人に伝えること。知識(頭)を伝えることがあっても、想い(心)を伝える機会は少ない。それが現代ではないだろうか。例えば、会社に新たな仲間を迎えるとしよう。普通の会社のやり方では、想いは伝わらない。想いありきではなく、仕事ありきで入社となるからだ。
普通の組織では、売上や利益などの拡大・増大が成長の指針となる。勿論、それが間違いではないが、利益と想いのどちらを取るか?となれば、利益を取るのが普通の会社だ。想いの成長という指針は目に見える形にしにくいからでもある。心は見えないからと、どれくらい想っているのかを感じようとすることはない。感じるためには手間暇がかかるのだ。
じゃあ想いは測れないのか?測れるのだ。覚悟という形で、想いを見せることはひとつの例として出来る。他にも、必死に訴える。信じる。委ねる。などなど行動で想いを測ることもできる。勿論測れない想いもあり、それは感じるしかない。
普通の会社であれば、給料があって当然だというスタンスだ。生活のために入社するのだから当たり前だ。受け入れる方も、入る方も、どこまでいっても契約という形の中での、想いということになる。生活が保証された上での想いだ。ないよりはあったほうがいいという立場だ。となると、想いがある人が作った会社も、段々と想いが薄まり、想いがある人と、想いはないけど、人の想いを今だけ手伝う人とに別れていく。
当初は生活よりも想いを優先して始めたことも、同じ熱をもって一緒にやる人はそうはいないのだと気がつくにつれて、自分の想いを実現するために、お金をあげるからやってくれる人を探そうとなり、その中でも、想いを比較的持っている人にお金を払おうとなる。最初からお金を儲けようという想いであれば、同志は見つかりやすいだろう。しかし、そうした気持だけでは発展しないのが相場である。誰しも、自分の得になると感じない限り、応援することはない。「一緒に儲けようぜ」も、うまくいっているときはいいが、上手く行かなくなった途端に破綻する。
社会では、露骨や正直であると問題が生じるため、本音を隠した社交辞令で動いている。会社に入る人も受け入れる人も、それぞれ別なことを欲している。
・楽して金が欲しい人(ほぼ全員)
・自分の成長のための職場を求めている人
(自分の想いが優先だけど、今は金のために妥協している)
・好奇心を満たしたい人(知識欲のため)
・言うことを聞いてくれる奴隷が欲しい人
(自ら考えたくないので奴隷になりたい人も)
・自分を儲けさせてくれる人(傭兵)
こうしたことを露骨に言うとカドがたつ。
それを隠して、綺麗な形式的な形に変えて伝えていく。綺麗事を言っても、入ってしまえばそれが嘘だとすぐにわかる。それでも、綺麗事の戦いはやめられない。お互いに暗黙の了解で、最初から綺麗事だとわかっているからだ。狐と狸の化かし合いである。
こうして現代人は、心が感じなくなっているので、表面的な言葉にとらわれて、本音を見抜けないまま、頭を使った化かし合いを続ける。想いなんてことよりも、いかに期日までに形を作るかのほうが優先される。だから、心ない人でも、形にできる方が評価されていく。
家庭で言うと、女性がただ寂しいだけのことが言えずに、
「約束したじゃない。なんで帰ってくるのが遅いの!!」と怒るようなものだ。そこで男性は、寂しいという心を理解せずに、
「仕事だったんだからしょうがないじゃないか。金がなければ暮らせないぞ」と、相手の表面の怒りに反応した、自分の怒りを隠して、形式の戦いに入っていく。
なるべく本音に近いほうが、人も熱心に働くということで、やる気の動機づけを一生懸命あとからつけようとする。順番が逆である。本来であれば、自分がやりたいから入ったのなら、お礼としてお金を自分が払うのが筋だ。昔は、だから丁稚奉公で住み込みで奉仕しながら学ばせてもらっていたのだ。自分のために学ぶから、自分の時間を売るに意識が変わったから、今の考えが常識だと勘違いしている。
「経験させてもらえて有難いから授業料を払わないといけないな」そういう気持ちであれば、給料をもらえたら、
「本来自分が払うところなのに、逆に貰えて有難いものだ」と感謝を忘れない。
「自分のためじゃない。お前のために時間を売ってやってるんだ」という本音を隠して、綺麗事で上手く回そうとするから、どこかにひずみが生じる。想いのある仕事を成し遂げようとするのではなく、金儲けのための仕事をするためと割りきっていれば話は早いのに。
そのことを隠して、「お客のためにこうしよう!」と方法論を押し付ければ、押し付けられた方は心では拒否しながら、そのことを隠して、真面目にやっているフリをする。しかし、心のなかではイヤイヤに仕事するので、創意工夫もなく心が入らない。
次に相手に気を使って、優しく相手の気持を引き出すようにしてみると、今度は自分を舐めてつけあがり、楽して終わらそうとしてまたまた出来が悪くなる。
それではと、自分の姿を見せて解ってもらおうとしても、そもそも想いが伝わっていないのだから、誰も見ていない・・・。
「一体どうすりゃいいのだっ!」 と自暴自棄となり、あの手この手で言うことを聞かせようと益々敵対的になるか、自信をなくし、うつ病になってしまう。
優しい人間は、元々自分を責める傾向にあるため、こうした反応で魔界入りしてしまう。仲間同士でこんな話をしていた。
「自分に自信を持てない人間は、弱いところを突かれて弱ったらそこまでよ」と。チームに責任を感じれば感じるほど、どうにも一つにまとめられない現実に打ちのめされてしまう。
良い人はこういう風に考える。
「頑固にならないように、相手の言い分にも聞く耳を持つようにしなければ」と。自信があって聞くのと、自信がなくて聞くのとで、結果は変わってくる。信念がなければ、結局相手の言いなりになってしまう。
かといって、無理に自信や信念を持とうとしても、作った姿勢は不自然となり、相手に違和感を感じ取られ、違和感のある人間の言う事には耳を貸さない結末となる。違和感がある人が、このBlogで掲載しているようなやり方を表面だけ真似してもおかしなこ
とになる。
我々の世界でよく使われている言葉でも、悪用したら、エゴの想いが広がってしまう。
「敢えて」を自分にも向けてではなく、相手だけに強要する。
「自分で深めて」と真に相手のことを想ってではなく、自分が楽するために突き放す。
「共有」を「ただの情報共有」としかとっておらず、
「相手の想いを共有する」感じる事をしない。
現代は、バラバラな状態だ。国も会社も家族も、個々に切り離されている。バラバラにしなければ金が儲からないからだ。一家に一台より、一人に一台なのだ。繋いでいくのは大変な作業だ。例えば携帯を一家で一台にするための労力を考えてみて欲しい。説得、譲り合い、我慢、不便利、もう想像するだけで大変だろう。一人一台にする方が圧倒的に簡単だ。お金で摩擦を避けられる。
愛と感謝がなければ、お互いに繋がることはできない。
自分と相手、どちらか一方だけでは無理なのだ。双方が共に繋がる努力をしなければ、ひとつになることはできない。目の前で一つになれなければ、世界も一つにはならない。
ふたつ以上がひとつになった時の喜びは、個人が追求する喜びを超えるのだ。元旦の駅伝が素晴らしい教訓を伝えてくれたではないか。個人の偉業よりも、集団で成し遂げるからこそ、喜びも深いのだ。駅伝の結果という知識ではなく、青春を賭けたというそれぞれのチームの想いを感じることだ。それを感じることができたら、見知らぬ彼らともひとつになれる。
自分の縁がある人と、小さくてもいいから何かを一生懸命に一緒に成し遂げ、ひとつになる感覚を味わうことが、世界を繋ぐ糸となる。