エウレカの快感

橋下氏が大注目を浴びている。またしても、沖縄がキッカケになり世間を騒がしている。面白いことだ。沖縄絡みのニュースが出ない日はない。そして中国は尖閣諸島に領海侵犯を繰り返し、インドでも同じように国境を超えて軍人を送り込んだりしている。

中国は賢い。権力闘争も命がけだからこそ、真剣にやらねば自分がやられてしまう危機感がある。一歩間違えば人民に何をされるかわからない。だから恐怖も必要だし敵も必要だ。まわり回って自分に返ってくるものだが、そんな長期的な視野で動ける時代ではない。
日本もそうだ。日々目まぐるしく動き、ビジネスでもスピード優先の時代だ。地球の歴史を振り返ってみても、段々と加速しているのがわかる。人類が地球史に登場して、全世界を覆い尽くし環境さえも変えてしまうほどの力を持つのに数万年しかかかっていない。恐竜時代より圧倒的に早い。そして、その人類史の中でもここ数十年の発展は恐ろしいほどの速さだ。
かつて、一世代に一つあるかないかの発見が、一年で何十もあるほどだ。バブルの起こる期間もドンドンと短くなり、次の金融危機は致命的になるのではと言われている。そのサイクルの速さは、あらゆる分野にまたがり、そのうち小学生でも起業というスピードを要求しだすだろう。
善悪ではなく、大きな流れで見た時、それは自然の宿命でもある。そして、やがて極大を迎え破局にいたり、新たなスタートとなる。経済発展という狂騒曲の中で、スピードと規模が求められていく。その先を自分たちは見ている。
世界から見れば、日本はやはり変わっていて危ない国だなというイメージを自ら率先して作っているのだ。そのためのネタ(橋下騒動)を提供し、やはりそのとおりだとその餌に世界は飛びつく。領土問題などでもどんなに正しいことを言っていたとしても、世界は弱肉強食で動いているから、その正しさには意味が無い。彼らにとって意味のあることだけが報道されていく。
世界から見たら変わり者の日本。つまり、障がい者扱いなのだ。日本人はエコノミックアニマルと呼ばれていたのを覚えているだろうか?アニメも含めて、とかく変わっているという認識なのだ。
半端に普通の国など目指さないで、トコトン変わった集団になればいい。同調しやすい人柄だから、変化は一気に流行となり、常識を変えていくだろう。この変化への適応能力は世界には想像もつかないのだ。
軍隊持つより、初音ミクが安全保障になるかもしれない。国家という枠組み、既存の概念からの脱却、脱藩思考が次世代を作る。そのための沖縄だ。
価値の逆転で、日本の価値観が全世界のトレンドになるかもしれない。それを目指す必要はないが、かつての武士道や茶道のように、道を極める発想が生きてくる。オタク道、経済道となったら面白い。いま趣味の世界に生きている人ほど可能性があるだろう。
その中で、菩薩道ほど楽しいものはない。人生という舞台で遊ぶには、菩薩道という概念を理解したら、こんなに価値が有るものはないと誰もが思うだろう。素晴らしいからこそ、誰にも出来ないのだ。だからこそまた価値がある。
新しい発見をした時の快感を一度味わったら、伝えたくてしょうがなくなる。自分が好きなものも伝えたくなる。喜んでもらえたら尚更に伝えたくなる。カンブリア紀の大爆発のように多様な生き方が起こってくる。
パラダイムシフト、常識の革命こそが混迷の時代を生きる光となる。

人に全面的な変容をもたらすには

「人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。それを直さなければならない。だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。怖がられる。少数の勇気ある者だけが、グルジエフのような人物に近づいていく。たいへんな勇気が必要だ。だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる」

引用元: バグワン・シュリ・ラジニーシ – Wikipedia.

日常を生きていると気が付かないことが、非日常になると気が付ける。例えば、自動車事故にあう、余命を宣告される、親しい人の死等など。ショックなことがあることで目が開かれる。グルジェフは、人は目を開けたまま寝ているようなものだといった。社会の常識という催眠にかかっている。社会がそのままで問題ないのなら、目覚める必要もない。

誰もがこのままではいけないと思いつつ、その社会を支えているのは自分で、自分を見つめることが近道だとは誰も思わない。自分以外の誰かのせいだと感じている。政治家や責任ある立場の人間たちのせいで、自分たちは何も悪くないと。

多くの人は、今に満足はしていないけど、そこまで変化を求めていないのが現実だろう。楽に自然に勝手に良くなっていけばいいと思っている。だからこそ、ショックが必要になるのだが。。

誰もが夏休みの宿題を最後の日までやりたがらない。宿題の存在にすら気が付かないようにしているから、死ぬ間際になって考え出す。

「こんな人生のはずではなかった」と。

 

 

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人を本当に助けようとするならば

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。崇拝や賞賛の的になれる。ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。それはエゴを養ってくれる。だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。いまと違った生き方へと導かなければならない。それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。これは反発を招く。人々は敵意を向けてくる。人々は怖がる。助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。」

引用元: バグワン・シュリ・ラジニーシ – Wikipedia.

人と深く関わることでお互いに学ぶことができる。表面的な浅い関係は楽だが、過ぎてしまえば記憶に残らない。深く関わると因縁関係になる。因縁なくして助けることはできない。

上っ面のいい関係で満足するのではなく、怖くても一歩踏み込む勇気が大切だ。衝突や誤解を恐れていては、本当の人生を生きることは出来ない。

「良い人良い人、どうでもいい人」というセリフが自分は好きだ。単なるお人好しではその人にとってどうでもいい人にしかならない。好きも嫌いも同じだ。愛の反対が無関心というように、関わってこそ道が見えてくる。

人を変えようとするなという。その通りだが、だからといって無関心でいていいと言うことではない。変えることを目的とするのではなく、本当のあなたを知ろうとするから触れようとする。その結果、お互いが変わるだけだ。

どんな人間も、本質は光だ。関わることを恐れるがゆえに、格言を言い訳に使うのはやめよう。勇気を持って飛び込むしかない!

 

夕日

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復帰ではなく、出発の日だ

 今日は沖縄の本土復帰の日だ。41年経った。沖縄を取り巻く環境が加速度的に変わりつつある。つい最近の橋下氏の発言は、普通の感覚で言えば軽率だと思える。普通でない感覚で見れば、軽率だから神輿には最適だとなる。軽率な発言を繰り返してきている石原氏を見ればいい。世間体など気にせず吹っ切っていることはかなり大事な資質である。

アジアとの関係を対立へと誘導する動きの一環としてみたらいい。対立しなければ戦争出来ない。戦争ほど資源と資金の浪費はない。裏を返せばそれだけ儲かるということだ。もちろん皆がみんな儲かると思ってやっているわけではない。それぞれの意図があって、そのほうが都合のいい人で上層部は満ちているだけだ。
ちなみに、ヒトラー政権は国外出身の者が多かった。ヒトラー自身、オーストリア出身だ。そしてヒトラーはユダヤ人説もある。この文脈でこのことに触れる、その意味がわかるだろうか?
さて株価も上がり、新興企業が老舗企業の株価を抜いたと騒いでいる。最後のバブルだ。表面で踊らされる大衆をぬか喜びさせて、ドカンと落とすのだ。株価がいくらになったとは大いに報道される一方で、日本国債は下落している。その意味など考えない人が大半だ。本当に潰したい相手にはお金を与えろという格言がある。その法則通りになっているのは過去の歴史を見ればわかることだ。
もう量を追い求める時代ではない。質を高めるのが本来得意な国柄であったことを思い出すだけでいい。いまや日本で上場する意味などほとんどない。ロスチャイルドはなぜ上場しないのか?そもそも経済成長の意味とは何か?今まで上場が良いと思えたのは、外部費用を簿外資産で使えたからではないか?原子力発電の総コストを含めたら、電力として割に合わないのは当然だ。が、成り立っているように見せるのは簡単だ。会計など数字でいくらでも誤魔化せるのだ。
最近、沖縄に来て当初考えていたことを改めて考えさせられる機会があった。資本主義の限界。環境の限界。そもそも人生の豊かさとは?沖縄に来て、東京を離れて考えることで見えてきた、感じてきたことがたくさんある。人生で本当に大事なことをいくつも沖縄を通して教えられた。
上場するとは無限の成長を約束することだ。そんなことはあり得ない。子供だってわかることだ。だれだってわかることだが、問題を誰もが先送りしている。そのくせ、他人の問題は指摘する。まずは自分からだ。新しい時代のあり方を求めている人たちが自然と沖縄に集まってきている。
数年経ったら残らないような仕事やニュースに惑わされているのは勿体ない。いまやっている仕事は食い扶持以外の価値があるのだろうか?どんなキレイ事をいっても、利益をあげることを優先する会社ばかりだ。別に食べるために働くことが悪いといっているのではない。いわゆるシノギをしながら本当の仕事を作ることはできる。本人の意思次第だ。
自分も小さな成功を通して、稼ぐことよりもそのお金をどう有効に使うかのほうが難しいことに気が付かされた。沖縄に移住したエリート金融マンは、
「これからはお金の使い方がテーマになる。稼ぐ人はたくさんいても、使い方の上手な人はほとんどいない」という。昔は、教会建築などに寄付が集まり、社会のあぶく銭も吸収される場所があった。寄付した人も社会から尊敬の念を受けることで報われていた。いま尊敬される人はどんな人なのだろう?短期間に巨万の富を築いた人だろうか?そんな刹那社会なら長くはないのも当然だ。
今や、お金をさらに儲けるために利益は更に再投資されていく。その結果、実体経済からかけ離れたお金がリーマン・ショックなどを引き起こす。社会が不安定になり、ますます恐ろしくなりお金に依存して、そのお金がまた不安定を引き起こす。悪循環だ。
お金の作り方は学校では習わないとして、マネー本が今でも人気だ。エリートの象徴でもあった金融機関は何度も金融危機を起こして社会に迷惑をかけている。が、リーマン・ショックは彼らだけの問題ではない。一人ひとりの意識がそうさせているのだ。儲けたい、楽したいという意識がなければ、そこにお金は流れない。日々のお金の使い方が問われている。
お金の稼ぎ方より、信用の作り方を学んだほうが価値がある。お金は信用によって生まれる。結局、お金を使うのも人間だ。お金中心ではなく、人間中心に社会を構築した時、今とは違った社会が見えるだろう。
最初沖縄に来た時、
「沖縄は日本ではない。日本語が通じる外国だ。日本は法治国家だが、沖縄は人治国家だ」と言われた。人に紐付いているから良い部分と悪い部分は確かにある。お金も同じだ。良い部分と悪い部分を見極める知恵が必要なのだ。
人間関係の中に信用は生まれる。学歴もお金も、地位も名誉も、信用を作る要素ではある。でも、究極な状況においては何の役にも立たない。日頃の行いが試される。いざというときに信用できる人はいるだろうか?お金で保険を買うよりも、信用できる人間関係を作るためにお金を使ったほうがよほど賢い。
逮捕された後、東京の人間関係では黙殺か遠慮が多かった。積極的に励ましてくれた人たちは沖縄の人が多かった。報道に惑わされることなく、判断するのは難しいのだろうか?利害関係があるなしで変わってしまうのだろうか?自分のお金を優先する人は、お互い様で利用しあう人間関係しか築けない。良い時はいいけど、悪い時は一気に裏切る。
いざというときに軍隊があるように。無駄と思えるかも知れないが、儲からないこと、自分のためでないことを毎日訓練のように心がけておけば、いざという時に必ず役立つのだ。
自分が沖縄に来てやってきたことは、短期的な利益を産まないことばかりだ。かえってそのせいで嫌われたり、避けられたりしてきた。しかし、それを地道に続けてきたお陰で信念を認めてくれる人も増えて、かつてよりやれることが広がってきた。長い目で見たら、そのほうが価値が生まれるし、安全なのだ。

Hello world!

振り返ってみた時、今がそんなに大事だったとはと思うものだ。

後悔のない人生といえるだろうか?

いま死んでしまうとしたら、何が思い出されるだろうか?

深く心に残る体験は幸いだ。

世界が輝いて見える者は幸福に違いない。

中途半端になってないか?

 あっという間に5月だ。ここ何年もずっと種をまいてきた甲斐があり、仕事の話がどんどん増えている。ともすると、忙しさに追われて表面的なことに目を奪われて、そもそもの想いを忘れてしまう。仕事をしていると、細かいことにハマりがちだ。

特に忙しくしていると、自分でも気が付かないうちに、モノゴトに振り回されてしまう。すると、モノゴトを徹底的に出来なくなってくる。気を抜いたり手を抜いたり、「まぁいいか」と妥協し始めてしまう。その結果、本当に大事なことよりも瑣末的なことに時間を取られることになる。
そしてその言い訳に、「前とは今は状況が違うから」と、ただ自分がラクしたいがために自分を偽ってしまう。折角、今まで徹底していたとしても、緩んでしまえば一瞬で終わってしまうのが、この世の厳しさだ。ほんの一瞬の気の緩みがすべてを無にしてしまうことなどザラにある。
勝って兜の緒を締めよと、言うは易く行うは難しだ。いい時ほど、チャンスの時ほどピンチが潜んでいる。落とし穴はすぐそこにあるものだ。かといって、慎重にし過ぎたらチャンスを逃すことにもなる。だから人生は面白い。
以前、「徹底の先に愛がある」と書いた。徹底すべきことは、その時によって違う。今は何を徹底すべきだろうか?その意識がなければ、同じ事を繰り返すことしかできない。状況が変わっても、まるで時代遅れのロボットのように同じことをしていては、誰にも相手にされなくなる。
同じ事を繰り返している人ほど、そこにハマっていて自分の人生が無駄に過ぎていることに気が付かない。人生が危ない人ほど無頓着だ。この世は面白い。必死にならなければ先がない人ほど必死ではなくて、余裕があって必死じゃなくてもいい人ほど必死なのだ。一見矛盾に見える。
持てるもののほうがそれを失う恐れを持ち、変わりたくないがゆえに必死になる。持たざるものは失う恐れがないゆえに、持つことで変わることを恐れている。表面上はまるっきり正反対の違うように見えて、本質は同じ恐怖から行動が出ている。恐怖からは救われない理由だ。
突き詰めてみれば、光を求めていないから真剣じゃないわけで、そこに矛盾はない。人間は慣れの生き物だ。どんな環境にいたとしても慣れてしまう。同じじゃないのに同じように見えてくる。意識を高く持ち続けるのは一人では難しい。まして普通の世界は、足を引っ張り合う人間で満ちている。悪口を言い、他人のあら探しばかりしている環境では、心も折れてしまう。ムリもないことだ。
どんなに人を信じようとしても、その千倍もの力で周囲が足を引っ張り信じられなくさせてしまうのだ。周囲の人間は自分が人を信じられないから、他人が信じていると「馬鹿だ」とか「騙されている」としか見えないのだ。自分の見た世界が反映される。人を信じない人間は、信じられない人間で世界が満ちているように見えて、自分が信じられないのはあなたのせいだと人のせいにし続ける。
この世を地獄にして生きている人のなんと多いことか。ほんの些細な徹底から世界は変わってくる。光が見えないのであれば、何か徹底違いをしているのだ。我を張っているのか、受け入れていないのか、素直になれないのか、下を見ているのか、理由は様々だろう。
迷った時、信じられない時、弱い時ほど、光を感じた時のことを思い出すのだ。その時の気持ちを徹底できれば道は自然と開き出す。そして、その道の先には、あなたが道を歩いてくるのを待っている人が必ずいる。その時、英雄(あなた)は試練の旅から帰還するのだ。

どんな現実を見たいですか?

 「人々は見たいと欲する現実しかみない」と7月Julyと皇帝Kaiser(カイザー)の語源となったカエサルことジュリアス・シーザーは洞察しました。冷静に物事を見極める前に、偏った視点で見てしまうのです。サングラスをしてモノゴトを見ているのと同じです。感情というグラスが入っていると特に冷静にはみれません。それを知っている者は、感情的になりやすい状況を作ることで、自分の欲する現実を創造するのです。

戦争など大衆は誰しも嫌なものです。だが、戦争が好きな人達もいるのです。命令する側とされる側。命令しやすい環境がなければ無理はできません。大衆は義憤に駆られたら、冷静な判断ができなくなります。911のようなことがあると感情的になるのです。尖閣諸島も竹島もしかり。報道は意図的にされていることを意識しなければ踊らされるだけです。911のあとに起こったイラク戦争は何だったか?最初に言われていた理由などすべてウソであったことが判明しても、過ぎたことだからもうどうしようもないと沈黙です。あれこそ陰謀ではないでしょうか。古くはルシタニア号事件なども未だに謎に包まれています。堂々とするからこそ陰謀に見えないのです。
今回のボストン事件も控えめに言って自作自演の可能性がかなり高いですが、きっと常識的な良識派を自負する方々は、そんなことあり得ないといわれるのでしょう。常識人が一番体制にとっては都合のいい人種です。あり得ないと思わされているとは思わないです(笑)どんなにおかしい情報があったとしても、それを深めることなく思考停止するのです。「陰謀論に乗せられるなよ」と冷笑しながら。そうした態度が賢く見えるのです。
自分の意志などなく、ほとんどが無意識に影響を受けて意志を作られていると思った方が現実に近いでしょう。私も含め、誰しもそこから逃れられないのです。環境という情報が人を作ります。だからこそ環境を作ることに価値があるのです。
サイコパスというアニメがあります。魔法少女まどか☆マギカの脚本を担当していた虚淵玄氏が脚本を同じく担当しているアニメです。虚淵玄氏は死にそうな体験をしたことが彼の飛躍のキッカケにもなっていますが、それはまた別の話ですね。
サイコパスの一部ネタバレになりますが、システムを逸脱するモノこそ、システムは欲するのです。そうした振れ幅を取り入れることで進化できる。相容れないものを受け入れる度量、器がなければ高みへとは登れません。矛盾の中に答えがあると何度も言っていることです。矛盾を受け入れなければ、小さな世界でお山の大将になるのが関の山です。中小企業の社長がハマリやすい罠ですね。半端な成功が妙な自信を持ってしまう。しかし、体制としても本当は突き抜けた人間を欲しているのです。半端な釘は打ちますが、突出するならば受け入れたいのです。
霊的な人にもハマりやすい罠があります。自分の感覚を過信するあまり、自分が一番神に近いと自負するのです。ユタ同士が仲良くなれない理由でもあります。宗教戦争も同じですね。自分の神こそ本物だと。半端な霊感が自分を小さくしてしまう。謙虚さを失った末路です。シザー・ハンズを見ればわかることです。
本当にそうかな?と自分で調べて考えて、誰が得をするのか?どんな意図があるのか?と多角的に考えることは大変疲れることです。頭脳は面倒なことが嫌いです。楽したいのです。それには常識人でいることがもっとも楽です。周囲に合わせていれば何の問題もないからです。
ある会社が成功したとします。たまたま時流に乗れただけなのか?時流を作ったのか?時流を知ってて利用したのか?今は同じ結果に見えたとしても、未来は変わってきます。一発屋が多い理由でもあります。
霊示は審神者(さにわ)が必要です。自分だけではその霊示がどんな意味を持つのか、悪霊なのか天使なのか、わからないのです。慎重に吟味しなければ、本人にそのツケが回ってきます。狂信者の末路はいつも悲劇です。
利用するもの。利用されるもの。利用されると知ってても、更にそれを利用するもの。あえて利用させてシステムの一部にしてしまうもの。下には下がいるように、上には上がいるものです。地球に生まれている以上、どんな人間も修行しているようなものです。道途中であることにはかわりはないのです。道を歩く同志、励ましたり喧嘩したり、様々なドラマを演じながら歩いているのです。
目の前の役割を真剣に演じることで、次の映画が決まるのです。悲劇のヒロインになるのか、英雄物語になるのか、ベニスの商人になるのか、すべては自分次第です。人はみな、楽して楽しく生きたいと願っています。そんな簡単ではないから面白いし、表面的な楽しさだけを追求するならば輩になるだけです。
かといって輩が悪いわけではありません。色んな役があるからこそ、映画も舞台も盛り上がるのです。善人だけの映画なんてつまらないだけです。悪役がいるから盛り上がるのです。そして悪役のほうが魅力的なものです。
イヤも嫌も好きのうちなのです(笑)

悪役の存在意義

 北朝鮮が話題を振りまいている。恐らくほとんどの日本人は危ない独裁後進国家という視点で北朝鮮を捉えているだろう。別にそれを否定するつもりもない。確かにそう見える。良い悪いを言いたいのではない。ただ、その視点でかつて日本が見られていたかも知れないと、北朝鮮を見ることで我が身を振り返ってみたらどうだろうか?

大日本帝国の3代目である昭和天皇は、25歳で最高権力者になった。同じ3代目の金正恩よりも若いくらいだ。まぁほぼ同世代で、カリスマ化もかつての天皇を真似ている。大日本帝国の日本は、今の北朝鮮より国力もあったわけだから、さらに恐ろしかっただろう。
大日本帝国も自衛のためにとアジアのためにという大義で戦ったように、北朝鮮も自衛と民族統一という大義で戦っている。北朝鮮にとっても、韓国にとっても、周辺国にとっても、実は膠着状態が続いていてくれたほうが良かったから、こんなにも長い間体制が維持されてきた。元々は大日本帝国の領土であったことを忘れてはならない。因縁付けしてしまったのだ。関係ないことはない。

世代が変わるということは、過去の経験がリセットされることでもある。また、因縁は繰り返すのは、個人でも民族でも同じ事がある。繰り返すといっても、必ずしも同じ事が繰り返されるわけではない。攻撃側が守勢側に回ったり、男が女になったりと、逆のことを魂が体験することもある。もし、自分が相手の立場だったらと想いを馳せるだけで二倍学べる。
日々連続しているから、いつから流れが変わったのかはわかりにくい。振り返ってみたら、あのへんからおかしかったとか、あとからしかわからないから面白いのだ。
人によっては、世界は平成7年7月7日から変わったという見方もある。日本は世界の最先端を走っている。世界の実験場でもある。原爆も原発も高齢化社会も、そして0金利も。日本のあり方が世界に考える材料を提供できるのだ。沖縄問題は少数派をどう扱うかというテーマだ。中国のチベット問題に対して、提案するのと同じなのだ。
これからどんな社会を築きたいのか?量を追求することだけではなく、どのような質を目指すのか?世代間のギャップをどうやって埋めていくのか?世界にどう貢献していくのか?我々はそれだけの資質があることを誇りに持ちながらも、世界の中の一員としての自覚を持つべきではないだろうか。
ある意味、北朝鮮は悪役という自己犠牲をしてくれているとも言える。天使とも言える。悪役がいなければ学びは少ない。でも本当は悪などないのだ。理性を持って冷静に見た時、相手に振り回されることなく、相手のウワテをとれるのだ。そうして導いてゆくのが菩薩道だ。
文句や非難は簡単だが、それでは相手は頑固になってしまうだけだ。身近にいる北朝鮮のような人間にどう接するかで、自分の成長が試されるのだ。目先の人間関係の延長線上に、民族の関係もある。
いまあなたならどう接するだろうか?

The way of every day and a bodhisattva