2010年を振り返って

いよいよ今年も終わりだ。去年は、時代の創造は批判から始めると振り返ったが、まさに今年は批判が多い年だった。我々の活動は誤解されやすい。宗教じゃないか?洗脳じゃないか?と思われている事だろう。

しかし冷静になって自分の頭で考えてほしい。自分の常識は、60億分の1の考え方に過ぎない。世界は広いのだ。60億人いれば、60億通りの考えがある。例え、日本人全員が同じ常識を持っていても、それは60分の1にしか過ぎない。現代は、多数決が決断方法として有効とされている。それに従ったとしたら、日本人全員の常識は世界で否決されることだろう。だが、多数決は常に本当に正しいのだろうか?

今年は、信念や哲学のない人間が迷走している一年だったと感じる。問題に対して、自分なりの柱があれば、迷う事は無い。あとは勇気の問題だ。勇気もなく、柱も無ければ、場当たり的に対処するしか無い。尖閣諸島の問題が良い例だ。

何の為に今生きているのか?信念、哲学がなければ、つまらない世間一般の常識で善悪にとらわれて判断する事になる。「これをするのは良くない」、「それは仕方が無ない」と、小市民的な問題を避ける行動しか出てこない。つまり逃げと諦めだ。

誰かが何とかしてくれることはないと今年でわかったのではないか。国が何とかしてくれると思ったJALは、何ともならなかった。一人一人が柱を持って生きねば、周囲に振り回されるだけだ。その柱に正解不正解は無い。どんな道でもいい。

宗教を怪しむのも結構だ。だったらトコトン目に見えるものだけを信じる信念を持つ事だ。半端に目に見えないものを認めると自分が辛くなる。中途半端が一番よくない。トコトン極めたら道が見える。極道だ(笑)ちなみに我々は宗教すらも超えている。

前回書いた、「罪にならない罪」でいいコメントを頂いた。暴力が必要な人間もいると。その通りだ。殴られなければわからない人間もいる。海老蔵もやられたから気づけたものもあるのだ。その人間が死ぬまで気づかなかった事を、いま気づかせてあげるのは価値ある事だ。

今年は、特別な仕事の質と量が高まった年だった。愛を感じた人間が我々の世界を信じて、人生を賭けてくれた。我々には、信念も哲学もある。太い柱を持った仲間たちが絆で繋がっている。以前書いた、心の財閥が成長した一年だった。

来年は、我々の世界が目に見えるようになる。この世界の広がりを通して革命が為されていく。見えない土台を築いてきたが、もう充分育ってきた。勿論これからも、見えない領域である、霊魂は磨き続ける。その土台があって、物質的なものが育っていく。目に見える経済の領域も成長している。新しいビジネスのやり方は、市場経済を超えるものだ。普通にやれば何年もかかることを、たった一日でも出来てしまうのだから。

私たちの体は、ただ生きているだけでは死んでるのと同じだ。この命をフルに使い倒してこそ輝くし、意味がある。資産も同じだ。お金も家も車も、何だっていい、持っているだけでは意味が無い。それを使って、人を幸せに導けるかどうかだ。その器が無ければ、この世で一時的に得た資産を失う恐怖と共に生きる事になる。時間と真理が自然と調整して、器の無い人から器のある人へと資産も移っていく。美術品が良い例だ。

税金は、資産を活用できていない人間に対するペナルティなのだ。世界を作る人間には関係のない世界だ。そして、そういう人間が税金を使う側に回るのだ。

世界を進化発展させる者は、概念を超えている。私にそうした世界を教えてくれた如来はまさに無量だ。はかりしれない。底が見えないからこそ面白い。そして、はかりしれない人間だからこそ、よくわからなくて怪しまれる。わからないからこそ面白いのに、大衆ははわからないものを否定することで自分を守る。

我々の活動も、普通に見たらさっぱり意味がわからないだろう。実は単純な事をしているだけなのだが、その単純な事を実践している人が皆無なために、想像できないだけだ。

苦しむ魂を救い、その魂とともに世界を創造する。やっていることはこれだけだ。新世界を作っている。誰もが自然である社会。どんな人間でさえも持ち場がある社会。愛が中心の世界。天命に燃える人間たちの国づくりなのだ。どこまでが我々の仲間なのか?一見わかりにくい。明確な組織に入っていないからだ。強いていえば、秘密結社のようだ。

目に見える表面は一見バラバラでいい。そのほうが多様性に満ちている。しかし、目に見えない部分においては共通している。魂を全うする事に真剣だ。

我々こそが社会を変革していると信念がより強くなった一年だった
愛とは何かを更に学んだ一年だった。
そして、喜怒哀楽を最高に楽しめた一年だった。

こうした経験が出来る人生は素晴らしい。
世界に感謝します。

事件という信号

悪霊喰のことを書く予定だったが、時代を象徴するような事件があったので、急遽そちらを書こうと思う。 

海老蔵事件が世間を騒がしている。これは信号である。歌舞伎界きってのプリンスと言われた彼は、今年結婚もしてノリに乗っている時期だった。チャンスの時こそピンチを証明してしまった。良い時ほど危ないのだ。
彼は芸の世界で才能に溢れていた。天才だった。歌舞伎では隈取という派手な化粧が特徴的だが、彼は表情の中でも特に目力があった。目は口ほどにモノを言う。目で気持ちを訴えるのだ。海老蔵の眼力には観客を魅了する力があった。その力はどうして手に入ったか?霊的な力だ。

その力を持つ者は、能力があるゆえに周囲からの嫉妬や妬みをうけ、足元を救われることがある。隙がなければ切り抜けるだろうが、若いとフォローしてくれる天使がいなければ難しい。天使は自己犠牲により、問題が大きくなる前に身を呈して守る。今回のケースでいえば、海老蔵が喧嘩するのではなく、天使が代わりに喧嘩することで、海老蔵を守っただろう。しかし悲しいかな、天使は理解されない。結果的には助けたのだが、問題が起こる前にするので、もし天使が行動しなかったら、どんな最悪の事態があったのかわからないし、本人も周囲もなぜそんなことをしたのか理解できないので、意味がわからないで終わる。最悪逆に助けた人から嫌われるのだ。だから自己犠牲なのだが。今回の事件は、天使が不在の反面教師となる。意味がわからないことでも霊的観点からみたら明らかだ。ここにいわゆる巫女、シャーマン、ユタの価値がある。
話を戻そう。海老蔵の私生活はどうだったのか?才能に見合うだけの注意を日常から払っていたか?人気者としての自覚。歌舞伎界のプリンスとしての自覚。そしてそれを持たぬ者からどう見られるかの自覚。結論からいうと、彼は私生活と芸事とのバランスが悪かったのだ。私も鮨屋で隣に偶然居合わせたことがあるが、一言でいうとアウトローな雰囲気だった。

それが悪いわけではない。本来なら名門出身の人間は、アウトローの世界とは無縁だろうが、彼の持つ本質がアウトロー的な世界を引きつけたのだ。これは初代海老蔵と似ている。初代海老蔵は、侠客と親交があったし、荒々しく豪快な歌舞伎を作りだしたのだからエネルギーがあったのだ。現代の海老蔵も創業者的なエネルギーの持ち主だ。時代が違えば、一つの時代を作りだしただろう。ちなみに、沢尻エリカも時代があえば大活躍したに違いない。このことだけでも、時代を知ることが、どれだけ価値があることか理解できるのではないか。
時代魂である海老蔵は、今回破壊の役目を担ったのだ。これも良い悪いではない。そういう役割だったのだ。破壊がなければ創造もない。
歌舞伎は日本を代表する伝統芸能である。そのスターの事件はこれから大きく報道されていくだろう。そして、日本の国技である相撲でも最近事件が連発している。そして、時代劇のスターである松平健に起こった悲劇。これらに共通することは、日本的なモノの象徴が傷ついたり事件に巻き込まれているということだ。これが日本の将来を示唆している信号だ。以前書いた、日本航空のことと同じだ。
隠されてきたものが、表に現れる時代。Wikiリークスが良い例だ。嘘や偽りが明らかになり、本物だけが残る時代である。

「悪霊喰 The Sin Eater」2

Sin Earterはアレックスたちのカロリング修道会を破門された人間が元々始めたことだった。因縁の関係だ。仕組んだのか、仕組まれたのか?映画においても、枢機卿がイーデンを利用しているのか、はたまたイーデンに利用されているのか、その真実はわからない。利用していようが、利用されていようが本来は関係のないことだ。そこに答えはない。
そこにハマりすぎると魔界に入って、ドミニクのようになってしまう。知りたい欲求を抑えられず、魂を売ってしまう。そこまでいかなくとも、知りたい気持から疑心暗鬼も生まれやすい。なぜすべてを教えてくれないのか?と。

私も昔は、ITを活用することで、どんな情報も共有することが無条件に良いことだと信じていた。しかし今は、何でも無差別に情報や物資・資金を提供することは、本人にとって学びとならないこともわかった。
我々の世界では、あえて全てを伝えないことが多々ある。そのせいで、仲間であるのにその気持ちを疑ったり、騙されているのではないか?と疑いの心が起きやすい。でもだからこそ、その人の本質が現れやすいのだ。隙がなければ、人は本心を隠したままだ。それではお互いに表面の付き合いとなり、魂の学びがない。喧嘩や疑いは起きたほうがいいのだ。それも魂の向上のキッカケとなる。我々はあえて相手が攻撃しやすい隙を作ることもする。だから誤解されやすい。それが菩薩の道なのである。
「知識は信仰の敵だ」と本屋の主人が言った。信仰は信頼・愛と言い換えてもいい。すべてを教えることが信頼へと繋がるわけではないのだ。しかし、求める者はその人に応じて知ることになる。それが物足りないからと言って疑うようであれば、それは信じていないということだ。ここまで知ったから、ここまでは信じようでは取引だ。条件付きの信頼は本当の信頼ではない。真理をいえば、何も分からなくても信じるのが本当の愛だ。
更に本屋の主人は、
「奈落を覗き込むと、奈落と目が合うよ」とも言った。彼は「奈落の底」とは言わないのは何故だろうか?その意味をよく考えてみてほしい。奈落とは何か?不安、恐れ、疑い、闇の知識、これらは人が信じられなくなり、自分すらも信じられなくなる。これらの力は下に引っ張る引力のようなものだ。浮き上がる力と落ちる力、どちらが強いか?地上に住んでいる我々はよくわかるだろう。
アレックスが入った不思議な本屋はヴァチカンの周囲に実際いくつかある。どうやって生計を立てているのか?そんなにお客がいるとも思えない。謎ではないか?入った瞬間に、異端のカロリング修道会の名前を出すくらいだ。来店する人は限られている。偶然入った人間は、裏の世界である地下の書庫へと案内されることはない。
我々の世界でこの本屋の存在を例えるならば、それは猫寺だ。表の入り口から入った人間は、そこにあるアートや場所の意味を知ることはない。繋がり、縁がある人間だけが裏の入り口から入れる。猫寺は完全予約制で、普通の飲食店として考えたら赤字確実で三日と持たないやり方をしている。猫寺の存在意義を理解し、必要としている人間の支援があるから存在していけるのだ。裏のつながりがなければ維持できないのは、映画の中の本屋も同じである。
この本屋の店主も只者ではない。初対面だとしても、アレックスを地下へ案内する資質を備えた者であると、一目で判断し導いている。また、すべてを見せるわけでもない。意味深い言葉を伝えながら、今のタイミングで見せて良いものだけしか見せない。
「君の値打ちは?
知らぬ方がいいこともある」
といいながら、アレックスが見ていた本を閉じる。
自分の役割、持ち場をしっかりと理解している。またアレックスも無理やり見ようともしない。どんな人間にも値打ちはある。その持ち場に応じて。それがその人の使命であり役割なのだ。
このシーンの時、本屋の主人とアレックス、どちらが偉いとか優れているとか判断できるだろうか?そんなものはないのだ。この状況では、店主とアレックス、二人がいないとシーンが成り立たない。二人とも必要だし、またこのシーンだけでも映画は成り立たない。前後のシーンと他の登場人物がいて初めて成り立つのだ。繋がりによって世界は成り立っている。自分の値打ちや役割が今はわからないとしても、必ず登場シーンはあるし、必要な役割がどんな人間にもあるのだ。

そして本屋の地下通路。線が引かれていて、その線を越えないようにと店主は警告する。線を超えてしまうと、犬が襲ってくる。前回書いた、イーデンの兄が破門された話を思い出してほしい。歩いて良い道、これはつまり戒律に守られた道だ。それを踏み外すと痛い目にあうのだ。アレックスは道を外れるが間一髪で助かっている。世の中不公平なのである(笑)

これは差別でもないし、区別でもない。その人の値打ちや役割は、その責任を全うするかどうかで決まる。例えば、本屋の主人と言う役割を貰ったとしたら、それを極めることができるかどうかなのだ。極めてしまえば、もう主人公なのだ。すると彼を主人公にした、「世界の秘密を握る本屋」という興味深い映画になる。
我々の世界では、誰もが自分の映画の主役になって欲しいとチャンスを作っている。自分を知り、自分をプロデュースしてくれる仲間がいて、その導きを信じて、新しい自分を創造すると自然と主役になっている。
主役になるには、今までの自分が持っている概念を捨てて、新しい概念を信じて実践することが要求される。今の自分は人生の主役ではないのだ。世間に合わせた自分像を演じているのだが、それに気付いていないだけ。
プロデューサーに、本屋の地下で、
「この道を踏み外さないように歩いてみて」と言われた時、理由がわからなくてもそれが信じられるか?そして実際に歩けるかがすべてだ。
自分は自由に歩きたいとか、自分勝手な役柄を気分に応じて演じていたら、一体何の映画なのか意味不明の映画になるだろう。今まで自分が演じていた映画から、新しい映画の主役の演技を掴むまでは、監督やプロデューサーの指導を聞くのが当然だろう。そうして初めて役に成りきれるのだ。
話を戻そう。ドミニクがこの本屋で最後に買ったのは、アラム語で書かれた羊皮紙。羊皮紙も信号だ。羊の皮と言えば、羊の皮をかぶったオオカミという表現が有名だ。これについて面白い話がある。
ある羊の皮をかぶったオオカミが悔い改めることを決意し、そのために儀式をすることを望んだ。神父もそれを大層喜び、大事なことだからと念には念を入れて準備をして、儀式を行った。羊の皮をかぶったオオカミ本人も望んだことで、本当に悔い改めようとしていた。
神父は一生懸命やり過ぎて、いつもよりも長く時間がかかってしまった。そのせいで、羊の皮をかぶったオオカミは退屈してしまった。その時、神父が力を入れ過ぎて怪我をし、少々血を流してしまったのだ。その血を見た瞬間、羊の皮をかぶったオオカミの血が騒ぎ出し大変なことが起きた。
血が騒いでしまっては、自分ではもうどうにも抑えられなかったのだ。羊の皮をかぶったオオカミは、神父を殺してしまった。どうしようもない性(さが)というものがある。これは一体誰が悪いのか?熱心にしすぎた神父のせいか?血が騒いでしまった羊の皮をかぶったオオカミのせいか?答えは簡単に言えないのがわかるだろう。良い悪いではない世界があるのだ。そうした寓話を含んだ羊皮紙に、悪霊喰のことが書かれているのだ。

書きたいことが山ほどある。質問があればコメント頂ければ幸いだ。
続きは次回!

「悪霊喰 The Sin Eater」

「悪霊喰 The Sin Eater」

賢者風の容貌をしたドミニクから物語は始まる。ドミニクはどんな人間だったか?
ドミニクは知識を追い求め、自分のためにアレックスを裏切ってしまう。教会からは破門され、異端とされるカロリング修道会に所属していた。ドミニクが死んだあとは、アレックスとトーマスしかいない小さな会。にも関わらず、アレックスはNYという大都会で堂々と司祭として活躍し、トーマスも簡単ではない悪霊払いを日常のように行っている。つまり二人ともかなり優秀な人間なのである。器があるということだ。
我々も異端の小さな会みたいなものだ。だからこそ本物が集まる。普通にしていればメインストリームを歩ける人間も、あえて求めて異端に居るのである。アレックスたちもそうである。真実は裏に隠されており、裏が中心で動いている。罪喰いも彼らと同じ異端の出身である。
ドミニクが死んだとき、アレックスのもとへわざわざドリスコル枢機卿が訪れている。次の法王と呼ばれる人間があえて訪れることの意味。またアレックスもそれほど驚いていない。普段からただの司祭では会えないような、それなりの人間に接しているからだ。そのアレックスは「見かけは若いが、魂は古い」と言われる。これはアレックスを演じたヒースレジャーもそうだった。
アレックスが悪魔払いをした女性マーラ。悪魔払い中にアレックスを傷つけてしまい精神病院に入院中であったが、アレックスの身に「死よりも悪いこと」が起こる予感がし、彼を助けようと病院を抜け出してきた。
彼女は因縁だろうか?トーマスはアレックスに散々警告した。最後は、
「名前を変えて一緒に逃げろ」と。トーマスのほうが世界がよく見えているのだ。マーラはアレックスを助けたかった。彼女は天使だった。しかし、天使では力が弱く、結局はより大きな力を持つものに利用されてしまう。アレックスとマーラは元々因縁ではない。マーラの悪魔払いをすることによって因縁付けとなったのだ。映画「コンスタンティン」でのイザベラとマーラは似ている。どちらも主人公にとって重要なキッカケを作り、自殺という大罪を犯している。それにも関わらず、どちらも最後は救われた。
アレックスが最後の秘跡をマーラに行った際、罪を食べたが、それは少なかった。逆に言えば、アレックスが悪魔払いをしても全部は取りきれなかったということだ。罪喰いが悪魔払いの上を行く証拠だ。
アレックスの人生を操り、因縁付けまで計画して行った罪喰いSin Eaterであるイーデンは何者だろうか?コンスタンティンでいえば、ルシファーのようにも見えるが、実はガブリエルである。ガブリエルはマモンを解き放とうとしてロンギヌスの槍を使おうとした。イーデンを殺すことのできる道具は何だったか?あれも槍なのだ。その槍を、イーデンは酔っぱらった際に紛失した。ちなみに一緒に飲んでいた相手は画家のカラヴァッジオ。イーデンの兄は建築の設計士だった。教会の建物に絵画、彫刻は欠かせない。アーティストにとってヴァチカンはお得意先だ。その後槍はヴァチカンに保管される。教会の策略である。
どんなに隙がないように見えても、イーデンの槍にあたるような弱点は必ず用意されている。我々はその人間にとっての槍が何なのか?の仮説を立てる。その視点を持つだけで実際槍を使わなくても意味が出てくるのだ。
「悪霊喰」では槍をトーマスが最後は持ち去り、「コンスタンティン」ではアンジェラに託される。コンスタンティンはその際興味深いことを言っている。
「ルールだ。隠すんだ」と。そして槍は何処かへと隠される。
普通に考えたら、それ使えばいいじゃんとなるが、特別な世界にも特別なルールがあるのだ。それが分らなければ、特別な世界で登場人物にはなれない。
ルールと言えば、ヴァチカンの表の世界では厳格すぎるほどにルールが守られている。そのせいで、ドミニクは破門された。イーデンの兄も教会から破門されていた。イーデンがSin Eaterになるキッカケとなったのも、因縁の兄の事故で最後の秘跡を受けられなかったからだ。それでSin Eaterが呼ばれた。
「神の家を建てさせておいて、神の家には入れないのか!」
普通は入れてやれよと思うのが人情だろう。では何故許されないのか?
イーデンの兄は何をしたか覚えているだろうか?
エジプトで神殿作りをしていたとき、瀕死のアラブ人に、本来は与えてはいけない聖水を与えたことで破門された。その場に聖水しか水は無く、死に行く者に最後の水をと情けをかけたのだが、そういった事情でも許されないほど厳格なのだ。それくらい厳しい世界なのである。勝手な判断で、世界の仕組みを理解していない人間が、何かをしてしまうと取り返しがつかないことがあるのだ。厳しくすることは、半端な行為による悪影響から守ろうとする愛でもあるのだ。ちなみに、兄の名はフィリップ。そう、「フィリップ、きみを愛してる」と同じだ。
アレックスは、教会の掟を破り、夜中にこっそりとドミニクを埋葬する。そのとき、二人のシスターが手伝っていたのを覚えているだろうか?彼女たちも天使で、二人は両翼の羽を象徴しているのだ。
そのシスターが去り、登場したのは子供の姿をした悪霊。ドミニクの家の前に居た二人の子供だ。子供の姿に化けられるのはかなり高位の悪霊だ。考えてみてほしい、子供に対しては人は無防備ではないだろうか?子供が仕掛けてきたら、あっという間に騙されてしまう。
その強力な悪霊に対して、アレックスはやられそうになる。しかし、ここでトーマスが登場だ。映画では、アレックスが悪魔を追い払った後、登場しているが、実はこれはトーマスが悪霊を払ったのである。映画の画面をよく見てほしい。後ろの方にトーマスが歩いているのが見える。悪霊払いの能力はアレックスよりトーマスの方が上なのだ。
映画では、悪霊が登場する前に天使は去っている。教会の掟を破って、有力な派閥でもない異端の会を支援するのは簡単ではない。それでも協力したシスターたち天使は、なぜ最後まで埋葬を手伝わずに去るのか?これは持ち場の厳守を表現している。
彼女たちは己の器と持ち場を理解しているからこそ、ここまでしか出来ないことを痛いほど理解しているのだ。情で考えたら、最後まで埋葬してあげたいのが人情だ
。しかしそこまでしていたら、悪霊の登場に出くわしてしまい大変なことになっただろう。
コンスタンティンのチャズを思い出してほしい。
自分の器を知らず向かった結果どうなったか?
一瞬で消されてしまった。
我々の世界でも似たようなことがつい最近あった。
天使も自己欺瞞に陥ったらやられてしまう。悪霊のほうがパワーあるのだ。
長くなったので続きは次回に。

ニッチな世界の時代

正直かなり驚いている。コメントの質が高すぎて、私の代わりに菩薩Blogを書いてもらいたいくらいだ。

このブログでテーマにしている話は、普通の世間では怪しがられる類いの話だ。こうした話題を出来る相手がいることは幸せなことだ。ましてや、何人かは深いコメントを頂いたのだからなおのことだ。コメントをしてくれた方々、本当に有り難う。心から感謝する。
映画「悪霊喰」は、日本語の題名ではホラーを意識していて、内容と違和感を感じるのではないだろうか。我々の世界では、日常で悪霊という言葉が飛び交うので、まさに!というタイトルなのだが、ドイツ版の「The Sin Eater」のほうがシックリくるかもしれない。
この題名も二転三転してやっと決まった題名だ。この映画は、エクソシストのときもそうであったように、関係者が謎の事件や事故に巻き込まれている。一説によると、スタッフの二割が何らかの事故にあったという。そして、最終的には主演であったヒースレジャーも死去している。ポストブラッドピットと呼ばれ、オーストラリアのヒーローであった天才俳優が、事故なのか自殺なのかよくわからない形で亡くなっている。彼はどんなに疲れていても二時間ほどしか眠れず、不眠症に悩まされていた。まさに映画の中でSin Eaterは「他人の罪で眠れなくなる」とされていたことと一致する。
劇場公開もミレニアムに合わせて公開する予定が、事件や事故のせいで5回も公開延期になっている。最終的に映画シーズンを外して公開したのだが、そのような悪条件においてもヒットした映画なのだ。しかしそれでも知らない人は多い。
宣伝では、
「エクソシスト」「スティグマータ」そして、「悪霊喰」。
信じることさえタブーとされる三つの存在、最終章。
とある。最終章と言い切っているのだから興味深いだろう。
この映画は、実話をもとにしているとしたらどうだろう?
いまや、バチカンもエクソシストが足りないとして、堂々とエクソシスト養成の学校を開校している。この映画は、そのエクソシストを超える秘密を公開してしまえと作られた映画なのだ。その世界を知っている人間が、こうした映画を作ろうと実行できるところに凄みがある。こうした裏の世界を求めている人間が実はかなりいるのだ。興行的にも成り立っているところが面白い。演歌の世界と似ている。ニッチなファンがいるのだ。
何度も繰り返して見る価値のある映画だ。その度ごとに学びがあるだろう。
世界観を共有できる仲間のコミュニティが時代を作っていくようになる。
我々の世界では、映画の中の登場人物に周囲の人物を当てはめて理解している。すると、その人間の役割や性質がよく見えてくるのだ。知識だけを追い求めがちな彼はドミニクだなといった具合だ。しかし普通の世界では、この映画に出てくるような人物に例えられるほど、キャラクターの濃い人間は少ない。
我々の世界では、キャラクターの濃い人間も多いが、一見普通の人間もいる。どんな人間にも役がある。無駄な人間などはいない。普通ぽい人やいわゆる世間的な出来る人ではなくとも、熱い志や愛がある。そうした人間は天使なのだ。
このBlogを読んでいる人は観客だ。しかしながら、その気にさえなれば、舞台に上がり出演者となることも出来る。どの道を選ぶのも本人次第である。
次回はいよいよ本編の話に入っていく。私が書く解釈だけが唯一の正解というわけではない。時と場合によって解釈も変わるし、その人にとっての理解が一番のヒントになる。あまり正解不正解に拘らずに楽しんでほしい。
さぁ、その前にもう一度「悪霊喰」を見てみよう!

真理の探究

この菩薩Blogの読者の方はわかるだろうが、真剣に人生の意味を求めて生きる人間は少ない。

本当はどんな人間だって、このBlogに書いているようなことには興味があるのだが、金儲けのほうが楽だからついついそちらに走ってしまう。100年経てば忘れ去られているようなことに一喜一憂し、貴重な体験を逃している。勿論、長い目で見れば各自必要な体験であり、そこに優劣があるわけではない。

自らの人生に終わりが見えた時、一体何が価値のあることで、何が価値のないことなのか?自分にとっての価値観が非常にはっきりしてくる。酸いも甘いも経験し、日常という体験をした後に感じる真理は表現することが難しい。

人生の真理に近づけば近づくほど、何も表現できなくなってくる。例えば「別れ」という現象を考えてみよう。若いころは単純に、悲しいとか怒りとか、わかりやすい形で表現できるだろう。しかし、その別れの真実を、多様な視点でその体験を見られるようになった時、単純に悲しいと一言でいうことが出来なくなってくる。

悲しいと言えば悲しいが、別れを選択せざるを得ない背景まで視点が及ぶようになれば、当然のことと感じる。と同時に、それがわかってしまうと切ないという気持ちもでてくる。だからといって、事前に察知し別れを防ぐようにしたらよかったのか?というとそれもまた正解なのだが、別れという体験をした方がお互いにとって価値あることもわかるので、また何とも言えないのだ。

そのときの気持ちといったら、すべての感情が混ざり合ったような何ともいえないのだ。抽象的な説明になってしまい申し訳がない。説明できないものを説明しようとすると、「矛盾」という言葉が最適だろう。人間は矛盾の中に生きている。生きていると同時に死に向かっている。愛したいし、愛されたい。理解してほしいし、理解されたくないといった具合だ。

求めているのに、求めていない。それを求めるように仕向けるのが、本当の仕事だと以前に書いた。それが菩薩の仕事でもある。

この世の仕組みを知りたいと興味をかきたてられた時、先人の中で同じような願いを欲し、悪戦苦闘の末に到達した人間が、その叡智を求めている人間に伝えたいと残されたモノと出会うことができる。

そのモノとは、書物の形をしていたり、アートであったり、映画であったりと多種多様である。求めている人間には伝わるようになっている。同じ言葉に触れても、時期によって理解が異なる。自らが深くなれば、より深く理解できるようになる。

自分が理解できないからといって、そのモノの価値は変わりはしない。

今回コメント頂いた方はさすがだなと感心した。言葉にしないまでも感じている方はもっといる。

「エクソシスト」「天使と悪魔」「フィリップ、きみを愛してる」「マトリクス」「セブン」上がった映画はどれも興味深いものだ。

この中で「フィリップ、きみを愛してる」は、スティーブ169さんがお名前をもじられたように、IQが169のスティーブが主人公で、この映画もいつか書こうと思っていた映画だ。

そして、「エクソシスト」。この映画によって、世界は悪魔祓いの祈祷師(エクソシスト)という存在を広く知るようになった、記念碑的な作品だ。そしてこれから書こうとする題材は、エクソシストを超える「悪霊喰 The Sin Eater」という映画だ。

是非鑑賞してみてほしい。そして感想をコメント頂けたら幸いだ。正解不正解はない。感じたものが正解だ。多くの同志のために共有する勇気を出して頂けると嬉しい。与えるものは与えられるのだから。

忍耐の効用

先日、ある政府関係者の配偶者の方にお会いした。以前共通の知人より紹介されて軽く話しただけであったが、久しぶりに連絡をいただき会うことになった。

当初はNPOのことでご相談という話であったが、感じるところがあり、因縁の話をしたところ、「実は因縁の悩みが私にもありまして」と告白された。

家族の悩みというものは、人には相談しにくいし、また解決方法があまりないゆえ、単なる愚痴になりやすい。一般人でもそうだが、著名人であれば余計に、ゴシップを恐れて隠している。

当人たちは誰にも話せないので、思い違いをしてその状況を捉えていることが多く、私が違った視点で話をするだけで気持ちが楽になったりする。

相手がどうしてそんなことを言うのか意味がわからない。不快なことばかりする、または喧嘩をする。仕事で調子がいい時に限って、身内が足を引っ張る。などなど。

仕事の悩みより、そういう因縁関係の悩みは特にテンションが下がるものだ。

辛いこと、嫌なことからは逃げたくなる。

因縁以外でも、人から攻撃されたり、理解できない言動や行動を受けて苦しんだりすると、その相手を否定することに一生懸命になりやすい。

今回も言葉を選んではいたが、相手の考えや主張が理解できないのでどうしたらよいかわからないということであった。

相手のアラさがしをすればするほど、自分の考えを正当化できる。そして益々自分は正しくなり、相手や問題が悪くなる。

その結果同じことを繰り返す。

その繰り返しから逃れるためには、まず一度受け入れることが重要だ。なぜ自分にこのようなことが起きたのか?内なる反省をしてみる。

自分のどのような性質が、問題を呼び込み、引き起こしたのかを考えてみる。

そこで気づきが得られたら儲けもの。折角やってきた問題なのだから何を得したほうがよいのではないだろうか?辛いだけだと損である。

辛いことを魂の糧にしていくことが本当の錬金術である。

考えるのも嫌だという場合は、まずはすぐに反応せずに耐えてみることをお勧めする。耐えているうちに冷静になれる。そうしたら内省してみる。

因縁の関係であれば、脊髄反射的に反応をしやすい。だからこそ、忍耐して受けてみることに価値がある。

私自身、すぐに反応したい性質であった。IT業界はスピード命であったから尚更だ。今ではどんな問題も一呼吸おいて捉えることにしている。じっくりと向かうことで今まで見えなかったことが見えてきた。

相手(問題)に振り回されて、相手(問題)のペースになってはいけない。

抵抗が大きければ大きいほど、飛躍する。高く飛ぶためにはその抵抗に耐える忍耐力が必須なのである。溜めるからこそ飛べるのだ。

男女の因縁

親子の因縁は宿命で変えられないが、夫婦の因縁は運命であるがゆえに、選択の自由がある。これは普通の男女の恋人関係においても同じ事だ。

どんな出会いも意味があるが、それを追求するのは難しい。必然と濃い出会いから学ぶ事となる。恋愛関係より結婚関係のほうが濃い。

相手は鏡だとよくいうように、自分にとって必要な相手と惹かれ合うようになっている。中には一方的な関係もあるだろうが、それも当人は意識できていないだけで、魂はその相手を求めているのだ。

その深い意味に気づく事をしようとしなければ、相手をコロコロ変えるだけの経験を積んでいくだけになる。人は好奇心から、表面的に違う相手に興味を持つが、好奇心だけでは飽きがくる。

また、今の相手に不満があるとき、逃げとして新たな相手に気が向いてしまう。隣の芝生は青く見えるということだ。

好奇心も、隣との比較もキリがない。際限なく追いかけ続けて人生の時間が終了する。ある意味それを実行できるのは幸せだ。体験すればむなしい事も体験できる。実際に欲望通りに生きられる人は少ない。一見羨ましいが、制約が無いのは可哀想なことでもある。だから金持ちほど不幸になりやすい。

大抵の人間はそうした生活を願いつつも、我慢(経済上の理由が大きい)して、気を他の事で紛らわせながら生きている。そうした制約があるから、問題と向き合う事を余儀なくされる。

人と向き合うという事は、辛く大変なことだ。まして、こちらに向き合う気持ちがあったとしても、相手に気持ちがなければ向き合えない。ハードルが高いのだ。

だからこそ、それを乗り越えたとき、一心同体と呼ばれる状態になれるのだ。自分の喜びが相手の喜び。相手の喜びが自分の喜び。喜びは倍以上に、悲しみは半分以下になる。

自由な恋愛状態に比べて、結婚していると法的拘束力がある故に学びが深い。人間怠け者である。少々縛られていないと学べないのだ。先ほどの制約と同じだ。

人間は辛い経験がないと学べない。

結婚も離婚も形式的なものだ。形式にとらわれると苦しくなる。結婚しなくちゃいけない、とか、離婚したい、という感情は執着だ。

安心感を得る為の結婚や、嫌な事から逃げる為の離婚ではより辛くなるだけだ。形式への執着を捨て、あえてそれを選択すれば、それは学びの宝庫となる。結婚、離婚自体には、良い、悪いはない。

仏陀は王様であったのに、家族も国も捨てた。普通の概念で言えばひどい人間だ。仏陀がいなくなったあと、国は滅び家族も苦労したが、仏陀が悟りを開いたお陰で彼らの心は救われた。

常識的な判断で、
「出家したいけど、国も家族もあるからなぁ」と非難を恐れて決断しなかったら国は滅びなかったか?それは誰もわからない。結果的には同じだったとしたら、仏陀が悟りを開けなかった分、家族も未来の人々も誰も救われない。国が滅びなかったとしても、仏陀自身の魂は救われない。

どんな選択も体験することで学びになる。頭であれこれ考えても始まらない。心の赴くままにえいやーと飛び込んでみる勇気が必要だ。

どんな人とでも必ず問題は発生する。そこで逃げずに向き合い続ける事が大事なのだ。決断したからには、例え心が嫌になっても向き合い続けるのが責任だ。

尖閣諸島問題の裏側

 以前に輩(やから)のことを書いたが覚えているだろうか?自らの利益に意識が向いている人のことだ。今回の中国は典型的な輩の動きをしている。

輩は、どさくさに紛れて自分に都合良く話しを進めたり、因縁付けするのを得意とする。強気に出て、相手の足下をみてくる。一見怖いが、実はそれは内面の不安を隠すためだ。

その反面、形式を作るのが上手だったり、人を気持ちよくさせるのが得意だ。表面的なものではあるが、この世では要領よく渡っていける。

輩がいなくなれば良いのにと考えるかもしれないが、かといって、輩がいなければ、愛や勇気を体験できない。

陰がなければ光もない。

輩がいなければ学べないことがある。中国が輩的なことをしてくれているお陰で日本は自分というものを知る事ができるのである。ただのお坊ちゃんなのか、金持ち富豪のお年寄りなのか、それとも愛ある菩薩となるか?

中国が何故ここまで強気なのかについて一つの話しがある。

その話しの前に、竹中労という人物をご存知だろうか?共産党でバリバリ闘争をして何度も逮捕されたような気骨ある人間で、日本で初めてルポライターを名乗った人間だ。

人民の為にと活動をしていた人間が、主に芸能ルポライターとして活動し始め、自らイベントも多数企画した。例えばマレーネ・ディートリッヒを来日させている。成功したとしてもそれに迎合せず、芸能プロダクションの告発をしたりと常に戦っていた。

そんな人間が、沖縄と出会い、惚れ込んで、島唄を紹介したり、琉球独立党を支援していた。彼も沖縄に感じ、「琉球共和国」という本まで出している。

彼らのような先陣が、様々な種をまいていたお陰で今の沖縄があるのだ。
彼は、
「中国が台頭してきた時こそ、沖縄がテーマになってくる」と予言していた。

ここで話しは戻るが、なぜ中国が強気なのか?

それは、沖縄を琉球と捉えているからである。琉球は元々中国の属国だったという視点で沖縄をみているのだ。今の県知事も、琉球王国に渡来した中国人の子孫であるように中国との関係は深い。

日本とは違う時間軸で見ているのだ。

多くの先駆者が予言したように、沖縄という存在が時代の鍵になってきているのは間違いない。時代の波に翻弄されるか?それとも、波にのって輝くか?

日本にとっても沖縄が鍵である事は間違いないのだ。

いい人が飛躍できない理由

前回天使のことを書いたが、天使はいわゆるいい人だ。いい人は、利用されやすく、どうでもいい人として扱われやすい。そして、その当人はそう扱われている事に気がつかない事も多い。気づいたとしても「いい人」だから、問題の原因は自分にあると、自らを責めていたりする。

話しは変わって、こんな話しがある。

誰もが認めるハリウッドの大スター、トムクルーズ。彼は二枚目で人気者。その彼が初めて結婚した相手はバツ一で年上の奥さん。

普通に考えたら、年下で相手も初婚の人を選ぶのではないか?ではなぜあえて自分の初婚に離婚歴があり年上の彼女を選んだのか?奇麗だからとか、気が合うからとか、表面的な理由ではない。

ご縁とは不思議なものだ。当人たちも気づかない運命の歯車がある。

実はあまり知られていないが、最初の奥さんがきっかけでトムはサイエントロジーに傾倒する。トムクルーズは学習障害をもっており、台本も読めない人間だった。

彼は、サイエントロジーに傾倒してから、一気に大スターへの道を登っていく。

どうしようもない奥さんだったと思われているが、彼女がトムにとっては天使の役割を果たした。しかしそれは霊的な観点からみたらという話なので、本人たちは自覚していない。華やかなトムの後ろに天使が介在したことなど誰も知らない。

ところで、天使はなぜ太っているかわかるだろうか?西洋の宗教画を見れば、天使は大体子供でコロコロしている。

太っていたら、この世は重力があるから重くて飛びにくい、のにだ!

では悪魔はどうだろうか?そう、悪魔は痩せている。

これは何を象徴しているか?

この世の仕組みとして、実は悪魔のほうが自由自在に飛びやすいのだ。良い悪いではなく、悪魔のほうが世間で上手に活躍できる。

天使は誰の心にもある。
しかし、悪魔に捕まりやすい。

悪魔も極めて大悪魔になれば、ステージがあがれる。

天使も究めたものだけが、大天使になれるのだ。

単なるいい人を卒業し、相手の為にあえて、鬼にもなれるか?大天使と大悪魔は裏腹だ。一歩間違えば堕天使になる。

表面的に世間で活躍したければ、悪魔的な要素を身につければいい。ずる賢さ、見栄え、愛のない契約などなど。

本質的に活躍したければ、コロコロした子供から卒業しなければならない。

単なるいい人というだけでは、一瞬のキッカケしか作れない。

それはそれですごいことではある。

でもどうせ修行にきているのだから、天使で満足せず大天使になろうではないか。

勿論、大悪魔から極める道もある。どちらを選ぶも自由であるのがこの世の素晴らしいところだ。

そこに良い悪いはない。

The way of every day and a bodhisattva