは、感情が入ってしまう相手ほど冷静に見て、感情が入らない相手にこそ感情的になることだ。肉親は他人のように。他人を肉親のように。
私には、自分たちを信じて、自分に正直に生きることを選択した仲間も共に家族だ。血縁関係だけではない、大きな家族。中には、誰にも達成できないような金字塔を打ち立てた人間もいる。これもいつか書く。誰かの励みになるような因縁は貴重だ。赤の他人がいくら頑張っても、自分も頑張ろうとは思えない。所詮、他人ごとだ。因縁づけで繋がった仲間は、他人だけど他人事ではない。そうした人間を裏切ることは決してない。
因縁づけによって、肉親・家族と同等以上の因縁になった仲間たち。因縁であるからこそ、伝わる想いと伝わらない想い。両方ある。血縁因縁には伝わらない想いも、因縁づけによって繋がった因縁からは伝わることもある。また、血縁ではない因縁だからこそ伝わらない想いもある。
濃い因縁、薄い因縁。いろんな因縁があるから、人生は面白い。深い学びを感じ取れる。嬉しい思いも、嫌な思いも、全部魂が進化するための材料だ。どんな因縁であろうと、因縁から逃げずに向かうことで人生は輝くのだ!

深い愛の贈りモノ

6年ほど前の話だ。沖縄で初めてユタ(シャーマン)にあった。そのユタは、詳しくはかけないが、普通の人であればとても法的に住めないような場所に住んでいた。実際に、行政の人間などが、立ち退きさせようと働きかけても、そのユタに、
「私は意味があってここにいるんだ。それよりお前の家はこうだろう、ああだろう」と言われて、みんなビックリして立ち去ってしまう。そこに住んでいるだけで実力を証明しているようなユタだ。
そんなユタに、その時言われたことはさっぱりと意味が分からなかった。一体何を言っているのか?意味不明であった。時々、もっともだと思わせることもいっていたが、大枠では、変な人だけど、何か気になる。そんな印象であった。
それから3年ほどたって、ようやくその人の言っていたことの意味がわかった!本物はすぐにはその価値がわからないのだ。本物のユタであればあるほど、すぐに答えを与えない。自分で悩み、深め、体験してわかるように導くのだ。お金儲けのユタは、すぐに答えを与える。それも、わかりやすく、理解しやすく、相手が望んでいる答えを。だからそちらのほうが評価を得やすい。そして本物は、意味が分からないと誤解をされる。
すぐには理解できないからこそ、価値がある。それがわからないのが現代だ。よりわかりやすく、簡単に、お手軽にがはびこっている。だからこそ、本物の感動が得られない。漫画の感動は一瞬だ。実体験にはかなわない。
そのユタには、意味がわからないながらも印象に残る言葉を言われていた。その一つに、
「お前の眼はシシガミの目だ」と。右眼か左眼か忘れたけど、どちらかの眼に、シシガミの目が宿っていると。これで意味がわかる人いるだろうか?今となっては意味がわかったが、それはまた別の機会に。
のちにその話から、「シシガミの目」と名付けた施設ができた。この施設も、沖縄にいた仲間が、私を喜ばせようとして、真夏の暑いときに、熱射病でフラフラになりながらも作ってくれたモノだ。炎天下の中、1万16個もの琉球石灰岩を手積みで組んだ巨大構造物。
20080731150655
20080731150655 posted by (C)Oz
生れてはじめて、そんなに巨大なサプライズをしてもらった。お金に換えられない愛をかけてこられたからこそ、私は沖縄に対して感謝の念を忘れない。1万16個という数も、偶然に自分の誕生日の数とシンクロしたのだ。後から気が付いたことだった。
今年の誕生日の本当のサプライズは、写真を見て気付いた人もいるかもしれない。

プールを最後まで完成をさせていないということが、一番のサプライズだ。
普通であれば、完成させてその姿を見せるだろう。それも大事だ。でもいつもそれがいいとは限らない。人に応じた対応が愛なのだ。今回の場合でいえば、
「尾関さんは、自分たちと一緒になってプールを完成させたいはずだ。完成形を見せられるよりも嬉しいと喜んでくれるに違いない」と信じてくれたということなのだ。あえて、
「えっ?と思われるかもしれないけど、きっとそのほうが後々いい」と信じた行動だ。
普通であれば、
「彼は肉体作業は苦手なほうなので、嫌がるのではないか?」と気を使ってやらないだろう。あえて、きっと彼はわかってくれるに違いないと信じて、途中で待つ勇気。想い、それが伝わる相手でなければ、引かれるかもしれないという恐れ。
そうした気持ちを全部踏まえた上での行為なのだ。私も最初はまず、あるはずのないものがあることに度肝を抜かれた。落ち着いてくると、それが作りかけ途中ということに気が付き、みなの想いが想像出来て、にやけてしまう。
「もー嫌だけど、嬉しいな」と。表裏一体だ。表面では大変そうだし、面倒だなという昔からの怠け者の自分もいる一方で、みなの想いで、あえてやる大変さも、ここまで仕上げる大変さも考えたら、おいしいところを残してくれている愛に感動する。
一人一人の葛藤と勇気、信念がなければこのプールは生れていない。
これが愛だし、本当の豊かさなのだ。
その後、一緒に作って、想像を超える大変さを実感した。さらにここまで作ってくれたことへの感謝が深まった。太陽や雨や風に襲われ、ビニールシートをそのたびにとったり、かぶせたり、水をくみだしたり、もうそれは体験しないとわからない価値。また一ついい思い出ができた。皆にとっても、これを作る過程で、ブレークスルーが起きて、本当に心が楽になった人間もいたり、一石三鳥以上の効果をあげたプールである。そして、これからもこれを見ることで、本当の豊かさを感じる人々がうまれることで、更にその価値を発揮し続ける。ただのプールではなく、アート作品なのだ。

本当の豊かさ

 ふとテレビを見たら、昔にBirthでお会いした森泉さんがでていた。中古の別荘を買って、自分でDIY(自身で作る)しているという。ホームセンターで楽しそうにお買い物をして、プールサイドのデッキのペンキ塗りをしていた。

さすが時代を掴んでいるなと感心した。一昔前であれば、新築でデザイナー別荘のほうがイケていた。それに、眺めがいいとか、温泉があるとか、高級別荘地だとか、何かしらのウリがあってそこに建てられる。
金持ちであれば、山や海や温泉など、それぞれの条件ごとに別荘がある。それでも、全部条件が揃っているという物件は数少ない。不動産は人と同じで、同じ物件は存在しない。良い物件に巡り合うには、良い人とご縁がなくてはならない。いくら金を積もうと、真に価値があるものは抑えることはできない。本当に価値有る人は、金で動かないのと同じだ。
価値ある特別な物件は、お金よりも、人脈と人格が備わった相応しい人物のもとで活かされるものだ。そのことは、以前に「日本航空破綻に見るヒトとモノの本質」や「自然界の法則」で書いた。
特別な条件が揃った物件は手に入らなくても、特別な物件にすることは出来る。ではどうするか?簡単でいて簡単ではない。答えは、想いを込めるということだ。森泉さんが何百回と別荘に通い、自分で手を入れてきた価値。自分にとって思い出も深いし、その過程で物語が生まれる。これを製作しているときにこんなことがあったとか、これは誰ソレが作ったとか、人はただ綺麗とか表面的なものだけではないモノにひかれる。
物語という付加価値がこれから更に求められる。自分にとっても特別なモノになるし、それを欲しがる人もでてくる。星の王子さまが、自分の手をかけたバラは特別だと狐から教えられたことだ。想いを込めることで特別になる。
それは簡単ではない。手間暇と労力がかかる。でも、お金をかけなくても出来る。ある意味簡単である。別荘でも自宅でもいいが、立派な庭があるとしよう。それを自分で手入れするのは大変だし時間がかかるので、業者に頼むのが普通のお金持ちだ。
その結果、綺麗な庭にはなる。しかし、そこには想い入れがないから、飽きてくる。そしたら、違う木でも植えようかとなる。金で何でも解決できてしまうし、また金で解決しようとしてしまうから、金持ちほど虚しくなるのだ。
でも本当に豊かな人は、その人を慕って、是非庭を手入れさせて欲しいという人が出てくるのだ。金で作った庭より、慕って喜ばせたいという想いで作った庭のほうが想いがこもるのは当たり前だ。見た目はお金をかけたほうが綺麗に仕上げるかもしれないが、そこに物語はない。せいぜい、日本一の職人がいじったとか、金で買えるブランドに頼るしかない。
職人さんにしたって、日本一の職人というブランドを利用したいだけなのか、本当に豊かな庭をつくろうとしているのか、発注者の考えを見ぬくだろう。頼む方も器がないと、成金だと馬鹿にされるだけである。金を出して馬鹿にされる。間抜けだがこんなことはよくある話だ。
金で買えるブランド庭よりも、縁のある人が喜ばせたいという一心で念を込めた庭のほうが、価値があり、それが金では買えない特別なブランドになるのだ。想いで庭を作った人は、仕事として庭作りをしたのではないから、他の人がいくら庭を気に入っても他の人のために作ることはない。金のためでなく、自分が喜ばせたいと思った相手にだけするからこそ、それがブランドになる。
一点ものが一番価値があるのだ。他にはないのだから。アートと一緒だ。自分たちはそうした想いのあるモノに囲まれている。これが本当の豊かさだと伝えていきたい。金では買えない想いのこもった行為で生まれるモノゴト。
先月誕生日祝いのために、鳳凰の欄間を彫った話をした。誕生会も開いてもらえたのだが、数々のサプライズがあった。想いを込めた歌や、ダンス。それもまさかこの人が踊って歌うとは誰もが想像しなかったサプライズ。普段なら絶対にしないようなことを、あえてチャレンジする想い。その踊りと歌も勿論嬉しいが、その想いと姿勢に感動する。
今まで大人数でお祝いしてもらった時も嬉しかったが、その時と比べて人は少ないかもしれないが、本当に一人ひとりの想いが伝わり、最高の誕生日だった。心が豊かになる。大人数も少人数もいろんな体験ができて、なんと素晴らしい恵まれた人生だと感謝で一杯になった。
幸せいっぱいに久しぶりに沖縄入りしたら、更にとんでもないサプライズが待っていた。それについてはまた次回!

世の中は綺麗事では収まらない

世間では問題を起こさないことが良いことという認識がある。問題を起こすくらいなら、無難な反応が望まれる。行動も、発言も、波風立たせないようにすることを、良いことのようにとらえている人が多い。本当にそうだろうか?

 例えば、綺麗事の発言を考えてみよう。
 敵を作らないのが大事だとか、
 裏切られたのではない、自分が悪いんだとか、
 自分も昔はそう思っていた。
 しかし、今はそうではない。現実はそんなに甘くないし、もっと深いところで、人間関係を見据えたら、愛憎は表裏一体だ。自分も悪ければ相手も悪いのが本当で、敵がいなければ本当の味方もいないのだ。
 自然は冷徹である。そんな綺麗事は絵空事で、理想という頭の中にしか存在しないし、通じない。だからといって、モノゴトを悲観的にみる人になるのは簡単だ。そうではなく、現実を冷静にみつつも、そこから更に深めたら、冷徹の中に愛を感じることが出来る。
 大きな愛は時に冷たく残酷に見える。 耳障りの良い言葉は、表面的なことしか触れられない。 自分をよく見せようとするのは簡単だ。イイことを言っていればいい。 
心がざわつくこと、なんだこいつと思われるようなことを言ったり、書いたりすれば、嫌われるし、関係が不安定になる。それは恐ろしいことだ。また正直にして、問題が起きたら面倒だという意識もあるだろう。
 しかし、考えてみて欲しい。 世の中の大半は、自分と同じ意見の人を求めて、自分を認めてもらいたがっている。そこで敵を作らないというのは、相手に自分を合わせることしかないではないか。
 もしくは、納得していなくても、「そういう考えもあるよね」といった理解者だとしよう。 ほんとは納得していないのだから、その人の味方でもないし、敵でもない。
 敵を作らない=何でもない人だったら、関係を持つ意味がないではないか。
だったら、何のために出会いがあるのか? お互いがぶつけあってこその切磋琢磨で、そこには綺麗事など入る余地はない。真剣になればなるほど、甘い言葉など、ぬるく感じるし、時には怒りすら感じる。岡本太郎が、
「すこしづつ自分を殺して譲り合うことでなれ合う調和なんて卑しい」と言っているのもこのことだ。
今でこそ彼の言葉は、その通りだ、納得だと人気があるが、発言していた当時は叩かれ続けていたのだ。時間が経てば本物は残る。ある意味で、叩かれなければ本物ではない。
 どんな人間だって、完成されていないからこそ、この世でいろんな体験をしているのだ。厳しく見つめたら、進化の種は必ずある。その種に本人が気づくチャンスを<綺麗事>は見えなくさせてしまう。
 言っても無駄だと感じたならば、相手のために祈るだけでも違う。 自分のエゴで相手に伝えても、勿論それは伝わらない。 真に相手のことを想って伝えた言葉は、表面的には拒絶されようと魂には届くのだ。
 綺麗事は自分を良い人に見せたいエゴかもしれないと、自分を疑ってみる事だ。綺麗事で思考を停止させないで、本当にそうだろうか?と自分の霊に問い続けることから、本当の人生は始まる。どんな道も楽ではない。
綺麗事しか言わない人間は、表面的には味方でも、いざとなると簡単に去っていくものだ。輩(やから)も高度になると、
「ほんとは言いたくないんだけどねー」と、綺麗事に見えないように綺麗事を言って、本当の味方のふりをするから、また面白い。
この世は本当に上手くできている。

The way of every day and a bodhisattva